画仙紙に揺れる影ー幕末因幡に青梅の残香

冬樹 まさ

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1章

2.米村家にて②

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 義姉の花江が澄ました顔で台所に入ってきた。 

「そう言えば、鯖はつみれにしておくんでした。あら、誠三郎さん、お帰りでしたか」
 
 花江は水屋の引き出しから包丁を取り出し、まな板と揃えて流しに置いた。嬉々として襷を掛けると、鯖を一尾、桶から掴みだしてまな板の上に寝かす。

「若奥様、そんなことはうちがしますが」
「いいえ、私は魚を捌くのが楽しくて。うふふ」

 花江は包丁の刃先を行灯の火で光らせ、大きな目を細めて両頬を持ち上げた。よく研いであるから切れ味が良さそう、そう呟いておもむろに包丁を鯖の鰓に切りつけて頭を落とす。誠三郎ときくが息を呑んで見つめる中、花江は鯖を三枚に下ろして身の部分を重ねると、叩き潰さんばかりの勢いで切り刻み、つみれ状にしていった。

「活きがいい鯖だから、塩焼きにしようと思うとりましたが」きくが戸惑った風に言う。
「つみれにして豆腐や葱、青菜も混ぜ込み、鍋で煮込んだら嵩が増えて、おいしくもなります。下味に味噌も入れなくては。そう言えば、誠三郎さんは人を斬ったこと、ありなさる?」

 振り返って誠三郎を見据えた花江は、黒目に妖しい光を宿していた。

「いや、ござらん。斬っておれば、お城の目付役まで連れて行かれましょう」
「そうですね、困ったことになるわね。いえ、いつも魚を捌く時に、人を斬ったら刀の手応えはどんな風かしらと思いましてね。念を入れて力を籠め一気に切ると、魚が新鮮なほど身がすっぱり断たれて爽快な心地なのです。人の肉も斬ったら、そんな風かと思って」

 高らかな笑い声をたてて包丁を器用に使い、頭や中骨の間からも鯖の肉を削いでは叩き潰していく。吊り上がった花江の唇の端は、はみ出した紅か魚の血なのか、赤く滲んでいる。時折包丁の刃先を布巾で拭っては目を耀かせ、つみれ作りに没頭している花江の姿に誠三郎は背筋が粟立った。

「あら、お夕飯はどうなさったの」花江は魚の身を刻む手を止めずに、こちらに視線を走らせて膳を見やった。
「済ませましたので、お気になさらず」
「そう、きくがいますものね」

 ようやく花江は手を止めた。原型を留めず練り物状になり果てた鯖の身の固まりが、五郎八茶碗に盛られていた。

「味つけは明日にしましょう。娘たちは寝付いたかしら、そろそろ私も。うふふ」

 手を洗い、何度も指先を嗅いで匂いが取れたのを確かめて、花江は居間に引き上げていった。
 きくは深く息を吐いて、誠三郎に目配せする。

「あの方も、嫁に来てからずいぶん変わられた。魚を捌くのが好きなご新造なんて、聞いたことないが」

 兄が茶町の料理茶屋に通うようになってから、花江はあんな風になった。茶屋の女とどれほど深い仲かは知らぬが、よく白粉の香をさせて帰ってくる。誠三郎が夜更けに台所に水を飲みに行くと、包丁を握ってまな板に向かう義姉を見ることがあった。昏い影をたたえて強張る背中に、声をかけるのが憚られた。一夜明ければ晴れやかな母の顔をしている義姉に、誠三郎は畏敬の念すら覚えている。

 炭入れを手に提げ、誠三郎は廊下伝いに離れへ戻った。怪我人の容態は変わらず赤い顔をしているが、苦し気だった呻き声は鎮まっていた。火鉢に炭を継いで火をよく熾し、寝ている女の傍らに据える。水差しで手拭いを濡らし、額を冷やしてみた。
 滅多に見かけぬ女剣士の姿を描きたくなったとはいえ、時雨の晩に見知らぬ女を山から背負って帰るなど、思いも寄らぬことであった。離れに怪我人、それも若い女がいると兄や義姉に知られるのはまずい。離れに女を隠しているとわかれば、すぐにでも嫁に貰えなどと騒ぎだすだろう。勇ましい風体の娘がどこの家の子女にしろ、大人しく嫁になろうとは思えないが。
 目を覚ましたこの女が、刀を帯びた姿で稲葉山中に倒れていたことにいかなる事情を語るのかと考えていて、さて己はなにを描いておったかと思い至る。
 誠三郎は文机に向かい持ち歩いた画帳を繰っては、出来損ないの下絵ばかりを眺めて吐息を漏らした。
 背後で、娘の安らかな寝息が聞こえてきた。見ると、夜着の上に重ねた着物が緩やかな起伏で波打っている。
 炬燵の中の火鉢にも炭を足して火を熾し、誠三郎は炬燵に半身を潜り込ませる。雨戸が霙に打たれて鳴る音を聞いているうちに、目を開けていることができず眠りに落ちていった。

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