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1章

1.米村家にて①

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 まどろみかけていたが、濡れた身体が凍えて誠三郎は起き上がった。
 菅笠は知らぬ間に外していたが、着物が濡れそぼって躰が冷えきっていた。行李から裾がほつれた綿入れを引きずり出し、震えながら着替える。
 背後から、う、うう、という呻き声が聞こえて振り返った。背負って帰った女がうなされている。女は先刻障子の前で背から下ろしたままの格好でぐったりしていた。
 慌てて女に近寄り、蓑を外してみた。
 着物から襦袢までべったり濡れている。繻子の帯を解き、着物を脱がせた。襦袢は着せたままで、あるだけの手拭いで水気を拭き取り、夜着を着せかけて楽な体勢で寝かせる。女のわりに骨張った身体つきで、眉宇に厳めしさが漂っていた。ふっくらした頬は朱に染まっている。
 つい、柔らかそうな女の頬へ手が伸びていた。膚に触れた刹那、指先が焼けるように熱い。
 顔が赤いのは熱があるからなのだ。息遣いは荒く、時折身震いしている。
 息が煙るほどに、部屋は冷え切っていた。衣桁に掛けてある一張羅の縮緬の袷や羽織で夜着の上をさらに覆ってから、炭入れを持って廊下に出た。
 台所に入った。漬け物樽の前に屈んでいた女中のきくが、どっこいしょと立ち上がって腰を伸ばした。

「誠三郎坊ちゃん、今帰りんさったんか。ご飯、まだですか」
「ああ、飯を頼む。よく熾っている炭もくれ、今晩は冷えるな」

 きくは飯と貝汁の椀をよそって、箱膳にのせてくれる。炭入れを手渡すと、よく熾きた炭を入れてくれた。

「若奥様に挨拶なすったんですか」
「いや、座敷に顔は出してない」
 
 嬉しそうにきくは、烏賊の煮物の小鉢を膳にのせてくれた。
 いつもは離れで食べるのだが、台所の隅で飯をかき込んだ。
 誠三郎より二つ年下の兄嫁の花江は、器量もよく聡明だと評判の娘で近隣の藩士の子息の憧れの的だった。人目を惹いた美貌は今やさほどでもないが、家内の切り盛りは熟練して遣り手である。当主の父が亡くなり母も寝付いてからは、花江が若奥様として屋敷内を取り仕切るようになった。以降、絵師見習いのまま離れに居座る誠三郎の膳は乏しくなる一方である。
 烏賊の塩辛や里芋の煮つけなど、好物を口にできない日がある。女中のきくが気づけば、小皿に載せた菜をこうやって足してくれた。久々に烏賊の煮物を噛みしめて、醤油が染みた弾力ある旨味に鼻の奥がつんとする。
 きくは誠三郎に声を潜めて話しかけてきた。

「黒船やらが来んさって何年経ちましたかいな。あれからこの因幡の国も変わってしまったがね」
「あれは、十年ほど前になるか。同じ頃に十二代藩主として慶徳公が水戸から入られて、尊王攘夷の気風が山陰鳥取の長閑な眠りを覚ましてしまった、というところだな」
 
 十年前といえば、誠三郎が藩御用絵師を志して画道に専念しだした頃である。

「尊攘派と言うたら、八月に京の都でえらい騒ぎを起こした件で、もう三月も経つのに買い物に出たらその話ばかりだが。討たれた重臣の遺族には敵討ちが禁じられたけど、お沙汰の件は宙ぶらりんでこのまま収まるはずがないて。一体どちらが悪いのやら」

 きくは青菜の漬け物を盛った深鉢を箱膳に載せた。

「よい悪いの話ではない、信条に関わる事なので断罪するのが難しいのだ。ひと頃は勢いを増す一方だった尊攘派だが、あの八月から風向きが変わり一気に凋落してな。この鳥取でも保守中道派が力を取り戻しているが、これからどうなることか」
「尊攘派やら中道派やら、ようわからんけど物騒でかなわんがね」

 きくは誠三郎の茶碗を取り上げて二杯目の飯を盛っている。
 誠三郎は京で起きた本圀寺事件を思い起こしつつ無精髭を撫でる。
 昨夏八月十七日、藩主の池田慶徳を事なかれ主義から政争に巻き込まないよう策動したとして、側用人の黒部権之助、目付である高沢省巳まさみ、早川卓之丞が京の本圀寺宿所で討たれた。襲ったのは尊攘派の若手藩士ら二十二人で、首領は伏見留守居役の河田左久馬だった。その背後には、尊攘派の家老、和田邦之助、京屋敷大目付の堀庄次郎が控えているとされた。
 襲撃の翌日、尊王攘夷の旗頭である長州藩と対立していた京都守護職の会津藩、公武合体を目指す薩摩藩は密かに結び、政変を決行した。この日の朝、会津藩主の松平容保が摂関家の公卿と共に宮中に参内し、その直後幕兵と会津、薩摩の藩兵が御所のすべての門を封鎖した。攘夷強硬派の公家らは御所に入ることができず、その間に朝議が開かれて長州藩の京からの追放、攘夷派の公卿への厳しい処罰が議決された。
 これにより、京に駐留していた長州藩兵は帰国を余儀なくされ、攘夷強硬派の三条実美ら七人の公家は長州へと落ち延びた。朝廷内の主勢力は、一夜にして尊皇攘夷派から公武合体派へがらりと入れ替わってしまった――。

「八月のあの日以来、鳥取だけでなく、日本の政局の流れは一変した。本圀寺事件後、鳥取藩邸に自首し捕らえられた二十士の中には、きくも見知っている詫間樊六はんろくがいたのだ。神刀兌山ださん流の道場にて幼い頃より鍛えあった無二の友よ。樊六から、中道派を討つ企てに加わるよう、それがしも誘われてな、まあ、剣の腕に自信はあるが、政道には関わらず絵師の道を究めたいと同志入りを断ったが……、まさかあれほどの暴挙に討って出ようとは、夢にも思わなかった」

 江崎町の藩絵師役宅で、樊六らが起こした事件を聞いた時の衝撃がまざまざと蘇る――。夕風が吹きわたり蟋蟀の声が庭先に溢れだしても、背筋を流れる汗が止まらなかった。

「あの日より因州の地は大きく揺らいで宙に浮いたままよ。わが絵筆も行き詰まって、このところ下絵すら描きあがらん始末だ」
「坊ちゃん、あんな恐ろしいことに関わらんで、本当によかったがね。しっかり食べて精をつけたら、また絵を描きんさいな」
「城下には二十士に厳罰を求める者と、尊攘を叫んで血気にはやる者とが睨み合っておる。遺族に復讐の禁止が申し渡されたと言っても、いつ尊攘派が厳罰に処されてもおかしくはない……」
 
 きくは消えかけた竈の灰を薪で突いて、事件の話をもう聞いていなかった。

「塩した鯖がありますから、坊ちゃんに焼いてあげる」
「いや、もうこれでよい」
「一切れぐらい、食べんさい」

 きくが塩鯖を仕舞ってある桶に向かった時、居間との仕切りの襖が開いた。

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