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序章
3.その男、根本幽峨
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「米村どのはじきに藩絵師に推挙されるのであろうな。江戸や京に修行に出たことはおありか、いくつになられた?」
「年が明けると三十になります。腕を磨き上げて、是非とも御用絵師にお召しいただきたいのですが、江戸に出る時機は逃したままで」
「わしが江戸に出た時は、藩絵師の沖一蛾先生に弟子入りしてな。屋敷には狩野派の絵師はもちろん町絵師も出入りして、よく書画会が開かれたものだ……。このように世が乱れては、江戸や京は物騒なことであろう。京の本圀寺の件も、謹慎の沙汰が解けぬまま。新たな沙汰が下されたならば、この鳥取でもひと騒動起きよう」
「いずれ切腹になるとの噂も聞きますし、二十士、とりわけ友である詫間樊六の身を案じております。たしかに許されぬ暴挙ですが、殿やお国を思ってのこと。重臣方にお会いになられるときには、どうか御助命を願い上げます」
「わかっておる。沖九皐どのも方々に頼んでおられるようじゃ」
江戸詰御用絵師の沖九皐は、根本の師である亡き沖一峨の長子である。六月に藩主の供をして京に上り、以後周旋方として政務に奔走していた。
誠三郎はずり下がってきた背中の女を、立ち止まって背負い直した。根本が女の姿を眺めているのを感じた。
「背負っとるのは若い娘のようだが、具合が悪そうであるな。確か米村どのは、独り身であったと思うが」
「この者は、従妹にございます」
咄嗟に出まかせを口にしていた。
〽我がものと 思えばかろし かさの雪
恋の重荷をかたにかけ いもがりゆけば
冬の夜の 川風寒く千鳥なく
待つ身につらき 置こたつ
じつにやるせが ないわいなあ
「……べべんべん、と。柳橋では、この端唄も大流行りであったな」
機嫌よく唄っては笑う根本は、羽織の袂を掴んで芸者が科をつくる仕草でおどけてみせる。背負っている女が誠三郎と訳ありだと思い込んで、からかっているのだ。
笑みを絶やさぬ顔つきは商人の出自を感じさせるが、藩主や重臣からの信任は篤く、御用絵師としての絵の技量は誠三郎の師、小畑稲升より格段に上とされていた。
「米村どのの大榎町の屋敷、一度お訪ねするといたそうか。では、わしはこちらへ行くが、用心されよ」
「お気遣い、かたじけなく存じます」
悠々と歩いて吉方町へ向かう根本幽峨は、再び端唄を口ずさんでいる。商家の生まれで武道とは縁がないが、肩をいからせて闊歩する後ろ姿は剣士の威容すら感じさせる。
誠三郎は遠ざかる根本の背を見つめて、歯を食いしばった。
《いくら足掻いても、到底あの男に追いつくことはできない。己が藩絵師として召される日はいつか来るのだろうか?》
背中の女の重みが骨身に堪えてきた。小柄な娘のわりには重すぎると感じるのは、若い頃より疲れやすくなったからなのか。
霙が降りだして、頬を打っていた。菅笠の縁から滴る雨粒が首筋を伝って背中へと流れる。冷えきった身体の芯まで沁みて、胴震いがした。女を揺すり上げて背負い直すと、誠三郎は屋敷へと足を急がせる。
たどり着いた米村家の丸木の門を入り、玄関脇を過ぎ井戸端へ出た。勝手口から気取られぬよう、梅や柘植の木陰に沿って離れに向かう。
母屋は雨戸が立てられて、灯りが漏れていない。御馬廻組百十石を継ぐ兄の忠右衛門は寄り合いで帰りが遅いと言っていたし、晩飯を済まして義姉の花江と姪たちが手習いの稽古でもしている時分である。
離れの濡れ縁に上がって音をたてぬように障子を開け、背負っている女を下ろした。
這いつくばって下駄を脱ぎ障子を締めた誠三郎は、しばらくうつ伏せに横たわったまま動けなかった。
「年が明けると三十になります。腕を磨き上げて、是非とも御用絵師にお召しいただきたいのですが、江戸に出る時機は逃したままで」
「わしが江戸に出た時は、藩絵師の沖一蛾先生に弟子入りしてな。屋敷には狩野派の絵師はもちろん町絵師も出入りして、よく書画会が開かれたものだ……。このように世が乱れては、江戸や京は物騒なことであろう。京の本圀寺の件も、謹慎の沙汰が解けぬまま。新たな沙汰が下されたならば、この鳥取でもひと騒動起きよう」
「いずれ切腹になるとの噂も聞きますし、二十士、とりわけ友である詫間樊六の身を案じております。たしかに許されぬ暴挙ですが、殿やお国を思ってのこと。重臣方にお会いになられるときには、どうか御助命を願い上げます」
「わかっておる。沖九皐どのも方々に頼んでおられるようじゃ」
江戸詰御用絵師の沖九皐は、根本の師である亡き沖一峨の長子である。六月に藩主の供をして京に上り、以後周旋方として政務に奔走していた。
誠三郎はずり下がってきた背中の女を、立ち止まって背負い直した。根本が女の姿を眺めているのを感じた。
「背負っとるのは若い娘のようだが、具合が悪そうであるな。確か米村どのは、独り身であったと思うが」
「この者は、従妹にございます」
咄嗟に出まかせを口にしていた。
〽我がものと 思えばかろし かさの雪
恋の重荷をかたにかけ いもがりゆけば
冬の夜の 川風寒く千鳥なく
待つ身につらき 置こたつ
じつにやるせが ないわいなあ
「……べべんべん、と。柳橋では、この端唄も大流行りであったな」
機嫌よく唄っては笑う根本は、羽織の袂を掴んで芸者が科をつくる仕草でおどけてみせる。背負っている女が誠三郎と訳ありだと思い込んで、からかっているのだ。
笑みを絶やさぬ顔つきは商人の出自を感じさせるが、藩主や重臣からの信任は篤く、御用絵師としての絵の技量は誠三郎の師、小畑稲升より格段に上とされていた。
「米村どのの大榎町の屋敷、一度お訪ねするといたそうか。では、わしはこちらへ行くが、用心されよ」
「お気遣い、かたじけなく存じます」
悠々と歩いて吉方町へ向かう根本幽峨は、再び端唄を口ずさんでいる。商家の生まれで武道とは縁がないが、肩をいからせて闊歩する後ろ姿は剣士の威容すら感じさせる。
誠三郎は遠ざかる根本の背を見つめて、歯を食いしばった。
《いくら足掻いても、到底あの男に追いつくことはできない。己が藩絵師として召される日はいつか来るのだろうか?》
背中の女の重みが骨身に堪えてきた。小柄な娘のわりには重すぎると感じるのは、若い頃より疲れやすくなったからなのか。
霙が降りだして、頬を打っていた。菅笠の縁から滴る雨粒が首筋を伝って背中へと流れる。冷えきった身体の芯まで沁みて、胴震いがした。女を揺すり上げて背負い直すと、誠三郎は屋敷へと足を急がせる。
たどり着いた米村家の丸木の門を入り、玄関脇を過ぎ井戸端へ出た。勝手口から気取られぬよう、梅や柘植の木陰に沿って離れに向かう。
母屋は雨戸が立てられて、灯りが漏れていない。御馬廻組百十石を継ぐ兄の忠右衛門は寄り合いで帰りが遅いと言っていたし、晩飯を済まして義姉の花江と姪たちが手習いの稽古でもしている時分である。
離れの濡れ縁に上がって音をたてぬように障子を開け、背負っている女を下ろした。
這いつくばって下駄を脱ぎ障子を締めた誠三郎は、しばらくうつ伏せに横たわったまま動けなかった。
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