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麟太郎の運転する車は、しばらく山沿いの道を進み、やがて海に面した国道へと入っていった。
「慣れていない」といったわりに、麟太郎の運転には危なげがない。曲がりくねった見通しの悪い海岸線にも関わらず、さっきから、無駄に車体を揺らすでもなく安定して車を走らせ続けている。
車内は沈黙に包まれていた。もともと無理に沈黙を埋めなければ間がもたないような間柄ではないから、あえて話題をふろうとも思わない。
麟太郎もそうなんだろう。車に乗りこんでからは、ずっと黙りこくったままだ。
それでも、おれには伝えなければならない言葉がある。
どんな順序で、どんなふうに差し出せばいいのか見当もつかないけれど、それを東京まで持ち帰ってしまえば……このまま日常へ戻ってしまえば、もう二度といえないことだけはわかっていた。
切り立った崖を回りこむような形で大きなカーブを曲がると、少し先に、駐車場の案内表示が見えた。
どうやら、海水浴場があるらしい。
「麟」
ずっと黙っていたせいで、声がかすれる。
「車、止めてくれる?帰るまえに、話さなきゃならないことがあるんだ」
麟太郎は、なにもいわずにウインカーを操作した。
夕暮れどきの駐車場は、思ったよりも空いていた。
遊びつかれた海水浴客が、あちこちの車のそばで帰り支度をしている。どの顔にも、楽しかった1日の満足と名残り惜しさの入り混じる、安らいだ笑みが浮かんでいた。
車を降りたおれたちは、どちらからともなく、砂浜へ向かって歩き出した。
まだちらほら残っている水着姿の人たちの間を抜け、ひとけのない、岩場の方へと足を進める。
ごつごつした岩に足を取られてうまく歩けないでいると、難なく先を行っていた麟太郎が、おれに向かって片手を差し出した。
「大丈夫か?」
麟太郎に支えられながら短い岩場を抜けたところで、広い砂浜に出た。
遊泳禁止と書かれた立て札のせいだろう、人影はない。
麟太郎は、ためらうことなく砂のうえに腰をおろした。
「汚れるよ」
文句をいいつつ、おれも隣に並んで座る。
日中の熱気をためこんだ地中の砂から、じんわりと熱さが伝わってくる。それでも、絶え間なく吹きつける海風のおかげで、不快感はなかった。
「きれいだな」
両手を後ろについて、長い足を投げ出すように伸ばした麟太郎が、海に向かってつぶやいた。
麟太郎のいう通りだった。
暮れなずむ空は、最後の輝きを一瞬でも長く焼きつけようとするように、幅広い尾を引きながらレンガ色の光を放っている。
さっきまで見渡す限り黄金色に輝いていた海は、いまでは光を失った手前の方から、濃い群青に染まりはじめていた。
「この景色を、麟と見られてよかった」
麟太郎が、こちらを向く気配がする。
「麟が好きだよ」
自分でも意外なほど、あっさり言葉がすべり出てきた。
「ずっと好きだった。高校の頃から。たぶん、はじめて話したときから」
犬を連れたおばあさんが、目のまえを、ゆっくりと横切っていく。犬の方もだいぶ歳を取っているのか、その歩みはおぼつかない。
岩場の脇にあるトンネル状の通路のなかに、ひとりと一匹の姿が消えていくのを見送ってから、おれは再び口をひらいた。
「いまさらこんな告白されたって、麟には迷惑でしかないってわかってる。でも、もう嘘はつけないんだ。これが、ほんとのおれだから」
「……おまえ、深山さんにほれてるんじゃなかったのか?」
「サトルさんのことは、大好きだよ。おれが苦しいとき、いつも支えてくれたのはサトルさんだったから。サトルさんとなら、心も体も、ぜんぶ分け合えると思ってた。でも……だめなんだ。サトルさんからおいしいものをごちそうしてもらうたびに、頭のどこかで思ってた。麟にも食べさせてあげたいって。きれいな景色や、おもしろい映画を見ても、麟ならなんていうかなって、無意識に考えてる。だれといても、なにをしてても、おれのなかに麟がいるんだ。麟の声や、匂いや気配が、どうしても消えてくれない。サトルさんは、それでもかまわないっていってくれるけど……でもやっぱり、おれには無理だよ。そんな器用なこと、おれにはできない」
前兆もなく、涙があふれた。こんなときに泣くなんて卑怯な気がするけれど、いまさら遅い。
横を向いて、こっそり涙を拭おうとすると、思いがけず、視界に正方形のタオルが差し出された。きれいに折りたたまれたハンドタオルだ。
とまどうおれの手を取り、押しこむようにしてタオルを握らせた麟太郎が、苦笑を含んだ声音でいった。
「初めて会ったときも、おまえに泣かれてあせったんだよな、俺。おかげであれ以来、いつも持ち歩くようになった。いつタマに泣かれてもいいように」
これはジョークなんだろうか。だとしたら、世界一やさしくて残酷なジョークだ。
「おれ、そんなにいつも泣いてるわけじゃないよ」
かろうじてそういうと、麟太郎が応えた。
「あたりまえだ。タマを泣かせていいのは、俺だけだからな」
いよいよ真意が読めなくなったおれは、まじまじと麟太郎を見つめてしまう。
今日はじめて正面から顔を合わせた麟太郎は、これ以上ないほど真剣な目をしていた。
「好きだよ、俺も。おまえが好きだ」
「……それ、友だちとしてって意味、だよね」
「いっただろ、俺はタマの親友失格だって」
麟太郎は、おれの視線から逃れるように目を伏せると、再び海の方へ向き直った。
「たぶん、図書館に出入りするようになった頃から惹かれてたんだと思う。おまえと山梨に行ったときには、もうはっきり自覚してた。あの頃は、おまえしか目に入ってなかったからな、俺」
降ってわいたような告白に、頭が追いつかない。気づけば、うわごとみたいな声をあげていた。
「そんな……だって、そんなそぶり一度も」
「見せられるわけないだろ」
まえを向いたまま、麟太郎はわずかに口の端をあげた。
「おまえはいつも無防備で、俺のこと、友だちとして信頼しきってた。その澄み切ったデカい目で見つめられるたびに、内心びくついてたんだ。俺が隠し持ってる汚い欲望まで見透かされるんじゃないかって。けど、そのうち隠し通すのもしんどくなってさ。思いきって伝えようとしたんだ。あの日、山梨から帰る電車のなかで」
『俺が無事に編入できたら…』
麟太郎の声が、再び耳の奥によみがえった。
あのとき、麟太郎は、それを伝えようとしてくれていたのだ。思いつめたような、半分おびえたようなまなざしで。
「でも、結局いえなかった。いざとなったら、怖気づいたんだ。おまえに軽蔑されるのが怖かったのもある。だけど結局は、最後のところで常識から抜けきれなかったんだろうな。自分が男のおまえを好きになった事実が……それまでは、俺の頭のなかだけで完結してた世界が、目のまえの現実として回りはじめると思ったら、急に怖くなった。いまならはっきり、くだらないっていえる。でも当時は、本気で思ってた。おまえが女だったらって」
ほんとにごめん、と、麟太郎がうなだれる。
「とことん自分に失望すると、いろんなことがどうでもよくなるんだな。それからは、おまえが見てきた通りだよ。いい寄って来る女と片っ端からつき合って、だれにも本気になれないまま、別れることの繰り返し。でも、おまえのことだけは、ずっと頭から離れなかった。親や教師の反対を押しきって同じ大学に進んだのは、卒業を機に疎遠になるのが耐えられなかったからだ。なのに、入学した途端、今度はおまえから避けられはじめた。おまえが年上のイケメンと歩いてるのを見たって噂も聞くようになって、あせったよ。おまえとの間に空いた距離を一気に取り戻したくて、偽装恋愛なんてバカげた茶番に無理やりおまえを巻きこんだ。深山さんからいわれるまでもない。まさにマヌケの極みってやつだな」
「……サトルさんに会いに行ったのは、どうして?」
さっきから気になっていたことを、おれはたずねた。
「心配だったんだ。あんな大物が、一介の大学生にこだわる理由が、どうしてもわからなかったから。あとから思えば、それも常識の呪いだったんだけど。顔を突き合わせて話してるうちに、深山さんが本気でタマを想ってるのが、よくわかった」
そういって言葉を切ると、麟太郎は、わずかに口調を変えて続けた。
「俺さ、どっかで意地の悪い期待してたんだ。深山さんが、若い男を食いものにするクズ野郎だったらいい。それなら、まだタマを取り返せる余地もあるからって。そんな腹黒い考え、あっというまに蹴散らされたけどな。すげぇよ、あのひと。とんでもない切れ者だし、器もデカい。いまの俺には到底たちうちできないって、嫌というほど思い知らされて帰ってきてさ。そしたら、なんの因果か、アパートのまえでおまえに会った」
「それであのとき、サトルさんから大事にしてもらえなんて、おれにいったのか」
『深山さんのこと、大事にしろよ。そんで、思いっきり大事にしてもらえ』
「おまえの相手があのひとなら、死ぬほど悔しいけど、腹くくってあきらめるしかない。それがおまえのためにもなるって、そう思ったんだ。なのに、今日になって深山さんからあんなメッセージが送られてきてさ。わけがわからないまま、反射的に飛び出してきたってのが正直なとこ」
「サトルさん、なんていってきたの?」
住所を送っただけだと本人はいっていたけれど、それだけで、いったん腹をくくった麟太郎が動くとは思えない。
麟太郎は、黙ったまま、おれに向かってスマホの画面を差し出した。
見るとたしかに、あの家の住所が貼付されている。でも、それだけじゃなかった。
【これがラストチャンスだ】
意味深な1文の下に、おれの画像が添えられていたのだ。
だれが見ても、あからさまに不安とおびえの表情が読み取れる、横顔のアップ。画面の端に、水をたたえたプールと、ブレた白黒模様が見切れていた。
「おまえのそんな顔見せられたら、なにがなんでも来ないわけにはいかないだろ。ほんとに食えないひとだよ、深山さん」
麟太郎が、小さく笑う。
「さっきおまえに告られるまで、深山さんの意図がまったく読めずにいたけど、おかげで謎が解けた。あのひと、俺とタマが両想いだって、最初からわかってたんだな。だから、こんな回りくどいやり方で、俺を焚きつけたんだ。ぜんぶタマのために」
その瞬間、胸が引きちぎられるように鋭く痛んだ。
それなりに遊び慣れている様子のサトルさんが、おれに対してあれほど慎重にふるまうことが、内心ずっと不思議だった。いくらおれが未成年でも、手を出そうと思えばいつでもできたはずなのに。
でも、いまになってようやくわかった。サトルさんは、最後の最後まで、おれに逃げ道を残しておいてくれたのだ。一度でも体の関係ができてしまえば、おれがそこに捕らわれることを知っていたから。
こみあげてくる熱いかたまりを喉元で食い止めながら、目元にタオルを押し当てていると、しばらくして、麟太郎の声がした。
「俺たち、あのひとに足向けて寝られねぇな」
「うん」
「泣くなよ」
「泣いてないよ」
「逃した魚は大きいって、顔に書いてある」
「そんなんじゃないから」
「まぁ、いまから深山さんのところに戻りたいっていわれても、行かせねぇけどな」
さっきより低い声音に、思わずタオルから目をあげる。
麟太郎が、片手を伸ばしておれの頰に触れてきた。
「もう逃がさないし、だれにもやらない」
親指を使ってやさしく頰をなでると、その手をおれの頭の後ろにすべらせ、自分の方へ引き寄せる。
目を閉じた瞬間、唇に、やわらかな感触が押し当てられた。
吹きつける風から午後の熱気は失われているのに、麟太郎とつながった部分だけが、灼けるように熱かった。
どれくらいの時間、そうしていただろう。互いをたしかめるように何度も唇を合わせ、どちらからともなく体が離れたときには、おれも麟太郎も、すっかり息があがっていた。
体の奥に溜まった熱を冷ますように、しばらく風に吹かれていると、ふいに、麟太郎が大きく伸びをした。
「安心したら腹へったな。せっかくだから、なんか食ってから帰るか」
甘ったるい雰囲気を一瞬でぶち壊すセリフに、思わず笑ってしまう。
おかげで、身の置きどころに困るような気恥ずかしさが一気に吹き飛んだ。
「そういえば、あの写真、どういうシチュエーションだったんだ?」
立ち上がって服についた砂を払っていると、隣で同じことをしていた麟太郎が、思い出したように聞いてきた。
「あんなにおびえた顔するくらいだから、よっぽど怖い目に遭ったんじゃないかと思ってさ」
「それは…」
説明しようとして、おれはとっさに思い直した。
シャチが怖かったなんて正直にいったら、この先ずっとイジられそうな気がする。
「べつに、たいしたことじゃないよ。ほら、ごはん食べて早く帰ろう」
なにげなく浮かんだ「この先ずっと」というフレーズが、なんともいえない温かな色合いを帯びて、胸のなかにいつまでも響き続けていた。
「慣れていない」といったわりに、麟太郎の運転には危なげがない。曲がりくねった見通しの悪い海岸線にも関わらず、さっきから、無駄に車体を揺らすでもなく安定して車を走らせ続けている。
車内は沈黙に包まれていた。もともと無理に沈黙を埋めなければ間がもたないような間柄ではないから、あえて話題をふろうとも思わない。
麟太郎もそうなんだろう。車に乗りこんでからは、ずっと黙りこくったままだ。
それでも、おれには伝えなければならない言葉がある。
どんな順序で、どんなふうに差し出せばいいのか見当もつかないけれど、それを東京まで持ち帰ってしまえば……このまま日常へ戻ってしまえば、もう二度といえないことだけはわかっていた。
切り立った崖を回りこむような形で大きなカーブを曲がると、少し先に、駐車場の案内表示が見えた。
どうやら、海水浴場があるらしい。
「麟」
ずっと黙っていたせいで、声がかすれる。
「車、止めてくれる?帰るまえに、話さなきゃならないことがあるんだ」
麟太郎は、なにもいわずにウインカーを操作した。
夕暮れどきの駐車場は、思ったよりも空いていた。
遊びつかれた海水浴客が、あちこちの車のそばで帰り支度をしている。どの顔にも、楽しかった1日の満足と名残り惜しさの入り混じる、安らいだ笑みが浮かんでいた。
車を降りたおれたちは、どちらからともなく、砂浜へ向かって歩き出した。
まだちらほら残っている水着姿の人たちの間を抜け、ひとけのない、岩場の方へと足を進める。
ごつごつした岩に足を取られてうまく歩けないでいると、難なく先を行っていた麟太郎が、おれに向かって片手を差し出した。
「大丈夫か?」
麟太郎に支えられながら短い岩場を抜けたところで、広い砂浜に出た。
遊泳禁止と書かれた立て札のせいだろう、人影はない。
麟太郎は、ためらうことなく砂のうえに腰をおろした。
「汚れるよ」
文句をいいつつ、おれも隣に並んで座る。
日中の熱気をためこんだ地中の砂から、じんわりと熱さが伝わってくる。それでも、絶え間なく吹きつける海風のおかげで、不快感はなかった。
「きれいだな」
両手を後ろについて、長い足を投げ出すように伸ばした麟太郎が、海に向かってつぶやいた。
麟太郎のいう通りだった。
暮れなずむ空は、最後の輝きを一瞬でも長く焼きつけようとするように、幅広い尾を引きながらレンガ色の光を放っている。
さっきまで見渡す限り黄金色に輝いていた海は、いまでは光を失った手前の方から、濃い群青に染まりはじめていた。
「この景色を、麟と見られてよかった」
麟太郎が、こちらを向く気配がする。
「麟が好きだよ」
自分でも意外なほど、あっさり言葉がすべり出てきた。
「ずっと好きだった。高校の頃から。たぶん、はじめて話したときから」
犬を連れたおばあさんが、目のまえを、ゆっくりと横切っていく。犬の方もだいぶ歳を取っているのか、その歩みはおぼつかない。
岩場の脇にあるトンネル状の通路のなかに、ひとりと一匹の姿が消えていくのを見送ってから、おれは再び口をひらいた。
「いまさらこんな告白されたって、麟には迷惑でしかないってわかってる。でも、もう嘘はつけないんだ。これが、ほんとのおれだから」
「……おまえ、深山さんにほれてるんじゃなかったのか?」
「サトルさんのことは、大好きだよ。おれが苦しいとき、いつも支えてくれたのはサトルさんだったから。サトルさんとなら、心も体も、ぜんぶ分け合えると思ってた。でも……だめなんだ。サトルさんからおいしいものをごちそうしてもらうたびに、頭のどこかで思ってた。麟にも食べさせてあげたいって。きれいな景色や、おもしろい映画を見ても、麟ならなんていうかなって、無意識に考えてる。だれといても、なにをしてても、おれのなかに麟がいるんだ。麟の声や、匂いや気配が、どうしても消えてくれない。サトルさんは、それでもかまわないっていってくれるけど……でもやっぱり、おれには無理だよ。そんな器用なこと、おれにはできない」
前兆もなく、涙があふれた。こんなときに泣くなんて卑怯な気がするけれど、いまさら遅い。
横を向いて、こっそり涙を拭おうとすると、思いがけず、視界に正方形のタオルが差し出された。きれいに折りたたまれたハンドタオルだ。
とまどうおれの手を取り、押しこむようにしてタオルを握らせた麟太郎が、苦笑を含んだ声音でいった。
「初めて会ったときも、おまえに泣かれてあせったんだよな、俺。おかげであれ以来、いつも持ち歩くようになった。いつタマに泣かれてもいいように」
これはジョークなんだろうか。だとしたら、世界一やさしくて残酷なジョークだ。
「おれ、そんなにいつも泣いてるわけじゃないよ」
かろうじてそういうと、麟太郎が応えた。
「あたりまえだ。タマを泣かせていいのは、俺だけだからな」
いよいよ真意が読めなくなったおれは、まじまじと麟太郎を見つめてしまう。
今日はじめて正面から顔を合わせた麟太郎は、これ以上ないほど真剣な目をしていた。
「好きだよ、俺も。おまえが好きだ」
「……それ、友だちとしてって意味、だよね」
「いっただろ、俺はタマの親友失格だって」
麟太郎は、おれの視線から逃れるように目を伏せると、再び海の方へ向き直った。
「たぶん、図書館に出入りするようになった頃から惹かれてたんだと思う。おまえと山梨に行ったときには、もうはっきり自覚してた。あの頃は、おまえしか目に入ってなかったからな、俺」
降ってわいたような告白に、頭が追いつかない。気づけば、うわごとみたいな声をあげていた。
「そんな……だって、そんなそぶり一度も」
「見せられるわけないだろ」
まえを向いたまま、麟太郎はわずかに口の端をあげた。
「おまえはいつも無防備で、俺のこと、友だちとして信頼しきってた。その澄み切ったデカい目で見つめられるたびに、内心びくついてたんだ。俺が隠し持ってる汚い欲望まで見透かされるんじゃないかって。けど、そのうち隠し通すのもしんどくなってさ。思いきって伝えようとしたんだ。あの日、山梨から帰る電車のなかで」
『俺が無事に編入できたら…』
麟太郎の声が、再び耳の奥によみがえった。
あのとき、麟太郎は、それを伝えようとしてくれていたのだ。思いつめたような、半分おびえたようなまなざしで。
「でも、結局いえなかった。いざとなったら、怖気づいたんだ。おまえに軽蔑されるのが怖かったのもある。だけど結局は、最後のところで常識から抜けきれなかったんだろうな。自分が男のおまえを好きになった事実が……それまでは、俺の頭のなかだけで完結してた世界が、目のまえの現実として回りはじめると思ったら、急に怖くなった。いまならはっきり、くだらないっていえる。でも当時は、本気で思ってた。おまえが女だったらって」
ほんとにごめん、と、麟太郎がうなだれる。
「とことん自分に失望すると、いろんなことがどうでもよくなるんだな。それからは、おまえが見てきた通りだよ。いい寄って来る女と片っ端からつき合って、だれにも本気になれないまま、別れることの繰り返し。でも、おまえのことだけは、ずっと頭から離れなかった。親や教師の反対を押しきって同じ大学に進んだのは、卒業を機に疎遠になるのが耐えられなかったからだ。なのに、入学した途端、今度はおまえから避けられはじめた。おまえが年上のイケメンと歩いてるのを見たって噂も聞くようになって、あせったよ。おまえとの間に空いた距離を一気に取り戻したくて、偽装恋愛なんてバカげた茶番に無理やりおまえを巻きこんだ。深山さんからいわれるまでもない。まさにマヌケの極みってやつだな」
「……サトルさんに会いに行ったのは、どうして?」
さっきから気になっていたことを、おれはたずねた。
「心配だったんだ。あんな大物が、一介の大学生にこだわる理由が、どうしてもわからなかったから。あとから思えば、それも常識の呪いだったんだけど。顔を突き合わせて話してるうちに、深山さんが本気でタマを想ってるのが、よくわかった」
そういって言葉を切ると、麟太郎は、わずかに口調を変えて続けた。
「俺さ、どっかで意地の悪い期待してたんだ。深山さんが、若い男を食いものにするクズ野郎だったらいい。それなら、まだタマを取り返せる余地もあるからって。そんな腹黒い考え、あっというまに蹴散らされたけどな。すげぇよ、あのひと。とんでもない切れ者だし、器もデカい。いまの俺には到底たちうちできないって、嫌というほど思い知らされて帰ってきてさ。そしたら、なんの因果か、アパートのまえでおまえに会った」
「それであのとき、サトルさんから大事にしてもらえなんて、おれにいったのか」
『深山さんのこと、大事にしろよ。そんで、思いっきり大事にしてもらえ』
「おまえの相手があのひとなら、死ぬほど悔しいけど、腹くくってあきらめるしかない。それがおまえのためにもなるって、そう思ったんだ。なのに、今日になって深山さんからあんなメッセージが送られてきてさ。わけがわからないまま、反射的に飛び出してきたってのが正直なとこ」
「サトルさん、なんていってきたの?」
住所を送っただけだと本人はいっていたけれど、それだけで、いったん腹をくくった麟太郎が動くとは思えない。
麟太郎は、黙ったまま、おれに向かってスマホの画面を差し出した。
見るとたしかに、あの家の住所が貼付されている。でも、それだけじゃなかった。
【これがラストチャンスだ】
意味深な1文の下に、おれの画像が添えられていたのだ。
だれが見ても、あからさまに不安とおびえの表情が読み取れる、横顔のアップ。画面の端に、水をたたえたプールと、ブレた白黒模様が見切れていた。
「おまえのそんな顔見せられたら、なにがなんでも来ないわけにはいかないだろ。ほんとに食えないひとだよ、深山さん」
麟太郎が、小さく笑う。
「さっきおまえに告られるまで、深山さんの意図がまったく読めずにいたけど、おかげで謎が解けた。あのひと、俺とタマが両想いだって、最初からわかってたんだな。だから、こんな回りくどいやり方で、俺を焚きつけたんだ。ぜんぶタマのために」
その瞬間、胸が引きちぎられるように鋭く痛んだ。
それなりに遊び慣れている様子のサトルさんが、おれに対してあれほど慎重にふるまうことが、内心ずっと不思議だった。いくらおれが未成年でも、手を出そうと思えばいつでもできたはずなのに。
でも、いまになってようやくわかった。サトルさんは、最後の最後まで、おれに逃げ道を残しておいてくれたのだ。一度でも体の関係ができてしまえば、おれがそこに捕らわれることを知っていたから。
こみあげてくる熱いかたまりを喉元で食い止めながら、目元にタオルを押し当てていると、しばらくして、麟太郎の声がした。
「俺たち、あのひとに足向けて寝られねぇな」
「うん」
「泣くなよ」
「泣いてないよ」
「逃した魚は大きいって、顔に書いてある」
「そんなんじゃないから」
「まぁ、いまから深山さんのところに戻りたいっていわれても、行かせねぇけどな」
さっきより低い声音に、思わずタオルから目をあげる。
麟太郎が、片手を伸ばしておれの頰に触れてきた。
「もう逃がさないし、だれにもやらない」
親指を使ってやさしく頰をなでると、その手をおれの頭の後ろにすべらせ、自分の方へ引き寄せる。
目を閉じた瞬間、唇に、やわらかな感触が押し当てられた。
吹きつける風から午後の熱気は失われているのに、麟太郎とつながった部分だけが、灼けるように熱かった。
どれくらいの時間、そうしていただろう。互いをたしかめるように何度も唇を合わせ、どちらからともなく体が離れたときには、おれも麟太郎も、すっかり息があがっていた。
体の奥に溜まった熱を冷ますように、しばらく風に吹かれていると、ふいに、麟太郎が大きく伸びをした。
「安心したら腹へったな。せっかくだから、なんか食ってから帰るか」
甘ったるい雰囲気を一瞬でぶち壊すセリフに、思わず笑ってしまう。
おかげで、身の置きどころに困るような気恥ずかしさが一気に吹き飛んだ。
「そういえば、あの写真、どういうシチュエーションだったんだ?」
立ち上がって服についた砂を払っていると、隣で同じことをしていた麟太郎が、思い出したように聞いてきた。
「あんなにおびえた顔するくらいだから、よっぽど怖い目に遭ったんじゃないかと思ってさ」
「それは…」
説明しようとして、おれはとっさに思い直した。
シャチが怖かったなんて正直にいったら、この先ずっとイジられそうな気がする。
「べつに、たいしたことじゃないよ。ほら、ごはん食べて早く帰ろう」
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