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 麟太郎のアパートを訪ねて以来、おれたちの関係は、顔を合わせればぎこちなく挨拶を交わす程度の、薄っぺらく他人行儀なものに落ち着きつつあった。
 ふだん通りに大学生活を送っていれば、それで十分こと足りる。その事実に拍子抜けする一方、人間同士の関わりなんて、互いの気持ちしだいで簡単に離れてしまうことを改めて実感させられ、いままで大切に抱えてきたものの輪郭が急に崩れてしまったような、底知れないむなしさをおぼえた。

 おれたちの、ある意味しらじらしいふるまいは、はたから見れば不自然に思えただろう。それでも秋斗は、

 「まぁ、迷える修行僧から1段あがって悟りを開いたみたいだし、よしとするか」

 と、遠回しに触れてきただけで、それ以上は口に出すこともなくなった。

 意外だったのは、三雲の態度だ。
 
 「麟から別れたって聞いたんだけど、どういうことだよ千年っち」

 どうやら麟太郎は、おれたちが別れたという別の嘘で、つじつまを合わせることにしたらしい。

 「俺はなぁ、なにも別れ話させるために、千年っちを麟のところに送りこんだわけじゃねーんだよ」

 おれがアパートへ行った翌日、ものすごい剣幕でおれを問いつめた三雲は、それからも、ことあるごとに「よりを戻せ」と絡んでくるようになった。

 「三雲はさぁ、なんでそんなに麟とおれをくっつけたがるわけ?」
 
 三雲の頰にできたアザが消えかけた頃の、とある昼休み。おれは、学食で一緒になった彼に素朴な疑問をぶつけてみた。

 「麟太郎が謝りに出向いたことで先方の大学とは和解できたみたいだし、チームの活動停止措置だってとっくに解けてる。おれたちがどうなろうと、三雲に直接の影響があるとは思えないんだけど」

 季節は、うっとうしい梅雨に入っていた。

 一面ガラス張りの向こうにある芝生の中庭が、折から降り出した雨に、うっすらかすんで見える。

 「そりゃあ、千年っちといるときの麟が、外野から見ていちばんしっくりくるからだよ。おまえらがべったり一緒だったときは、あいつ、めちゃくちゃ機嫌よかったし」
 
 「それは、たぶん気のせいだよ」

 「俺がそうだっていってんだから、そうなんだって。だいたい、短期間で相手がコロコロ変わるとか、俺にいわせりゃ不健全極まりねぇっつーの」

 チャラい見た目のわりに、三雲は、ひととの関わり方がていねいだ。その姿勢は自分の彼女にも漏れなく発揮されていて、時どきケンカしながらも、うらやましいほど良い関係を築いている。
 
 「麟に、また新しい彼女でもできたわけ?」

 「いいや。当分は独りがいいってさ。千年っちにフラれたのが、よっぽどこたえたんじゃね?」

 おれがフッたことになってるのか。

 責めるようにジト目で見てくる三雲から、おれはさりげなく視線をそらした。


 サトルさんとは、あれからも何度か顔を合わせていた。
 いや、忙しい執筆の合い間を縫って、映画や美術展に連れ出してくれたのだから、あれはもう、はっきりデートと呼ぶべきだろう。
 
 食事に連れて行ってもらう店の傾向も、以前とは微妙に変わった気がする。
 たとえば先週、映画を観た帰りに連れられて行ったのは、サトルさんがデビューまえから足繁く通っているという庶民的な定食屋だったし、そのまえは、学生時代の友人が経営している居酒屋まで足を運んで、店主が語るサトルさんの失敗談や武勇伝を肴に、笑いの絶えない楽しい時間を過ごさせてもらった。
 サトルさんは、あえてそういう場所を選んで、飾らない素顔を見せようとしてくれているのかもしれない。
 自分を「先生」と呼ぶひとのいない場所で、くつろいだ笑顔を見せるサトルさんは、歳の離れたおれの目にもほほえましく映った。
 それはたぶん、線引きのないグラデーションを通りぬけて「愛おしさ」につながっていく感情なんだろう。実際、おれはサトルさんをいちばん身近なひととして受け入れつつあった。

 おれのなかでサトルさんの存在が大きくなっていくのとは対照的に、サトルさんの態度は以前と変わらず、あくまで紳士的だった。
 必要なとき以外、おれの体に触れてくることはないし、どんなに遅い時間になろうと必ず自宅まで送り届けてくれる。
 そのぶれない姿勢は、おれを安心させると同時に、かすかなもどかしさも感じさせた。

 麟太郎への想いを断ち切りたい。それはもう、まぎれもない本心のはずなのに、その想いにしがみつきたい自分も完全に消し去ることができない。
 いまのおれは、ふたつの矛盾した気持ちの間で揺れる振り子みたいだ。

 こんな状態で、ずるずる麟太郎を引きずるくらいなら、いっそ強引に抱いてくれればいいのに。もう戻れない場所まで、有無をいわさず連れ去ってほしい。

 サトルさんに対して、そんな自分勝手でずるい期待を押しつけようとしている自分に気づいて、自己嫌悪に陥ることもしょっちゅうだった。
 

 


 「長編の連載がひとつ、今週で脱稿する予定なんだ」

 サトルさんがそう切り出したのは、店主が旧知の仲だという沖縄料理店で食事したあと、家まで送ってもらう車のなかだった。

 「少し余裕ができるから、週末にでも、房総まで足を伸ばしてみようか」

 「え?」

 思いがけないサトルさんの言葉に驚いて、とっさに運転席を見る。

 「あの約束、おぼえててくれたんですか?」

 「もちろん。梅雨入りまえとかいっておいて、結局、梅雨が明けちゃったけどね。都合はつきそう?」

 「大学がちょうど夏休みに入るから、おれの方は大丈夫です」

 「泊まりになってもかまわないかな」

 あまりにも自然な口調でさらりといわれ、あっさりうなずきかけたおれは、その言葉の奥にある意味に気づいてハッとなる。

 「無理にとはいわないよ。俺は、きみの気持ちとタイミングを大事にしたいと思ってる。あくまで提案だから、そんなに重く考えなくていい」

 「…全然、無理じゃないです」

 はっきりいったつもりが、蚊のなくような声になってしまった。
 
 おれ、なに意識してんだろ。めちゃくちゃ恥ずかしい…。
 
 ハンドルを握るサトルさんは、そんなおれを横目でチラっと見てから、くすくす笑った。

 「顔、真っ赤だよ。あんまりかわいいと、このままどこかに連れこみたくなっちゃうな」

 その余裕、少しでいいから分けてください。

 内心のつぶやきは、もちろんサトルさんに届くはずもなく、おれは、窓の外を通り過ぎる夜の街へと視線を移した。

 暗がりにたたずむ住宅街の風景に記憶を刺激されのだろうか。街灯の明かりに浮かぶ端正な顔が、性懲りもなくよみがえる。

 ータマ、おぼえてるか。

 あのとき麟太郎は、どうして2年もまえの話を持ち出したりしたんだろう。

 思い当たるのは、山梨から帰る電車のなかで、麟太郎が口にしかけた言葉だ。

 『おれが無事に編入できたら…』
 
 あんなに思いつめたまなざしを向けられたのは、後にも先にも、あのときだけだった。なにか、とても大事なことをおれに伝えようとしていたに違いない。
 そのなにかを、あいつ自身、まだ胸のなかに留めているのだとしたら…。

 無理にでも、続きを聞き出しておけばよかった。

 3年越しに押し寄せる後悔を、おれは固く目を閉じてやり過ごした。

 いまさらそんなことを考えてどうなる?
 
 おれがいま思うべきなのは、もう戻れない過去なんかじゃない。これからサトルさんとはじめる未来だ。

 さしあたり、週末に控えたサトルさんとのドライブをイメージしようとしたけれど、寄せては返す波のように繰り返し現れる過去の幻影に引きずられ、あまりうまくはいかなかった。

 

 


 

 

 

  

 

 

 

 
 

 

 
 
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