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 「千年くん。はい、これどうぞ」

 閉店作業を終え、帰り支度をしていると、オーナーの穂香さんから紙の手提げ袋を渡された。

 「これから麟くんのところに寄るんでしょ?夜食に卵サンド作ったから、ふたりで食べて」

 穂香さんが、目尻にできた笑い皺をさらに深めてにっこり笑う。
 
 卵サンドは、ふだんお客さんには出していない裏メニューだ。
 以前、おれともうひとりの学生アルバイトのために、まかないとして用意されたものを、たまたま居合わせた麟太郎がちゃっかりつまみ食いして絶賛したことがあるのだが、彼女は、それをおぼえていたらしい。
 

 「わざわざすみません。ありがとうございます」 

 「いいのいいの。推しが自分の作ったもの食べてくれる想像だけで、ごはん三杯はおかわりできるんだから」

 「ごはん三杯…」

 「千年くんにはピンとこないか」

 ほがらかに笑って、穂香さんがいった。

 「麟くんに、また遊びに来てって伝えておいてね」 

 大学からほど近いこのカフェでバイトをはじめてから1年あまり。その間、穂香さんが麟太郎と顔を合わせたのは片手で数えるほどなのに、彼女は、麟太郎を「推し」だといってはばからない。
 
 同世代の女の子ばかりか、40代既婚女性のハートまでがっちりつかんでしまうのだから、麟太郎には、どこか母性本能をくすぐるようなところがあるのだろう。
 
 店の裏口から出て、街灯の下、住宅街のなかをゆっくり歩く。

 麟太郎のアパートへ行くのは、去年、引っ越しを手伝ったとき以来だ。
 あのときも麟太郎には彼女がいたし、ひとこと声をかければ手伝ってくれる友人にも事欠かなかったのに、助っ人として呼ばれたのはおれだけだった。その事実に舞い上がるほど喜んでいた自分が、いまとなっては滑稽を通りこして痛々しいとすら感じる。

 麟太郎に会ったら、なにをいえばいいんだろう。あいつから逃げ回っているいまのおれに、かける言葉なんてあるんだろうか。
 
 重いため息とともに、おれは歩道の端で足を止めた。見覚えのあるアパートが、街灯の明かりに浮かびあがる。

 アパートの白い外壁をたどって二階を見上げると、ほとんどの窓から明かりが漏れるなか、目当ての角部屋だけが暗く沈んでいた。

 もう寝ちゃったのかな。
 それとも、やっぱり体調が悪いのか?

 不安と焦りにかられて足を踏み出したとき、前方から、かすかな足音が聞こえた。
 
 街灯に淡く照らされながら、均整の取れた長身のシルエットが、うつむきがちに近づいてくる。

 「麟…」

 おれがもらした声に、麟太郎は足を止め、ハッとしたように顔をあげた。

 「タマ…なんで…」

 とまどいを浮かべたまま、こちらへ向かってゆっくりと歩み寄る。
 心なしか、その足取りが重かった。
 
 近くで見ると、ひどくつかれた顔をしている。
 
 「大丈夫なのか?」

 目の下にうっすら浮いたくまを見ながら、おれは、思わずそう聞いた。

 「麟と連絡がつかないって、三雲が心配してた」

 「あぁ、それで来たのか…」

 納得したようにうなづくと、麟太郎は、けだるそうに口をひらいた。
  
 「悪かったな、心配かけて。朝からずっと出先にいたから、余裕なくてさ。三雲には、あとで俺から連絡いれとく」

 「朝からって…授業までサボってどこ行ってたんだよ」

 「ちょっと、ヤボ用」

 「…」

 はぐらかされて話の接ぎ穂を失ったおれは、穂香さんから預かった手提げ袋の存在を思い出した。
 
 「夕飯、どこかで食べてきた?」

 「…メシか…そういや忘れてたな」

 麟太郎は、手ぶらだった。
 なにも持たずに朝からこんな時間までどこへ行っていたのかも気になるけれど、食材や弁当のたぐいを買ってきた形跡がないのは、もっと気になる。

 「まぁ、部屋に帰ればなんかあるだろ」

 疲労のにじむ表情で苦く笑うその顔に、嫌な予感をおぼえた。

 「いつから食べてないんだ」

 「…ちゃんと食ってるって」

 「嘘つけ。ちゃんとって、いつ?なに食べた」

 「おまえのそういうとこ、俺の母親そっくりだな」

 ぼそりといわれ、ハッとする。

 つい、以前の調子で踏みこんでしまったけれど、おれにはもう麟太郎を心配する筋合いなんてないし、おれから心配されたところで、こいつにとってはうっとうしいだけだろう。

 「これ、穂香さんから」

 押しつけるように袋を渡すと、おれは、努めて事務的な口調を意識しながらいった。

 「おまえが好きな卵サンド、わざわざ作ってくれたんだから絶対ムダにするなよ」

 「…わかった。穂香さんにも、あとで連絡いれとく」

 麟太郎は、なにか考えるように黙りこみ、やがてポツリと口をひらいた。

 「こないだは、悪かったな」

 「え…?」

 「高校時代の話を持ち出して、おまえを説得しようとするのは、たしかに卑怯だった」

 「それは…もういいよ」

 「無理に恋人のふりなんかさせたことも、悪かったと思ってる」

 「…」

 「おまえに好きな男がいるって気づいてたのに、足を引っ張るようなマネして…最低だよな。こんなんじゃ、友だち失格だ。おまえが俺を避けるのは、理にかなってるよ」
 
 麟太郎の語る言葉のひとつひとつが、おれの胸を激しくえぐる。

 「俺は、タマの親友にはなれない。今回のことで、それがはっきりした。離れた方がプラスになるってわかってるなら、そうするべきだと思う。…いままで、さんざんつきあわせて悪かったな。これからは、お互い距離を置こう」
 
 「…そう、だな」

 自分で決めてはじめたことなのに、麟太郎の口から改めていわれるとショックだなんて、どうかしている。
 おれは、どうしようもなく自己中で、自分勝手だ。
 
 「カッコいいひとだな、深山さん。タマが惚れたのもわかるわ」

 「…うん」 

 「あれだけ突っかかっといて、俺がいうのもなんだけどさ、深山さんのこと、大事にしろよ」

 「わかってる」

 「そんで、思いっきり大事にしてもらえ」

 「…」

 「おぼえてるか、タマ」

 ふいに、麟太郎の口調が明るさを帯びた。おれは、思わず目をあげる。

 「高2の夏休み、ふたりで山梨まで行っただろ」

 麟太郎は、おだやかなまなざしでおれを見ていた。まるで、なにかがふっきれたみたいに。

 「めちゃくちゃ暑い日だったよな。ふたりして、ガラにもなく緊張してさ。あのときのこと、最近よく思い出すんだ。なんでだろうな」

 最後の方はひとりごとのようにつぶやくと、

 「気をつけて帰れよ、タマ」

 おれに微笑を向けてから、アパートの敷地へ入って行く。

 外階段を登る重い足音を背中に聞きながら、おれは、来た道を戻りはじめた。

 急ぐわけでもないのに、足が勝手に動いて小走りになる。
 ひとけのない住宅街の角を曲がり、麟太郎のアパートが完全に見えなくなったところで、電池が切れたみたいに動けなくなった。

 胸が苦しい。

 無意識にシャツの胸元をつかんで、その場にしゃがみこむ。

 涙は出なかった。カラカラに乾いた痛みをこらえながらうずくまるおれの耳の奥に、おだやかな声がこだまする。

 ーおぼえてるか、タマ。

 おぼえてるよ。

 「忘れられるわけないだろ…」

 半分かすれたつぶやきは、湿気を含んだ夜の闇にのみこまれた。

 

 
 



 
 



 



 
 
 
 

 

 

 

 

 
 



 

 

 
 

 

 

 

 

 
 

 
 

 
 
 

 
 

 
 


 
 
 

  
       

       


 

 
 

 
 

 

 


 


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