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1巻
1-3
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楽しげに話すシンとは対照的に、三人の顔は蒼白、全身を襲う麻痺とは別の震えに言葉もない。
当然だろう。彼らがシンの言うとおり軍人だとして、情報を漏らさぬためなら拷問に耐えられても、人体実験に付き合えと言われて了承するほど彼らはマゾヒストではなかった。
そこには耐えるべき意味も意義もない。待つのはただただ苦痛に苛まれるだけの時間。
当然救いなどなく、死ぬまで身体をいじくり回されるだけ。
「おっちゃんの言ってた『いいこと』ってのはこれだったか。うむ、実にいい拾い物――」
三人の男たちは見た、眼前の男の目に喜悦が浮かぶのを――そして、彼らの心は折れた。
「――っ!! し、喋る! 喋るから……だから!!」
「そうかい? それじゃあこれから一人ずつ個別に話をしようか。情報に齟齬があったり、意図的に隠してると判断したら……楽しい時間の始まりだ。俺はどっちでもいいから、お前らの自主性に任せる。ちなみに薬の効果が切れるのを待っても無駄だぞ。三時間は余裕でもつからな」
命乞いをする一人を引きずりながらシンが森の奥に消えると、その場に残された二人は逃げ出す行動すら起こせず、暢気に寝ている仲間の一人と女を恨めしげに睨んだ。
改めて彼らは、自分たちを無造作に放置できる男の態度に震えた。
一人が連れていかれた時点で、口裏を合わせることはできない。少しでも情報を隠蔽したと判断されたら、また逃走を図ろうものなら――むしろ仲間が増えるのを待ち構えているのでは?
そんな考えを頭によぎらせつつ、残された二人は震えながら祈ることしかできなかった。
たとえ死は避けられないとしても、せめて苦しみの少ない最期でありたいと――
■
…………パチ……パチン!
「ン…………ンン……」
パチパチと響く音を聞いた女は重い瞼を上げ、そのまま天を仰いだ。目の前には夜空が広がり、いつの間にか眠っていた自分に困惑する。
「わたしは…………!!」
ガバァッ!!
意識を失う寸前の、自分の置かれていた状況を反芻した女は、バネのように飛び起きると、自らの身体をまさぐるように確認、着衣に乱れのないことを見てやっと安堵のため息をついた。
「――ああ、起きた?」
突然声をかけられたことに心臓が飛び出そうなほど驚いた女は、声の主から逃げるように飛び起き、剣を構えようとしたところで丸腰なことに気付き、警戒を強める。
「ふう……。命と、主に貞操の恩人に向かって、そいつはあんまりな態度だ」
「え? ……あなた、一体?」
「ただの通りすがりのお人好しだよ。ここは、アンタが襲われた森から少し外れた原っぱ。そんでアンタの得物はそこ」
目の前の男が指差す方向に、自分の武器や所持品がまとめ置かれているのを確認した女は、それらを全て手元に引き寄せ、武器や防具を身につける。その間も警戒は緩めない。
そんな女の態度に男は嘆息した。
「でもって、そんな恩人に礼も言わない礼儀知らずの行き先は向こう。のんびり歩いても朝には街に着くよ。夜道の一人歩きは危険かもしれないけど、胡散臭い男と一晩過ごすよりマシだろ?」
「あ……ゴメンなさい……私」
「別にいいさ。事態が呑み込めず不安な状態で、見知らぬ男と二人きりじゃあ、気も休まらないだろ」
「そうかもしれないけど……あなたが助けてくれたの?」
「まあ、成り行きで。見知らぬ相手とはいえ、見過ごせるほど非情にもなれないんでね」
そう言って肩をすくめる男からは、警戒心をどこかに置いてこさせるようなのんびりした空気が伝わってきた。
「助けてもらったのにゴメンね、私はエリス。あなたはええと……?」
「シンだ。それと、助けてもらって口にする言葉は、ゴメンじゃなくて、ありがとうじゃない?」
そう言って笑いかける男――シンの言葉に、目をパチクリとさせたエリスもつられて笑みを浮かべる。
「フフッ……そうよね、助けてくれてありがとう、シン。本当に助かったわ」
「どういたしまして」
焚き火を挟んで、二人の男女は笑いあった。
警戒を解いたエリスは焚き火に身を寄せると、シンに話しかける。
「ねえ、それであの四人はどうなったの?」
「森の中で仲良く寝てるよ。まあ、もう起きてくることもないだろうけど」
なんでもないことのように話すシン。
「四人まとめて? ……シン、あなた強いのね」
「別にそうでもないさ。オツムの足りてないバカが四人、束になったところで罠にひっかかる獣と大差ない」
「そういうものかしら……?」
納得のいかないエリスに、シンは状況を詳しく説明した。眠り薬と痺れ薬の時間差攻撃で無力化したこと、捕らえて街に連れ帰るのも面倒なので後くされないように始末したこと。
その中でシンは、彼らが帝国の軍人であることは伝える必要がないと、あえて口を噤んだ。
「というわけで、俺は本当には何もしてないよ。薬を撒いただけだ」
「何もしないで倒したんだったら、そっち方がよっぽど凄いわよ……ねえ、聞いていい?」
「何?」
「どうしてわざわざ時間差で二つの薬を使ったの? 麻痺の効果が出てくるまで待つ方法もあったし、即効性の麻痺毒を使う手もあったんじゃない?」
「即効性って言っても、一瞬で身体の動きを封じられるわけじゃないからね。その間に解毒薬を飲まれたら意味がない。一人が異常に気付いた時点で、残りの奴らには警戒されてしまう。まあ、効果が段階的に効いてくるのは遅効性でも同じなんだけど、ピンクの眠り粉に警戒して呼吸を止めてくれたおかげで、毒が早く全身に回ってバタバタと倒れてくれたよ」
解説を聞いたエリスは、へー、とひとしきり感心する。
「そこまで考えてるんだから、やっぱり凄いじゃない」
「俺は剣士でも魔道士でもない薬師なんでね。手持ちの薬品を有効に使えなきゃ生きていけないんだよ」
「そっかあ」
「俺からも聞きたいんだけど、見た感じエリスはレンジャーだよな? なんで一人であんなのに襲われるハメに?」
「うっ、それは……」
エリスの話はこうだった。
仲間の一人が冒険中の怪我がもとで引退を余儀なくされ、しかもそれがリーダーだった。
残りのメンバーでは、仲間を上手くまとめることができず、パーティは瓦解。どうせやり直すなら故郷でもう一度! と奮起したものの、めぼしいパーティにレンジャーの空きはなく、しかたなく一人で森に入ったところを運悪く、とのことだった。
最後まで聞いたシンは黙って合掌する。
「そいつはご愁傷様。まあ冒険者とはいえ、女が一人でうろついてりゃ、そういう輩に目をつけられることもある。今度からはちゃんとしたパーティに入れてもらうんだな」
「むう、反省してるわよ……」
エリスの顔が赤いのは、焚き火に照らされてか、それとも別の要因か。
「ともあれ、今日は一晩ここで過ごして、明日になったら街に帰ればいいさ」
「シンはどうするの?」
「屋台のオヤジにおつかいを頼まれてんだよ、ブラッドボアかオークを獲ってこいってな」
それを聞いたエリスはひどく驚いた顔をする。
「おつかいって……一人でそんなの狩るなんて、とんでもなく危険じゃない! 何考えてんのよ!?」
「つっても、何度もやってることだしなあ。正面から戦う分には確かに面倒かもしれないけど、罠や薬を使えば比較的簡単だけど?」
あっけらかんと答えるシンに、エリスは真剣に止めようとする自分の方が間違っているのかと悩んでしまう。そして――
「……わかった、私も手伝うわ!」
「…………ハイ?」
「だから! 私も一緒に行くって言ってるの!」
「イヤイヤイヤ――」
「だいいち助けてもらったお礼もまだだし、ちょうどいいわ。シンもそれでいいわよね?」
「………………ハイ」
「よしっ」
何が嬉しいのか、達成感に満ちた表情のエリスだった。
「はあ……それじゃ明日はよろしく頼む。ああ、夜の見張りは交代でね。エリスはさっきまで寝てたから先に寝させてもらうよ」
「うん、それはいいけど……いいの?」
「ん? 別にエリスが俺の荷物を持ち逃げするとか思っちゃいないよ」
「そんなこと! ……でもそうね、普通は初めて会った人の前で寝られないよね」
「そっちのズダ袋には着替えとか日用品しか入ってないし、大事なものは全部身につけてるから、エリスが俺に夜這いを仕掛けてこない限り、なんの問題もないよ。夜這いされても問題ないけど」
「しないわよっ!!」
耳まで真っ赤になったエリスの怒鳴り声を、シンは笑顔で受け流しながら、
「後で交代するから起こしてくれよ、それじゃお休み」
と、言うが早いか、毛布を手にして横になる。しばらくすると、エリスの耳に寝息が聞こえてきた。
「……もう、調子が狂うわね」
エリスの独り言は誰に聞かれることもなく、夜の中に消えていった。
■
…………パチ……パチン!
静寂の中、焚き火にくべられた薪の爆ぜる音だけが周囲に響く。
夜の世界に浮かび上がる炎を見つめながら私――エリスは、今日一日を振り返る。
色々と衝撃的な一日だった。
四人の男に襲われる途中で意識を失い、気がつけば初対面の若者に助けられていた。四人を撃退した彼は自分のことを剣士でも魔道士でもない薬師だと言い、明日はブラッドボアかオークでも狩ってくる、と暢気にのたまう。
今まで自分が生きていた中での常識とはかけ離れた男だと思った。
私だって自惚れるほどではないにしても、自分の腕に自信はあった、いやある。
いざとなれば前衛・後衛どちらもこなす自分だが、四人に囲まれた状況での接近戦となれば、不覚をとるのも仕方がない。それに、あの四人は明らかに実力も備えていた。
にもかかわらず、あの男――シンは、奇襲と奇策を弄したとはいえ、なんなく四人を圧倒したのだ。見たところ傷らしい傷もない。
そんな男が薬師だなんて、一体なんの冗談だろう……
初めて会った男にここまで好奇心をくすぐられるのは初めてだった。
明日は狩りに付き合うと自分から申し出たが、これでシンのことがまた少しわかるはず。
口ぶりからすると、ブラッドボアやオークを日常的に、しかも単独で狩っているらしい。
どちらも新人冒険者がパーティを組んだ程度では太刀打ちできない相手だ。ベテランの域に差しかかる中級冒険者でも、一人で倒すとなると苦労する。そんなのを相手にして、簡単だと言ってのける若者。
精悍だがまだ幼さの抜けきらない顔。おそらく私よりも若い。そんな男が中級冒険者並み、下手をすればそれ以上だとは、にわかに信じがたい話だった。
手伝うといっても、明日はシンという男を見極める一日になるのだろう。
そしてその実力が本物なら、私は――
「そろそろ交代の時間か……彼を起こさないと――」
■
…………パチ……パチン!
静寂の中、焚き火にくべられた薪の爆ぜる音だけが周囲に響く。
……スゥ…………スゥ……
そしてなぜか、所定の寝床より俺に近い場所で眠るエリスの寝息も、しっかり俺の耳に届く。
(どうしてこうなった……)
わかっている。一人で出歩くお嬢さんが郊外で悪漢に襲われていたら助けるのが男としての責務で、助けた以上安全が確保されるまで身柄を保護するのは男として当然の義務なのだ。
「…………はあ」
そんな屁理屈をこねても意味がない。大事なのは、この現状にどう対処すべきかなのだから。
あの四人組――帝国軍の兵士は、なぜこの女――エリスを襲っていたのか?
そして屋台のオヤジはなんで、俺に今日この森へ行くように仕向けたのか?
おっちゃんは何か知ってたのか? 帝国の動向を? それともエリスの存在を?
だったとして、なぜそれを俺に?
……情報が少なすぎるな。
(あいにく俺は、そこまで頭脳労働担当ではないんだが)
前世の俺は、勉強のできはよかったが、あくまでも知識を吸収することと、その知識を活用することに優れていただけだ。
限られた情報から仮説を立て、それを証明するために必要な行動をとるといった能動的な頭脳派ではないのだ。
「……スゥ…………スゥ……ん」
今日会ったばかりの男の前で、よくもこれだけ寝られるものだと感心する。
よほど俺は信頼されているのか、それとも男として見られていないのか……是非とも前者であって欲しい、イヤ、それはそれで困るな。
放浪の旅を続けながら世界を見て回る。しがらみにとらわれないよう、どのギルドにも加入せず、誰とも深く関わらず――そう心に決めての旅だった。
上手くいっているとは言いがたいが、だからといって節を曲げる気にもなれない……少なくとも今はまだ。
――ふとエリスの寝顔を眺める。
育ちがいいのか親のしつけがよかったのか、硬い地面の上に厚手のシートを敷いただけの簡素な寝床の上で、よくもこんなにお行儀よく眠れるものだ。イヤ、むしろ育ちが悪かったのか?
微かに開いた口からスゥスゥと、可愛らしい寝息に呼応するかのように、革の防具に護られた胸元が上下する。
レンジャーのように俊敏さを求められる職業には不利になりそうな豊かな双丘は、なめし革に包まれつつも天に向かってそびえ立ち、呼吸に合わせてゆっくり隆起と沈降をくりかえす。
それをしげしげと見つめながら、
「…………はあ」
と、俺は再度ため息をついた。
(厄介なことにならなきゃいいけど……)
二人だけの夜は過ぎていく――
■
――森の中を歩く二つの人影がある。
一人は周囲に気を配りながら慎重に、一人は街中を歩くように軽やかに。
前者はエリスで、後者はシンだ。
「それで、どうやって獲物を狩るつもりなの?」
「まあ見てのお楽しみ。おっ、あそこに生えてるのはエリク茸、スープに入れるといいダシが出るんだよ」
「はあ、一人だけ緊張してバカみたい……」
終始マイペースなシンの様子に、周囲に気を配る以上の疲労を感じるエリス。
「まだここはアイツらのテリトリーじゃないから、緊張する必要はないよ。この辺は別のヤツの縄張りだから」
「別のヤツ?」
「そう、ホラ、あの木を見てみな。木肌が擦りあげられたように剥げてるだろ?」
シンが指差す先にある太い木を見ると、なるほど、外皮がまばらに剥げ落ちている。
「あれが、何?」
「この辺はフォレストバイパーの生息域っていう証」
「フォレッ――――!?」
フォレストバイパー:Bランクモンスター
大きいものになると一〇メートル前後に成長する大蛇。巨体にもかかわらず樹上生活を送っており、大木を飛び移って移動することもある。
肉食で、食料になる獲物を見つけると樹の上から急降下して襲いかかり、巨体で締め上げた上で、バイパーの名の通り毒牙によって止めを刺す。その後丸呑みしてゆっくり消化する。
また、地上に降りた状態のフォレストバイパーは空腹で大変気が立っており、恐ろしく攻撃的である――
「オークなんかより数倍危険じゃない!! 何考えてるのよ!?」
「……え、そうなの?」
「あなた、冒険者ギルドに貼ってある討伐依頼書見たことないの!? Bランクよ、B! Dランク相当のオークより二ランクも上なの!!」
ここで言われているランクとは、モンスターの強さを大まかに分類した目安である。
ランクは最低のFから最高のAまでの六段階――さらにその上のランク指定外、いわゆる災害指定ランクと呼ばれるものもあるが、ここでは割愛する――に分けられている。概ねFランクは新人冒険者が単独ないし二人がかりで立ち向かえる脅威度、Eは新人がパーティを組んで立ち向かえる、D・Cがそれぞれ熟練、B・Aが一流――となっている。
つまりフォレストバイパーは、一流と呼ばれる冒険者が最低一~二人であたるべき危険な魔物というわけだ。ちなみにオークはD、ブラッドボアは限りなくDに近いEだった。
「初めて知ったよ。なにしろ冒険者ギルドには未加入で、中に入ることはないから依頼書も見ないし」
「だから、急いでここから離れないと!」
シンは、この場を一刻も早く離れようとするエリスの腕を掴んで引き止めた。
「それについては俺が物知らずだったよ、ゴメン。だけど心配しなくていい。フォレストバイパーの対処方法ならいくつか持ってるから」
「あなた、何を言って……?」
怪訝な表情を浮かべるエリスだが、あまりにも落ち着き払ったシンの態度にもしかして? と思って逃げることをやめた。
「フォレストバイパーは基本夜行性で、よほど腹が減っていない限り、昼間に活動することはない。それに、ヤツらはある臭いを殊の外嫌うから、それを身につけていれば絶対襲ってこない。そして今、俺はそれを持ってる」
そう言ってシンが懐から取り出したのは、小さな巾着だった。
エリスは巾着に鼻を近づけるが、何も臭ってこない。人間には嗅ぎ分けることができない臭いなのだろうか、と考えた。
「これさえあれば、アイツらは絶対寄ってこないから安心していいよ」
「……信じていいのよね?」
「ああ」
「うん、わかった」
不安は残るが一旦それを呑み込み、自信満々のシンを信じることにしたエリスは、改めて周りを見渡す。
「見かけない植物が生えてるわね」
「ああ、フォレストバイパーの縄張りに入った獣や魔物はもれなく胃袋行きだから、草食動物もいなくて、貴重な植物や薬草が群生してることがままあるのさ」
「知らなかったわ……」
「まあ、他の奴らはともかく、俺にとってはフォレストバイパー様様だよ」
エリスの目の前にいる男は、巷で森の悪魔と恐れられているフォレストバイパーと共生関係にあるということか。とことん非常識な人物である。
「お、そろそろ縄張りを抜けるから、ここからは周囲に気を配ってくれよ」
さっきまで緩んでいたシンの気配が、ピリッとしたものに変化する。
「うん、任せて」
エリスも、ここからは自分の領分とばかりに、周囲へ警戒の網を広げる。
やがて――
「……シン、これ」
エリスがしゃがみ込むと、シンもそれに倣う。
「オークの足跡だ……ごく最近のもので、しかも単独、最高の条件だ、これはエリスに感謝だな」
「いや、そんな」
照れるエリスだが、大切なことを一つだけ忘れていた。オークは熟練冒険者が一人ないし二人がかりで立ち向かう、Dランクモンスターだということを。
シンの非常識さにあてられて、エリスはそのことをすっかり忘れていた。
ほどなくして――
「シンッ!」
「ああ……俺も見つけた」
エリスの警告に一呼吸遅れて、シンも標的を捕捉する。対するオークは風上にいるため、二人にはまだ気付いていない。
目の前のオークは一般的な成体より一回り大きく、パワーもありそうだ。
「ちょっとあれ、マズくない、大物よ?」
「いや、アレだけ大きけりゃ、脂の乗りも肉の締まりもよくて美味そうだぜ?」
……オークを魔物と見ているエリスと食材としか見ていないシンとの間には、微妙な、そして大きな認識の違いがあった。
オーク:Dランクモンスター
人のように直立して活動する豚の魔物。人の数倍の筋力を誇り、よほど高レベルの冒険者でもない限り、素の力比べで人間に勝ち目はない。豚の魔物らしく、肉は上質な豚肉の味わい。
また、性欲旺盛なことでも知られており、繁殖にはオークのみならず人間・エルフをはじめ、ヒトに近い種族であれば交配が可能である。生まれてくる子供は全てオークとして生まれる――
事ここに至ってこの魔物の危険性を思い出したエリスは、命の危険ともう一つ、女としての危険に身震いする。
「ねえ、本当に倒せるんでしょうね? イヤよ私、あんなのにナニかされるなんて!」
「――ああそうか、エリスはその手の危険もあったか……大丈夫、だったらより安心確実な方法で仕留めるから」
「……本当に?」
「ホントホント。ちなみにエリス、聞きたいんだけど――」
シンはエリスにこれからの作戦を説明した。
「――どう、できそう?」
「それは大丈夫だけど……ホントにそんなことで?」
「大丈夫、チャッチャと済ませよう――」
■
「――プギィ?」
森の中を歩くオークは、進行方向に人間らしき影を見つけた。大きく迂回してオークの進む道に先回りをしたシンである。
シンはオークの存在に初めて気付いたかのように驚くと、怯えたように視線を合わせる。
「プギルルル……」
オークは少しだけ残念に思った。もしアレが雌ならば犯して孕ませることができるのに、と。
そして同時に喜びもした。人間の間でオークの肉が食用として取り引きされるように、オークにとっても人間は食料となるからだ。
雌は犯す、雄は食す。人間の雄の筋張った肉は歯ごたえもあり、噛むと染み出る肉汁はオークの食欲を満足させる。
目の前の美味しいエサに標的を定めたオークは、相手が逃げ出さないようにゆっくりと、そしていつでも飛びかかれるよう身体を丸めるような姿勢で、のっしのっしと近付く。
するとシンは、まだ離れた場所からオークの足元に向かって何かを投げつけた。
それは薄い小瓶――足元で割れたその瓶からは粉が舞い上がり、たちまちオークの全身を包む。
「プギィッ!! ……プ……プ?」
毒か何かを投げつけられたと慌てたオークだったが、別段身体のどこにも異常はなかった。むしろ気分は高揚している。
同時に、自分の感覚が鋭敏になっていることに気付く。さっきまで薄らとしか漂ってこなかったこの雄の匂いが今ははっきりと、まるで鼻先に掲げられているかのように強烈に香ってくる。
間違ったものを投げつけたにちがいない。オークは目の前のバカな雄に感謝した。今の自分なら、あの雄を仕留めるのは簡単だと、そしてこの研ぎ澄まされた感覚ならば、いつも以上に人間の肉を深く味わうことができると。
当然だろう。彼らがシンの言うとおり軍人だとして、情報を漏らさぬためなら拷問に耐えられても、人体実験に付き合えと言われて了承するほど彼らはマゾヒストではなかった。
そこには耐えるべき意味も意義もない。待つのはただただ苦痛に苛まれるだけの時間。
当然救いなどなく、死ぬまで身体をいじくり回されるだけ。
「おっちゃんの言ってた『いいこと』ってのはこれだったか。うむ、実にいい拾い物――」
三人の男たちは見た、眼前の男の目に喜悦が浮かぶのを――そして、彼らの心は折れた。
「――っ!! し、喋る! 喋るから……だから!!」
「そうかい? それじゃあこれから一人ずつ個別に話をしようか。情報に齟齬があったり、意図的に隠してると判断したら……楽しい時間の始まりだ。俺はどっちでもいいから、お前らの自主性に任せる。ちなみに薬の効果が切れるのを待っても無駄だぞ。三時間は余裕でもつからな」
命乞いをする一人を引きずりながらシンが森の奥に消えると、その場に残された二人は逃げ出す行動すら起こせず、暢気に寝ている仲間の一人と女を恨めしげに睨んだ。
改めて彼らは、自分たちを無造作に放置できる男の態度に震えた。
一人が連れていかれた時点で、口裏を合わせることはできない。少しでも情報を隠蔽したと判断されたら、また逃走を図ろうものなら――むしろ仲間が増えるのを待ち構えているのでは?
そんな考えを頭によぎらせつつ、残された二人は震えながら祈ることしかできなかった。
たとえ死は避けられないとしても、せめて苦しみの少ない最期でありたいと――
■
…………パチ……パチン!
「ン…………ンン……」
パチパチと響く音を聞いた女は重い瞼を上げ、そのまま天を仰いだ。目の前には夜空が広がり、いつの間にか眠っていた自分に困惑する。
「わたしは…………!!」
ガバァッ!!
意識を失う寸前の、自分の置かれていた状況を反芻した女は、バネのように飛び起きると、自らの身体をまさぐるように確認、着衣に乱れのないことを見てやっと安堵のため息をついた。
「――ああ、起きた?」
突然声をかけられたことに心臓が飛び出そうなほど驚いた女は、声の主から逃げるように飛び起き、剣を構えようとしたところで丸腰なことに気付き、警戒を強める。
「ふう……。命と、主に貞操の恩人に向かって、そいつはあんまりな態度だ」
「え? ……あなた、一体?」
「ただの通りすがりのお人好しだよ。ここは、アンタが襲われた森から少し外れた原っぱ。そんでアンタの得物はそこ」
目の前の男が指差す方向に、自分の武器や所持品がまとめ置かれているのを確認した女は、それらを全て手元に引き寄せ、武器や防具を身につける。その間も警戒は緩めない。
そんな女の態度に男は嘆息した。
「でもって、そんな恩人に礼も言わない礼儀知らずの行き先は向こう。のんびり歩いても朝には街に着くよ。夜道の一人歩きは危険かもしれないけど、胡散臭い男と一晩過ごすよりマシだろ?」
「あ……ゴメンなさい……私」
「別にいいさ。事態が呑み込めず不安な状態で、見知らぬ男と二人きりじゃあ、気も休まらないだろ」
「そうかもしれないけど……あなたが助けてくれたの?」
「まあ、成り行きで。見知らぬ相手とはいえ、見過ごせるほど非情にもなれないんでね」
そう言って肩をすくめる男からは、警戒心をどこかに置いてこさせるようなのんびりした空気が伝わってきた。
「助けてもらったのにゴメンね、私はエリス。あなたはええと……?」
「シンだ。それと、助けてもらって口にする言葉は、ゴメンじゃなくて、ありがとうじゃない?」
そう言って笑いかける男――シンの言葉に、目をパチクリとさせたエリスもつられて笑みを浮かべる。
「フフッ……そうよね、助けてくれてありがとう、シン。本当に助かったわ」
「どういたしまして」
焚き火を挟んで、二人の男女は笑いあった。
警戒を解いたエリスは焚き火に身を寄せると、シンに話しかける。
「ねえ、それであの四人はどうなったの?」
「森の中で仲良く寝てるよ。まあ、もう起きてくることもないだろうけど」
なんでもないことのように話すシン。
「四人まとめて? ……シン、あなた強いのね」
「別にそうでもないさ。オツムの足りてないバカが四人、束になったところで罠にひっかかる獣と大差ない」
「そういうものかしら……?」
納得のいかないエリスに、シンは状況を詳しく説明した。眠り薬と痺れ薬の時間差攻撃で無力化したこと、捕らえて街に連れ帰るのも面倒なので後くされないように始末したこと。
その中でシンは、彼らが帝国の軍人であることは伝える必要がないと、あえて口を噤んだ。
「というわけで、俺は本当には何もしてないよ。薬を撒いただけだ」
「何もしないで倒したんだったら、そっち方がよっぽど凄いわよ……ねえ、聞いていい?」
「何?」
「どうしてわざわざ時間差で二つの薬を使ったの? 麻痺の効果が出てくるまで待つ方法もあったし、即効性の麻痺毒を使う手もあったんじゃない?」
「即効性って言っても、一瞬で身体の動きを封じられるわけじゃないからね。その間に解毒薬を飲まれたら意味がない。一人が異常に気付いた時点で、残りの奴らには警戒されてしまう。まあ、効果が段階的に効いてくるのは遅効性でも同じなんだけど、ピンクの眠り粉に警戒して呼吸を止めてくれたおかげで、毒が早く全身に回ってバタバタと倒れてくれたよ」
解説を聞いたエリスは、へー、とひとしきり感心する。
「そこまで考えてるんだから、やっぱり凄いじゃない」
「俺は剣士でも魔道士でもない薬師なんでね。手持ちの薬品を有効に使えなきゃ生きていけないんだよ」
「そっかあ」
「俺からも聞きたいんだけど、見た感じエリスはレンジャーだよな? なんで一人であんなのに襲われるハメに?」
「うっ、それは……」
エリスの話はこうだった。
仲間の一人が冒険中の怪我がもとで引退を余儀なくされ、しかもそれがリーダーだった。
残りのメンバーでは、仲間を上手くまとめることができず、パーティは瓦解。どうせやり直すなら故郷でもう一度! と奮起したものの、めぼしいパーティにレンジャーの空きはなく、しかたなく一人で森に入ったところを運悪く、とのことだった。
最後まで聞いたシンは黙って合掌する。
「そいつはご愁傷様。まあ冒険者とはいえ、女が一人でうろついてりゃ、そういう輩に目をつけられることもある。今度からはちゃんとしたパーティに入れてもらうんだな」
「むう、反省してるわよ……」
エリスの顔が赤いのは、焚き火に照らされてか、それとも別の要因か。
「ともあれ、今日は一晩ここで過ごして、明日になったら街に帰ればいいさ」
「シンはどうするの?」
「屋台のオヤジにおつかいを頼まれてんだよ、ブラッドボアかオークを獲ってこいってな」
それを聞いたエリスはひどく驚いた顔をする。
「おつかいって……一人でそんなの狩るなんて、とんでもなく危険じゃない! 何考えてんのよ!?」
「つっても、何度もやってることだしなあ。正面から戦う分には確かに面倒かもしれないけど、罠や薬を使えば比較的簡単だけど?」
あっけらかんと答えるシンに、エリスは真剣に止めようとする自分の方が間違っているのかと悩んでしまう。そして――
「……わかった、私も手伝うわ!」
「…………ハイ?」
「だから! 私も一緒に行くって言ってるの!」
「イヤイヤイヤ――」
「だいいち助けてもらったお礼もまだだし、ちょうどいいわ。シンもそれでいいわよね?」
「………………ハイ」
「よしっ」
何が嬉しいのか、達成感に満ちた表情のエリスだった。
「はあ……それじゃ明日はよろしく頼む。ああ、夜の見張りは交代でね。エリスはさっきまで寝てたから先に寝させてもらうよ」
「うん、それはいいけど……いいの?」
「ん? 別にエリスが俺の荷物を持ち逃げするとか思っちゃいないよ」
「そんなこと! ……でもそうね、普通は初めて会った人の前で寝られないよね」
「そっちのズダ袋には着替えとか日用品しか入ってないし、大事なものは全部身につけてるから、エリスが俺に夜這いを仕掛けてこない限り、なんの問題もないよ。夜這いされても問題ないけど」
「しないわよっ!!」
耳まで真っ赤になったエリスの怒鳴り声を、シンは笑顔で受け流しながら、
「後で交代するから起こしてくれよ、それじゃお休み」
と、言うが早いか、毛布を手にして横になる。しばらくすると、エリスの耳に寝息が聞こえてきた。
「……もう、調子が狂うわね」
エリスの独り言は誰に聞かれることもなく、夜の中に消えていった。
■
…………パチ……パチン!
静寂の中、焚き火にくべられた薪の爆ぜる音だけが周囲に響く。
夜の世界に浮かび上がる炎を見つめながら私――エリスは、今日一日を振り返る。
色々と衝撃的な一日だった。
四人の男に襲われる途中で意識を失い、気がつけば初対面の若者に助けられていた。四人を撃退した彼は自分のことを剣士でも魔道士でもない薬師だと言い、明日はブラッドボアかオークでも狩ってくる、と暢気にのたまう。
今まで自分が生きていた中での常識とはかけ離れた男だと思った。
私だって自惚れるほどではないにしても、自分の腕に自信はあった、いやある。
いざとなれば前衛・後衛どちらもこなす自分だが、四人に囲まれた状況での接近戦となれば、不覚をとるのも仕方がない。それに、あの四人は明らかに実力も備えていた。
にもかかわらず、あの男――シンは、奇襲と奇策を弄したとはいえ、なんなく四人を圧倒したのだ。見たところ傷らしい傷もない。
そんな男が薬師だなんて、一体なんの冗談だろう……
初めて会った男にここまで好奇心をくすぐられるのは初めてだった。
明日は狩りに付き合うと自分から申し出たが、これでシンのことがまた少しわかるはず。
口ぶりからすると、ブラッドボアやオークを日常的に、しかも単独で狩っているらしい。
どちらも新人冒険者がパーティを組んだ程度では太刀打ちできない相手だ。ベテランの域に差しかかる中級冒険者でも、一人で倒すとなると苦労する。そんなのを相手にして、簡単だと言ってのける若者。
精悍だがまだ幼さの抜けきらない顔。おそらく私よりも若い。そんな男が中級冒険者並み、下手をすればそれ以上だとは、にわかに信じがたい話だった。
手伝うといっても、明日はシンという男を見極める一日になるのだろう。
そしてその実力が本物なら、私は――
「そろそろ交代の時間か……彼を起こさないと――」
■
…………パチ……パチン!
静寂の中、焚き火にくべられた薪の爆ぜる音だけが周囲に響く。
……スゥ…………スゥ……
そしてなぜか、所定の寝床より俺に近い場所で眠るエリスの寝息も、しっかり俺の耳に届く。
(どうしてこうなった……)
わかっている。一人で出歩くお嬢さんが郊外で悪漢に襲われていたら助けるのが男としての責務で、助けた以上安全が確保されるまで身柄を保護するのは男として当然の義務なのだ。
「…………はあ」
そんな屁理屈をこねても意味がない。大事なのは、この現状にどう対処すべきかなのだから。
あの四人組――帝国軍の兵士は、なぜこの女――エリスを襲っていたのか?
そして屋台のオヤジはなんで、俺に今日この森へ行くように仕向けたのか?
おっちゃんは何か知ってたのか? 帝国の動向を? それともエリスの存在を?
だったとして、なぜそれを俺に?
……情報が少なすぎるな。
(あいにく俺は、そこまで頭脳労働担当ではないんだが)
前世の俺は、勉強のできはよかったが、あくまでも知識を吸収することと、その知識を活用することに優れていただけだ。
限られた情報から仮説を立て、それを証明するために必要な行動をとるといった能動的な頭脳派ではないのだ。
「……スゥ…………スゥ……ん」
今日会ったばかりの男の前で、よくもこれだけ寝られるものだと感心する。
よほど俺は信頼されているのか、それとも男として見られていないのか……是非とも前者であって欲しい、イヤ、それはそれで困るな。
放浪の旅を続けながら世界を見て回る。しがらみにとらわれないよう、どのギルドにも加入せず、誰とも深く関わらず――そう心に決めての旅だった。
上手くいっているとは言いがたいが、だからといって節を曲げる気にもなれない……少なくとも今はまだ。
――ふとエリスの寝顔を眺める。
育ちがいいのか親のしつけがよかったのか、硬い地面の上に厚手のシートを敷いただけの簡素な寝床の上で、よくもこんなにお行儀よく眠れるものだ。イヤ、むしろ育ちが悪かったのか?
微かに開いた口からスゥスゥと、可愛らしい寝息に呼応するかのように、革の防具に護られた胸元が上下する。
レンジャーのように俊敏さを求められる職業には不利になりそうな豊かな双丘は、なめし革に包まれつつも天に向かってそびえ立ち、呼吸に合わせてゆっくり隆起と沈降をくりかえす。
それをしげしげと見つめながら、
「…………はあ」
と、俺は再度ため息をついた。
(厄介なことにならなきゃいいけど……)
二人だけの夜は過ぎていく――
■
――森の中を歩く二つの人影がある。
一人は周囲に気を配りながら慎重に、一人は街中を歩くように軽やかに。
前者はエリスで、後者はシンだ。
「それで、どうやって獲物を狩るつもりなの?」
「まあ見てのお楽しみ。おっ、あそこに生えてるのはエリク茸、スープに入れるといいダシが出るんだよ」
「はあ、一人だけ緊張してバカみたい……」
終始マイペースなシンの様子に、周囲に気を配る以上の疲労を感じるエリス。
「まだここはアイツらのテリトリーじゃないから、緊張する必要はないよ。この辺は別のヤツの縄張りだから」
「別のヤツ?」
「そう、ホラ、あの木を見てみな。木肌が擦りあげられたように剥げてるだろ?」
シンが指差す先にある太い木を見ると、なるほど、外皮がまばらに剥げ落ちている。
「あれが、何?」
「この辺はフォレストバイパーの生息域っていう証」
「フォレッ――――!?」
フォレストバイパー:Bランクモンスター
大きいものになると一〇メートル前後に成長する大蛇。巨体にもかかわらず樹上生活を送っており、大木を飛び移って移動することもある。
肉食で、食料になる獲物を見つけると樹の上から急降下して襲いかかり、巨体で締め上げた上で、バイパーの名の通り毒牙によって止めを刺す。その後丸呑みしてゆっくり消化する。
また、地上に降りた状態のフォレストバイパーは空腹で大変気が立っており、恐ろしく攻撃的である――
「オークなんかより数倍危険じゃない!! 何考えてるのよ!?」
「……え、そうなの?」
「あなた、冒険者ギルドに貼ってある討伐依頼書見たことないの!? Bランクよ、B! Dランク相当のオークより二ランクも上なの!!」
ここで言われているランクとは、モンスターの強さを大まかに分類した目安である。
ランクは最低のFから最高のAまでの六段階――さらにその上のランク指定外、いわゆる災害指定ランクと呼ばれるものもあるが、ここでは割愛する――に分けられている。概ねFランクは新人冒険者が単独ないし二人がかりで立ち向かえる脅威度、Eは新人がパーティを組んで立ち向かえる、D・Cがそれぞれ熟練、B・Aが一流――となっている。
つまりフォレストバイパーは、一流と呼ばれる冒険者が最低一~二人であたるべき危険な魔物というわけだ。ちなみにオークはD、ブラッドボアは限りなくDに近いEだった。
「初めて知ったよ。なにしろ冒険者ギルドには未加入で、中に入ることはないから依頼書も見ないし」
「だから、急いでここから離れないと!」
シンは、この場を一刻も早く離れようとするエリスの腕を掴んで引き止めた。
「それについては俺が物知らずだったよ、ゴメン。だけど心配しなくていい。フォレストバイパーの対処方法ならいくつか持ってるから」
「あなた、何を言って……?」
怪訝な表情を浮かべるエリスだが、あまりにも落ち着き払ったシンの態度にもしかして? と思って逃げることをやめた。
「フォレストバイパーは基本夜行性で、よほど腹が減っていない限り、昼間に活動することはない。それに、ヤツらはある臭いを殊の外嫌うから、それを身につけていれば絶対襲ってこない。そして今、俺はそれを持ってる」
そう言ってシンが懐から取り出したのは、小さな巾着だった。
エリスは巾着に鼻を近づけるが、何も臭ってこない。人間には嗅ぎ分けることができない臭いなのだろうか、と考えた。
「これさえあれば、アイツらは絶対寄ってこないから安心していいよ」
「……信じていいのよね?」
「ああ」
「うん、わかった」
不安は残るが一旦それを呑み込み、自信満々のシンを信じることにしたエリスは、改めて周りを見渡す。
「見かけない植物が生えてるわね」
「ああ、フォレストバイパーの縄張りに入った獣や魔物はもれなく胃袋行きだから、草食動物もいなくて、貴重な植物や薬草が群生してることがままあるのさ」
「知らなかったわ……」
「まあ、他の奴らはともかく、俺にとってはフォレストバイパー様様だよ」
エリスの目の前にいる男は、巷で森の悪魔と恐れられているフォレストバイパーと共生関係にあるということか。とことん非常識な人物である。
「お、そろそろ縄張りを抜けるから、ここからは周囲に気を配ってくれよ」
さっきまで緩んでいたシンの気配が、ピリッとしたものに変化する。
「うん、任せて」
エリスも、ここからは自分の領分とばかりに、周囲へ警戒の網を広げる。
やがて――
「……シン、これ」
エリスがしゃがみ込むと、シンもそれに倣う。
「オークの足跡だ……ごく最近のもので、しかも単独、最高の条件だ、これはエリスに感謝だな」
「いや、そんな」
照れるエリスだが、大切なことを一つだけ忘れていた。オークは熟練冒険者が一人ないし二人がかりで立ち向かう、Dランクモンスターだということを。
シンの非常識さにあてられて、エリスはそのことをすっかり忘れていた。
ほどなくして――
「シンッ!」
「ああ……俺も見つけた」
エリスの警告に一呼吸遅れて、シンも標的を捕捉する。対するオークは風上にいるため、二人にはまだ気付いていない。
目の前のオークは一般的な成体より一回り大きく、パワーもありそうだ。
「ちょっとあれ、マズくない、大物よ?」
「いや、アレだけ大きけりゃ、脂の乗りも肉の締まりもよくて美味そうだぜ?」
……オークを魔物と見ているエリスと食材としか見ていないシンとの間には、微妙な、そして大きな認識の違いがあった。
オーク:Dランクモンスター
人のように直立して活動する豚の魔物。人の数倍の筋力を誇り、よほど高レベルの冒険者でもない限り、素の力比べで人間に勝ち目はない。豚の魔物らしく、肉は上質な豚肉の味わい。
また、性欲旺盛なことでも知られており、繁殖にはオークのみならず人間・エルフをはじめ、ヒトに近い種族であれば交配が可能である。生まれてくる子供は全てオークとして生まれる――
事ここに至ってこの魔物の危険性を思い出したエリスは、命の危険ともう一つ、女としての危険に身震いする。
「ねえ、本当に倒せるんでしょうね? イヤよ私、あんなのにナニかされるなんて!」
「――ああそうか、エリスはその手の危険もあったか……大丈夫、だったらより安心確実な方法で仕留めるから」
「……本当に?」
「ホントホント。ちなみにエリス、聞きたいんだけど――」
シンはエリスにこれからの作戦を説明した。
「――どう、できそう?」
「それは大丈夫だけど……ホントにそんなことで?」
「大丈夫、チャッチャと済ませよう――」
■
「――プギィ?」
森の中を歩くオークは、進行方向に人間らしき影を見つけた。大きく迂回してオークの進む道に先回りをしたシンである。
シンはオークの存在に初めて気付いたかのように驚くと、怯えたように視線を合わせる。
「プギルルル……」
オークは少しだけ残念に思った。もしアレが雌ならば犯して孕ませることができるのに、と。
そして同時に喜びもした。人間の間でオークの肉が食用として取り引きされるように、オークにとっても人間は食料となるからだ。
雌は犯す、雄は食す。人間の雄の筋張った肉は歯ごたえもあり、噛むと染み出る肉汁はオークの食欲を満足させる。
目の前の美味しいエサに標的を定めたオークは、相手が逃げ出さないようにゆっくりと、そしていつでも飛びかかれるよう身体を丸めるような姿勢で、のっしのっしと近付く。
するとシンは、まだ離れた場所からオークの足元に向かって何かを投げつけた。
それは薄い小瓶――足元で割れたその瓶からは粉が舞い上がり、たちまちオークの全身を包む。
「プギィッ!! ……プ……プ?」
毒か何かを投げつけられたと慌てたオークだったが、別段身体のどこにも異常はなかった。むしろ気分は高揚している。
同時に、自分の感覚が鋭敏になっていることに気付く。さっきまで薄らとしか漂ってこなかったこの雄の匂いが今ははっきりと、まるで鼻先に掲げられているかのように強烈に香ってくる。
間違ったものを投げつけたにちがいない。オークは目の前のバカな雄に感謝した。今の自分なら、あの雄を仕留めるのは簡単だと、そしてこの研ぎ澄まされた感覚ならば、いつも以上に人間の肉を深く味わうことができると。
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