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第一章 始まりの音色
第1話 指揮者とヴァイオリン奏者
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果たして、この世に世界中の人々とまんべんなく仲良くできる人間なんているだろうか。
「いーや、そんな人間いないね」
その問いに対して、小田桐蒼真は『否』と即答する。
少なくとも、自分はそんな聖人君子のような人間ではないと自覚しているからだ。
そう、大抵の人間とは仲良くできる蒼真だが、ある人物とだけはどうしても仲良くなれないと思っている。
相手は永瀬弘祈。
同じ大学、同じ学部、同じ学年、同じ市民オーケストラと、これだけ共通点があるにも関わらず、蒼真はこの青年とだけは仲の良い友人になれる気がしなかった。
※※※
ある土曜日の夜。
市民オーケストラの練習が終わった直後のことだ。
「だーかーらー、第一ヴァイオリンの弘祈は黙ってろ! 今の指示は第二ヴァイオリンに対してだ!」
ラフなTシャツ姿の蒼真が、指揮台から降りながら声を荒げた。
びし、とまっすぐ指揮棒を向ける先には、ヴァイオリンを手にした弘祈の姿がある。
清潔感のあるシンプルなシャツと黒パンツ姿の弘祈がすっと立ち上がると、ストレートの黒髪がわずかに揺れた。
やや癖がある髪質の蒼真は、自分とはまるで違う弘祈の髪質がほんの少しだけ羨ましいと思っている。
だが、そのことは絶対に本人には言わないと決めていた。何だか負けたような気がするのだ。
そんな蒼真の心中を知るはずもない弘祈は背筋を伸ばして立つと、指揮棒を無視して冷静な口調で反論する。
「たとえ第二ヴァイオリンのことでも、コンサートマスターである僕が意見を言う権利くらいはあるんじゃない?」
「コンマスだからって、何でも口出ししていいわけねーだろ。こないだ俺が出した金管パートの指示に文句つけてきたことだって、ちゃんと覚えてるんだからな」
蒼真は厳しい眼差しを向けてくる弘祈を睨み返すと、さらに不機嫌そうに顔を歪めた。
コンサートマスター、通称コンマスは『第二の指揮者』とも呼ばれ、オーケストラをまとめる重要な立場である。
市民オーケストラ程度の規模ならば、コンマスの弘祈が指揮者の蒼真に向かって意見を述べること自体何ら問題はない。
しかし、蒼真と弘祈は毎週の練習が終わるたびに、このように不毛とも呼べるような言い争いを繰り広げていた。
(くっそー! 何でこいつがコンマスなんだよ! 毎回毎回噛みついてきやがって!)
蒼真は心の中で憎々しげに吐き捨てる。
指揮者の蒼真が弘祈をコンマスから降ろせれば今よりもマシになるのだろうが、残念ながら弘祈の方が入団したのが半年ほど早く、少しだけではあるが先輩にあたる。
また、雇われ指揮者のような立場の蒼真には、『気に入らないから』などといった自分勝手な理由でコンマスを変更できるだけの権限は与えられていなかったのだ。
「あれは、もっと金管の音量があった方が全体のバランスが良くなると思っただけだよ」
「俺だってちゃんとバランスを考えてる。そのうえでもう少し金管は抑えるべきだと判断したんだ」
正反対の意見をぶつけ合って二人が睨み合う横では、他のメンバーたちが「またか」とでも言わんばかりに、揃って苦笑を浮かべている。
ここの市民オーケストラのメンバーは、蒼真と弘祈の性格が対照的で反りが合わないことをよく知っていた。
端的に言えば、蒼真は明るく活発、弘祈は冷静で穏やかといった感じである。
だが、弘祈が蒼真に対して穏やかでいたことはあまり多くない。他の人間には穏やかに優しく接しているが、なぜか蒼真には同じようにできないらしい。
蒼真が大学のキャンパス内で見かける弘祈は、基本的にいつも柔らかな表情を浮かべていた。
それがどうして自分にだけはこうなるのか。蒼真にはさっぱりわからない。
やはり性格が違いすぎる、弘祈も自分にあまりいい印象を持っていないからだ、と思わざるを得なかった。
「蒼真も弘祈も、やるならこっちでやれ」
「その間にミーティング終わらせとくから、な?」
男性メンバー数人が呆れた様子で、蒼真と弘祈を音楽室の隣へと引っ張っていく。
そこには練習室と呼ばれる、防音の個室があった。個人練習や数人でパート練習ができる、三畳程度の小さな部屋だ。
すでに手慣れたメンバーに引きずられながらも、蒼真と弘祈は言い合いをやめようとはしない。
「じゃあ、仲直りしたら出てこいよ」
そのまま、二人はそれぞれ指揮棒とヴァイオリンを手に、練習室に放り込まれた。
外からドアが閉められると、蒼真はふてくされたようにブツブツと文句を紡ぐ。
「何で俺らが音楽室から追い出されなきゃいけねーんだよ」
「まったくだね」
弘祈も同意して、施錠はされていないドアを見上げた。
こういう時だけは妙に気が合っているのだが、まだ興奮した状態の本人たちはまるで気づいていない。
「よし。なら、ここで白黒はっきりさせるか!」
「そうだね。今日こそ決着をつけるよ」
意見の食い違いに白黒も決着もないはずだが、二人ともまったく譲る気はないようで、互いにそう言うと改めて睨み合った。
その時である。
不意に蒼真と弘祈の足元から真っ白な光が溢れ出してきて、二人は揃ってぎょっとした。
「うわ、何だこれ」
思わず声を上げた蒼真が、いつの間にか大きな円形になった光から足をずらそうとする。
弘祈も同様に、後ろに退こうとした。
しかし、光が二人の足首を絡め取る方がほんの少しだけ早い。
「え、ちょ、待っ……!」
さらに広がった円形の光は二人をしっかりと捉えたまま、その場で大きな渦になって天井まで立ち昇る。
動くことのできない蒼真と弘祈は眩い光に包まれながら、ただ目を閉じることしかできなかった。
「いーや、そんな人間いないね」
その問いに対して、小田桐蒼真は『否』と即答する。
少なくとも、自分はそんな聖人君子のような人間ではないと自覚しているからだ。
そう、大抵の人間とは仲良くできる蒼真だが、ある人物とだけはどうしても仲良くなれないと思っている。
相手は永瀬弘祈。
同じ大学、同じ学部、同じ学年、同じ市民オーケストラと、これだけ共通点があるにも関わらず、蒼真はこの青年とだけは仲の良い友人になれる気がしなかった。
※※※
ある土曜日の夜。
市民オーケストラの練習が終わった直後のことだ。
「だーかーらー、第一ヴァイオリンの弘祈は黙ってろ! 今の指示は第二ヴァイオリンに対してだ!」
ラフなTシャツ姿の蒼真が、指揮台から降りながら声を荒げた。
びし、とまっすぐ指揮棒を向ける先には、ヴァイオリンを手にした弘祈の姿がある。
清潔感のあるシンプルなシャツと黒パンツ姿の弘祈がすっと立ち上がると、ストレートの黒髪がわずかに揺れた。
やや癖がある髪質の蒼真は、自分とはまるで違う弘祈の髪質がほんの少しだけ羨ましいと思っている。
だが、そのことは絶対に本人には言わないと決めていた。何だか負けたような気がするのだ。
そんな蒼真の心中を知るはずもない弘祈は背筋を伸ばして立つと、指揮棒を無視して冷静な口調で反論する。
「たとえ第二ヴァイオリンのことでも、コンサートマスターである僕が意見を言う権利くらいはあるんじゃない?」
「コンマスだからって、何でも口出ししていいわけねーだろ。こないだ俺が出した金管パートの指示に文句つけてきたことだって、ちゃんと覚えてるんだからな」
蒼真は厳しい眼差しを向けてくる弘祈を睨み返すと、さらに不機嫌そうに顔を歪めた。
コンサートマスター、通称コンマスは『第二の指揮者』とも呼ばれ、オーケストラをまとめる重要な立場である。
市民オーケストラ程度の規模ならば、コンマスの弘祈が指揮者の蒼真に向かって意見を述べること自体何ら問題はない。
しかし、蒼真と弘祈は毎週の練習が終わるたびに、このように不毛とも呼べるような言い争いを繰り広げていた。
(くっそー! 何でこいつがコンマスなんだよ! 毎回毎回噛みついてきやがって!)
蒼真は心の中で憎々しげに吐き捨てる。
指揮者の蒼真が弘祈をコンマスから降ろせれば今よりもマシになるのだろうが、残念ながら弘祈の方が入団したのが半年ほど早く、少しだけではあるが先輩にあたる。
また、雇われ指揮者のような立場の蒼真には、『気に入らないから』などといった自分勝手な理由でコンマスを変更できるだけの権限は与えられていなかったのだ。
「あれは、もっと金管の音量があった方が全体のバランスが良くなると思っただけだよ」
「俺だってちゃんとバランスを考えてる。そのうえでもう少し金管は抑えるべきだと判断したんだ」
正反対の意見をぶつけ合って二人が睨み合う横では、他のメンバーたちが「またか」とでも言わんばかりに、揃って苦笑を浮かべている。
ここの市民オーケストラのメンバーは、蒼真と弘祈の性格が対照的で反りが合わないことをよく知っていた。
端的に言えば、蒼真は明るく活発、弘祈は冷静で穏やかといった感じである。
だが、弘祈が蒼真に対して穏やかでいたことはあまり多くない。他の人間には穏やかに優しく接しているが、なぜか蒼真には同じようにできないらしい。
蒼真が大学のキャンパス内で見かける弘祈は、基本的にいつも柔らかな表情を浮かべていた。
それがどうして自分にだけはこうなるのか。蒼真にはさっぱりわからない。
やはり性格が違いすぎる、弘祈も自分にあまりいい印象を持っていないからだ、と思わざるを得なかった。
「蒼真も弘祈も、やるならこっちでやれ」
「その間にミーティング終わらせとくから、な?」
男性メンバー数人が呆れた様子で、蒼真と弘祈を音楽室の隣へと引っ張っていく。
そこには練習室と呼ばれる、防音の個室があった。個人練習や数人でパート練習ができる、三畳程度の小さな部屋だ。
すでに手慣れたメンバーに引きずられながらも、蒼真と弘祈は言い合いをやめようとはしない。
「じゃあ、仲直りしたら出てこいよ」
そのまま、二人はそれぞれ指揮棒とヴァイオリンを手に、練習室に放り込まれた。
外からドアが閉められると、蒼真はふてくされたようにブツブツと文句を紡ぐ。
「何で俺らが音楽室から追い出されなきゃいけねーんだよ」
「まったくだね」
弘祈も同意して、施錠はされていないドアを見上げた。
こういう時だけは妙に気が合っているのだが、まだ興奮した状態の本人たちはまるで気づいていない。
「よし。なら、ここで白黒はっきりさせるか!」
「そうだね。今日こそ決着をつけるよ」
意見の食い違いに白黒も決着もないはずだが、二人ともまったく譲る気はないようで、互いにそう言うと改めて睨み合った。
その時である。
不意に蒼真と弘祈の足元から真っ白な光が溢れ出してきて、二人は揃ってぎょっとした。
「うわ、何だこれ」
思わず声を上げた蒼真が、いつの間にか大きな円形になった光から足をずらそうとする。
弘祈も同様に、後ろに退こうとした。
しかし、光が二人の足首を絡め取る方がほんの少しだけ早い。
「え、ちょ、待っ……!」
さらに広がった円形の光は二人をしっかりと捉えたまま、その場で大きな渦になって天井まで立ち昇る。
動くことのできない蒼真と弘祈は眩い光に包まれながら、ただ目を閉じることしかできなかった。
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