絶望の英雄譚

鵺太郎(鵺宮壮哲)

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第一章『廃人と呼ばれた男』

プロローグ

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 人間、生きている内は『幸せ』を望むものだ。

 何が『幸せ』なのかを知らずに、それでも『幸せ』を知らずに死ぬのは嫌だから、人間は間違えや苦しみを経験し、時には絶望しても、そのまま諦めずに、自分なりの『幸せ』の為に生きていくのだ。

 俺も少なからずそんな人間だった。
 自分が生きる理由が欲しくて、多くの人間を不幸にし、絶望させ、そして──かけがえのない命を奪った。

 そんな奴には、遅かれ早かれ天罰が下される。
 それが、『幸せ』を知らずに死ぬこと、だと言うなら、当然、受け入れるべきだと思った。

 俺は、これから自分が向かう世界と背負い続ける苦しみを覚悟して、しかしその可能性はあるのかと思いながら、ただ孤独の戦場にて、命が尽きるのを待っていた。


   ◇■◇


 そして俺は死んだ──はずだった。

 しかし、どういう訳か、一度は途絶えたように思われた意識が、少しずつ呼び覚まされていく。
 やがて自由に動いても良いと言わんばかりに、肉体や感覚に活力が漲る。

 何が起きているかを理解できず、俺は少しずつ目を開けて、膝から崩れ落ちた状態(恐らく死んだ時の体勢)から身体を起き上がらせる。

 その時、その両眼が捉えた景色に思わず息を呑んだ。

 辺り一面が新芽で覆われ、空は雲一つない快晴だった。
 涼しい風が喜びを伝えるかのように吹いては、草原を優しくなびかせる。さらに金色の日差しに照らされることで、こちらに元気を与えるほどの煌めきを放っていた。

 少なくとも、自分の想像していた世界ではなかった。
 こんなにも美しい光景が実在するのかと疑ってしまうほどの感動が、そこにはあった。

「……目が覚めたのね」

 背後で声が聞こえた。
 俺は全く気配が掴めなかったことに驚きつつも、そっと振り向いた。

 そこには、自分と同じくらいの背丈の少女がいた。
 鏡のように美しい銀髪は背中まで届いていて、空を映したような青い瞳には、老若男女問わず心を奪われるような魅力が込められていた。
 そして汚れ一つない真っ白のワンピースには、女性らしく洗練された美しさを象徴しているようにも思われる。

 そんな彼女が目の前にいるという想定外の事実に、俺は言葉が詰まってしまう。

「あなたが起きるのを待っていたのよ、ジョン・ドゥ」

 名前も知らない、今ここで初めて会った彼女に自分の名前を呼ばれ、俺はさらに戸惑った。 
 
「……どうして、……俺の名前を……?」

 すると可憐な少女は、その質問に対して朗らかな笑みで、

「あなたのことはよく知ってるの。もちろん理由は教えてあげるけど……あなたには来て欲しい場所があるの。そこまで歩きながら話しましょ」

 状況を理解している彼女に唐突な提案をされたが、自分のことをよく知ると言う彼女と話すことができるのなら、それを拒否する意味はないと思った。
 俺は取り敢えずその少女に頭を下げた。

「……どうも」

「そんな固くならないでいいよ、自分が話やすいように話してくれたら。さぁ、行きましょ」

 そうして彼女は道路も印もない草原を歩き出した。
 俺は、この少女の待遇に若干抵抗感はあったが、その優しさを無視することに対する罪悪感の方が勝る気がして、素直に彼女の後ろを付いて行き、質問を投げ掛けた。

「それで……何者なんだ?」

「私には名前がないの。ただ……そうね、全ての世界を知る唯一神……と言ったところかしら」

 その答えに、俺は火花が散ったような衝撃が走った。

「……神様なのか?」

「そう、神様。でも……私は、あなたの思う『神様』じゃないわ。こんな場所で独り何もできずに生きているだけ。だから気兼ねなく話してくれたら嬉しいわ……」

 彼女の沈んだ声が聞こえたが、草原を踏む音が止むことはない。
 少し静かになった後、今度は俺から彼女に話し掛けた。

「……他に誰もいないのか?」

「今ここにいるのは……私とあなただけ。昔は話し相手がいたけど、……こうして会話できるのは久しぶりよ」

「じゃあ、その『話し相手』には何て呼ばれてたんだ?」

「え? いや特には……けど強いて言うなら「主様」くらいかな……それがどうかしたの?」

 彼女から返って来る答えは、その全てが奇妙だった。

「いや……名前がないって言ってたから、どう呼ぼうかと思ったんだが……」

「そんな、好きなように言ってくれて良いんだよ? 主でも。神様でも。お好きにどうぞ」

 俺の中では、どうもそれで解決しなかった。
 かと言ってこのまま考え続けるのも野暮だと感じ、数十歩先を歩いてから話題を変えようと試みた。

「ここは居心地が良い。こんな綺麗な景色を見ることができるなんて、夢にも思ってなかったよ」

「あの世界がおかしかったのよ」

 ふと現実か確かめたくなって後ろを振り返ると、やはり輝きを放つ壮大な草原が映っていた。
 若草の揺れる音は鼓膜を癒し、自然の香りが肺の中まで行き届く。
 かつての苦労を慰めるような温かさが、そして命の美しさが、目の前の風景が夢ではないと伝えてくれた。

「……違いないな」

 でもそれは同時に、自分の過ちを思い出させる一因でもあった。

「着いたわ」

 気が付けば目的地に到着していたようだ。
 そこに、だいぶ前に建てられたと見受けられる石造の人工遺跡があり、その柱や床には見たことのない言語の羅列が刻まれていた。

「……何をするつもりだ?」

「ここは、あなたを異世界へ送る為の聖地──」

 異世界……?
 聞き慣れない言葉に思わず首を傾げる。

 そして彼女は衝撃的な発言を口にした。

「ジョン、あなたにはこれから新たな人生を歩んで欲しいの」

「……ほう」

 俺はその理由を聞くことにした。

「あなたは幾度も辛い目に遭った。なのに何一つ報われず死んだ。そんなあなたを、私は救いたいの。今までのことを忘れて、これからは毎日楽しい生活を送ることができるのよ。あなたなら、きっと幸せになるわ」

 それは、普通の人なら嬉しい知らせかもしれない。
 もう一度人間として生きることができるのは素敵なことだ。無論、ここは神の善意に甘えて言うことに従うべき、なのかもしれない。
 だがそんなこと、『俺』は許していないんだよ。

「──あんたは俺のことをよく知ってるって言ってたな」

「ええ、あなたがどういう人なのかも、どんなことを望んでいるのかもね」

「……じゃあ、『俺』が再び人生を歩むべき人間じゃないってことくらい知ってるだろ?」

 急に彼女から笑顔が消えた。それを目の前で見ていながら、俺はそのまま口を動かした。

「俺の行くべき所は、罪人共を粛清する地獄以外ない。何百、何千、何万人の命を奪ったんだ。そんなクズが、そんな禍々しい過去を忘れて新しい人生を送るなんて、許されるはずがないんだ。……だから、こんな『名無しの廃人』に相応しい場所に連れてってくれ。……頼む」

 俺はその思いだけで頭を下げた。
 今まで居心地の良かったそよ風も、この時だけは、ただ虚しいものだった。
 暫く経ってから、彼女の悲しい声が聞こえた。

「ジョン・ドゥ、あの世界では『名無しの廃人』と呼ばれ、20年という短い生涯で殺めた人間の数は12万6872人。さらにたった一人で列強国を壊滅し、数え切れないほどの国民の居場所を奪った。人類史上最悪の存在……」

 そうだ。それが『俺』の正体だ──。

「でも、あなたは悪くない。みんな真実を知らないだけ……ただ、あなたは『幸せ』になりたかっただけなのに……」

「その結果、罪なき人達があの世へ逝った。いや、あんたの話を聴いてる限り、彼らは『あの世』にすら行ってないんじゃないか」

 それは図星だったようだ。
 少女は悲痛の物語を思い出したように泣きそうになっていたが、それを、自分に気遣ってくれているのか、それを堪えて、

「全部……私のせいよ。私がもっとみんなの望む神様であったら、あなたも、あなたが愛したあの人も、みんな幸せになれたのかもしれない……」

 その時、俺は神様が抱える複雑な事情らしいものを知った。

「でも償う意志があるのなら、せめてその願いだけでも……叶えたい……」

 そう小声で呟いた後、少女はこう告げた。

「ジョン、私としない──?」

 その時、そよ風に揺られた若草の声が急に止んだ。

「あなたは前世の記憶を継いだまま、異世界で多くの命を救うの。それはつまり、以前と変わらず過酷な日々を再び過ごすことになるわ。でもその意志があるのなら、今度は私があなたを『幸せ』へと導いてみせる……どうかな?」

 俺の望みと、彼女の望みが合わさってできた「約束」──そこには、目的の為に己の命を捧げるような強い覚悟が宿っていた。

「……分かった。その『約束』を果たす為に、俺はもう一度生きるよ」

 俺は、初めて会った「神」と名乗る少女の言葉を信じることにした。

「ありがとう」

 彼女が手を差し伸べると、俺は傷付けないように丁寧に触れる。
 すると、どこか懐かしい優しさと温もりを感じたのだ。

 俺は遺跡とやらの中心まで連れられた。
 そして彼女が手を放そうとする直前のことだ──。

「ちょっと待ってくれ」

 唐突に呼び止められた彼女の清くて白い手は、まだ俺の手をたしかに握ってくれていた。

「あんた、名前がないって言ってたよな……?」

「え、……そうだけど」

「あんたのこと……『セシリア』って呼んでもいいか?」

 本当に自分は、神様相手に何をしているのだろうか。
 ただここまで気に掛けてくれた彼女のことを思い出す時に、「あいつ」とかではなく、ちゃんとした名前で呼びたいなと思ったのだ。

 俺は恥ずかしさの余り、咄嗟に顔を背けた。

「ああ……嫌だよな。悪い、今のはやっぱ無し。気兼ねなく呼んでも良いとは言ってたが、それとはまた別だよな……」

 当然拒否されたっておかしくはなかった。……だが彼女は、本当に聖母のような優しさの持ち主だった。

「良いよ。あなたから付けられた名前、大事にするね」

 そう告げたと同時に、俺の身体が光の粒子となって、やがて視界全体を覆う眩しい光と化した。
 間もなく少女──いや、セシリアの顔も見えなくなり、あの手の感触も次第に消えてゆく。

 しかし最後、彼女の声が耳に届いた。

「いつか──が救い──、私の──ね」

 残念なことに、俺はその全てを聞き取ることができなかった──。
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