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第三章 新しい家族

4 時は過ぎゆく

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「あ、起こしちゃった、ごめんね。きのうは遅かったんだしもう少し寝てれば」

 綾がベッドの中で書き物をしている。

「なにやってるの?」

「模擬授業のプランよ。さっきいいこと思いついちゃったから、まとめてる」

「いよいよ最後の砦だね」

「うん。がんばる」

 ノートにシャープペンシルを走らせる音。夏とは違い、ここの冬は静かだ。

 まだ青白い窓の外に目をやると、窓前のケヤキの枝に雪が少し積もっている。

「初雪? いつ頃降り出したの?」

「明け方少し前かなあ。今年はちょっと遅いね」

 そう、あれからもう一年半が過ぎた。

 ――綾と心が通じ合えたあの夏の日。

 翌日、けたたましい蝉の鳴き声で目が覚めた。防犯ブザーみたいな音に慌てて飛び起きると、窓のそばに綾がしゃがんでいて、音はそのあたりから聞こえてきていた。

「すぐ逃がしてやるから、はい、いい子、いい子」

 立ち上がった綾の手には大きな蝉。羽根ごとじょうずにつかんで、もう一方の人差し指で黒光りする頭を撫でている。

「そんなの触れるんだ。意外」

「よく入ってくるからね」

「そうか、ずっとこの家に住んでたもんな」

 綾は裸の上から、母さんの部屋から拝借したんだろうか、透け透けのベビードールみたいなのを着ていて、かけている眼鏡とのアンバランスさが、ことさらコケティッシュな印象を醸し出していた。

 差し込む朝日を受けて逆光になった綾の体。背中から腰にかけてのきれいなカーブと、細くくびれたウエスト。きのう僕が育て始めたばかりの乳首がすがすがしくツンと上を向いて、ベビードールに放射状の皺をつくっている。

「きれいだな」

「え? 蝉が?」

「違うよ。綾がだよ。きれいだ」

「へへっ」と照れ笑いをして、蝉を窓から逃がす綾。

「みじかくも美しく燃え、ってね」

「なんだそれ?」

「古い映画の題名。光ったらもうちょいロマンチックなひとかと思ってたのに、なんかふつう。そこだけはがっかりかも」

「がっかりで悪かったね。つうか、あれ? なんかいい匂いしない?」

「フレンチトースト作ったんだよ。一緒に食べよ」

「色気より、食い気かな」

「やっぱりロマンチックじゃないね。あんた」

 あの夏はこのあたりにしては珍しく暑かった。その暑さがこたえたのか、夏の終わりに、おかげが死んだ。死んだ実の母が助けた猫。二十三年も生きた。心の支えをひとつ、なくした気がした。

 動物霊園で、段ボールの棺に入れられたおかげの亡骸を炉まで見送り、骨揚げもした。僕も母さんも親父も泣いたけど、たばこ屋のおばさんが一等よく泣いていた。

 ラギサヤ写真の瞳に写った僕は、あれから特に発見されることはなく、母さんがほかのとまとめて削除した。

 綾はといえば、あのあとほどなくして離婚が成立。切り札として亭主との夜の生活を隠し撮りしたものを、こっそりとむこうの母親だけに観せたのだそうだ。母親は泣いて謝り関係の修復を乞うたが、

「たいがいにしろや、クソババア!」と、それをつっぱね、慰謝料も受け取らず家を出て、そのままこの家に一緒に住み始めた。

「慰謝料いらないって、おまえちょっと男前過ぎない?」って聞くと、

「あたしがそれ貰ったら、あんた気がちょっとラクになるでしょ。そうはさせないんだから」と返され、ああ、これで世に言うところの恐妻家まっしぐらだ、と覚悟したものの、そのあと綾は、畳みかけるように明るく、性格も丸くなっていった。

「おい、光」は、じきに「ねえ、あなた」にとって代わった。

『あなた』だなんて、ドラマの中でしか聞いたことのない呼びかけに、最初は照れたものだが、それもそのうちに慣れた。

 そんな綾がダンス教室に通い始めた。子供の頃はバレエを習っていたらしく、そのおかげで姿勢がよかったところに、動きのキレみたいなのも加わり、無駄のないしなやかな体が、少しずつ完成していった。

 それから映画にハマった。綾の好きなヨーロッパ映画から始まって、気になるものはなんでも観た。大型テレビとレコーダーを購入して、毎晩のようにあのリビングでふたりで。そんなこんなでいつの頃からか僕は、古い映画にやけに精通しているマニアックな男、なんて、社内で言われるまでになった。

「あなたのこの企画、あたし好きだな。着てみたいなって思うもの」

 綾がそう言ってくれる企画は、たいてい社内プレゼンでも好感触なことが多く、そのうちに小規模なブランドラインをひとつ任されることになった。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「よし! まとまったっ。月曜日が楽しみっ」

「その模擬授業クリアしたら、美人過ぎる大学講師の誕生だね」

「ラギサヤみたいに言わないで。これでもまじめにやってんだから」

「綾、頑張ったもんな」

「桜木教授のお口添えあればこそよ。でも、あたしの評価が決まるのはこれからなんだからね」

 綾や母さんの大学とは別の、ここからさほど離れていない隣県の大学に講師の欠員が出ることになって、綾はその採用面接に挑んだ。生来のまじめな性格とこれまでの研究成果がようやく報われるのだ。そこに巷のラギサヤ人気も追い風になり、話はいい方向に進んでいる。

「きのうからずっと起きてんだろ。少し寝れば?」

「きょう、ロケハンにハルさんがくるんでしょ。朝ご飯済ませたら、下の片づけしなきゃ。でもその前に、ふふっ」

 金縁眼鏡の中の瞳が、期待に満ちた光を宿して僕を見る。

「きょうも、いっぱい蹂躙してください」

 ……挿入と同時に、首を絞める。

 カモシカのような美しい体。

 僕のたなごころの中で、綾の細く長い首が息をひそめる。

 しだいに膨れ上がる動脈と筋を味わいながら、かわいく起立した乳首を吸う。

 首を絞められているあいだ、綾の中は役目を忘れたように、弛緩する。

 僕はその柔らかな感触を亀頭で、存分に味わってから、手を離した。

「ふあああああ……」

 赤らんだ綾の顔の真ん中に、ぽっかりと開いた口に、唾液を流し込んでやる。

 あぶくを立てて、舌が蠢く。

 隙を与えず、そのまま顔中を舐める。コリッとした形のいい鼻をフェラするみたいに吸うと、綾がいつものように密やかに、声を立て始める。

「あっ、ああっ、あなた、素敵」

 見つめる瞳を、ずれた眼鏡の上から舐めると、体をひくつかせ、僕の上腕をつかんだ手に力がこもる。

「好きよ、あなた。もっと、もっと突いてください」

 お堅い印象のインテリ女がせがむ。

 眼鏡の女を蹂躙する。なんともそそるシチュエーションじゃないか。

 役目を思い出した綾の中が、しだいに締めつけ始めた。僕はそれにあらがうように、腰を動かす。

「キスをください。たくさん吸って、あたしの息の根を止めてっ、あああっ」

 この暴れ馬は自分の身の処し方を知っている。

 僕好みの肉厚の唇を、口で塞いで、ついでに鼻もつまんでやる。

「くぉあ、くぉあ……」と、綾が空気を求めるが、すぐにはやらない。

 ふたたび弛緩した綾の中を、ねじるように何度も何度も突く。死体を犯すみたい? いや、綾の中はとっても熱く、すこやかな血流さえ感じられる。

「うおごっ、ごっ……」

 密着した綾の腹筋が蛇の蠕動のように前後に動き出す。そろそろだな。

 口を離し、綾の両手を上げ押さえつけ、腋の下を舐める。ツルンとした無毛の綾の腋。少し乳臭い甘い香りがする。

「はあああ、それえ、それえ、とっても気持ちいいですぅ」

 綾はこうされるのが好きだ。息が切れてから少しずつ意識が戻るのと同時に、腋に感じ始める恥ずかしくもこそばゆい感覚。意識が飛んで、抵抗感のない状態からの心地よさ。物心がつく前から、当たり前のように舐められてきたみたいな、多幸感が味わえるらしい。

 綾の手が背中に回り爪を立てる。愛の証だから、少しも痛くはない。僕はただ、その証に応えて、腰を激しく動かす。

 明け方の甘美な幸せ。きょうは日曜日だ。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 玄関扉を開くとそこに、美少女ハルの懐かしい顔があった。

 あれからもう八年になるが、ハルはその美しさをさらに増し、干し首みたいな小顔も昔のままだ。

「らぎっち、チャオ! ごめんねえ、きょう父さんお店で忙しくって、子供ら連れてきちゃったの」

 と、ハルが挨拶するのも束の間、そのうしろから、ぬっと大きな影が現れ、その脇からばらばらっと小さな双子たちが飛び出して螺旋階段の方へ駈ける。

「ヒューヒュー」と叫び回るツインズにその大きな影が、

「ビヘイヴ!」と叱り、

 栗毛のボブヘアーに天使の輪を輝かせて、長身の女性が振り返った。

「唯です。初めまして」と右手を差し出す。

 初めて会う唯さんの第一印象は、『思ってたんと違う』、だった。とにかく高身長。僕よりずっと高い。ヅカの男役が退団して女優デビューしました、って感じか。写真は頻繁に見ていたが、立ち姿の写真に比較対象がなかったのだ。

 ふたりお揃いチックなボアのついた真っ黒なダウンのロングコートを脱ぐと、さらに驚かされることになった。

「ハル、おまえなにその格好。ハロウィーンのコスプレかなんかか?」

 いかにもアメリカらしい、明快なセクシーさを狙ったような学生服上下。ウエストを絞った純白のブラウス。赤いタータンチェックのプリーツミニと白のニーハイソックスとのあいだの、絶対領域が艶めかしい。

「もう、ウイッグじゃないもん」と言って、さらさらロングの黒髪を揺らす。

 唯さんはといえば、ウエストを極端に絞りボディーラインに密着させたサテン地の黒基調のドレス。襟とカフスが薄ベージュのツートーンカラーになっていて、エナメルの高いピンヒールが僕と唯さんとの顔の距離をさらに遠ざけている。

「わぁお、唯さん、すごいですね。秘書みたいっす」

 思わず、パイセンすごいって感じで答えてしまう。

「ご名答! さすがはファッションのお仕事をされてらっしゃるだけのことはあるわ。五十年代テイストを加味したフルオーダーのセクレタリードレスですのよ」

 僕は唯さんの細長くきれいな鼻の穴を見上げながら、それを拝聴した。

「ええっ! 嘘でしょ! ユイユイが一緒にくるなんて聞いてないよー」

 背後で甲高い黄色い声。奥のキッチンで来客準備を進めていた綾が、やっと出てきたのだ。

「わあっ、姫! 姫じゃないのよ」

 唯さんがしなをつくって答え、舞台の女優みたいに大仰に綾を抱きしめる。

 ユイユイ、姫の関係、か。確かめてはこなかったが、やっぱりふたりは知り合いだった。というか、かなり親密。

 綾の手が、僕とのセックスの時のように、唯さんの背中に爪を立て、サテン生地がザラザラと不協和な妖しい音を奏でている。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 今回、うちの会社からハルに、僕が担当するブランドラインの販促物の撮影を依頼することになった。しかもハルの助言で、この家で撮影が行われることに。ハルの日本進出は快調だ。テレビ局で顔を合わせたあの新進女優の写真集の撮影をハルが担当し、シアトル近郊の森でロケされた写真の評判がすこぶるよかったのだ。その影で唯さんや母さんが動いたのはいうまでもないが、僕の目から見てもハルの実力はたしかに群を抜いている。やはりと言うべきか、近頃はハイファッション系の女性雑誌の仕事も増えてきている。

「話には聞いてたけど、すごいお屋敷ね。ここでならいい写真が撮れそうよ。今からワクワクしちゃう」

「おまえ、むこうのスタジオはいいの?」

「あっちは熟練の部下たちに任せてるから心配ないの」

 ロケハンを済ませて、不可思議女子校生コスプレの気鋭カメラマンにして、スタジオオーナーの実業家がそうのたまう。

 ツインズが雪化粧の庭を駆け回っている。

「子供は風の子だなあ」と平凡なことを言う僕に応えることなく、

「それにしても、らぎっち、いい男になったね」

 と、絶対領域の太ももを密着させて、ハルが僕の胸をまさぐりながら耳を舐める。

「子供たちが見てるよ」

「大丈夫。あの子たちこんなの全然気にしないもの」

「ああ、くすぐったい! ね、これ、見てみ」とスマホをハルに向ける。

 あれから二度代替わりしたスマホには、ハルの巨根を真ん中にして、母さんと僕がVサインを送っているあの待ち受け画面がある。

「やだ、恥ずかしい! らぎっちも律儀ね」とハルが笑う。

「綾にはまだ、見つかってないけどね」と、広いリビングを見渡す。

「綾さんなら、大丈夫なんじゃない? ていうか、ユイユイとふたりしていつの間にか消えたわよね」

 一階に僕たち以外の、ひとの気配はない。

「二階かな。ちょっと様子見てこようかな」

「邪魔しない方が、いいんじゃない? 積もる話もあるみたいだし」

 珍しくハルが、不安そうな表情を見せた。

「うん、やっぱり見てくる」

「ねえ、らぎっちってば」と引き留めるハルの声を背にして螺旋階段を上がる。

 しんとした二階。

 母さんが寝室に使っている部屋の中から、かすかに声が聞こえる。

 外から声をかけるかどうか逡巡したのち、僕は少しだけ扉を開け、中の様子を窺った。

「姫、いけないわ! もう勘弁してちょうだい。あっ、ああっ……」

 明らかな濡れ場感。

 しかも今もアメリカで人気のセックスセラピストが困惑して乱れている。

 なにやってんのさあ、なんて気安く乱入できそうにない、ひとを拒む濃密な空気が、そこには漂っていた。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 自宅での撮影を二日後に控えた夕刻。

 母さんに何度メッセージを送っても一向に返信がないので、まあいいか、と、職場からアポなしでタクシーで実家に向かった。

 実家に帰ると、あの壁が畳まれ親父の部屋と続き間になった、ばかみたいに広いリビングでひとり親父が、そわそわと柿ピーを囓りながらテレビを観ていた。いつも散らかっていたベッドまわりも、強制見せる化効果で整頓されていて、日々の母さんの努力が窺えた。

「仲人頼まれそうなんだよね。やだなあ」と親父がテレビを指さし困り顔で笑う。

 カリスマモデルと新人俳優の婚約会見。若い男女が真摯に記者たちの質疑に答えている。

 なんとかレイラが薬指の婚約指輪をかざし、フラッシュの嵐が起きている。

「母さん、相変わらず暗躍してるね」

「してるねえ。最近は結婚相談所みたいになってるもんな」

「仲人の話、受けるの?」

「受けるもなにも、もう決まってるんじゃないかなあ。レイラちゃんの親父さんって女たらしで有名だけど、化粧品会社の社長さんだろ。沙夜ちゃんがそんなビジネスチャンスを逃すはずがないよ」

「その母さんは?」

「きょうは、そう、雑誌コラムの打ち合わせのあと、昔の友達に会うって。東京だよ。帰らないって言ってたな」

 手帳を繰りながら、親父は答えた。

 ――ハルと唯さんがロケハンに訪れた初雪の降ったあの日、唯さんが帰りがけに僕にこっそりと言った。

「姫にいつまで猫被らせとくつもり。そろそろ男の覚悟、見せて差し上げてね。来月、撮影のあとにゆっくりお話しましょ」

 あの時の二階での出来事を、さりげなく綾に聞いてみても、

「ふふっ、ナイショ」って笑うだけだし。

 それでも、今も変わらず僕の下で密やかに鳴き続けている綾。

 ――年末に東京のスイートルームでの逢瀬のあと、母さんから告げられた。

「最後にしましょ。だって綾に悪いもの。名残惜しいけどね。これからは母としてふたりをサポートさせて。長いあいだありがとう、楽しかった」

 ずっと予感はあった。あ、きたかと思った。

 颯爽と遠ざかる母さんの後ろ姿が、泣いてるように見えたが、泣いてるのは僕だけだったのかもしれない、とも思う。

 時は過ぎゆく。

 僕の知らないところで、なにかが動き始めている予感。そして僕の心の中でも不安が渦巻き始めている。

 そろそろ綾と正式に結婚して籍を入れよう。そんなことを秋ぐらいから考えていたから、これはまさかの、マリッジブルー。

 男でもなるのだろうか?

「親父。あんな、男の覚悟って、なんだろ?」

「唐突に、なんだ。……もしかして綾ちゃんとのことか?」

「うん、まあ」

「そうだなあ。世間体とか、恥ずかしいとか、そういうのを取っ払って、素直に自分を晒すってことかな。まあ、おおぜいのお歴々の前で仲人の席に座るよりは、全然、ちょろいと思うよ、きっと」

 すべてを見通したように、朗らかに親父は破顔した。

 そこに不安の影は少しも見受けられない。
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