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第一章 出会い
1 父の再婚
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親父の夢を見た。
「起きてるか? 光」
薄ぼんやりと物の輪郭がつかめる程度の暗闇に親父の声が響く。
視界に映る影が大きくなり、僕が寝ているベッドのマットレスが沈み込む。
ちょうど自慰の真っ最中だった僕は、親父の突然の来訪に勃起したペニスを仕舞えずにいた。
「大きくなったな」
そう言いながら親父の手は、僕のペニスをおもむろに握りしめる。
「そんなこと……いけないわ」
突然の親父の一線越えに、なぜだか僕は女言葉で抵抗を試みるが、僕のペニスは自信たっぷりに起立したまま、脈打っているばかりだ。
ペチャペチャと淫靡な音、ざらっとした舌の感触のあとに、不意に亀頭を温かく包み込まれる。
僕の下半身に覆い被さる大きな影の、白目と思える部分がことさらギラギラと上下している。
「ああん、そんなにされたら私いっちゃう……ダメ、ダメ、ああっ」
僕はあっという間に昇り詰める。
そして目が覚めた。
夢精はしていない。そもそも初オナニーは小学校高学年の時で、まだ精巣が精子を作り切れず、小っちゃいペニスの先から、そわそわと漏れ出たクリーミーな白い泡を見つめて、高鳴る鼓動に震えたあの日から数年、心も体もついでにペニスも立派に成長した僕。
夜明け前の青白い光の中で、とてつもなく気持ちのいい余韻を股間にたたえ、そしてしばらくそれを噛みしめながら思った。
マズい。マズ過ぎる。
僕が物心つく前、母が亡くなってから今年で十五年、僕が中学に上がる頃までは、出張の多かった親父に代わって親父の母親である僕の祖母が面倒を見てくれたことは多々あったけれど、おおむね父ひとり子ひとり、男ふたりでこの家に暮らしてきた。
男だけの世界というのはなにかしらおかしなことが起こるものだ。僕は中高一貫の男子校での生活をもう五年も過ごしてきているから、よくわかる。生徒会室で女子っぽい体つきのひ弱な奴をみんなで弄んだ、とか、写真部の暗室の中で放課後にいろいろあるみたい、だとか。
それから数日経った春休みのある日、自室の照明を消しベッドにもぐり込んだあたりでノックの音がして、親父が廊下の明かりを背にのそりと入ってきた。僕よりも十センチ以上背の高い、百八十越えのがっしりとした威圧感のある体が迫る。
「起きてるか? 光」
マジか! 正夢きたか!
夜半、親父がやってくることは今までにもよくあった。時を見計らって親父が現れ、布団にもぞもぞと入ってくるんだ。たいていそんな時は、なにか重要な相談ごとを持ちかけられる。
「なあ、光くん、起きてるんだろ。オナニーしてた?」
夢とは違い、軽い口調で切り込んでくる親父。そのまま布団にもぐり込んで、僕の背中にぴたりと体を寄せた。
「な、なに?」
やっぱりあれは正夢? 固唾をのむ僕の耳元で親父が囁いた。
「今まで黙っていて申しわけなかった……、実はな光、父さん、入籍したんだよね」
「えっ……えっ……ええっ?」
「本日、結婚いたしました」
おいおい、タレントの入籍会見かよ! 親父の突然過ぎる告白には、正直びっくりだが、僕は貞操の危機をひとまず脱したであろう安堵からか、いつになく心が軽くなり、親父の方に向き直って、大きな胸の中で言った。
「ひひ、突然だね。びっくりした。でも、なんか、おめでとう」
なんだか笑ってしまう。
「喜んでくれるか?」
「うん、まあね」
事前になんの相談もなく親父が入籍を済ませたことについて、僕は特に腹を立てることはなかった。親父の事後報告はいつもの定番だし、ここ数年、親父は親父、僕は僕、おたがい干渉することなく好きにやってきた。それにしても、こんな人生の節目に当たるおおごとなのにもかかわらず、そこすら事後報告というところは、さすがっすね! という感じだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
僕に母の記憶はない。僕が二歳の時、交通事故だった。車道に飛び出した子猫を助けようとして、車にはねられたそうだ。母の代わりに生き延びた子猫はノラだったらしく、そのあと、近くのたばこ屋に引き取られ、今も元気に店番をしている。はやりの働く猫だ。母のおかげで、という意味から『おかげ』という名前を授かっている。
「おかげ、おはよう。実はな、父さん再婚したんだと。どう思う?」
ガラスのむこうに箱座りしている老いた雌猫に、僕は話しかけた。
日本の中でも少し北に位置するこのあたりは、四月とはいえまだまだ冷える。ガラス越しに日の光を愉しんでいる茶トラのおかげは、僕よりずっと長く人生を生きてきたみたいな、おだやかで落ち着いた素振りで、目を細めてほくろのある鼻先をこちらに向けた。
「新しくくるひとを、なんて呼ぼうかな。まだ聞いてないけど下の名前で呼ぶ? それとも、継母さん、義母さん……、母さん」
ひっそりとしたたばこ屋の店先で、ニヤニヤしながら幾ばくかの感傷に浸る僕。なにやってんだか。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
散歩から戻ると、リビングの大画面液晶テレビで、親父が朝っぱらからアダルトだかグラドルだかの映像を鑑賞中だった。
画面に映し出されているのは、リゾートのプールで泳ぐビキニ姿のお姉さん。プールサイドから狙っているカメラに向かって迫ってくる。ぶつかったのか一瞬画面が乱れたあと、大口を開いた屈託のない笑みが大写しになる。ぱっちりとした二重まぶた、色素薄めの茶色い瞳。少し尖りぎみのあごを持つシャープな顔の輪郭。なにより、豊かな胸、そして谷間、Dカップ? いやFカップ?
「親父、オナニーしてない?」
きのうの仕返しのつもりで言ってやった。
「ばかか。おまえじゃあるまいし」
ソファから今まさにずり落ちたような格好で床に寝そべっている親父。長袖Tシャツの上に半袖Tを重ね着してさらにそれらをスウェットの短パンにインという、実に切ないスタイルがいただけない。自宅では往々にしてこんなだけど、僕の親父、桜木孝蔵は、このあたりでは割と有名な私立の大学で、文化人類学とか、そういうのを研究している大学教授なのだ。
「新人にしてはちょっとお姉さんだね。誰よ?」
グラドルのDVDに付録についているメイキング映像なのかな。プールから上がるお姉さんの背景はきらめく海。逆光で際立つボディラインのシルエットが素敵。
「脚きれい」
「おまえ、こんなひとが趣味なわけ?」
「ドストライク!かも」
うーん、とつぎに親父が口を開く前に、僕は気がついてしまった。テレビ台のレコーダーに、親父がいつもフィールドワークに持ち歩く小型のビデオカメラが、配線で繋がっている。
僕は親父と横並びにソファに腰かけ、静かに聞いた。
「先週、出張だとかで、四日ほど出てたよね。もしかして……」
「はいはい! 白状するよ。実は新婚旅行にいってた」
親父の巨体が急に小さくなったように思えた。柄になく緊張しているのか。
「この女の子と?」
「女の子じゃないよ。こう見えてもう三十だ」
昨夜の時点で親父の再婚相手は、大学にいる事務のおばさんあたりかな、などと勝手に予想していた。ところが、ところがである。もしや、今、四十八の親父にしては、これは快挙なのではないか。息子の僕としてはここで親父とハイタッチを華麗に決めるべきではないのか。
「ふーん。年の離れたきれいなお姉さんと海辺のリゾートとか、いいよね」
そうは思いつつ、僕は少し拗ねた少女のようにふるまった。
「海じゃないよ。台湾の湖だよ。……なあ光、父さんの判断は間違ってたかな?」
僕は照れくさかったのだ。なにしろ新しく迎える親父の奥さんをよりにもよって、ドストライク!だなんて。
「ごめん親父。大丈夫! けっこううれしいから」
親父は少し照れたように笑い、ソファに座り直し居住まいを正してから、続けた。
「沙夜さんと言います」
ローテーブルの上のメモ帳を引き寄せた親父は、そばにあったサインペンで名前を一文字ずつ丁寧に書いた。
「旧姓は灰原沙夜、うちの大学で俺と同じく文化人類学を教える先生だ。彼女が学生だった頃からの知り合いでね。若いのに優秀だし、苦労の味も知っている。それに学生の面倒もよく見るし、将来有望なひとなんだが……」
少し言い淀んで……。
「ただ、いろいろ前向きすぎて、困ることもある。……まあ、それもよしなのかもしれないが」
親父が大事ななにかを飲み込んだように思えたが、僕は大して気にかけなかった。なぜならこの時すでに、僕の頭の中はと言えば……新しい継母さん、いや新しい義母さん、いや、新しい母さんは推定Fカップの超美形。今夜は、目に焼きついたこの映像をオカズに何杯でもおかわりできそう! ……そんな思いが渦巻いていたからだ。
「おまえもこれから受験で大変な時期だから、いろいろ相談に乗ってもらうといい。……あとな、これ飾っていいか?」
そう言っておもむろに壁の方に立ち上がり、立てかけてあった平たい大きな紙包みをべりべりとめくり、僕の方に向けた。
それはシンプルな額に入れられた大きな写真だった。海中を舞うマーメイドみたいに、純白のウエディングドレスを纏った女性が、優雅に水中を戯れている写真だった。長い人魚のひれみたいにひらめくドレスのスリットから、艶めかしい脚が、ふともも近くまで露出している。き、きれい過ぎる。
「すごいね! これがその沙夜さんなんだよね。合成じゃないよね」
「水深のあるプールの壁に大きな海中の写真が貼ってあってな。アクアラングをつけたカメラマンが撮影してくれるんだぞ。わざわざこれを撮るためにふたりで台湾までいったんだから」
ふたり? よく見ると、沙夜さんのうしろに、鼻から泡を吹きながら、黒タキシードの親父がマンボウみたく、くっついて泳いでいるじゃないか。
「これなら飾っていいよな」
親父が目を輝かせてこんなことを言うには少々わけがある。親父の母親である僕の祖母にまつわる話。祖母は豪快で奇天烈なバアさんだった。
――僕が小学四年生くらいの頃だったろうか。
「ああっ、いつまでもジメジメしてないで、さっさと新しい女でもを探しな」
祖母はそう言うと、リビングに飾ってあった母、時絵の遺影を親父の書斎まで持っていって、引き出しに放り込んでピシャリと閉めた。
「時チャンはたしかにいい娘だったさ。こんなあたしにもやさしくしてくれたよ。でもな孝蔵、振り返ってたってしようがないさ。どうせなら、むこうで時ちゃんが嫉妬するくらいの、若い頃のあたしより器量のいい、イカす女の写真をここに飾れ!」
おぼろげな僕の記憶を紐解けば、祖母はたしかにこんなことを言った。そうか、祖母は若い頃、イカしていたらしい。イカってなに?
「男ってのは女が育てるというのがあたしの持論なんだ。おまえ、少しも育ってないね。早く教授になりたいんだろ、教授に。そうだね、ついでに光ちゃんの筆おろしもお願いできるような、若いピチピチした娘さんがいいねえ」
筆おろしの意味もわからず、ただただ目をしばたかせていたあの頃の僕。
また、今でも忘れられない。こういうこともあった。僕が小学五年生の頃、同じクラスの女子をからかって泣かせてしまったことがあり、まずいことに祖母がたまたまこの家にいる時間に、その女子の親が怒鳴り込んできた。僕は祖母からその場で四、五発、平手打ちを食らった。切れた口の中に血の味が広がった。
「女の子を泣かすのは、ベッドの上だけにしな」
今思い返しても、相当なババアである。
祖母は今でいうところのシングルマザーで、この近くでスナックを営業しながら、女手ひとつで、僕の親父を育てたと聞いている。高校を卒業して親父が家を出てからもずっとひとり暮らしを貫き、そのあとも何人かの男性といい仲になったらしいが、結局結婚は一度もしなかった。
僕が高校に上がった頃、親父に聞いてみたことがある。
――「親父、ばあちゃんといい仲だった男のひとと会ったことある?」
「何度もあるよ。一緒に暮らしてたこともあるさ」
「そんな時、嫌じゃなかった?」
「そうだなあ、俺は特にそんなことなかったな。世の中にはそんな親を毛嫌いする奴もいるようだけど、おふくろに男を見る目があったのか、みんないいひとばっかりで、大勢の親父たちに育てられた俺、みたいなそんな気分だったかな。女の子とのキスのやり方を、おふくろとそんな男のひとから、目の前で実演してもらって教わったこともあるんだ。こんな風に舌を絡めるんだぞ、みたいな。笑えないよな。それからそうそう、この家だって、おふくろが昔、つき合っていた大工の棟梁の口添えで、ずいぶん安く、そしてしっかり建ててもらったんだ」
そんなみんなに愛された祖母は二年前にがんを患って他界した。お通夜には男のひとたちが大勢集まり、そのうちの誰かが持ち込んだのだろう、祖母の若い頃の写真が祭壇の遺影のそばにいつの間にか飾られていて、みんなはそれを肴にずいぶん盛り上がっていたっけ。写真の祖母はたしかに往年の映画女優のような美しさだった。
そんなこんなで、美しいマーメイドとマンボウの水中写真は、母の写真がその昔置いてあった、リビングのロングキャビネットの上に立てかけて飾られることになったが、沙夜さんが祖母の若き日にくらべて美人なのかどうかは、ひとまずノーコメントということにしておく。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
春休みもきょうで最後。明日から高校三年の新学期が始まる。
親父はきょうからヨーロッパへ出張に出る。なんでも、アメリカの大きなバーボンのメーカーが、親父にヨーロッパでの販促に絡んだ調査を依頼してきたらしい。親父は文化人類学の中でも、特にヨーロッパ各地の酒造と飲酒の研究をライフワークにしていて、テレビに何回も呼ばれるほど、その方面では有名なひとだ。親父自身はビール一本程度で寝入ってしまうような人間なのに、世の中わからない。大学教授という厳めしい肩書きとは裏腹に、少子化の影響で予算が見直され、学会に出席するための出張経費の捻出さえままならない親父としては、この依頼はまさに千載一遇、なにかと忙しい学年の始まりだけど、受けます、やります、ということらしい。
「やっぱりアメリカさんは見る目が違うねえ」などと鼻を膨らませて家を出る親父を、僕は早朝からたたき起こされて眠い目をさすりながら見送った。
そのまま部屋には戻らず、コーヒーでも淹れようかとリビングに入ったら、ローテーブルの上にA四用紙にしたためた、こんな置き手紙があった。
留守の三週間よろしく頼む。
きょうはおまえの誕生日だな。十八歳、おめでとう。
おまえもきょうから一人前の男だ。プレゼントを置いておく。
言ってなかったが、沙夜さんがきょうの昼からここにくる。
仲よくやってくれ。それから、
少年よ、大志を抱け。父より。
三週間って、もっと短いかと思ってた。それにきょう、沙夜さんがくるなんて、聞いてないって! ああ、心の準備が……。
プレゼントとおぼしき黒い袋の中には、アダルトDVDが十本ほど入っていた。どれも四時間ものの総集編って感じで見応えはありそうである。ようやく選挙権を得て、大人の階段を上り始めた僕に、しゃれた贈り物という親心はありがたいが、今はネットでいくらでもエロ動画が見られる時代であるから、正直感動は薄い。斉藤だったら大喜びかもしれないな、僕はクラスの悪友の顔を思い浮かべた。
それにしても『少年よ、大志を抱け』ってのはどうなんだろう? 博識ある親父にしては、あまりにもベタ過ぎやしないか。クラーク博士なんて、出来の悪いうちの高校でも、半数以上は知っているぞ。それともこの言葉にもっと深い意味が隠されているのか? その一行前の『仲よくやってくれ』に絡めて、DカップだかFカップに大志を抱け、ということなのか。そうなると『仲よく』も気になり出した。『仲よくセックス』ああマズい。
僕は堪らず、キャビネットの上に飾ってあるマーメイドの写真を見ながら、ペニスを取り出ししごき始めた。マンボウ邪魔!って思いながらあの写真をオカズにするのは、もう三回目である。
「起きてるか? 光」
薄ぼんやりと物の輪郭がつかめる程度の暗闇に親父の声が響く。
視界に映る影が大きくなり、僕が寝ているベッドのマットレスが沈み込む。
ちょうど自慰の真っ最中だった僕は、親父の突然の来訪に勃起したペニスを仕舞えずにいた。
「大きくなったな」
そう言いながら親父の手は、僕のペニスをおもむろに握りしめる。
「そんなこと……いけないわ」
突然の親父の一線越えに、なぜだか僕は女言葉で抵抗を試みるが、僕のペニスは自信たっぷりに起立したまま、脈打っているばかりだ。
ペチャペチャと淫靡な音、ざらっとした舌の感触のあとに、不意に亀頭を温かく包み込まれる。
僕の下半身に覆い被さる大きな影の、白目と思える部分がことさらギラギラと上下している。
「ああん、そんなにされたら私いっちゃう……ダメ、ダメ、ああっ」
僕はあっという間に昇り詰める。
そして目が覚めた。
夢精はしていない。そもそも初オナニーは小学校高学年の時で、まだ精巣が精子を作り切れず、小っちゃいペニスの先から、そわそわと漏れ出たクリーミーな白い泡を見つめて、高鳴る鼓動に震えたあの日から数年、心も体もついでにペニスも立派に成長した僕。
夜明け前の青白い光の中で、とてつもなく気持ちのいい余韻を股間にたたえ、そしてしばらくそれを噛みしめながら思った。
マズい。マズ過ぎる。
僕が物心つく前、母が亡くなってから今年で十五年、僕が中学に上がる頃までは、出張の多かった親父に代わって親父の母親である僕の祖母が面倒を見てくれたことは多々あったけれど、おおむね父ひとり子ひとり、男ふたりでこの家に暮らしてきた。
男だけの世界というのはなにかしらおかしなことが起こるものだ。僕は中高一貫の男子校での生活をもう五年も過ごしてきているから、よくわかる。生徒会室で女子っぽい体つきのひ弱な奴をみんなで弄んだ、とか、写真部の暗室の中で放課後にいろいろあるみたい、だとか。
それから数日経った春休みのある日、自室の照明を消しベッドにもぐり込んだあたりでノックの音がして、親父が廊下の明かりを背にのそりと入ってきた。僕よりも十センチ以上背の高い、百八十越えのがっしりとした威圧感のある体が迫る。
「起きてるか? 光」
マジか! 正夢きたか!
夜半、親父がやってくることは今までにもよくあった。時を見計らって親父が現れ、布団にもぞもぞと入ってくるんだ。たいていそんな時は、なにか重要な相談ごとを持ちかけられる。
「なあ、光くん、起きてるんだろ。オナニーしてた?」
夢とは違い、軽い口調で切り込んでくる親父。そのまま布団にもぐり込んで、僕の背中にぴたりと体を寄せた。
「な、なに?」
やっぱりあれは正夢? 固唾をのむ僕の耳元で親父が囁いた。
「今まで黙っていて申しわけなかった……、実はな光、父さん、入籍したんだよね」
「えっ……えっ……ええっ?」
「本日、結婚いたしました」
おいおい、タレントの入籍会見かよ! 親父の突然過ぎる告白には、正直びっくりだが、僕は貞操の危機をひとまず脱したであろう安堵からか、いつになく心が軽くなり、親父の方に向き直って、大きな胸の中で言った。
「ひひ、突然だね。びっくりした。でも、なんか、おめでとう」
なんだか笑ってしまう。
「喜んでくれるか?」
「うん、まあね」
事前になんの相談もなく親父が入籍を済ませたことについて、僕は特に腹を立てることはなかった。親父の事後報告はいつもの定番だし、ここ数年、親父は親父、僕は僕、おたがい干渉することなく好きにやってきた。それにしても、こんな人生の節目に当たるおおごとなのにもかかわらず、そこすら事後報告というところは、さすがっすね! という感じだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
僕に母の記憶はない。僕が二歳の時、交通事故だった。車道に飛び出した子猫を助けようとして、車にはねられたそうだ。母の代わりに生き延びた子猫はノラだったらしく、そのあと、近くのたばこ屋に引き取られ、今も元気に店番をしている。はやりの働く猫だ。母のおかげで、という意味から『おかげ』という名前を授かっている。
「おかげ、おはよう。実はな、父さん再婚したんだと。どう思う?」
ガラスのむこうに箱座りしている老いた雌猫に、僕は話しかけた。
日本の中でも少し北に位置するこのあたりは、四月とはいえまだまだ冷える。ガラス越しに日の光を愉しんでいる茶トラのおかげは、僕よりずっと長く人生を生きてきたみたいな、おだやかで落ち着いた素振りで、目を細めてほくろのある鼻先をこちらに向けた。
「新しくくるひとを、なんて呼ぼうかな。まだ聞いてないけど下の名前で呼ぶ? それとも、継母さん、義母さん……、母さん」
ひっそりとしたたばこ屋の店先で、ニヤニヤしながら幾ばくかの感傷に浸る僕。なにやってんだか。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
散歩から戻ると、リビングの大画面液晶テレビで、親父が朝っぱらからアダルトだかグラドルだかの映像を鑑賞中だった。
画面に映し出されているのは、リゾートのプールで泳ぐビキニ姿のお姉さん。プールサイドから狙っているカメラに向かって迫ってくる。ぶつかったのか一瞬画面が乱れたあと、大口を開いた屈託のない笑みが大写しになる。ぱっちりとした二重まぶた、色素薄めの茶色い瞳。少し尖りぎみのあごを持つシャープな顔の輪郭。なにより、豊かな胸、そして谷間、Dカップ? いやFカップ?
「親父、オナニーしてない?」
きのうの仕返しのつもりで言ってやった。
「ばかか。おまえじゃあるまいし」
ソファから今まさにずり落ちたような格好で床に寝そべっている親父。長袖Tシャツの上に半袖Tを重ね着してさらにそれらをスウェットの短パンにインという、実に切ないスタイルがいただけない。自宅では往々にしてこんなだけど、僕の親父、桜木孝蔵は、このあたりでは割と有名な私立の大学で、文化人類学とか、そういうのを研究している大学教授なのだ。
「新人にしてはちょっとお姉さんだね。誰よ?」
グラドルのDVDに付録についているメイキング映像なのかな。プールから上がるお姉さんの背景はきらめく海。逆光で際立つボディラインのシルエットが素敵。
「脚きれい」
「おまえ、こんなひとが趣味なわけ?」
「ドストライク!かも」
うーん、とつぎに親父が口を開く前に、僕は気がついてしまった。テレビ台のレコーダーに、親父がいつもフィールドワークに持ち歩く小型のビデオカメラが、配線で繋がっている。
僕は親父と横並びにソファに腰かけ、静かに聞いた。
「先週、出張だとかで、四日ほど出てたよね。もしかして……」
「はいはい! 白状するよ。実は新婚旅行にいってた」
親父の巨体が急に小さくなったように思えた。柄になく緊張しているのか。
「この女の子と?」
「女の子じゃないよ。こう見えてもう三十だ」
昨夜の時点で親父の再婚相手は、大学にいる事務のおばさんあたりかな、などと勝手に予想していた。ところが、ところがである。もしや、今、四十八の親父にしては、これは快挙なのではないか。息子の僕としてはここで親父とハイタッチを華麗に決めるべきではないのか。
「ふーん。年の離れたきれいなお姉さんと海辺のリゾートとか、いいよね」
そうは思いつつ、僕は少し拗ねた少女のようにふるまった。
「海じゃないよ。台湾の湖だよ。……なあ光、父さんの判断は間違ってたかな?」
僕は照れくさかったのだ。なにしろ新しく迎える親父の奥さんをよりにもよって、ドストライク!だなんて。
「ごめん親父。大丈夫! けっこううれしいから」
親父は少し照れたように笑い、ソファに座り直し居住まいを正してから、続けた。
「沙夜さんと言います」
ローテーブルの上のメモ帳を引き寄せた親父は、そばにあったサインペンで名前を一文字ずつ丁寧に書いた。
「旧姓は灰原沙夜、うちの大学で俺と同じく文化人類学を教える先生だ。彼女が学生だった頃からの知り合いでね。若いのに優秀だし、苦労の味も知っている。それに学生の面倒もよく見るし、将来有望なひとなんだが……」
少し言い淀んで……。
「ただ、いろいろ前向きすぎて、困ることもある。……まあ、それもよしなのかもしれないが」
親父が大事ななにかを飲み込んだように思えたが、僕は大して気にかけなかった。なぜならこの時すでに、僕の頭の中はと言えば……新しい継母さん、いや新しい義母さん、いや、新しい母さんは推定Fカップの超美形。今夜は、目に焼きついたこの映像をオカズに何杯でもおかわりできそう! ……そんな思いが渦巻いていたからだ。
「おまえもこれから受験で大変な時期だから、いろいろ相談に乗ってもらうといい。……あとな、これ飾っていいか?」
そう言っておもむろに壁の方に立ち上がり、立てかけてあった平たい大きな紙包みをべりべりとめくり、僕の方に向けた。
それはシンプルな額に入れられた大きな写真だった。海中を舞うマーメイドみたいに、純白のウエディングドレスを纏った女性が、優雅に水中を戯れている写真だった。長い人魚のひれみたいにひらめくドレスのスリットから、艶めかしい脚が、ふともも近くまで露出している。き、きれい過ぎる。
「すごいね! これがその沙夜さんなんだよね。合成じゃないよね」
「水深のあるプールの壁に大きな海中の写真が貼ってあってな。アクアラングをつけたカメラマンが撮影してくれるんだぞ。わざわざこれを撮るためにふたりで台湾までいったんだから」
ふたり? よく見ると、沙夜さんのうしろに、鼻から泡を吹きながら、黒タキシードの親父がマンボウみたく、くっついて泳いでいるじゃないか。
「これなら飾っていいよな」
親父が目を輝かせてこんなことを言うには少々わけがある。親父の母親である僕の祖母にまつわる話。祖母は豪快で奇天烈なバアさんだった。
――僕が小学四年生くらいの頃だったろうか。
「ああっ、いつまでもジメジメしてないで、さっさと新しい女でもを探しな」
祖母はそう言うと、リビングに飾ってあった母、時絵の遺影を親父の書斎まで持っていって、引き出しに放り込んでピシャリと閉めた。
「時チャンはたしかにいい娘だったさ。こんなあたしにもやさしくしてくれたよ。でもな孝蔵、振り返ってたってしようがないさ。どうせなら、むこうで時ちゃんが嫉妬するくらいの、若い頃のあたしより器量のいい、イカす女の写真をここに飾れ!」
おぼろげな僕の記憶を紐解けば、祖母はたしかにこんなことを言った。そうか、祖母は若い頃、イカしていたらしい。イカってなに?
「男ってのは女が育てるというのがあたしの持論なんだ。おまえ、少しも育ってないね。早く教授になりたいんだろ、教授に。そうだね、ついでに光ちゃんの筆おろしもお願いできるような、若いピチピチした娘さんがいいねえ」
筆おろしの意味もわからず、ただただ目をしばたかせていたあの頃の僕。
また、今でも忘れられない。こういうこともあった。僕が小学五年生の頃、同じクラスの女子をからかって泣かせてしまったことがあり、まずいことに祖母がたまたまこの家にいる時間に、その女子の親が怒鳴り込んできた。僕は祖母からその場で四、五発、平手打ちを食らった。切れた口の中に血の味が広がった。
「女の子を泣かすのは、ベッドの上だけにしな」
今思い返しても、相当なババアである。
祖母は今でいうところのシングルマザーで、この近くでスナックを営業しながら、女手ひとつで、僕の親父を育てたと聞いている。高校を卒業して親父が家を出てからもずっとひとり暮らしを貫き、そのあとも何人かの男性といい仲になったらしいが、結局結婚は一度もしなかった。
僕が高校に上がった頃、親父に聞いてみたことがある。
――「親父、ばあちゃんといい仲だった男のひとと会ったことある?」
「何度もあるよ。一緒に暮らしてたこともあるさ」
「そんな時、嫌じゃなかった?」
「そうだなあ、俺は特にそんなことなかったな。世の中にはそんな親を毛嫌いする奴もいるようだけど、おふくろに男を見る目があったのか、みんないいひとばっかりで、大勢の親父たちに育てられた俺、みたいなそんな気分だったかな。女の子とのキスのやり方を、おふくろとそんな男のひとから、目の前で実演してもらって教わったこともあるんだ。こんな風に舌を絡めるんだぞ、みたいな。笑えないよな。それからそうそう、この家だって、おふくろが昔、つき合っていた大工の棟梁の口添えで、ずいぶん安く、そしてしっかり建ててもらったんだ」
そんなみんなに愛された祖母は二年前にがんを患って他界した。お通夜には男のひとたちが大勢集まり、そのうちの誰かが持ち込んだのだろう、祖母の若い頃の写真が祭壇の遺影のそばにいつの間にか飾られていて、みんなはそれを肴にずいぶん盛り上がっていたっけ。写真の祖母はたしかに往年の映画女優のような美しさだった。
そんなこんなで、美しいマーメイドとマンボウの水中写真は、母の写真がその昔置いてあった、リビングのロングキャビネットの上に立てかけて飾られることになったが、沙夜さんが祖母の若き日にくらべて美人なのかどうかは、ひとまずノーコメントということにしておく。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
春休みもきょうで最後。明日から高校三年の新学期が始まる。
親父はきょうからヨーロッパへ出張に出る。なんでも、アメリカの大きなバーボンのメーカーが、親父にヨーロッパでの販促に絡んだ調査を依頼してきたらしい。親父は文化人類学の中でも、特にヨーロッパ各地の酒造と飲酒の研究をライフワークにしていて、テレビに何回も呼ばれるほど、その方面では有名なひとだ。親父自身はビール一本程度で寝入ってしまうような人間なのに、世の中わからない。大学教授という厳めしい肩書きとは裏腹に、少子化の影響で予算が見直され、学会に出席するための出張経費の捻出さえままならない親父としては、この依頼はまさに千載一遇、なにかと忙しい学年の始まりだけど、受けます、やります、ということらしい。
「やっぱりアメリカさんは見る目が違うねえ」などと鼻を膨らませて家を出る親父を、僕は早朝からたたき起こされて眠い目をさすりながら見送った。
そのまま部屋には戻らず、コーヒーでも淹れようかとリビングに入ったら、ローテーブルの上にA四用紙にしたためた、こんな置き手紙があった。
留守の三週間よろしく頼む。
きょうはおまえの誕生日だな。十八歳、おめでとう。
おまえもきょうから一人前の男だ。プレゼントを置いておく。
言ってなかったが、沙夜さんがきょうの昼からここにくる。
仲よくやってくれ。それから、
少年よ、大志を抱け。父より。
三週間って、もっと短いかと思ってた。それにきょう、沙夜さんがくるなんて、聞いてないって! ああ、心の準備が……。
プレゼントとおぼしき黒い袋の中には、アダルトDVDが十本ほど入っていた。どれも四時間ものの総集編って感じで見応えはありそうである。ようやく選挙権を得て、大人の階段を上り始めた僕に、しゃれた贈り物という親心はありがたいが、今はネットでいくらでもエロ動画が見られる時代であるから、正直感動は薄い。斉藤だったら大喜びかもしれないな、僕はクラスの悪友の顔を思い浮かべた。
それにしても『少年よ、大志を抱け』ってのはどうなんだろう? 博識ある親父にしては、あまりにもベタ過ぎやしないか。クラーク博士なんて、出来の悪いうちの高校でも、半数以上は知っているぞ。それともこの言葉にもっと深い意味が隠されているのか? その一行前の『仲よくやってくれ』に絡めて、DカップだかFカップに大志を抱け、ということなのか。そうなると『仲よく』も気になり出した。『仲よくセックス』ああマズい。
僕は堪らず、キャビネットの上に飾ってあるマーメイドの写真を見ながら、ペニスを取り出ししごき始めた。マンボウ邪魔!って思いながらあの写真をオカズにするのは、もう三回目である。
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キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。




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