最高の部下

向坂倫

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 本郷健作ほんごうけんさくはシャオリンの夢を見ていた。

 身長百六十センチに満たない小柄な女だが、初めて彼女の全裸を目の当たりにした時、健作は思わず溜息を漏らした。

(まるでよくできたミニチュアだ)

 類い希な小さな顔。小児のようにか細い二の腕。そこに内臓が入っていることを疑ってしまいそうになるほど細くくびれたウエスト。そして大胆に張り出した乳房。

 欧米人のピンナップガールのようなバランスのボディが、ぎゅっと縮小されてこの小さい体になぞらえられてある。

 ベッドに上にあぐらをかき両手を差し出したシャオリンに応えて、健作は彼女の胸に顔をうずめた。

 キスはもう飽きるほどした。あとは……。

 うっすらと血管の透き通る白く弾力のある胸の内から聞こえる、小動物のような少し速めな心臓の鼓動。

「プトンプトン。わたしドキドキしちゃってマス。ア、ウォ・アイ・ニィ、ヂィェンヅゥオ。わたし、もっともっと早く、こうなりたかったデス」

 シャオリンは健作の名前を中国語読みで呼び、感慨深く愛の言葉を漏らした。

 その言葉に応えて、揉みしだいた乳房の先端の梅の蕾のような乳首を口に含むと、名前通りの鈴を転がすような喘ぎ声を発した。小鈴、シャオリン。

 シャオリンとは、天津に二泊三日で新規の工場候補の視察に訪れたときに知り合った。向こうの企業側が用意した通訳兼ガイドだった。

 出張の目的が協力工場の精査であるだけに、着いたらきっと接待漬けに違いないと構えていたが、意外にもアフターはほぼシャオリンとふたりきりとなった。

 新社長直々の要請による今回の単独視察に、気乗りのしない健作だったが、

「ホンゴーさん、お酒があまりお強くないって聞いてマス。だから、わたしが何とか取り計らいマシタ。……わたしより、あそこのおじさんたちがお相手の方が、よかったデスか?」

 と、いたずらっぽく笑いながら天津名物の狗不理包子ゴーブリバオズをパクつくシャオリンを見ていたら、正直、気持ちがずいぶんと楽になった。

 シャオリンが案内してくれる飲食店が、どこも接待とはほど遠い地元の人間が足を運ぶ庶民的な店ばかりだったことも、健作の気分をほぐす大きな要因となった。

(今回は工場の不備をうまく見つけて、時期尚早と報告書を上げれば、それでいい)

 健作は従業員数が三百人ばかりの中堅文具メーカーの総務部付部長である。現在五十二歳。部長ではあるが総務部長ではない。ただ、かつては総務部長だったこともある。古い体質の会社の因習というべきか、総務部長の地位を追われたあとも、のうのうと部長という肩書きだけは堅持できている。皮肉なものだと健作は思う。

 暮らしの中に外国製が溢れる今の時代、文具、とりわけ筆記具に関していえば、未だ日本製が主流を占める。健作の会社だってそうだ。

 コツコツと地道に、営業部のリサーチを参考に企画部が毎年新たに送り出すアイデア溢れる製品から、ヒット商品も少なからず出ているし、それら商品群は、日本人の持つ繊細な技術なくしては成り立たないものばかりだ。高々百円に満たない一本のペンの中にも、商品企画部や製造部そして国内中小協力企業の、血がにじむような研鑽と努力の成果が詰まっている。ところが、新社長を中心とした旧専務派の連中は、その最後の牙城さえも、利益を優先し中国へ製造ラインを移そうと画策しているフシがある。

(何とか以前の体制に戻せないものか?)

 そんなことを思いながら、健作はグラスに半分ほど残った老酒ラオチューを一気に飲み干した。

「ところで、シャオリンさんは結婚、してるの?」

「実は、バツイチ、なんデス。バツイチ、合ってマスか?」

「ははっ。うん、合ってる。……そうか。俺だってバツイチだ。脛に傷ある者同士、気が合いそうだな」

「スネにキズ、それ何デスか?」

「いや、すまんすまん。名誉を傷つけるつもりはない。それに父娘くらい歳の離れた綺麗なお嬢さんになに言ってるんだか……」

「ははっ、これでもわたし、三十越えてマス。アラサー、デスね。父娘じゃなくって、恋人同士に見えマスよ、きっと」

 天津最後の夜。戦前の租界時代の趣が今も残る情緒ある旧市街を、シャオリンと腕を組んで歩いた。

(女と腕を組むなんて何十年振りだろうか)

 フワフワと足が宙に浮くような感覚に、今は違う道を歩んでいるかつての妻との青春の一コマが蘇る。

 そんな出張からひと月ほど経った頃、携帯にシャオリンから連絡が入った。

「ホンゴーさん。シャオリンです。わたしのこと憶えてられマスか?」

「ばか。忘れるもんか。今、どこから?」

「通訳の仕事でこっちに来ていて、わたし、帝京ホテルにしばらく滞在する予定デス。今晩はお逢いすること、叶いマスか? 遅くてもイイ、早く逢いたいデスね」

「うん、ちょっと待って」

 はす向かいの席に座る秘書の宮前京香みやまえきょうかに、今晩の会食の時間を確認する。

「予定は一応九時までとなっていますが。部長、今晩は……」

 と、縁なし眼鏡の奥の勝ち気な目が健作を睨む。

「そう。じゃ、十時に、ロビーでどうかな」

 通話を終えるなり京香が歩み寄り、健作の耳元で小さく告げる。

「部長。差し出がましいかもしれませんが、今はご自重いただきたく……」

「何だよ。俺にだってプライベートはあるさ。それに、正直、幸司こうじのお守りはもううんざりなんだよ!」

 思わず声を荒げた健作に、総務部の誰もが、手を止め視線を向ける。

(いつまでもキズを舐め合っててどうする)

 幸司……笹岡ささおか幸司は今は亡き会長のひとり息子、昨年春にこの社の長の座を退いた。見習いの時代から上司として健作が一から鍛えてきた男。彼が社長に就任してすぐ、互いの懸案だった経営戦略室を立ち上げた。年寄り役員主導の委員会と呼ばれる形ばかりのまやかしではなく、全部署から声を募り、これからの社のあり方を模索する、亡き会長の人柄が育んだ健全で風通しのいいこの会社だからこそ可能なやり方で社の未来を照らす、そんな灯火にするはずだった。

 忘れもしない。幸司の泣きそうな電話の声を受け向かった最寄り駅の控え室。

 小さくうなだれ事務椅子に座った幸司。痴漢被害を訴える女性の叫びで乗客と駅員により捕らえられここに連れてこられた。株主総会を四日後に控えた昨年春の早朝の出来事だった。

「もう社長なんだから、ハイヤーを使えとあれほど言ったのに」

 人々の中に溶け込んだ会社でありたい。それが彼の口癖だった。

「ほ、本郷さん。お、俺やってないです」

 被害者を名乗る女性とは幸い示談が成立したものの、一部始終を目撃していた乗客のSNSへの投稿により、事件は公になった。

 翌日急遽、取締役会が開かれ、社長は退任。代わりに会長時代から会社を支えてきた専務が新社長に就任した。取引銀行を経てこの社に入り、かつてのアイデアマン初代社長の下でずっと、地味な事務方を勤めてきた男だが、会長とはそれなりに確執もあった。

 それが証拠に、経営戦略室はじきに閉められ、健作は幸司の一件で責任を問われ総務部長の座を追われた。

 名ばかりの経営委員会が復活し、今は専務改め新社長が取締役会を牛耳り、『不況』『経営難』というできる経営者らしからぬ言葉を駆って社員たちを恫喝している。

 ……「シャオリン、待ったかい?」

「おお、健作、ヂィェンヅゥオ、逢いたかったデス」

 むくんだ顔で今更できもしない夢を語る、意識の縁に焼きついた幸司の顔を振り払うべく、健作は細く小さな体を大胆に抱き寄せた。

 シャオリンが健作の胸の中で息を潜める。

 人目はあるが夜更けだし挨拶程度のキスくらいは……と、彼女の小さな頬に手を添え見つめると……、

「部長、目を覚ましてください」

 いつの間にかシャオリンが秘書の宮前京香に取って代わっている。

 そして力一杯頬を叩かれた。

 そこで健作は、夢から目覚めた。
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