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母J
母J②
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『「私が……私がやったんです! 仕方なかったんです……!」
わぁっと泣き出しながら崩れ落ちる女中。俺は苦い顔で言葉を続ける。
「貴女には心底同情しますよ。でも、殺しちゃあいけない。それは犯罪になってしまう。貴女の憎んだ、あの男と同じになってしまう」
もう、俺の言葉なんて聞こえてはいないだろう。女中の泣き叫ぶ声が、いつまでも館に響いていた。』
あの男は、息子を殴りつけた。大の大人のパンチだ、子供など軽く吹っ飛ばされ、強かに床に落ち、動かなくなった。
さぁっと血の気が引いた。抜け殻になりそうだった。そしてその空っぽの体にグツグツと煮だった血液が、怒りが一瞬で満ちたのを覚えている。
私は半狂乱になって、何かを叫びながら手当たり次第に物を投げつけた。灰皿、本、置物。そして……花瓶。最後のそれが、当たり所が悪かったらしく、男はウッと小さく呻いて倒れ、そのまま動かなくなった。
それから……救急車を呼び、息子が病院で目を覚ましたのがその日の深夜。抱きしめて、泣いた。よほど怖かったのだろう、息子の髪は、一本残らず真っ白になっていた。
それから数日、息子を入院させたり、警察の取り調べを受けたりしてから、この町から逃げ出す事を決意した。
誰も私達を知らない町へ。息子と二人、ひっそりと暮らそう、と。
そうして遠くで暮らしていても、男の影はちらついていた。執念とでも呼べばいいのだろうか、死んだかと思われていたがただの軽傷、しかし恨み真髄、凄まじいエネルギーで私達を追いかけ続け、私達はそれから逃げ続けた。
長くて一年、短ければ数ヶ月。一所に留まることなく、流浪の民のように私達はさすらった。
幾つか目のある町で、息子は楽器がやりたいと言ってきた。私は、躊躇い無くすぐに、やりなさいと言った。その時の息子の目の輝きったら。今でも忘れる事は出来ない。
思えば私は、何一つ与える事の出来なかった母であった。そんな中でもわがまま一つ言わず、真っ直ぐ育ち、そして希望を持って生きようとしてくれた息子。そんな息子の滅多にないわがまま。断る訳が無かった。
輝かしい日々だった。暗く、寂しい日々は忘却の彼方へ消え去り、息子の毎日が楽しいという報告で埋め尽くされる日々が訪れた。
「今日はこんな事があった! すごい楽しかったよ!」
「楽器の練習、いっぱいしてるんだけど、全然上手くならなくてさぁ」
とりとめのない話。私は静かに聞いていた。
幸せだった。
『ずるり。
何かが這いずるようなそんな音がして、私は後ろを見る。暗闇に溶け込んでそこにいたのは……奴だった!
巨大な目玉が五つ、ギョロリと私の姿を捕らえる。黒い体に白い目は異様に映えて見えた。
「きゃぁぁぁぁーー!」
全力で逃げ出す!どうしてあの化け物がここに!?閉じこめたはずなのに!
考える余裕もなかった。後ろを確認すると、七本足の奴は猛烈なスピードで追いかけてきている。
あぁ、逃げ切る事など出来ないのだろう。私はあの黒い七本の手足に蹂躙され、三つの口で噛み千切られ、あっさりと殺されるのだろう。
どこまで逃げればいいのか。道に果てはないが、体力には限界がある。
あぁ、もうダメだ。息が……持たない……
私の足は、自然動きが鈍くなり、そしてもう一歩も動かせない。
ずるり。ずるり。
あの音だ。絶望の音だけが、聞こえる――』
ある日、あの男がこの町に来た。
きっと次に会えば殺されるだろう。再び私達は、町を移動しなければならなくなった。
息子は……かつて無い程抵抗した。
「イヤだ! 絶対イヤだ!」
そうはいっても、この町ももう安心して過ごせない。叩いて、怒鳴って、納得させた。
先に次の町へ行かせ、私は一人、奴と対峙した。すぐさま警察沙汰となり、警察や弁護士達を交えての話し合いを繰り返した。何度も何度も同じ話をし、苦心の末に一つの決着をつける事が出来た。私は、ようやく一つの町に落ち着く事が出来るようになったのだ。
必然その頃は別々に暮らしていたし、息子はそのまま新しい町で大学へ進学した。私は、その頃の息子がどんなだったか、ほとんど知らない。
大学卒業と共に、こちらの町へ帰ってくるとの連絡があった。教員免許を取得し、先生となるそうだ。何もこんな小さな町で先生なんてしなくて良いのでは?とも思ったが、息子のやりたい事だ、やりたいようにやらせようと反対はしなかった。
息子は、楽しそうだった。ずっと親孝行がしたかったと、息子も一緒に住む事を喜んでいた。
再びの、幸せな日々。どれくらい続いただろうか。
わぁっと泣き出しながら崩れ落ちる女中。俺は苦い顔で言葉を続ける。
「貴女には心底同情しますよ。でも、殺しちゃあいけない。それは犯罪になってしまう。貴女の憎んだ、あの男と同じになってしまう」
もう、俺の言葉なんて聞こえてはいないだろう。女中の泣き叫ぶ声が、いつまでも館に響いていた。』
あの男は、息子を殴りつけた。大の大人のパンチだ、子供など軽く吹っ飛ばされ、強かに床に落ち、動かなくなった。
さぁっと血の気が引いた。抜け殻になりそうだった。そしてその空っぽの体にグツグツと煮だった血液が、怒りが一瞬で満ちたのを覚えている。
私は半狂乱になって、何かを叫びながら手当たり次第に物を投げつけた。灰皿、本、置物。そして……花瓶。最後のそれが、当たり所が悪かったらしく、男はウッと小さく呻いて倒れ、そのまま動かなくなった。
それから……救急車を呼び、息子が病院で目を覚ましたのがその日の深夜。抱きしめて、泣いた。よほど怖かったのだろう、息子の髪は、一本残らず真っ白になっていた。
それから数日、息子を入院させたり、警察の取り調べを受けたりしてから、この町から逃げ出す事を決意した。
誰も私達を知らない町へ。息子と二人、ひっそりと暮らそう、と。
そうして遠くで暮らしていても、男の影はちらついていた。執念とでも呼べばいいのだろうか、死んだかと思われていたがただの軽傷、しかし恨み真髄、凄まじいエネルギーで私達を追いかけ続け、私達はそれから逃げ続けた。
長くて一年、短ければ数ヶ月。一所に留まることなく、流浪の民のように私達はさすらった。
幾つか目のある町で、息子は楽器がやりたいと言ってきた。私は、躊躇い無くすぐに、やりなさいと言った。その時の息子の目の輝きったら。今でも忘れる事は出来ない。
思えば私は、何一つ与える事の出来なかった母であった。そんな中でもわがまま一つ言わず、真っ直ぐ育ち、そして希望を持って生きようとしてくれた息子。そんな息子の滅多にないわがまま。断る訳が無かった。
輝かしい日々だった。暗く、寂しい日々は忘却の彼方へ消え去り、息子の毎日が楽しいという報告で埋め尽くされる日々が訪れた。
「今日はこんな事があった! すごい楽しかったよ!」
「楽器の練習、いっぱいしてるんだけど、全然上手くならなくてさぁ」
とりとめのない話。私は静かに聞いていた。
幸せだった。
『ずるり。
何かが這いずるようなそんな音がして、私は後ろを見る。暗闇に溶け込んでそこにいたのは……奴だった!
巨大な目玉が五つ、ギョロリと私の姿を捕らえる。黒い体に白い目は異様に映えて見えた。
「きゃぁぁぁぁーー!」
全力で逃げ出す!どうしてあの化け物がここに!?閉じこめたはずなのに!
考える余裕もなかった。後ろを確認すると、七本足の奴は猛烈なスピードで追いかけてきている。
あぁ、逃げ切る事など出来ないのだろう。私はあの黒い七本の手足に蹂躙され、三つの口で噛み千切られ、あっさりと殺されるのだろう。
どこまで逃げればいいのか。道に果てはないが、体力には限界がある。
あぁ、もうダメだ。息が……持たない……
私の足は、自然動きが鈍くなり、そしてもう一歩も動かせない。
ずるり。ずるり。
あの音だ。絶望の音だけが、聞こえる――』
ある日、あの男がこの町に来た。
きっと次に会えば殺されるだろう。再び私達は、町を移動しなければならなくなった。
息子は……かつて無い程抵抗した。
「イヤだ! 絶対イヤだ!」
そうはいっても、この町ももう安心して過ごせない。叩いて、怒鳴って、納得させた。
先に次の町へ行かせ、私は一人、奴と対峙した。すぐさま警察沙汰となり、警察や弁護士達を交えての話し合いを繰り返した。何度も何度も同じ話をし、苦心の末に一つの決着をつける事が出来た。私は、ようやく一つの町に落ち着く事が出来るようになったのだ。
必然その頃は別々に暮らしていたし、息子はそのまま新しい町で大学へ進学した。私は、その頃の息子がどんなだったか、ほとんど知らない。
大学卒業と共に、こちらの町へ帰ってくるとの連絡があった。教員免許を取得し、先生となるそうだ。何もこんな小さな町で先生なんてしなくて良いのでは?とも思ったが、息子のやりたい事だ、やりたいようにやらせようと反対はしなかった。
息子は、楽しそうだった。ずっと親孝行がしたかったと、息子も一緒に住む事を喜んでいた。
再びの、幸せな日々。どれくらい続いただろうか。
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