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零ノ章(序)
高昌国、滅亡す(貞観十四(六四〇)年、八月)
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貞観四(六三〇)年の冬、『高昌』国王の麴文泰が『唐』に入朝すると、時の皇帝、世民は、その王后、宇文氏に国姓である李姓を賜い、常楽公主に封じた。西域の重要な友好国である『高昌』に対する、ささやかな贈り物である。
この当時、西域諸国からの中国に対する朝貢は、『隋』末の混乱以降途絶えており、『高昌』国王の来朝は、『唐』にとって久々の西域からの賓客である。その意味からも、『高昌』国を迎え入れようとしている『唐』の朝廷の歓迎ぶりには特別なものがあったが、そのことが逆に麴文泰の不安を煽り、また、我欲を目覚めさせることともなった。
まず、その『高昌』国にとっての「不安」だが、それは、自国のすぐ東方、伊吾(ハミ)にまで『唐』がその勢力を直接及ぼすようになったことである。ソグド人の植民都市であった伊吾の七城が、首領の石萬年に率いられて『唐』に投降したのは、この年の夏のことだった。元々、伊吾は東突厥の支配下にあったのだが、その東突厥が『唐』の軍門に降ったことにより、伊吾もまた『唐』の勢力下に入ることを選択したのである。
この事態は、長年、突厥の勢力に脅かされて続けてきた西域諸国に大きな動揺をもたらしたが、とりわけ麴文泰にとっては、非常な衝撃を受ける出来事だった。高昌と伊吾は地理的な関係もあって、これまでにも深い関係を構築し続けており、昨年には、その伊吾に居留するソグド人を介して玄奘法師を自国に招来したことさえあったのだ。そんな身内同然の相手が、突然『高昌』国と縁を切り、『唐』の体制下に組み込まれてしまったのだから、
「次は我が身か?」
そんな疑心暗鬼が生まれたとしても、無理からぬところではあったろう。今回、麴文泰自ら来朝し、『唐』の皇帝、李世民のご機嫌を伺ったのは、その腹の内を探ることが目的だったのだが、「寛いでゆかれよ」と和やかな笑みを浮かべる世民の態度は丁重で、
(どうやら直ぐに、『高昌』国にまで手を伸ばしてくることはなさそうだ)
と、一先ず麴文泰は安堵することができた。
さあ、そうなると、今度は慾が頭を擡げてくる。自国の『唐』との交通路を閉ざしてしまえば、西域諸国からの交易品は『高昌』国内に留まらざるを得ず、これを上手く捌けば『唐』との交易を独占できることに気が付いたのである。
勿論、これは、『唐』に対する重大な裏切り行為以外の何物でもない。『唐』からその背信を責められることも当然覚悟しなければならず、麴文泰はその保障として、秘かに西突厥と結ぶことを考えた。西突厥から部族長を意味する「イルテベル」の称号を得ることに加えて、妹を可汗の一族に嫁がせることで、その紐帯としたのである。こうして背後を固めた麴文泰は、西突厥の一方の勢力、乙毗咄陸(イルビ・テュルク)と連携し、『唐』の庇護下にあった伊吾を攻撃することまで企てるに至った。
しかし、これはすぐさま『唐』の朝廷の察知するところとなり、皇帝、世民はこの謀略を憂慮し、『高昌』国の大臣冠軍の職にあった阿史那矩を名指しで召し寄せ、善後策を相談することを望んだ。けれど、高昌国内部では、
「絶対に冠軍を『唐』へ遣ってはなりません」
と、国王、麴文泰の側近たちは皆、口を揃えてこれに反対する。
というのも、阿史那矩はその姓からも知られるように、突厥の出身ながら、麴文泰のように、あからさまに『唐』と敵対しようとする政策には批判的で、
「もっと柔軟に、『唐』と西突厥という二大勢力の間で均衡を図るべき」
とする論者であり、一度長安に赴けば、『唐』との間でどのような約定を交わしてくるか、判らなかったからである。そこで、麴文泰は、王族の一員である長史の麴雍を遣わして謝罪させることで、なんとかお茶を濁している。
このことからも知られるように、「『唐』など恐れるに足らず」と、麴文泰と同様、高昌国の独立性を維持するためには、『唐』との対立も已む無しとする勢力が存在する一方で、それはあまりにも危険な火遊びだと、国王の暴走を危ぶむ勢力も一方にはあった。この二百数十年、西域のオアシス都市国家が曲がりなりにも独立が保てていたのは、中国の政治勢力が幾つにも分裂し、西域に影響力を及ぼすことができなかった偶然の産物でしかないことを認識する者も、決して少なくはなかったのである。
中国に新たな統一王朝が成立した以上、いままでと同じようなやり方が通用するはずはないのだが、しかし、基本的に麴文泰の露骨な反『唐』姿勢が変化することはなかった。当然、こうした『高昌』国の政治姿勢は、他の西域諸国との間に摩擦を生じさせることとなる。
特に、『焉耆』(カラシャール)の王、龍突騎支は貞観六(六三二)年、『唐』に直接使者を派遣し、『高昌』を経由せずに朝貢と交易が行えるよう、「大磧路」を再び開通させるよう依頼している。『高昌』国が西域諸国との交易を独占できた原因は、『隋』末の動乱によって大磧路が荒廃して不通となり、他に交通路がなくなっていたからである。この請願は、『高昌』国に『唐』への交通路を閉ざされた形となっている西域諸国からしてみれば、まったく無理のないものだが、これが明らかとなった途端、自国の利益と交易上の地位を侵害される『高昌』国は怒りを爆発させ、両者の関係は悪化した。そして、その帰結として、『高昌』は西突厥とともに『焉耆』の三城を攻撃するという挙に及んだのである。
当然、侵略を受けた『焉耆』王は、上表してこれを『唐』の朝廷に訴えた。捨て置けなくなった世民は、虞部郎中の李道裕を『高昌』へ派遣し、その行状を厳しく詰問することで、『唐』の厳しい姿勢を『高昌』に対して示している。これにより、しばらく西域は平静を保つことができていたのだが、貞観十二(六三八)年、再び『高昌』は、西突厥の処月部・処密部と連携し、『焉耆』の五城を攻め落とし、男女千五百人を掠め、その廬舎を焼いて去るという暴挙に出てしまう。このため、翌十三(六三九)年、西域諸国の声を代弁する形で、薛延陀部の可汗から『高昌』討伐の請願が出されると、世民はついにこれを許可するしかなかった。
しかし、その一方で、世民は麴文泰に璽書を示し、最後の機会を与えるべく、国王自ら来朝し、申し開きをするよう命じてもいる。これは、当時の『唐』の朝廷内では、宰相である魏徴を中心に、関外の西域の地を得たとしても、本国からは遥かに遠く、守備兵を置いて守りきることは難しいとする意見が大勢だったことに配慮したものであったと考えてよい。世民としても、『高昌』国と本格的な戦闘に入るということになれば、その背後に存在する西突厥とも戦端を開くことになりかねない懸念があり、避けられるものであれば避けたいというのが本音だったろう。
だが、結局のところ、このあたりの空気を麴文泰は読み切れなかった。長安に赴き、そのまま断罪されることを恐れた彼は、最終的にこの命令に応じなかったのである。一方、『高昌』国がその後ろ盾と頼む西突厥においても、大きな状況の変化があった。『高昌』国支援を標榜する乙毗咄陸可汗の勢力と、『唐』と近しい関係にある一派との間で大規模な内乱が起こり、双方ともに大きな打撃を受けて撤退するという事件が起こったのである。
この結果を受けて、西突厥が『高昌』国を支援する可能性は薄れたとして、世民もついに意を固め、吏部尚書の侯君集を拝して交河道大総管に任命し、左屯衛大将軍の薛万均、薩狐呉仁をその副官に配すると同時に、突厥と契苾の衆を麾下に配した歩騎数万の軍勢を蕃将、契苾何力らに率いさせることによって、『高昌』討伐を行う旨の詔を正式に下した。
交河城(※一)の一室では、鎧を着こんで武装した麴智盛と麴智湛の兄弟がそれぞれに長史(※二)を引き連れ、父王、麴文泰に拝謁を求めていた。
「父上、『唐』の朝廷において、我が国討伐の命が下されましたぞ。間もなく『唐』の軍勢が攻めてまいります。一体どうなされるおつもりなのですか?」
先に口を開いたのは智盛だったが、その声は妙に甲高く、言葉というよりも悲鳴に近かった。他の者たちも、その顔色は蒼白である。だが、麴文泰だけはまったく鷹揚としたもので、「何を慌てておる」と、息子たちの狼狽ぶりを窘める。
「『唐』の都、長安はここから四千里もの東にあり、しかも、砂漠によって二千里を隔てられている。昔、儂が『隋』に入朝した際、秦隴の北にある城邑を見たが、荒れていた。さらに、いまの荒廃ぶりは、あの頃の比ではない。『唐』は、いま『高昌』を討とうとしているが、多数の兵を動員しようとすれば、糧食の調達だけでも大変だ。もし兵力が三万以下ならば、儂には十分に制圧できる目算がある」
そう豪語してみせる。
「我々が狼狽えた姿を見せると、城内の者たちが浮足立つ。為政者たるもの、このような時こそ、常に堂々としておるものだ」
麴文泰はいささか傲慢とも云える態度で、息子たちに苦言を呈した。
「それに、『唐』軍が一度、莫賀延磧に足を踏み入れれば、地に水草は無く、冬の風は凍えるように冷たく、夏の風は焼けるように暑い。砂漠の風の吹くところ、誰もが疲労し、動きも鈍くなるものだ。『唐』軍が勝手に疲弊し、敵の気勢が削がれるのを横になって待っていればいいだけよ」
その間に、西突厥の精兵が駆けつけてくれることになっていると、麴文泰は己が戦略を得意げに語ってみせるが、そんな余裕綽々な父王の顔を見ているうちに、智盛は、
(本気で云っておられるのか、父上は?)
熱くなっていった頭がすっと冷めていく、そんな不思議な感覚を覚えていた。
たしかに莫賀延磧は天然の要害で、慣れたソグド人の隊商の者たちでも、渡るのに非常な苦労があることは確かだ。しかし、物資の補給も万全で、鍛え上げられた『唐』軍の精鋭部隊がここを通過するのに、どれほどの困難があると云うのだ。しかも、そのなかには、こうした環境に慣れ親しんだ東突厥や鉄勒部族から構成される部隊も数多く参加している。国王はあまりにも軍事的な知見が乏しすぎると、智盛は絶望していた。
(それに父上は、西突厥の実力を過大評価されている)
統葉護可汗(トン・ヤブグ・カガン)の元で一つにまとまっていた頃なら、まだしも頼り甲斐があり、『唐』に対抗する後ろ盾としての意義もあったかもしれない。しかし、彼が暗殺されてから後、西突厥では内紛が絶えず、いまも二人の可汗、乙毘咄陸可汗と乙毘沙鉢羅葉護可汗(イルビ・イシュバラ・ヤブグ・カガン)が並立しているような状態だ。その両勢力が激突し、大きな打撃を被ってしまったいま、乙毘咄陸可汗に援軍を送ってくれるような、そんな余力があるとは到底思えない。
(この程度の浅い考えで、父上は動いておられたのか!?)
敬虔な仏教徒であり、家族にも優しい良い父親だが、国を統治する者としての政治感覚がこれでは、失望よりも怒りに近い感情がいま、智盛の脳裏には湧き上がっていた。横目で智湛の表情を窺がってみると、やはり同じような気色を浮かべている。
(なんとか、いまからでも『唐』と和睦を探る道はないものか……)
智盛は必死で考え始めていた。
いまさら間に合うかどうかは判らないが、『唐』の朝廷内に働きかけてみる意味はあると、智盛は思った。西域諸国に対する統治に関しては、直接統治に乗り出し、領土を広げるべきとする積極派と、無用な衝突は避け、現地の勢力を懐柔しながら間接統治すべきという、いわゆる羈縻政策派の間で対立があると耳にしている。特に昨年、東突厥の遺民が皇帝の暗殺を謀った「九成宮事件」によって、いまは後者の勢力の方が優勢らしい。それなら、試してみる価値は十分にあるはずだ。
(だが、その場合でも、こちらとしても誠意を見せるために、最低限の条件を用意しておくことは必要だ)
詫びの印として、国庫の半分も差し出せば足りるだろうか。
(いや、そんなことではとても済むまい)
少なくとも王族のなかから誰か、人質代わりに『唐』の皇帝の後宮に送り込むぐらいのことは考える必要がありそうだ。
(それも、皇帝に気に入られるような、なにか特別な魅力を持っている者が望ましい)
考えられるとすれば、楽に長けたあの姫ぐらいしか思い当たらないがと、そんなことを思っているうちに、ふと智盛は重要なことに気が付いた。
(けれど、そもそも父上が、『唐』との和睦に首を縦に振られるか?)
『唐』との戦に勝利するという妄想を確信している眼前の姿を見ている限り、その可能性は限りなく零に近いだろう。
(まず、父上をなんとかしなければ、……)
そんな黒い疑念に凝り固まった眼差しで、智盛はただ黙って老いた国王を見つめ続けていた。
侯君集は麾下の将軍たちからの報告にいちいち頷きながら、整然と居並ぶ各部隊の勇壮さを楽しんでいた。
(やはり戦場は、身が引き締まる‼)
主上の意向を踏まえながら、朝廷の奥深くで役人たちの人事をいじっているのも、己の権勢欲を満たす意味では悪くないが、ただどうしても肩は凝ってしまうし、息も詰まる。その点、戦場で指揮を執るのは、全身が震えるような恐怖もあるが、相手を蹴散らした時の爽快感は麻薬的だ。
(それに今回は、しっかりと城に根を下ろした敵が相手なのが助かる)
遊牧騎馬民族との戦闘は過酷だ。勢いづいて攻めてこられるのも厄介だが、分が悪くなればあっさりと逃走してしまうので、これを追尾するのは至難の業だからである。しかし、今回は攻城戦であり、敵兵の数もこちらの一割にも満たず、しかも、西突厥からの援軍の可能性は薄い。
(万に一つも敗れる要素はない)
侯君集の歴戦の経験に基づく意識が、そう呟いている。
(後は、陛下からの御内命をいかにうまくこなすかだ)
全軍に進発を命じる侯君集の喚声は、久々に戦場へと赴ける喜びに満ちていた。
この当時、西域諸国からの中国に対する朝貢は、『隋』末の混乱以降途絶えており、『高昌』国王の来朝は、『唐』にとって久々の西域からの賓客である。その意味からも、『高昌』国を迎え入れようとしている『唐』の朝廷の歓迎ぶりには特別なものがあったが、そのことが逆に麴文泰の不安を煽り、また、我欲を目覚めさせることともなった。
まず、その『高昌』国にとっての「不安」だが、それは、自国のすぐ東方、伊吾(ハミ)にまで『唐』がその勢力を直接及ぼすようになったことである。ソグド人の植民都市であった伊吾の七城が、首領の石萬年に率いられて『唐』に投降したのは、この年の夏のことだった。元々、伊吾は東突厥の支配下にあったのだが、その東突厥が『唐』の軍門に降ったことにより、伊吾もまた『唐』の勢力下に入ることを選択したのである。
この事態は、長年、突厥の勢力に脅かされて続けてきた西域諸国に大きな動揺をもたらしたが、とりわけ麴文泰にとっては、非常な衝撃を受ける出来事だった。高昌と伊吾は地理的な関係もあって、これまでにも深い関係を構築し続けており、昨年には、その伊吾に居留するソグド人を介して玄奘法師を自国に招来したことさえあったのだ。そんな身内同然の相手が、突然『高昌』国と縁を切り、『唐』の体制下に組み込まれてしまったのだから、
「次は我が身か?」
そんな疑心暗鬼が生まれたとしても、無理からぬところではあったろう。今回、麴文泰自ら来朝し、『唐』の皇帝、李世民のご機嫌を伺ったのは、その腹の内を探ることが目的だったのだが、「寛いでゆかれよ」と和やかな笑みを浮かべる世民の態度は丁重で、
(どうやら直ぐに、『高昌』国にまで手を伸ばしてくることはなさそうだ)
と、一先ず麴文泰は安堵することができた。
さあ、そうなると、今度は慾が頭を擡げてくる。自国の『唐』との交通路を閉ざしてしまえば、西域諸国からの交易品は『高昌』国内に留まらざるを得ず、これを上手く捌けば『唐』との交易を独占できることに気が付いたのである。
勿論、これは、『唐』に対する重大な裏切り行為以外の何物でもない。『唐』からその背信を責められることも当然覚悟しなければならず、麴文泰はその保障として、秘かに西突厥と結ぶことを考えた。西突厥から部族長を意味する「イルテベル」の称号を得ることに加えて、妹を可汗の一族に嫁がせることで、その紐帯としたのである。こうして背後を固めた麴文泰は、西突厥の一方の勢力、乙毗咄陸(イルビ・テュルク)と連携し、『唐』の庇護下にあった伊吾を攻撃することまで企てるに至った。
しかし、これはすぐさま『唐』の朝廷の察知するところとなり、皇帝、世民はこの謀略を憂慮し、『高昌』国の大臣冠軍の職にあった阿史那矩を名指しで召し寄せ、善後策を相談することを望んだ。けれど、高昌国内部では、
「絶対に冠軍を『唐』へ遣ってはなりません」
と、国王、麴文泰の側近たちは皆、口を揃えてこれに反対する。
というのも、阿史那矩はその姓からも知られるように、突厥の出身ながら、麴文泰のように、あからさまに『唐』と敵対しようとする政策には批判的で、
「もっと柔軟に、『唐』と西突厥という二大勢力の間で均衡を図るべき」
とする論者であり、一度長安に赴けば、『唐』との間でどのような約定を交わしてくるか、判らなかったからである。そこで、麴文泰は、王族の一員である長史の麴雍を遣わして謝罪させることで、なんとかお茶を濁している。
このことからも知られるように、「『唐』など恐れるに足らず」と、麴文泰と同様、高昌国の独立性を維持するためには、『唐』との対立も已む無しとする勢力が存在する一方で、それはあまりにも危険な火遊びだと、国王の暴走を危ぶむ勢力も一方にはあった。この二百数十年、西域のオアシス都市国家が曲がりなりにも独立が保てていたのは、中国の政治勢力が幾つにも分裂し、西域に影響力を及ぼすことができなかった偶然の産物でしかないことを認識する者も、決して少なくはなかったのである。
中国に新たな統一王朝が成立した以上、いままでと同じようなやり方が通用するはずはないのだが、しかし、基本的に麴文泰の露骨な反『唐』姿勢が変化することはなかった。当然、こうした『高昌』国の政治姿勢は、他の西域諸国との間に摩擦を生じさせることとなる。
特に、『焉耆』(カラシャール)の王、龍突騎支は貞観六(六三二)年、『唐』に直接使者を派遣し、『高昌』を経由せずに朝貢と交易が行えるよう、「大磧路」を再び開通させるよう依頼している。『高昌』国が西域諸国との交易を独占できた原因は、『隋』末の動乱によって大磧路が荒廃して不通となり、他に交通路がなくなっていたからである。この請願は、『高昌』国に『唐』への交通路を閉ざされた形となっている西域諸国からしてみれば、まったく無理のないものだが、これが明らかとなった途端、自国の利益と交易上の地位を侵害される『高昌』国は怒りを爆発させ、両者の関係は悪化した。そして、その帰結として、『高昌』は西突厥とともに『焉耆』の三城を攻撃するという挙に及んだのである。
当然、侵略を受けた『焉耆』王は、上表してこれを『唐』の朝廷に訴えた。捨て置けなくなった世民は、虞部郎中の李道裕を『高昌』へ派遣し、その行状を厳しく詰問することで、『唐』の厳しい姿勢を『高昌』に対して示している。これにより、しばらく西域は平静を保つことができていたのだが、貞観十二(六三八)年、再び『高昌』は、西突厥の処月部・処密部と連携し、『焉耆』の五城を攻め落とし、男女千五百人を掠め、その廬舎を焼いて去るという暴挙に出てしまう。このため、翌十三(六三九)年、西域諸国の声を代弁する形で、薛延陀部の可汗から『高昌』討伐の請願が出されると、世民はついにこれを許可するしかなかった。
しかし、その一方で、世民は麴文泰に璽書を示し、最後の機会を与えるべく、国王自ら来朝し、申し開きをするよう命じてもいる。これは、当時の『唐』の朝廷内では、宰相である魏徴を中心に、関外の西域の地を得たとしても、本国からは遥かに遠く、守備兵を置いて守りきることは難しいとする意見が大勢だったことに配慮したものであったと考えてよい。世民としても、『高昌』国と本格的な戦闘に入るということになれば、その背後に存在する西突厥とも戦端を開くことになりかねない懸念があり、避けられるものであれば避けたいというのが本音だったろう。
だが、結局のところ、このあたりの空気を麴文泰は読み切れなかった。長安に赴き、そのまま断罪されることを恐れた彼は、最終的にこの命令に応じなかったのである。一方、『高昌』国がその後ろ盾と頼む西突厥においても、大きな状況の変化があった。『高昌』国支援を標榜する乙毗咄陸可汗の勢力と、『唐』と近しい関係にある一派との間で大規模な内乱が起こり、双方ともに大きな打撃を受けて撤退するという事件が起こったのである。
この結果を受けて、西突厥が『高昌』国を支援する可能性は薄れたとして、世民もついに意を固め、吏部尚書の侯君集を拝して交河道大総管に任命し、左屯衛大将軍の薛万均、薩狐呉仁をその副官に配すると同時に、突厥と契苾の衆を麾下に配した歩騎数万の軍勢を蕃将、契苾何力らに率いさせることによって、『高昌』討伐を行う旨の詔を正式に下した。
交河城(※一)の一室では、鎧を着こんで武装した麴智盛と麴智湛の兄弟がそれぞれに長史(※二)を引き連れ、父王、麴文泰に拝謁を求めていた。
「父上、『唐』の朝廷において、我が国討伐の命が下されましたぞ。間もなく『唐』の軍勢が攻めてまいります。一体どうなされるおつもりなのですか?」
先に口を開いたのは智盛だったが、その声は妙に甲高く、言葉というよりも悲鳴に近かった。他の者たちも、その顔色は蒼白である。だが、麴文泰だけはまったく鷹揚としたもので、「何を慌てておる」と、息子たちの狼狽ぶりを窘める。
「『唐』の都、長安はここから四千里もの東にあり、しかも、砂漠によって二千里を隔てられている。昔、儂が『隋』に入朝した際、秦隴の北にある城邑を見たが、荒れていた。さらに、いまの荒廃ぶりは、あの頃の比ではない。『唐』は、いま『高昌』を討とうとしているが、多数の兵を動員しようとすれば、糧食の調達だけでも大変だ。もし兵力が三万以下ならば、儂には十分に制圧できる目算がある」
そう豪語してみせる。
「我々が狼狽えた姿を見せると、城内の者たちが浮足立つ。為政者たるもの、このような時こそ、常に堂々としておるものだ」
麴文泰はいささか傲慢とも云える態度で、息子たちに苦言を呈した。
「それに、『唐』軍が一度、莫賀延磧に足を踏み入れれば、地に水草は無く、冬の風は凍えるように冷たく、夏の風は焼けるように暑い。砂漠の風の吹くところ、誰もが疲労し、動きも鈍くなるものだ。『唐』軍が勝手に疲弊し、敵の気勢が削がれるのを横になって待っていればいいだけよ」
その間に、西突厥の精兵が駆けつけてくれることになっていると、麴文泰は己が戦略を得意げに語ってみせるが、そんな余裕綽々な父王の顔を見ているうちに、智盛は、
(本気で云っておられるのか、父上は?)
熱くなっていった頭がすっと冷めていく、そんな不思議な感覚を覚えていた。
たしかに莫賀延磧は天然の要害で、慣れたソグド人の隊商の者たちでも、渡るのに非常な苦労があることは確かだ。しかし、物資の補給も万全で、鍛え上げられた『唐』軍の精鋭部隊がここを通過するのに、どれほどの困難があると云うのだ。しかも、そのなかには、こうした環境に慣れ親しんだ東突厥や鉄勒部族から構成される部隊も数多く参加している。国王はあまりにも軍事的な知見が乏しすぎると、智盛は絶望していた。
(それに父上は、西突厥の実力を過大評価されている)
統葉護可汗(トン・ヤブグ・カガン)の元で一つにまとまっていた頃なら、まだしも頼り甲斐があり、『唐』に対抗する後ろ盾としての意義もあったかもしれない。しかし、彼が暗殺されてから後、西突厥では内紛が絶えず、いまも二人の可汗、乙毘咄陸可汗と乙毘沙鉢羅葉護可汗(イルビ・イシュバラ・ヤブグ・カガン)が並立しているような状態だ。その両勢力が激突し、大きな打撃を被ってしまったいま、乙毘咄陸可汗に援軍を送ってくれるような、そんな余力があるとは到底思えない。
(この程度の浅い考えで、父上は動いておられたのか!?)
敬虔な仏教徒であり、家族にも優しい良い父親だが、国を統治する者としての政治感覚がこれでは、失望よりも怒りに近い感情がいま、智盛の脳裏には湧き上がっていた。横目で智湛の表情を窺がってみると、やはり同じような気色を浮かべている。
(なんとか、いまからでも『唐』と和睦を探る道はないものか……)
智盛は必死で考え始めていた。
いまさら間に合うかどうかは判らないが、『唐』の朝廷内に働きかけてみる意味はあると、智盛は思った。西域諸国に対する統治に関しては、直接統治に乗り出し、領土を広げるべきとする積極派と、無用な衝突は避け、現地の勢力を懐柔しながら間接統治すべきという、いわゆる羈縻政策派の間で対立があると耳にしている。特に昨年、東突厥の遺民が皇帝の暗殺を謀った「九成宮事件」によって、いまは後者の勢力の方が優勢らしい。それなら、試してみる価値は十分にあるはずだ。
(だが、その場合でも、こちらとしても誠意を見せるために、最低限の条件を用意しておくことは必要だ)
詫びの印として、国庫の半分も差し出せば足りるだろうか。
(いや、そんなことではとても済むまい)
少なくとも王族のなかから誰か、人質代わりに『唐』の皇帝の後宮に送り込むぐらいのことは考える必要がありそうだ。
(それも、皇帝に気に入られるような、なにか特別な魅力を持っている者が望ましい)
考えられるとすれば、楽に長けたあの姫ぐらいしか思い当たらないがと、そんなことを思っているうちに、ふと智盛は重要なことに気が付いた。
(けれど、そもそも父上が、『唐』との和睦に首を縦に振られるか?)
『唐』との戦に勝利するという妄想を確信している眼前の姿を見ている限り、その可能性は限りなく零に近いだろう。
(まず、父上をなんとかしなければ、……)
そんな黒い疑念に凝り固まった眼差しで、智盛はただ黙って老いた国王を見つめ続けていた。
侯君集は麾下の将軍たちからの報告にいちいち頷きながら、整然と居並ぶ各部隊の勇壮さを楽しんでいた。
(やはり戦場は、身が引き締まる‼)
主上の意向を踏まえながら、朝廷の奥深くで役人たちの人事をいじっているのも、己の権勢欲を満たす意味では悪くないが、ただどうしても肩は凝ってしまうし、息も詰まる。その点、戦場で指揮を執るのは、全身が震えるような恐怖もあるが、相手を蹴散らした時の爽快感は麻薬的だ。
(それに今回は、しっかりと城に根を下ろした敵が相手なのが助かる)
遊牧騎馬民族との戦闘は過酷だ。勢いづいて攻めてこられるのも厄介だが、分が悪くなればあっさりと逃走してしまうので、これを追尾するのは至難の業だからである。しかし、今回は攻城戦であり、敵兵の数もこちらの一割にも満たず、しかも、西突厥からの援軍の可能性は薄い。
(万に一つも敗れる要素はない)
侯君集の歴戦の経験に基づく意識が、そう呟いている。
(後は、陛下からの御内命をいかにうまくこなすかだ)
全軍に進発を命じる侯君集の喚声は、久々に戦場へと赴ける喜びに満ちていた。
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歴史・時代
彼の大戦争から80年近くが経ち、ミニオタであった高萩蒼(たかはぎ あおい)はある戦闘機について興味本位で調べることになる。二式艦上戦闘機、またの名を風翔。調べていく過程で、当時の凄惨な戦争についても知り高萩は現状を深く考えていくことになる。
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忍者同心 服部文蔵
大澤伝兵衛
歴史・時代
八代将軍徳川吉宗の時代、服部文蔵という武士がいた。
服部という名ではあるが有名な服部半蔵の血筋とは一切関係が無く、本人も忍者ではない。だが、とある事件での活躍で有名になり、江戸中から忍者と話題になり、評判を聞きつけた町奉行から同心として採用される事になる。
忍者同心の誕生である。
だが、忍者ではない文蔵が忍者と呼ばれる事を、伊賀、甲賀忍者の末裔たちが面白く思わず、事あるごとに文蔵に喧嘩を仕掛けて来る事に。
それに、江戸を騒がす数々の事件が起き、どうやら文蔵の過去と関りが……
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日本が危機に?第二次日露戦争
杏
歴史・時代
2023年2月24日ロシアのウクライナ侵攻の開始から一年たった。その日ロシアの極東地域で大きな動きがあった。それはロシア海軍太平洋艦隊が黒海艦隊の援助のために主力を引き連れてウラジオストクを離れた。それと同時に日本とアメリカを牽制する為にロシアは3つの種類の新しい極超音速ミサイルの発射実験を行った。そこで事故が起きた。それはこの事故によって発生した戦争の物語である。ただし3発も間違えた方向に飛ぶのは故意だと思われた。実際には事故だったがそもそも飛ばす場所をセッティングした将校は日本に向けて飛ばすようにセッティングをわざとしていた。これは太平洋艦隊の司令官の命令だ。司令官は黒海艦隊を支援するのが不服でこれを企んだのだ。ただ実際に戦争をするとは考えていなかったし過激な思想を持っていた為普通に海の上を進んでいた。
なろう、カクヨムでも連載しています。
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