『晋書』編纂異聞 ~英主の妄執と陰謀~

織田正弥

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弐拾ノ章(壱)

李治、策謀から撤退す(貞観二十二(六四八)年、九月)

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「長安にいる者たちを引き揚げる?つまり、撤退するということか?」
「はい、残念ながら。既に事は敗れたかと、……」
 誠に申し訳ございません。そう云ったまま潤宝は片膝をつき、床を凝視したまま顔を上げることもできず、ただ李治からの言葉を待っている。
 主上が筆を取られた「聖教序」が冠された新譯経典が広く天下に頒布されたのに続き、皇太子もこれに倣い、「大唐三蔵述聖記」を著わし、仏教界を喜ばせている。これの意味するところは、
(陛下は自分亡き後の玄奘の後援者として、皇太子にその任を託したということだ)
 そして、それは同時に、次代の皇帝の座を李治に譲ることを決断したということでもある。勝負は決したのだ。
「玄奘の新たな翻譯場として、皇太子殿下が現在建立を進められている大慈恩寺が提供され、玄奘はその上座(※一)に迎えられることも決まったそうでございます」
 潤宝の言葉がまるで羽虫が飛び交っているかのごとく、李治の耳には不快に響く。
(どのような経緯があったかは判らぬが、こちらの狙いは、完全に裏目に出たということだな)
 李恪は深く唇を噛んだ。苦い血の味が舌に滲む。
 玉華宮で静養されている父帝の傍らに玄奘が長らく留め置かれ、親しく言葉を交わしていることは、母、楊淑妃からの便りで李恪は承知していた。辯機からの進言を受けているはずの玄奘が、そこでどのような会話を父帝と交わしているのか、遠く安州の地から、彼は固唾を呑んで見守っていたのである。楽観はしていなかったが、期待していなかったと云えば嘘になる。
(しかし、その結果がこれか、……)
 失望感よりも、得体の知れない怒りのようなものが湧き上がりかけるが、李恪はそれをもう一度、肚の奥底に深く沈めてゆく。
(『晋書』の件といい、今回のことといい、結局、天は私の方に振り向いてくれなかった。ただ、それだけのことだ)
 無念ではあるが、仕方がない。
(むしろ、気を付けなければならないのはこの後だ)
 こちらの画策が長孫侍中の網にかかっていたかどうかは判らない。だが、もし知られていたとしても、李治が皇位に就き、その政権が完全に安定するまでは、こちらを完全に潰しにくるようなことはないだろう。皇室内に諍いがあり、新帝の足元が危ういことを世に知らしめるようなことは、侍中も望むところではないはずだ。
(だが、機会さえあればいつでも処分が下せるように、確たる証拠を握りたいと考えていることは間違いない)
 逆に云うと、それさえ掴まれていなければ、万が一のことがあったとしても、さすがの長孫無忌も、最終的にこちらを完全には追い詰めることはできないということだ。その絶好の例として、仕掛けていた罠は外されたものの、すべてが有耶無耶のまま、既に何事もなく済んでいる『晋書』の前例がある。やはり後始末に関しても、あの者は相当な巧者ということだ。
 ならば、こちらも、それに倣うとしよう。今回の件で片付けなければならないことがあるとするなら、
(それは、辯機だな)
 李恪は問題の所在を的確に把握していた。公主との密通の件がある限り、辯機自ら妙な動きをすることはないはずだが、
(『呉王を皇太子にと画策する一派があり、その者たちから脅迫されていました』と、そう事実を語ることのできる生き証人にはなれる)
 やはりこの際、口は塞いでおくに越したことはない。
(それにもう一人、……)
 李恪は眼下で跪く男にも、冷たい視線を向ける。
「潤宝、終わってしまったことを悔いてみても始まらぬ。それより、後始末こそ肝要だ。判っているな?」
「はっ、心得ております」
 潤宝は顔を上げ、ほっとした表情になって答えた。今回の失策で、どのように叱責されるかと覚悟していただけに、助かったという内面の感情が面に出ている。
(これがこの漢の限界だな)
 軍師になれるような器も覚悟も持ち合わせてはいない。冷徹にそう李治は分析していた。
「外部の者ではありますが、頼りになる漢に既に命じております。京師にある孫蓋には、それを見届けてから戻るように指示を与えてありますので、旬日の内には報せが届くかと」
 さすがに最低限のやり様ぐらいは、こちらが指示しなくても心得ているようだ。李恪はただ頷いてみせることで、満足の意を示した。
(さて、後はこの漢をどうするか、だ)
 これまでなかなか役に立ってくれたが、肝心のところでその信頼は潰えた。
(後の始末は、やはりあの者に任すか)
 李格の心はもう定まっている。後はどのような口実で、潤宝をあの者の元に送り出すかを考えるだけだ。
(今宵の酒は、かなり苦くなりそうだ)
 李格の心に、不意にそんな思いが浮かんでいた。
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