『晋書』編纂異聞 ~英主の妄執と陰謀~

織田正弥

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弐拾ノ章(弐)

王栄、盗賊団を捕縛す

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(嫌な臭いだ……)
 龐塞は眉を顰め、右の蟀谷のあたりをそっと指で押さえた。本当に臭いがしているかどうかは判らない。しかし、彼独特の感覚で、差し迫った危険を察知すると、必ずこの不快な臭いを感じてしまうのだ。戦場を駆け巡っていた頃は、日常茶飯事だったこの感覚も、軍を離れて以来、久しく感じることもなく、もう、完全に記憶から消え去ったと思っていた。けれど、この背筋がぞくぞくするような感覚は、決して気のせいではないと龐塞には判る。
(おそらく、捕り方だな)
 それも、軍の兵士が混じっている。役所の捕吏だけなら、これほど殺気立った気配にはならないはずだ。だとすれば、こちらの過去も、大方探り当てられていると思って間違いない。一味の者すべてではないが、たしかにこちらには歴戦の強者が何人も含まれている。
(さて、どの件で手が回ったのか……)
 龐塞はまず、それを考えた。侯将軍の刑死後、生きていくために手を染めたのは盗賊で、将軍を見殺しにした関係者たちを腹癒せに襲ったのがはじまりだったが、それ以外にも、報酬次第で頼まれればなんでもやってきた。無論、人殺しだって例外ではなく、いまも急ぎの案件を一件抱えている。だが、さすがにそれを実行するのは、もう諦めるしかなさそうだ。
(もし、発覚したのが盗賊の件だけだとすると、万が一捕まったとしても、流刑で済む可能性はあるか?)
 ふと、そんなことをいつの間にか考えている自分が、龐塞には可笑しくて仕方なかった。戦場で死にかけたことなど数えきれない。退役してからの裏稼業ではなおさらだ。
(そんな俺が、いまさら死ぬのが怖いのか⁉)
 こんな臆病風に吹かれるぐらいなら、やはりあの時、将軍と運命をともにしておくべきだったかなと、少し後悔に近い感情を龐塞は抱き始めていた。

(まだかな、合図は……)
 状況にはなんとも不似合いな悠然とした気分で、王栄は、合図が送られてくるのをただじっと待っていた。もう陽は半ば落ちかかっている。間もなく豊邑坊の門は閉じられ、獲物が動ける範囲はこの坊内だけに限られる。そこを狙って、事を起こすのは陽が落ちる直前ということで、打ち合わせはできていた。
 目指しているのは豊邑坊内に何軒か集まる凶肆のうちの一軒で、捕縛すべき対象は男十二人と女が三人の計十五人。京兆府主体の捕吏二十五名に加え、京師を警備する南衙の兵士二十名の手を借りて、総勢四十五名で一斉に踏み込む手筈となっており、その際、合図として、戦場用の銅鑼が打ち鳴らされることが決まっていた。王栄は、その本体とは別に、別動隊として、坊内で逃げ道となりそうな場所を塞ぐ三隊を指揮する役割を担っていた。
 獲物を炙り出した当人としては、本当なら、本体を率いて最前線に立ちたいところだが、主役は京兆府に譲っている。あちらに花を持たせてやるという約束は守らなければならない。
(これがいわゆる、「大人の事情」というやつだな)
 両筆のお蔭でいい勉強をさせてもらっている。王栄はそんなふうに納得していた。
 御史台と京兆府は対立することも多いが、末端同士では協力し合わないと実際のところ仕事にならない。今回の京兆府と合同での大捕物は、来令史が上手くあちらと話をつけてくれたお蔭で実現できたのだ。ここは大人にならないわけにはいかなかった。
 だが、その反面、一抹の不安もある。
(京兆府の奴ら、本当に上手くやれるか?)
 今回、相手に戦場経験の豊富な人間が多数含まれているということで、京兆府の側も慎重を期して南衙に応援を乞い、二十名の兵士を借り受けているのだが、
(このあたりの計算は難しいところだ)
 そう王栄は思っていた。たしかに南衙の兵士が加わってくれたことで、単純な武力ということなら大いに強化されたのは間違いない。しかし、挑んでくる者と戦って相手を倒すのと、必死で逃げようとする者を捕らえるのとでは、自ずとやり方は異なるのだ。後者の場合、それなりにコツがいる。もし、捕らえることだけに重点を置くのであれば、むしろ京兆府単独で動いた方が確実なのではないか。
(信用しないわけではないんだが、……)
 敵は全部で十五人だ。これを完全に一網打尽にしようとすると、こちらも最低その三倍の人員は確保したい。それも考慮に入れたうえで、京兆府は南衙に応援をたのんだのだろう。それだけ、今回の捕物に京兆府は気合が入っており、同時に失敗を恐れてもいる。それもこれも、手の足りない御史台側から頭を下げて、京兆府に話を持ち込んだからなのだが、その話に乗った京兆府が、逆にこちらに突き付けてきた条件は二つだ。
 ・現場の指揮は京兆府が主体となり、御史台はその指示に従うこと
 ・捕らえた者たちの取り調べは、京兆府が優先して行うこと
「どうだ、この条件。呑めるか?」
 京兆府から戻ってきた令史からこう打診されたとき、正直なところ、
(人の足元を見やがって⁉)
 一瞬、頭に血がのぼりかけたことは事実だ。だが、すぐに冷静になれた。
 御史台として本当に受け入れがたい条件であるなら、その場で令史は拒絶したはずで、御史台まで持って帰ってくるはずがない。それをあえて持ち帰ってきたということは、
(事件が一つでも片付くのなら、どこの手柄になっても構わないじゃないか)
 そう教えてくれているのだと、直ぐに悟ったからである。
 そこで、今回、最初に突入する本体は京兆府ということになった。京兆府の側で全員を捕縛することができれば、遊軍である御史台にはなんの役割もないまま終わってしまうだけである。その後の取り調べも、京兆府が引き続き行うこととなるので、おそらく王栄がこれまで苦労して調べ上げた事実も、京兆府の探索の成果として記録されることになるのだろう。
 もちろん、そうなったとしても、王栄にはなんのわだかまりもない。けれど、その一方で、そう簡単に終わらないのではないか。そんな予感めいたものが、王栄の胸を占めていた。特に王栄が気になっているのは、店主を名乗る四十半ばの眇目の男のことだった。名を龐塞と云い、雑多な戦場で活躍して勇名を馳せ、最後は侯君集将軍の幕営に属して司馬(※一)を務めていたことが調べによって判明している。特殊な武器の使い手としても、一定、その名を知られていたようだ。御史台で鍛えられ、王栄も多少なりとは腕に覚えがあるだけに、今日もし機会があれば、一度お手合わせしてみたい因縁の相手ではあった。
 そもそも王栄が盗賊団の正体を掴むことができたのは、実はこの男を街中で偶然に見かけたことが、その発端となっている。その時には、なんの意識もなかったのだが、長孫一族の若者の変死事件を李義府らと探索していた際、凶肆の話を、
(そう云えば、盗賊団が事件を起こした翌日、同じ坊内で葬儀が営まれていたことが何度かあったんじゃないか?)
 当然、そこには凶肆が事前に呼ばれ、準備のために坊内に逗留していたはずだ。そこに思い至った瞬間、なぜか同時に、街角で偶然出会った眇目の男が率いる凶肆の一団が脳裏に浮かび、二つがいきなり結びついたのである。それはまさに、天の啓示とも云うべき直感だった。
 眇目の男が店主を務める凶肆の所在は直ぐに知れた。意外にも眇目の店主が吹き鳴らす笛の音には哀愁があると評判で、長安では非常に名の知れた凶肆だったのである。そして、案の定この凶肆は、盗賊団が事件を起こした翌日に同じ房内で営まれた二件の葬儀、三年前、高句麗征伐の軍旅が起こされるなか、中書令だった岑文本が急死した際の葬儀と、昨年の一月、太傅の高士廉が崇仁里の私邸で世を去った際の葬儀、その双方ともに参加していたことが判明した。
 しかし、この二件だけなら、まだ偶然である可能性も完全には捨てきれない。そこで、同じ凶肆が主体となって葬儀を営んでいた別の案件も調べてみると、今年の一月、中書令の馬周の葬儀の際にも、その前日の夜半、やはり同様の手口による盗難事件が同じ坊内で起こっていたことが確認できたのである。
(三回も重なれば、もはや偶然とは云えないだろう)
 盗賊団の正体が凶肆であると仮定してみよう。盗んだ財宝は夜のうちに、翌日の葬儀で使う車輿や轜車のどこかに隠しておき、翌日、白昼堂々それを運び出したとしても、さすがに葬儀を妨げてまで、それを止めて探索する役人はいないだろう。こう考えれば、いままで頭を痛めていた謎のすべてが解ける。
 この時点で、王栄のなかでは、眇目の店主が営む凶肆に対する疑惑は、ほぼ確信的なものに変わっていた。だが、犯行が届け出られていない、あるいはこちらが把握できていない事例も数多くある。あくまで疑いに過ぎない段階では、眇目の男を捕縛し、取り調べることはできない。
 そこで、王栄は、一つの賭けに出た。朝廷の大官や名だたる富戸に死者が出て、盛大な葬儀が行われそうだと耳にすると、その葬儀が行われる前日の夜、その当該坊内の各所に人を配して、網を張るという試みを続けてみたのである。
 だが、最初の二ヶ月、計三度の挑戦はすべて空振りに終わった。
(見込み違いだったか⁉)
 王栄は焦った。こうして網を張るのにも、当然のことながら人手と経費が掛かる。担当の殿中侍御史から経費を引き出すのはこれ以上無理で、探索もこれまでかと、王栄が半ば諦めかけていたとき、そこに救いの手を差し伸べてくれたのは両筆だった。
「良かったら使ってくれ」
 そう云って、中身の重そうな巾着を預けられたとき、王栄は驚くしかなかった。慌てて礼を口にすると、両筆は、礼を云うのなら俺にではなく、李舎人に云ってくれと笑う。長孫烈の件で世話になったから、その感謝の気持ちだそうだ、とも云う。
「ありがとうございます」
 けれど、王栄は、それでも両筆に何度も頭を下げた。実際の銭の出所が李義府だったとしても、いま自分がこんな苦境に追い込まれていることを、あの李舎人が知っているわけがない。両筆が見かねて李義府に相談してくれたことぐらい、さすがに王栄でも見通せる。もちろん、李義府に対しても、丁寧に感謝の意を込めた書状を送ったことは云うまでもなく、この件が片付いたら、改めて直接礼を云いにいくつもりだ。
(この恩に報いるためにも、絶対に解決しなければ‼)
 改めて気合を入れなおした王栄は、引き続き網を張り続けた。再開した一件目の大きな葬儀、蕭瑀の際は空振りだったが、ようやく獲物がその網にかかってきたのは、司空の房玄齢が死去した先月、その葬儀が行われる前日のことだった。四人の黒覆面の男たちが同じ坊内の吏部尚書に務める大官の邸宅に押し入り、大量の財物を盗み出すと、翌日の葬儀用に房家の邸宅近くに準備されていた車輿の隠された空洞のなかにしまい込む様を、複数の人間の眼で間違いなく確認したのである。
「ですが、暫くの間、泳がせることにしました」
 翌日、この吉報を報告した際、王栄が普通にこう告げると、両筆は一瞬驚いたような顔をみせたが、すぐに王栄の意図を察してくれた。ここで捕縛してしまうのは簡単だが、盗みをしたのはこれが初めてだと開き直られてしまえば、それを覆すだけの証拠は揃っていない。それなら、盗品がどのように捌かれ、どうやって換金されているかまで確認し、そのうえで一味や関係者を一網打尽にした方が効果的である。
「後は任せてください」
 王栄は自信満々にそう云い切ったのである。
 それから一月、常に監視の目を離さなかったお蔭で、眇目の男が営む凶肆の店舗全体が盗賊団であること、盗品を売り捌くためにある邸店と手を組み、そこに一時的に保管したうえで、折を見ては、国内各地や西域との交易品に紛れ込ませて横流ししていることが明らかとなった。だが、そこで、悩ましい問題も同時に顕在化する。
「なに、呉王殿下が絡んでいる⁉」
 盗賊団と手を組んでいる邸店について調べてみると、経営者は表向き孫蓋という男となっているが、実際には、安州都督府にある呉王、李恪であることが判明したのである。
(これで、探索も打ちきりだな)
 さすがの王栄も、今度こそ諦めざるを得なかった。皇族絡みの話となれば、この件を担当している殿中侍御史が二の足を踏むのは確実だったからだ。そこで、この前とは打って変わり、意気消沈しながらこの事実を両筆に報告すると、彼はしばらく黙考したのち、
「劉侍御史に相談してみたらどうだ」
 そう助言をくれたのである。
「ですが、この件を担当されているのは殿中侍御史の孫様です。それを無視して、いきなり侍御史に話を持っていくのは、明らかな規則違反ですよ!?」
 驚いた王栄がそうぶつけると、
「そんなことは判っているさ」
 両筆は覚悟を決めた真剣な表情で、王栄の疑問を打ち返す。
「孫様は悪いお方ではないが、如何せん肝が小さい。このことを知れば、即座に探索を取りやめるよう命じられるだろう」
 三院御史は一人一人の権限が独立している。一度、誰かに判断を下されてしまえば、それを覆すのは上司である御史中丞でも難しい。
「だから、俺が誤って侍御史に報告するよう命じたことにして、あの御方に先に判断を仰いでしまうんだ」
 劉侍御史なら、すべての状況を総合的に考慮に入れたうえで、もっとも適切な判断をしていただけるはずだと、両筆は云う。
(なんて思い切ったことを……)
 王栄は二の句がつげなかった。こんなやり方は、彼の常識では絶対に思いつかない。
 しかし、ここで怯むようでは、両筆には永遠に追いつけないだろう。彼の言葉に背中を押されるようにして、王栄も肚を決めた。その足で劉侍御史の元に飛び込むと、事の顛末をつぶさに報告したのである。
 そして、その結果、侍御史の判断は「諾」だった。そこまで確証が揃っているのなら、なんら忖度する必要はない。呉王から抗議があったとしても、堂々と反論すればよいだけだと、劉侍御史は簡単にそう云い切ってくれた。
「しかし、殿下から横槍が入るようなことは、おそらくないだろう」
 侍御史はそうも読んでいた。
 いま呉王は、皇太子争いの真っただ中で、清廉潔白な印象を朝廷内で演出しなければならない立場だ。そのお方が、いまこの時期に盗賊団と手を組み、悪どい稼ぎをするような愚かな真似をするとは考えにくい。
「九分九厘、今回の件は孫蓋という邸店の主人の独断だ。呉王殿下は与り知らないことだろう。だから何も気にすることなく、ただ罪を厳粛に取り締まることだけ考えて、事に当たれ」
 前々から優秀なお方だとは思っていたが、胆力も相当なものだ。それほど年齢が離れていないにも関わらず、侍御史の姿が王栄には眩しいほど頼もしく見えた。
 そんなこれまでの紆余曲折をぼんやりと思い出しながら、いま王栄は、
(邸店の方にも、もうそろそろ御史台の手が入っている頃だな)
 そう頭の中で計算していた。取りあえず、邸店関連の裏の事情は京兆府には伏せて、御史台の方で片付けておくからと、軽い調子で伝えてある。これは余計なことを知って、京兆府が手を引かないようにという、両筆なりの配慮だったわけだが、これでようやく、本日のすべての段取りは整えられたのである。
(あとはこちらだ、……)
 王栄はのんびりと構えながら、合図の銅鑼の音をただひたすら待っていた。

 銅鑼の音が鳴り響くよりもほんのわずかに先んじて、龐塞は戸を蹴破って店の外に出ていた。完全に周りは取り囲まれている。相手がどれほどの手勢かは判らないが、店のなかに追い詰められてしまうと、逃げ場はどこにもなくなってしまう。そう判断し、あえて飛び出してみたのだが、捕り手は龐塞が思っていたよりも大人数だった。そして、予測していたとおり、南衙の兵士と思しき者たちも混じっている。
 龐塞の背後では既に、銅鑼の音とともに雪崩れ込んできた捕り方たちと飛び出すのに遅れた仲間たちとの間で凄まじい乱闘となっており、激しい怒号が飛び交っている。龐塞にもその姿を認めた兵士が二人、剣を抜いて襲い掛かってきた。しかし、専門的な職業軍人ではない南衙の兵士の動きでは、龐塞の眼にはなんの脅威にも感じない。それぞれの兵士の剣を巧みに交わし、龐塞が二人の脇腹に肘打ちを打ち込むと、装甲のうえからでも衝撃は相当なものだったのだろう、二人の兵士は小さな呻き声をあげて、その場に崩れ落ちた。
(ひょっとしたら、逃げ切れるか⁉)
 そんな微かな希望が龐塞の脳裏をよぎる。絶対ではないが、いまこの場を一望する限り、距離を取って矢を射かけてくる兵士の姿が見受けられなかったからだ。正面から近距離で対峙する兵士となら、ある程度の人数が相手でも、相手を殺す必要がないのなら、攻撃を防ぎながら逃げきれる自信が龐塞にはあった。そこは長年の戦場生活で培ってきた経験の賜物である。
(むしろ捕吏の方が厄介だが、……)
 幸い、龐塞が飛び込んだ横道に待ち構えていたのも若い兵士が一人で、目の前に敵が現れるとは予想もしていなかったのだろう、瞳には怯えの色が浮かび、剣を構える様も腰がすわっていない。案の定、攻撃も腰砕けで、龐塞の正面からの蹴りを腹に受けると、後ろの壁に叩きつけられ、気を失ってしまう。
(さて、どちらに逃げたものか、……)
 周囲の気配を窺いながら、龐塞は己の運命をいま占っていた。

「合図の銅鑼です」
 王栄の背後に控えていた捕吏の一人、方国祥が叫んだ。それと同時に、凶肆のある一角からすさまじい怒号と喚声が響き始める。それは寸分も止むことなく、一刻あまりも続いたが、
「二人逃げたぞ」
 そんな叫び声が聞こえ、大勢の乱れた足音が響いてくる。どうやら獲物は、逃亡するに際して、王栄らが潜む一隅を選択したようである。
「よし、待ち構えるぞ」
 王栄は振り向くことなく、背後の者たちに声をかけ、街路に飛び出した。それほどの間もなく、逃げてきた二人の男を視界にとらえる。その後を追ってくる影は見えない。すべて片付けられてしまったようだ。
 前を駆けてくるのは例の眇めの男で、武器になりそうなものは何も手にしていない。
「前の男は俺と呉渓でやる。もう一人は三人に任せた」
 瞬時に判断し、王栄は指示を出した。後ろの男は棍棒のようなものを握っているが、かなり息が上がっている。これなら経験の浅い若手の三人でもなんとかなるだろう。だが、眇目の男には奇妙な余裕のようなものがあった。王栄らが遮ろうとする姿を目にしても、足を止めることなく一直線に向かってくる。そして、距離がある程度まで詰まった瞬間、眇目の男の袍の左袖が動いた。
(袖箭(※二)?)
 事前に情報を得ていたことが幸いして、身体が勝手に反応し、王栄は左に飛んだ。
「うっ」
 呉渓の呻き声が耳に飛び込む。反応の遅れた彼の左肩を、短い矢が貫いていた。だが、それを介抱してやれるような余裕はない。地面に転がった王栄の脇を、眇めの男が一気に駆け抜けようとしている。
(起き上がって追いかけたのでは、とても間に合わない)
 咄嗟にそう判断した王栄は、半身だけを起こすと、懐に隠し持っていた鉤付きの縄を取り出し、勢いをつけて男に向かって投げつけた。ぎりぎりのところで、縄の先の鉤は袍の帯をとらえる。その反動で眇目の男は転びそうになるが、そこを何とか踏みとどまって振り向くと、恐ろしい表情で王栄を睨みつけてくる。その右手にはいつの間に取り出したのか、寸鉄が握られている。それで縄を断ち切ろうとするが、細い鉄線が編みこんである縄は、そう簡単に切ることはできない。
 その一瞬の隙をついて王栄は立ち上がり、用意していた目潰し用の小さな砂嚢を男の顔めがけて投げつける。一つ目は右に外れたが、続く二投目は見事に額に命中し、破れた砂嚢から飛び散った細かな粒子は、男の両眼を完全に塞いでいた。
「畜生⁉」
 視界を失った男は、獣のような唸り声をあげながら、闇雲に寸鉄を振り回す。戦場での本格的な戦闘には慣れているのだろうが、御史台の捕吏が使う、身柄確保のための手法は特殊だ。卑怯と思われようと、どのような手段も厭わない。
「諦めろ、その砂には特別な薬草が混ぜてある。水で洗っても、半日は目が開かない」
 男が振り回す寸鉄を慎重に避けながら、男に近づく王栄の右手の拳には、鉄甲がはめられている。その拳で王栄は、渾身の一撃を男の鳩尾めがけて喰らわした。
「ぐふっ」
 妙な音が口から洩れ、眇めの男は膝から崩れ落ちる。そのまま男の背後に回り込んだ王栄は、鉤縄を使い、その身体の自由を完全に封じる。そこで大きく一息吐くと、ようやく王栄は、周囲の状況を確認するだけの余裕を持つことができた。
「どうだ、そっちは大丈夫か?」
 呉渓はまだ左肩を押さえながら、地面に倒れこんで呻いているが、それでも王栄の問いかけに反応し、小さく頷いている。これなら致命傷ということはないだろう。また、逃げてきたもう一人の男も、既に三人がかりで俯せに押さえ込んでいる。
(まあ、怪我人はでたが、まずまずといったところか)
 あとは捕らえた二人を京兆府の者に引き渡すだけだ。首魁と思われるこの眇目の店主だけでも、本来ならこちらで取り調べをしたいところだが、京兆府との約束は破れない。それは諦めるしかないだろう。
「若いの、舐めた手を使うじゃないか」
 苦々し気な男の声が届いた。どうやら息を吹き返したようである。
「言葉には気を付けてくれよ。百戦錬磨のあんたとまともにやりあうほど、俺は馬鹿じゃない。戦場で死んだなら、まだ雀の涙ほどでも金が貰えるかもしれないが、罪人の捕縛に失敗して殺されても、御史台ではなんの補償もしてくれないんでね」
「そうか、おまえは御史台の人間か、……」
 王栄の言葉に、眇目の男は暫し押し黙っていたが、
「丁度いい。なあ若いの、俺を捕まえたのも何かの縁だ。一つ、大手柄を立ててみる気はないか?」
 そう妙なことを云い出した。相手にする気もなく、
「手柄を立てたいのはやまやまだが、残念ながら今回は京兆府に譲ることになっているんでね。なにか云いたいことがあるのなら、京兆府の人間に聞かせてやってくれ」
 王栄が撥ねつけると、
「いや、京兆府じゃ駄目だ。握りつぶされてしまう」
 眇目の男は真剣な声音になって、王栄に必死で訴えかけてくる。
「あんたらのことだ、当然、邸店の方にも手が回っているんだろう?それなら、よく探索してみてくれ。盗品のなかに、途轍もないお宝も混じっているはずなんだ。皇室の尊厳が地に堕ちてしまうようなお宝がな」
(こいつ、何を云ってるんだ?)
 一瞬、王栄は判断に迷った。捕われた拍子に、正気でも失ったのかとも思ったが、表情はいたって真剣で、とても戯言を云っているようにはみえない。
「御史台なら、皇族であっても、その理非を糾すのが役目のはずだ。歴史に残るような大手柄になるぜ」
 その判断が自分でできないのなら、せめて責任ある上司と話をさせろと、男は喚き続ける。そこにはなにか妄執のようなものが感じられ、王栄は背筋に寒気がはしった。
(京兆府には取り逃がしたことにして頭を下げ、話だけでも聞いてみるか……)
 そんな気になりかける。だが、そうするなら、その機会は京兆府の者たちがこちらに姿を見せるまでの、あとほんの僅かな間しかない。
(さあ、どうする……)
 脳細胞を総動員させながら、王栄は必死で考えを巡らしていた。

【注】
 ※一 「司馬」
  都督府などの軍府において長官を補佐する属僚。下都督府に属する場合、官品は
 「従五品下」
 ※二 「袖箭」
  袖で隠せる大きさの矢をばねで発射する小型の武器
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