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拾漆ノ章
李義府、来済と時勢を談論す(貞観二十二(六四八)年、五月)
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「おい、もう帰るのか?暇があるなら、茶でも飲んでいけよ」
中書省内の一角で、不意に後ろから声をかけられ、振り向いた視線の先に来済がいたことに、李義府は驚いた。一応、省内で机を並べてはいるものの、なんとなく肌が合わず、ずっと敬遠してきた相手である。きっとあちらも同じだろうと勝手に決めつけて、仕事上で会話を交わすことはあっても、個人的な話をしたことなど数えるほどしかない。
(断ろうか……)
一瞬そうも思ったが、来済には先だってこちらから頼みこみ、『晋書』の草稿を李延寿の元に回してもらった借りがある。それに見たところ、なんとなく精気がなく、人恋しそうな雰囲気が全身に漂っていて、邪険に袖にするのも気が引ける。あまりないことだが、李義府はその誘いに乗ってみることにした。
「それじゃあ、ちょっと寄らせてもらおうか」
案内されるまま、来済の執務室の奥に設けられた小間で休憩と洒落込む。彼の趣味なのだろう、表面に猿の姿が刻まれた香炉には、甘い匂いの香が焚き込められていた。
「いい香りだな、心が和む」
その言葉どおり、李義府がゆったりと寛ぐ様子をみせると、
「それは良かった。ここに隠れては一息ついて、気持ちを落ち着かせているんだ。そうでもしないと、このところ仕事もままならなくてな」
そう云うと、ほっとしたように来済も表情を和らげた。普段から強気で、めったに弱みを見せない来済の思いがけない台詞に、李義府は意外な感を覚えた。誰か話し相手を探していたのだろう、用意してあった二つの器に来済は茶を注ぎ、そのうちの一つを李義府の前に差し出してくれる。
「蜀(※一)の早摘みの茶だ。よかったら、飲んでみてくれ」
本朝では、古く三国時代から茶を飲む習慣はあったが、その頃の茶は、茶葉を餅状に丸めたものを炙って搗き、そこに湯をかけ、みかんの皮やねぎ、さらに生姜などと混ぜて、他の材料と一緒に煮て羹のようにして飲むのが一般的だった。この時代、朝廷内では、茶は酒と同等に扱われていたと云われている。その後、客人をもてなす際に出されるなど、次第に貴族社会における社交の場の飲み物として用いられるようになっていた。
そして、『唐』の御代になると、茶を飲む習慣は徐々に本朝全土へと広がりつつあり、その形態は、餅茶(へいちゃ)と呼ばれる方式が主流となっている。摘んだ茶葉を蒸し、搗いて型に入れて成型してから天日に干した後、火で炙って乾燥した上で保存するのだが、飲用する際には、それを削って粉砕し、塩を入れた湯に加えて煮た後、器に移し替えて飲むのである。非常に手間がかかるので、李義府としては自ら嗜みたいとは思わないが、飲ませてもらう分には大歓迎だ。
(庶民にはまだまだ高嶺の花だが、そのうち遍く天下に広まっていくかもしれないな)
この李義府の予感はあたり、『唐』も末期になると、茶を飲む風習は民間にも爆発的に広まり、その需要の高さに目を付けた王朝では、財政需要を満たすために、茶葉に課税をかけるようになっている。『旧唐書』「食貨志」の建中元(七八〇)年の条をみると、「天下の茶、漆、竹、木から十分の一の税を取る」と記されており、また、『旧唐書』の「文宗本紀」では、大和九(八三五)年、初めて茶葉の専売制が定められたことが記録されている。商品作物として、いかに茶葉が重要な地位を占めるようになっていたかが判るだろう。
その先触れとして、ゆったりと喉越しを楽しみながら、これが味わえただけでも、本省に顔を出した甲斐はあったかなと、李義府は得をした気分になっていた。しかし、その自分とは対照的に、眼前で茶を啜る来済の表情は暗く、目の下には隈までできている。『晋書』の執筆に関しては、彼の担当部分は早々に終了し、後は李延寿の最終校正待ちだと聞いているので、疲労の大元は、本来業務にあるということになりそうだ。このところ、仕事の割合が本務一に対して、『晋書』関係が九となっている李義府としては、申し訳ない思いにつまされる。
「年明け早々に長官(中書令)が急死されたじゃないか、あれからもう散々だ」
いきなり来済が愚痴りだした。
急死した中書令とは、馬周のことである。まだ四十八という若さで、主上に見出されて後、間違いなく「華麗な」と評してよい官歴を歩んできた彼だが、その出自は重臣としては珍しく、門閥や功臣の子弟というわけでもなく、また、科挙合格者でもない。このあたりの経歴が李義府と重なるところがあり、また、徒党や派閥を組むことを嫌う姿勢にも共感していたので、勝手に親近感を抱いていたのだ。それだけに、彼の突然の訃報は、李義府にとっても非常に衝撃的な事件だったことは確かだ。
「執務中、お姿が見えないので、省内くまなく探し回っていたら、厠のなかで倒れられていたのだそうだ」
来済はその最後の様子を語る。
「俺もそう聞いた。以前から消渇(糖尿病)を患っておられるというのは知っていたが、それほど重篤だとは思わなかったが、……。やはり、劉侍中があのようなことになられた後、陛下の期待を一身に背負って政務に当たられていたから、その激務がたたったのかな?」
「まあ、そんなところだろうな、……」
残念そうに何度も小刻みに首を縦に振ると、来済は音を立てて茶を啜る。
「だが、あまりにも突然のことだったので、役所のなかでは、『誰かに一服盛られたんじゃないか?』なんて、物騒な噂を囁く者まで出てくる始末で、本当に参ったよ」
その頃、『晋書』に手一杯で、あまり本省に顔を出す機会のなかった李義府だが、その話なら耳にしている。なにしろ青天の霹靂とも云うべき突然の死だったから、馬周の死因に疑問を持つ者は少なくなかったようだ。だが、駆け付けた侍御医によって自然死と診断され、検屍を受けることもなく葬られたために、いまとなってはその真偽を確かめる術はない。
このところ主上の体調があまり思わしくないことに加えて、功臣や大官の悲報が続いていることもあって、朝廷内の人心は相当に動揺している。そんななかで、高齢の者ならまだしも、馬周の場合、まさに働き盛りの年齢である。主上からの信望も絶大で、中書令と同時に吏部尚書も兼ねて百官の人事権を握っていただけに、その突然の退場は、今後の朝廷の動向を左右すると云っても、決して過言ではないだろう。
そのため、いろんな噂がまことしやかに囁かれるのも無理のないところで、彼の死の背後に長孫侍中の影を感じている者も、少なからず存在しているはずだ。馬周の死に関して、来済が本当はどう思っているのか、李義府は聞いてみたいような気がしたが、この男が自分相手に本音を漏らすとも思えず、とりあえず今日のところはやめておく。
「いまのところ、本省の責任者は検校中書令の趙国公ということになるが、なにしろ『知尚書・門下省事』でもあり、三省すべての業務を監督しなければならないお立場だ。中書省だけにかまってはいられない。そんなところに、今度は中書侍郎に任命されたばかりの崔様(崔仁師)が、陛下の勘気を被って連州(※二)への配流ときた。どうしてこうも、うち(中書省)ばかり厄介事が続くのか、……」
「ああ、確かにあれも、よくわからない事件だったな」
そんな感想を李義府は返す。
伝聞でしか耳にしていないので、確実とは云えないが、経緯はたしかこうだ。宮門のところで崔仁師が出てくるところを待ち構え、正式な手続きを経ずに、訴状を提出しようとした者がいたらしい。その訴えの内容も、訴人が何者だったのかも、記録に残っていないが、当然、崔仁師はこれを受理することを拒んだ。おそらく正式な手続きを踏むよう、申し渡したはずだ。そこに法令上問題になるようなところはない。
ところが、なぜか褚遂良がこの一件を問題視し、陛下のお耳に入れてしまったことで、事態は急転した。この件に陛下は激怒され、直ちに崔仁師は罪を得ることとなって、連州への配流が決まったのである。
「以前、崔侍郎は魏王の朋党だったことがある。そんな彼に中書省内で力を持たれることを嫌った褚侍郎が、陛下になにがしかを讒言したんじゃないか?」
そんな噂が既に広がっている。さらに、その続きとして、次の中書令はおそらく、長孫侍中お気に入りの彼だろうと、余計なおまけまで付け加わっている。一昨年、劉洎を追い落とした件があってからこちら、褚遂良が関わった案件はみな、そこに嫉みも加わって、ことごとく彼にとって悪い評判となって跳ね返っている。
しかし、そんな場合でも、「その背後には趙国公がいる」とはならない。誰も皆、そう感じてはいても、それを口にできない雰囲気が朝廷内に広がっていることが問題だ。それほどいまの朝廷内では、長孫無忌の権勢が絶対的なものになりつつある。
「だが、まあものは考えようだ。仕事が多忙ということは、それだけ省内をあんた一人で支えているという証左でもある。侍郎への昇格も、意外と早いんじゃないか」
珍しく李義府がそんな心にもないお追従を並べてみせると、それまで眉を曇らせていた来済も、今日初めて、満更でもないというような表情を一瞬だけだが見せてくれた。
「ところで、『晋書』の方はどうだ。そろそろ完成が見えてきたか?」
「ああ、いよいよ追い込みだ。李主簿が頑張ってくれている」
李義府は、そう無難に答えておく。
だが、正直なところを云うと、追い込みにかかっているのは事実だが、それ以上に混乱していると表現した方が正確だ。
(なんと云っても、子顕の一件での余波が大きすぎる)
事件の背景や真相のすべてがあやふやなまま、後始末は許敬宗の手に委ねたのだが、あれ以降、なんの音沙汰もない状態で、既に半年ほどが経過している。実はあの後、十二月に入って間もなくのことだが、崔裕が補助役から突然外され、太原府の地方官に任命されて、急遽、京師から離れてしまったのだ。このお膳立てをしたのが許敬宗であることは明白で、これが子顕の死に関わってのものなのか、李義府がいくら問い詰めてみても、許敬宗はなにも教えてくれない。なんとももどかしい限りだが、しかし、このとき、李義府にはそれ以上この件に深入りしている余裕がなかった。『晋書』の編纂作業に、それこそ追い立てられていたからだ。
まず長孫烈の遺稿を引き継ぎ、その部分を誰かが仕上げなければならない。さらに、二人いなくなってしまった補助役の穴も、なんとかして埋める必要があった。
「本当に申し訳ないが、これも頼む」
長孫烈の遺稿に関して、李義府が頼ったのは、やはり鄭賀だった。それを孟拓にも手伝わせ、李延寿に支援をお願いすることで、こちらの方はどうにか早々に目途が立った。だが、そうなると、今度は各執筆者の補助に回れるのが劉陽一人となってしまい、まったく手が足りない。そこで、あまり役に立つとは云えないが、李義府も劉陽と一緒に補助役を務めることで、ぎりぎり凌いでいるというのがいまの実情だ。この危機的な状況を理解してくれたのか、李延寿もあれ以降、あまりうるさいことは云わず、黙々と自分の出来る範囲で作業を進めてくれている。やはり、長孫烈を死なせてしまったことに、かなり負い目を感じているようだ。
(しかし、こんな事実を来済に知らしたところで、なんの意味もないしな)
ここは適当にお茶を濁しておこう、そう李義府は思った。
「どうやら梁国公(房玄齢)もそろそろ危ないということで、なんとかその前に『晋書』を完成させよと、褚侍郎様からは矢の催促だ。どうやら陛下からも、急げと一言お言葉があったらしい」
「そうか、梁国公もいよいよか……」
来済は呻くようにそう云った。どうやらなにか寂寞の念を抱いているようである。李義府にはそういう感慨を持つこと自体、もう一つ感覚的に理解できないのだが、朝廷にその籍を置く者なら誰もが、後世に「貞観の治」と称えられるこの太平の御代を現出した房玄齢という存在に、なにか特別な思い入れをしているようだ。であるなら、この老官僚の死が一つの時代の節目のように感じられるのも、仕方ないことなのだろう。
だが、房玄齢以外にも、主上の功臣で長老級の官僚でいうなら、蕭瑀もそろそろ怪しくなっているという噂を聞いている。なのに、こちらの方は、朝臣の口の端にも上ってこないのは、
(単に、役人としてのいまの境遇の差か⁉)
李義府はそこに官僚社会の世知辛さを感じ、なんとなく背筋がうそ寒くなった。
「なんだかここ数年で、廟堂が一気に寂しくなったなあ」
独り言のように、来済が呟く。たしかにそうだなと、李義府も相槌を打った。
高句麗征伐のさなか、中書令の岑文本が急死したのが皮切りで、その翌年には、侍中の劉洎が死を賜わるという悲劇があった。しかし、それだけでは終わらない。昨年に入ると、開府儀同三司・太傅の高士廉がまず鬼籍に入り、続いて太常卿の楊師道と象州刺史に左遷されていた韋挺も薨じている。そして、今年に入っての馬周の突然の死だ。こう指折り数えてみると、見事にある人物の政敵や目の上の瘤という立場の者ばかりが消えている。
(まるで趙国公の天下のために、道を拓いてやっているようなものじゃないか⁉)
歴史が定まる時というのは、このようなものなのだろうか。李義府はつくづく、溜息をつきたくなった。
「これから朝廷は、長孫侍中が主導していくことになるのだろうが、その片腕はやはり、褚侍郎ということになるのかな?」
李義府の顔色を窺うように、来済がそう問いかけてくる。房玄齢に対する感慨は感慨として、早くも官界での己の身の処し方を計算し始めているようだ。
「まあ、そうだろうな」
あまり認めたくはないところだが、いまの流れでいくならそれが自然だと、李義府ならずとも思うはずだ。ただし、その幸運もさほど長続きはしないだろうと、李義府の直感が云っている。
(汚れ仕事をあまりにも引き受けすぎだ)
本来なら長孫無忌に向かってもおかしくないはずの反発と憎悪を、褚遂良がその大半を一身に被ってしまっている。今後、一度なにかあれば、長孫侍中は躊躇なく彼を切り捨てるだろう。そう考えると、生理的に合わない相手ではあるが、褚遂良のことがなんだか哀れにすら思えてくる。
(何者かと組むということは、結局、危険も抱え込むということだ)
いまはまったく考えていないが、いつか自分も褚遂良や来済と同じように、己の身の振り方を決めねばならない時がやってくるかもしれない。その際には、なるべく後悔しない決め方をしたいものだと、真剣に李義府はそう思った。
そんなことをぼんやり考えていると、
「ところで、西の方はどうやら片付いたようだが、聞いたか?」
なにか少しでも明るい話題を見つけたいのか、来済が話題の鉾先を急に変えた。「西の方」とは、天竺方面の戦況のことである。昨年の末、右衛率府長史(※三)の王玄策が使節として天竺へと派遣されたのだが、そこで思わぬ大事が勃発し、戦闘へと発展していたのだ。そして、この一件に関しては、間接的にだが、玄奘の存在が影を落としている。
天竺と本朝との間に本格的な修好関係が生まれたのは、実はつい最近のことである。その始まりは、貞観十五(六四一)年、尸羅逸多王(戒日王、ハルシャ・ヴァルダナ)が使者を『唐』へ派遣してきたことがその発端だ。だが、それまでなんの接点もなかったのに、戒日王が突然、我が国に修好を求めてきた背景には、天竺に遊学し、その才徳を王に愛された玄奘の存在があると、当時、朝廷内では専らの噂となっていた。それというのも、戒日王の使者の口からも、しばしばその名が漏らされていたからだ。玄奘が語った東方の大国とその聖王に関する情報が戒日王の興味を惹いたことで、使節の来訪が現実のものとなったらしい。
(だから、陛下が玄奘の名を記憶し、興味を持たれるようになったのは、実は、彼が天竺から帰還するよりもずっと前からのことだ)
勿論、実際に拝謁を許してみると、主上が想像していた以上の傑物であったことは嬉しい誤算だったろうが、決して一目惚れというような単純な話ではない。
この戒日王からの使者に対し、主上はその返礼として、雲騎尉の粱懐璥を天竺に派遣している。この使者が天竺に到着すると、戒日王は非常に驚き、国人にこう尋ねたと伝えられている。
「これまで摩訶震旦(=中国)からの使いが我が国に来たことがあったか?」
それほど、歴史的にみても、この時の両国間の公式な使節の往来は、まさに画期的な出来事であると云ってよい。本朝と天竺方面との正式な国家間の交流ということになると、過去の歴史を紐解いてみても、『(西)漢』の武帝が張騫を大月氏(※四)に派遣した事例ぐらいしか見付けることはできない。しかし、これにしても、当時の大月氏はバクトリアの地(※五)を支配する政権であったため、厳密な意味では天竺との通交とは云えないだろう。
この稀有な体験を奇貨としたのか、戒日王は中国使節の帰国に改めて答礼使を随行させることとして、『唐』との関係をさらに深めようと試みている。それに応えて、主上も貞観十七(六四三)年、改めて衛尉氶(※六)の李義表を遣わすが、この時、戒日王は国境まで大臣を派遣して使節を迎えさせたうえに、都の城内を隅から隅まで自由に見学させ、歓迎と友好の意を示したという。この後、戒日王は再び使者を『唐』に遣わし、火珠や菩提樹、鬱金(サフラン)などを献上している。
こうしてみると、両国の修好はどちらかというと、天竺側の方が積極的だったように思われるかもしれないが、しかし、『唐』の側でも決してこれを軽視していたわけではない。今回、使節団の正使に王玄策を任じたのがその証拠で、彼は以前、融州(※七)の県令から天竺行きの使節団の副使に任じられた経験があり、両国の親睦を深めるにはまさに絶好の人選であると云えた。ちなみにだが、この際、彼が帯同した戒日王への信書は、昨年「大唐西域記」を朝廷に提出したばかりの玄奘が、主上の命によって梵語に翻訳したものである。
ところが、使節団が実際に赴いてみると、天竺の状況は一変していた。彼らが到着する直前、戒日王が崩御されていたのである。
「しかも、後継者を明確に定めていなかったのが拙かった」
来済が訳知り顔に解説を加えてくる。
在位四十年にも及ぼうかという偉大な帝王が、後継者も定めずに消えてしまったのである。北天竺は当然大混乱となっており、そこに野心家が台頭する隙が生じていた。戒日王の大臣だった帝那伏帝阿羅那順(ティラブクティ・アルジュナ)が王朝の簒奪を狙って自ら即位を宣言し、軍を発動させて王玄策の入国を拒んだのである。
この時、王玄策が率いていた騎兵は僅かに数十騎、とても敵することなどできるはずもない。兵士らはみな殺害され、諸国からの貢物はすべて阿羅那順に奪われるという、悲劇的な災厄に見舞われた。
「王玄策にとっては、とんだ災難だったな」
神妙な顔で頷いているところを見ると、来済は今回の事件を、どうやら真面目に受け取っているようだが、
(どうにも胡乱な話だ、……)
李義府には違和感しか覚えない。
まず、現地に到着するまで、戒日王の安否に関して、使節団がなんの情報も掴んでいなかったというのが妙だ。使節団なら必ず先触れの者を派遣していたはずで、いくら相手が厳重に秘していたとしても、多少なりともその動静が掴めていなかったというのは絶対に可笑しい。
(それに、簒奪者側の動きも変だ)
自分がもし同じ立場なら、国内の混乱に乗じて兵を挙げたばかりだ。国内をまだ固めきれてもいないのに、他国からの使者に略奪行為を働くようなことなどしては、その国に介入してくる口実を与えるようなものだ。それに万が一、なにかの弾みでそういう状況に陥ったのだとしても、
(肝腎の使節団の代表を逃してしまうと云うのは、あまりに間が抜けすぎていないか)
実は、この時、正使の王玄策は危機を脱して逃亡し、吐蕃(※八)西部の辺境地帯に身を潜めていたのである。しかも、彼は自らの判断で周辺諸国に檄を飛ばし、簒奪者を討つための援兵を依頼するという手際の良さまで見せていた。当初、使節団が襲撃されたとの報を受けて蒼くなっていた朝廷は、この続報に愁眉を開き、安堵の胸を撫で下ろしたことは云うまでもない。しかし、
(『唐』の正式な使節団の代表とはいえ、たかだか王玄策が出した命令で、周辺諸国がそう簡単に動いてくれるものか?)
それも自国にまったく関係のない、他国の内乱を鎮圧するために、だ。
ところが、実際には、王玄策が発した檄で、吐蕃からは兵一千が、さらに泥婆羅(ネパール)からは七千騎もの兵が彼の元に集まったのだという。こうして逆襲の体制は整い、王玄策、そして副使の蒋師仁はこの八千の兵を二軍に分けて進軍し、阿羅那順の軍と遭遇するとこれを大いに打ち破った。三千の首級を得るとともに、「溺死する者、一万人」という大勝だったという。この敗戦で阿羅那順は国を捨てて逃走し、再起を図ろうとしたものの捕らえられ、その妻と息子を奉じて抵抗を継続しようとした残党も一掃されて、天竺内の騒動は意外にも短期間で収まったのである。
(どう考えても出来すぎだ!?最初から段取りがついていたとしか思えない)
李義府の違和感は、もはや確信へと変わっている。
(すると、今回の絵を描いたのは、……)
最終決定者は主上だとしても、その詳細を詰めたのは、玄奘ではないか。李義府はそう推測していた。
天竺での最終的な戦勝が京師に届いたのは、つい先日のことである。これに喜んだ主上は、この後、阿羅那順を連行して長安に凱旋した王玄策を抜擢し、朝散大夫(※九)に任じることを決定している。
「文官ながら王玄策は大したものだ。まさに『入りては相となり、出でては将となる』の面目躍如といったところだな」
来済はどこまでも表に出ている情報だけを信頼しているようである。しかし、それが間違っていると云い切れる確証が李義府にもあるわけではない。余計なことを云うのも気が引けて、李義府としては黙っているしかなかったが、それで調子に乗ったのか、
「だが、これで天竺との関係も、当面、大きく変わることになるんだろうな」
と、なにかを期待するように、来済がそんなことを云う。
対等だったはずの天竺と『唐』の間の均衡が崩れ、『唐』が優位に立ったことで、なんらかの国益が得られることを期待しているのだろう。
(陛下の目的も、おそらくそれだろうな)
李義府の考えも、当然、そこに行き着いていた。
これまで天竺と本朝との交流はほとんどなかったこともあり、『唐』と天竺との間では、本来あってはならない対等な関係での交流が行われていたのだ。しかし、この度の王玄策の活躍により、っ戒日王の支配下にあった地域は再び平穏を取り戻すことができ、領域内の諸侯国に対する『唐』の威信は、急速に高まっている。
(「親子」とまではいかなくても、「兄弟」ぐらいにはなったかな?)
実際、この後、天竺の諸侯は相次いで使者を『唐』に送り、短期間ではあるが朝貢するという事態が起こっている。現代まで通じてみても、インドに存在した政治勢力が中国の政権に対して礼を尽くし、朝貢関係を結んだのは、歴史上、この時期のみの特異な現象である。
これは余談だが、主上はこの後、天竺から寄せられた貢物のうち、糖霜(白砂糖)に興味を持ち、中天竺に位置する『摩伽陀(マガダ)』国に使者を派遣し、この国の熬糖法を学ばせている。そして揚州(※一〇)に勅を発して各種の砂糖黍を献上させ、その汁を圧縮して薬剤のように精製してみたところ、その色と味は、西域産のものより数段勝っていたため、これ以降、中国国内での砂糖づくりが盛んになるという副産物が生じている。その後、『唐』で栽培・生産力が高まった砂糖は、日本にも薬として輸入されるようになるが、それを最初にもたらしたのは鑑真だと云われている。
「西方で『唐』の威信は格段に高まったんだ。これに満足して、高句麗征伐は取りやめようと陛下は思って下さらないものかな。なあ、どう思う?」
やはり来済は、西方の慶事で懸案の東方問題が片付くことを期待しているようだ。だがそれは、あまりにも主上の高句麗に対する執念を甘く見すぎている。
「そんなうまくはいかないだろう。陛下の高句麗に対する執着は、半端ではないからな」
李義府がそう云いきってみせると、やはりそうかと、来済は判りやすいほどの落胆ぶりで、思い切り肩を落とした。高句麗への度重なる軍旅で、国庫は相当に疲弊している。さらに、臨時に兵士の徴発を割り当てられた諸州からも、悲鳴に近い上訴が連日、中書省にも届いているらしい。
特に、これまで比較的負担が小さかった長江中・下流域の諸州からの反発が、非常に激しいものとなっている。もし、再度、高句麗との本格的な戦端が開かれるようなことにでもなれば、こうした負の反応は、一気に爆発する可能性すら秘めている。
(それでは煬帝の二の舞だ!?)
来済はおそらく、そんな危機感を抱いているのだろう。
「陛下は『(西)漢』代の再来を夢見ておられるのかもしれないが、如何せん、その当時とは国情があまりにも違いすぎる」
思わず李義府は、そう口にしてしまう。
本朝では、数多くの王朝が歴史を刻んできたが、そのうち、中国全土の支配に成功した統一王朝は、いまの御代を除くと、始皇帝に始まる『秦』と劉氏の興した『(西・東)漢』、さらに、司馬氏の『晋』と楊氏による『隋』の四つしかない。
(そのうち、短命に終わった三つの王朝は、陛下の視野には入っていない。陛下が目指されているのは、『漢』と肩を並べてみせることだけだ)
では、いまの御代と『漢』代とでは、どこがどう異なっているのか。その支配領域を比較してみると、中国本土と西域とでは、それほど差がみられない。違いがあるとすれば、それは遼東と朝鮮半島だ。『(西)漢』の武帝が現在の高句麗から朝鮮半島の北部・中部にあたる地域に四郡を設置した当時、国内は「文景の治」(※一一)と呼ばれる充実した時期を経て、財政的にも大きな蓄積があり、また、人口も大幅に回復していた、いわば全盛期だった。その人口も、およそ五千万程度はあったと明確に記録が残されている。この余裕のある国力で、当時はまだ人口過疎だったこの地域に植民を進めることは、比較的容易だったろう。
だが、現在の状況はまさにその逆だ。高句麗や百済、そして新羅が国家としての体裁を整え、人口を増やしている一方、『唐』はと云えば、この二十年、民力の涵養に努めてきたことで、ようやく回復傾向にあるものの、まだようやく一千万人を超えた程度にすぎない。この状況で、偉大なる『(西)漢』帝国の復興を夢見るなど、忖度なしに云わせてもらえるなら、それは単なる妄想でしかない。
(けれど、さすがに厳しい現実を痛感した後だ、高句麗征伐そのものは諦めないにしても、自ら親征したり、『唐』単独で攻め込むというような愚を、陛下も二度は犯しはしないだろう)
次に軍旅を起こす際には、もっと現実的な方策を模索するにちがいない。
「おそらく新羅と同盟を結び、高句麗が両面対応せざるを得ない状況に追い込む戦略を採られるんじゃないか」
「だが、新羅が本当に靡くか?」
来済は懐疑的だ。ついこの間、親『唐』を掲げて立った反乱勢力が呆気なく、新女王を擁する勢力に鎮圧されたばかりだ。新羅の新政権も、当然、『唐』に対する警戒心を強めているはずだ。しかし、李義府には自信があった。
「いや、双方ともに高句麗を敵としている点では共通している。敵の敵は味方さ」
昨年の七月、新しく立った女王に「柱国・楽浪郡王」の冊封が行われたが、これは、おそらくこちらからの秋波だ。それに対して、新羅側も謝恩使を派遣する形で応えてきたのだから、この時、おそらくなんらかの話し合いが、秘密裏に行われたことは間違いない。
「同盟に関する盟約も、既にある程度固まっているんじゃないか。だとすれば、対高句麗で、陛下も近々に本格的な軍事行動を起こされる可能性は高い」
尤もらしい顔をして、李義府はそう予測してみせるが、実際のところ、その大半は御史台(あるいは侍御史の劉清秀)から得た情報を、右から左に流用しているにすぎない。さほど感心してもらうようなことでもないのだが、
「おまえ、いつの間にか、えらく軍事通になったな!?」
と、来済は驚いてくれる。それになんとも返しようがなくて、李義府はただ冷たくなった残りの茶を啜り、惚けた顔をしているしかなかった。
高句麗の疲弊が強まったとして、明年、三十万の軍を派遣することを主上が朝議に諮ったのは、このわずか一月後のことである。
【注】
※一 「蜀」
現在の中国四川省一帯の古い呼び名。
三国時代、劉備がこの地方を支配し、国名としたことでも知られる
※二 「連州」
現在の広東省清遠市北部一帯
※三 「右衛率府長史」
宿衛にあたる右衛率府の属僚(文官)。官品は「従六品上」
※四 「大月氏」
イラン系の遊牧氏族であるとされる月氏(民族名)は、始め現在の中国の甘粛省
付近(黄河上流域)を拠点としていたが、前三世紀末、匈奴に攻撃されて敗れ、主
力は西方に逃れて、まず天山山脈北方のイリ地方に移動した。この移動した月氏を
「大月氏」と呼ぶ。
大月氏はさらに北方から烏孫に攻撃されてイリ地方を追われ、パミール高原を越
えて、アム川上流のソグディアナ、さらにバクトリアの地に入り、「大月氏国」を
建てた。大月氏国では、アム川上流のオアシス都市を土着の五人の有力者たち(翕
侯、ヤブグ)に支配させていたが、やがてその五翕侯の一人、クシャーン・ヤブグ
が月氏の支配を覆し、北部インドに進出して「クシャーナ朝」を建国している。
なお、中国の資料では、このクシャーナ朝も大月氏国と呼び、明確な区分がなさ
れていない
※五 「バクトリア」
アムダリア川上流、ヒンドゥークシュ山脈の北側に広がる盆地を指す。現在のア
フガニスタン北部
※六 「衛尉氶」
宮門の警備を司る役所の属官。官品は「従七品上」
※七 「融州」
現在の広西チワン族自治区
※八 「吐蕃」
七世紀初めから九世紀中頃にかけてチベットにあった統一王国
※九 「朝散大夫」
文官に対する散官の一つ。官品は「従五品下」
※一〇 「揚州」
現在の江蘇省揚州市
※一一 「文景の治」
『(西)漢』の文帝・景帝の統治期間(前一八〇年~前一四一年)を云う。
(西)漢の初期、秦末以来の戦乱により、国力は極度に疲弊しており、その
充実を図るため、朝廷では民力の休養と賦役の軽減を柱とした政策を実行した
中書省内の一角で、不意に後ろから声をかけられ、振り向いた視線の先に来済がいたことに、李義府は驚いた。一応、省内で机を並べてはいるものの、なんとなく肌が合わず、ずっと敬遠してきた相手である。きっとあちらも同じだろうと勝手に決めつけて、仕事上で会話を交わすことはあっても、個人的な話をしたことなど数えるほどしかない。
(断ろうか……)
一瞬そうも思ったが、来済には先だってこちらから頼みこみ、『晋書』の草稿を李延寿の元に回してもらった借りがある。それに見たところ、なんとなく精気がなく、人恋しそうな雰囲気が全身に漂っていて、邪険に袖にするのも気が引ける。あまりないことだが、李義府はその誘いに乗ってみることにした。
「それじゃあ、ちょっと寄らせてもらおうか」
案内されるまま、来済の執務室の奥に設けられた小間で休憩と洒落込む。彼の趣味なのだろう、表面に猿の姿が刻まれた香炉には、甘い匂いの香が焚き込められていた。
「いい香りだな、心が和む」
その言葉どおり、李義府がゆったりと寛ぐ様子をみせると、
「それは良かった。ここに隠れては一息ついて、気持ちを落ち着かせているんだ。そうでもしないと、このところ仕事もままならなくてな」
そう云うと、ほっとしたように来済も表情を和らげた。普段から強気で、めったに弱みを見せない来済の思いがけない台詞に、李義府は意外な感を覚えた。誰か話し相手を探していたのだろう、用意してあった二つの器に来済は茶を注ぎ、そのうちの一つを李義府の前に差し出してくれる。
「蜀(※一)の早摘みの茶だ。よかったら、飲んでみてくれ」
本朝では、古く三国時代から茶を飲む習慣はあったが、その頃の茶は、茶葉を餅状に丸めたものを炙って搗き、そこに湯をかけ、みかんの皮やねぎ、さらに生姜などと混ぜて、他の材料と一緒に煮て羹のようにして飲むのが一般的だった。この時代、朝廷内では、茶は酒と同等に扱われていたと云われている。その後、客人をもてなす際に出されるなど、次第に貴族社会における社交の場の飲み物として用いられるようになっていた。
そして、『唐』の御代になると、茶を飲む習慣は徐々に本朝全土へと広がりつつあり、その形態は、餅茶(へいちゃ)と呼ばれる方式が主流となっている。摘んだ茶葉を蒸し、搗いて型に入れて成型してから天日に干した後、火で炙って乾燥した上で保存するのだが、飲用する際には、それを削って粉砕し、塩を入れた湯に加えて煮た後、器に移し替えて飲むのである。非常に手間がかかるので、李義府としては自ら嗜みたいとは思わないが、飲ませてもらう分には大歓迎だ。
(庶民にはまだまだ高嶺の花だが、そのうち遍く天下に広まっていくかもしれないな)
この李義府の予感はあたり、『唐』も末期になると、茶を飲む風習は民間にも爆発的に広まり、その需要の高さに目を付けた王朝では、財政需要を満たすために、茶葉に課税をかけるようになっている。『旧唐書』「食貨志」の建中元(七八〇)年の条をみると、「天下の茶、漆、竹、木から十分の一の税を取る」と記されており、また、『旧唐書』の「文宗本紀」では、大和九(八三五)年、初めて茶葉の専売制が定められたことが記録されている。商品作物として、いかに茶葉が重要な地位を占めるようになっていたかが判るだろう。
その先触れとして、ゆったりと喉越しを楽しみながら、これが味わえただけでも、本省に顔を出した甲斐はあったかなと、李義府は得をした気分になっていた。しかし、その自分とは対照的に、眼前で茶を啜る来済の表情は暗く、目の下には隈までできている。『晋書』の執筆に関しては、彼の担当部分は早々に終了し、後は李延寿の最終校正待ちだと聞いているので、疲労の大元は、本来業務にあるということになりそうだ。このところ、仕事の割合が本務一に対して、『晋書』関係が九となっている李義府としては、申し訳ない思いにつまされる。
「年明け早々に長官(中書令)が急死されたじゃないか、あれからもう散々だ」
いきなり来済が愚痴りだした。
急死した中書令とは、馬周のことである。まだ四十八という若さで、主上に見出されて後、間違いなく「華麗な」と評してよい官歴を歩んできた彼だが、その出自は重臣としては珍しく、門閥や功臣の子弟というわけでもなく、また、科挙合格者でもない。このあたりの経歴が李義府と重なるところがあり、また、徒党や派閥を組むことを嫌う姿勢にも共感していたので、勝手に親近感を抱いていたのだ。それだけに、彼の突然の訃報は、李義府にとっても非常に衝撃的な事件だったことは確かだ。
「執務中、お姿が見えないので、省内くまなく探し回っていたら、厠のなかで倒れられていたのだそうだ」
来済はその最後の様子を語る。
「俺もそう聞いた。以前から消渇(糖尿病)を患っておられるというのは知っていたが、それほど重篤だとは思わなかったが、……。やはり、劉侍中があのようなことになられた後、陛下の期待を一身に背負って政務に当たられていたから、その激務がたたったのかな?」
「まあ、そんなところだろうな、……」
残念そうに何度も小刻みに首を縦に振ると、来済は音を立てて茶を啜る。
「だが、あまりにも突然のことだったので、役所のなかでは、『誰かに一服盛られたんじゃないか?』なんて、物騒な噂を囁く者まで出てくる始末で、本当に参ったよ」
その頃、『晋書』に手一杯で、あまり本省に顔を出す機会のなかった李義府だが、その話なら耳にしている。なにしろ青天の霹靂とも云うべき突然の死だったから、馬周の死因に疑問を持つ者は少なくなかったようだ。だが、駆け付けた侍御医によって自然死と診断され、検屍を受けることもなく葬られたために、いまとなってはその真偽を確かめる術はない。
このところ主上の体調があまり思わしくないことに加えて、功臣や大官の悲報が続いていることもあって、朝廷内の人心は相当に動揺している。そんななかで、高齢の者ならまだしも、馬周の場合、まさに働き盛りの年齢である。主上からの信望も絶大で、中書令と同時に吏部尚書も兼ねて百官の人事権を握っていただけに、その突然の退場は、今後の朝廷の動向を左右すると云っても、決して過言ではないだろう。
そのため、いろんな噂がまことしやかに囁かれるのも無理のないところで、彼の死の背後に長孫侍中の影を感じている者も、少なからず存在しているはずだ。馬周の死に関して、来済が本当はどう思っているのか、李義府は聞いてみたいような気がしたが、この男が自分相手に本音を漏らすとも思えず、とりあえず今日のところはやめておく。
「いまのところ、本省の責任者は検校中書令の趙国公ということになるが、なにしろ『知尚書・門下省事』でもあり、三省すべての業務を監督しなければならないお立場だ。中書省だけにかまってはいられない。そんなところに、今度は中書侍郎に任命されたばかりの崔様(崔仁師)が、陛下の勘気を被って連州(※二)への配流ときた。どうしてこうも、うち(中書省)ばかり厄介事が続くのか、……」
「ああ、確かにあれも、よくわからない事件だったな」
そんな感想を李義府は返す。
伝聞でしか耳にしていないので、確実とは云えないが、経緯はたしかこうだ。宮門のところで崔仁師が出てくるところを待ち構え、正式な手続きを経ずに、訴状を提出しようとした者がいたらしい。その訴えの内容も、訴人が何者だったのかも、記録に残っていないが、当然、崔仁師はこれを受理することを拒んだ。おそらく正式な手続きを踏むよう、申し渡したはずだ。そこに法令上問題になるようなところはない。
ところが、なぜか褚遂良がこの一件を問題視し、陛下のお耳に入れてしまったことで、事態は急転した。この件に陛下は激怒され、直ちに崔仁師は罪を得ることとなって、連州への配流が決まったのである。
「以前、崔侍郎は魏王の朋党だったことがある。そんな彼に中書省内で力を持たれることを嫌った褚侍郎が、陛下になにがしかを讒言したんじゃないか?」
そんな噂が既に広がっている。さらに、その続きとして、次の中書令はおそらく、長孫侍中お気に入りの彼だろうと、余計なおまけまで付け加わっている。一昨年、劉洎を追い落とした件があってからこちら、褚遂良が関わった案件はみな、そこに嫉みも加わって、ことごとく彼にとって悪い評判となって跳ね返っている。
しかし、そんな場合でも、「その背後には趙国公がいる」とはならない。誰も皆、そう感じてはいても、それを口にできない雰囲気が朝廷内に広がっていることが問題だ。それほどいまの朝廷内では、長孫無忌の権勢が絶対的なものになりつつある。
「だが、まあものは考えようだ。仕事が多忙ということは、それだけ省内をあんた一人で支えているという証左でもある。侍郎への昇格も、意外と早いんじゃないか」
珍しく李義府がそんな心にもないお追従を並べてみせると、それまで眉を曇らせていた来済も、今日初めて、満更でもないというような表情を一瞬だけだが見せてくれた。
「ところで、『晋書』の方はどうだ。そろそろ完成が見えてきたか?」
「ああ、いよいよ追い込みだ。李主簿が頑張ってくれている」
李義府は、そう無難に答えておく。
だが、正直なところを云うと、追い込みにかかっているのは事実だが、それ以上に混乱していると表現した方が正確だ。
(なんと云っても、子顕の一件での余波が大きすぎる)
事件の背景や真相のすべてがあやふやなまま、後始末は許敬宗の手に委ねたのだが、あれ以降、なんの音沙汰もない状態で、既に半年ほどが経過している。実はあの後、十二月に入って間もなくのことだが、崔裕が補助役から突然外され、太原府の地方官に任命されて、急遽、京師から離れてしまったのだ。このお膳立てをしたのが許敬宗であることは明白で、これが子顕の死に関わってのものなのか、李義府がいくら問い詰めてみても、許敬宗はなにも教えてくれない。なんとももどかしい限りだが、しかし、このとき、李義府にはそれ以上この件に深入りしている余裕がなかった。『晋書』の編纂作業に、それこそ追い立てられていたからだ。
まず長孫烈の遺稿を引き継ぎ、その部分を誰かが仕上げなければならない。さらに、二人いなくなってしまった補助役の穴も、なんとかして埋める必要があった。
「本当に申し訳ないが、これも頼む」
長孫烈の遺稿に関して、李義府が頼ったのは、やはり鄭賀だった。それを孟拓にも手伝わせ、李延寿に支援をお願いすることで、こちらの方はどうにか早々に目途が立った。だが、そうなると、今度は各執筆者の補助に回れるのが劉陽一人となってしまい、まったく手が足りない。そこで、あまり役に立つとは云えないが、李義府も劉陽と一緒に補助役を務めることで、ぎりぎり凌いでいるというのがいまの実情だ。この危機的な状況を理解してくれたのか、李延寿もあれ以降、あまりうるさいことは云わず、黙々と自分の出来る範囲で作業を進めてくれている。やはり、長孫烈を死なせてしまったことに、かなり負い目を感じているようだ。
(しかし、こんな事実を来済に知らしたところで、なんの意味もないしな)
ここは適当にお茶を濁しておこう、そう李義府は思った。
「どうやら梁国公(房玄齢)もそろそろ危ないということで、なんとかその前に『晋書』を完成させよと、褚侍郎様からは矢の催促だ。どうやら陛下からも、急げと一言お言葉があったらしい」
「そうか、梁国公もいよいよか……」
来済は呻くようにそう云った。どうやらなにか寂寞の念を抱いているようである。李義府にはそういう感慨を持つこと自体、もう一つ感覚的に理解できないのだが、朝廷にその籍を置く者なら誰もが、後世に「貞観の治」と称えられるこの太平の御代を現出した房玄齢という存在に、なにか特別な思い入れをしているようだ。であるなら、この老官僚の死が一つの時代の節目のように感じられるのも、仕方ないことなのだろう。
だが、房玄齢以外にも、主上の功臣で長老級の官僚でいうなら、蕭瑀もそろそろ怪しくなっているという噂を聞いている。なのに、こちらの方は、朝臣の口の端にも上ってこないのは、
(単に、役人としてのいまの境遇の差か⁉)
李義府はそこに官僚社会の世知辛さを感じ、なんとなく背筋がうそ寒くなった。
「なんだかここ数年で、廟堂が一気に寂しくなったなあ」
独り言のように、来済が呟く。たしかにそうだなと、李義府も相槌を打った。
高句麗征伐のさなか、中書令の岑文本が急死したのが皮切りで、その翌年には、侍中の劉洎が死を賜わるという悲劇があった。しかし、それだけでは終わらない。昨年に入ると、開府儀同三司・太傅の高士廉がまず鬼籍に入り、続いて太常卿の楊師道と象州刺史に左遷されていた韋挺も薨じている。そして、今年に入っての馬周の突然の死だ。こう指折り数えてみると、見事にある人物の政敵や目の上の瘤という立場の者ばかりが消えている。
(まるで趙国公の天下のために、道を拓いてやっているようなものじゃないか⁉)
歴史が定まる時というのは、このようなものなのだろうか。李義府はつくづく、溜息をつきたくなった。
「これから朝廷は、長孫侍中が主導していくことになるのだろうが、その片腕はやはり、褚侍郎ということになるのかな?」
李義府の顔色を窺うように、来済がそう問いかけてくる。房玄齢に対する感慨は感慨として、早くも官界での己の身の処し方を計算し始めているようだ。
「まあ、そうだろうな」
あまり認めたくはないところだが、いまの流れでいくならそれが自然だと、李義府ならずとも思うはずだ。ただし、その幸運もさほど長続きはしないだろうと、李義府の直感が云っている。
(汚れ仕事をあまりにも引き受けすぎだ)
本来なら長孫無忌に向かってもおかしくないはずの反発と憎悪を、褚遂良がその大半を一身に被ってしまっている。今後、一度なにかあれば、長孫侍中は躊躇なく彼を切り捨てるだろう。そう考えると、生理的に合わない相手ではあるが、褚遂良のことがなんだか哀れにすら思えてくる。
(何者かと組むということは、結局、危険も抱え込むということだ)
いまはまったく考えていないが、いつか自分も褚遂良や来済と同じように、己の身の振り方を決めねばならない時がやってくるかもしれない。その際には、なるべく後悔しない決め方をしたいものだと、真剣に李義府はそう思った。
そんなことをぼんやり考えていると、
「ところで、西の方はどうやら片付いたようだが、聞いたか?」
なにか少しでも明るい話題を見つけたいのか、来済が話題の鉾先を急に変えた。「西の方」とは、天竺方面の戦況のことである。昨年の末、右衛率府長史(※三)の王玄策が使節として天竺へと派遣されたのだが、そこで思わぬ大事が勃発し、戦闘へと発展していたのだ。そして、この一件に関しては、間接的にだが、玄奘の存在が影を落としている。
天竺と本朝との間に本格的な修好関係が生まれたのは、実はつい最近のことである。その始まりは、貞観十五(六四一)年、尸羅逸多王(戒日王、ハルシャ・ヴァルダナ)が使者を『唐』へ派遣してきたことがその発端だ。だが、それまでなんの接点もなかったのに、戒日王が突然、我が国に修好を求めてきた背景には、天竺に遊学し、その才徳を王に愛された玄奘の存在があると、当時、朝廷内では専らの噂となっていた。それというのも、戒日王の使者の口からも、しばしばその名が漏らされていたからだ。玄奘が語った東方の大国とその聖王に関する情報が戒日王の興味を惹いたことで、使節の来訪が現実のものとなったらしい。
(だから、陛下が玄奘の名を記憶し、興味を持たれるようになったのは、実は、彼が天竺から帰還するよりもずっと前からのことだ)
勿論、実際に拝謁を許してみると、主上が想像していた以上の傑物であったことは嬉しい誤算だったろうが、決して一目惚れというような単純な話ではない。
この戒日王からの使者に対し、主上はその返礼として、雲騎尉の粱懐璥を天竺に派遣している。この使者が天竺に到着すると、戒日王は非常に驚き、国人にこう尋ねたと伝えられている。
「これまで摩訶震旦(=中国)からの使いが我が国に来たことがあったか?」
それほど、歴史的にみても、この時の両国間の公式な使節の往来は、まさに画期的な出来事であると云ってよい。本朝と天竺方面との正式な国家間の交流ということになると、過去の歴史を紐解いてみても、『(西)漢』の武帝が張騫を大月氏(※四)に派遣した事例ぐらいしか見付けることはできない。しかし、これにしても、当時の大月氏はバクトリアの地(※五)を支配する政権であったため、厳密な意味では天竺との通交とは云えないだろう。
この稀有な体験を奇貨としたのか、戒日王は中国使節の帰国に改めて答礼使を随行させることとして、『唐』との関係をさらに深めようと試みている。それに応えて、主上も貞観十七(六四三)年、改めて衛尉氶(※六)の李義表を遣わすが、この時、戒日王は国境まで大臣を派遣して使節を迎えさせたうえに、都の城内を隅から隅まで自由に見学させ、歓迎と友好の意を示したという。この後、戒日王は再び使者を『唐』に遣わし、火珠や菩提樹、鬱金(サフラン)などを献上している。
こうしてみると、両国の修好はどちらかというと、天竺側の方が積極的だったように思われるかもしれないが、しかし、『唐』の側でも決してこれを軽視していたわけではない。今回、使節団の正使に王玄策を任じたのがその証拠で、彼は以前、融州(※七)の県令から天竺行きの使節団の副使に任じられた経験があり、両国の親睦を深めるにはまさに絶好の人選であると云えた。ちなみにだが、この際、彼が帯同した戒日王への信書は、昨年「大唐西域記」を朝廷に提出したばかりの玄奘が、主上の命によって梵語に翻訳したものである。
ところが、使節団が実際に赴いてみると、天竺の状況は一変していた。彼らが到着する直前、戒日王が崩御されていたのである。
「しかも、後継者を明確に定めていなかったのが拙かった」
来済が訳知り顔に解説を加えてくる。
在位四十年にも及ぼうかという偉大な帝王が、後継者も定めずに消えてしまったのである。北天竺は当然大混乱となっており、そこに野心家が台頭する隙が生じていた。戒日王の大臣だった帝那伏帝阿羅那順(ティラブクティ・アルジュナ)が王朝の簒奪を狙って自ら即位を宣言し、軍を発動させて王玄策の入国を拒んだのである。
この時、王玄策が率いていた騎兵は僅かに数十騎、とても敵することなどできるはずもない。兵士らはみな殺害され、諸国からの貢物はすべて阿羅那順に奪われるという、悲劇的な災厄に見舞われた。
「王玄策にとっては、とんだ災難だったな」
神妙な顔で頷いているところを見ると、来済は今回の事件を、どうやら真面目に受け取っているようだが、
(どうにも胡乱な話だ、……)
李義府には違和感しか覚えない。
まず、現地に到着するまで、戒日王の安否に関して、使節団がなんの情報も掴んでいなかったというのが妙だ。使節団なら必ず先触れの者を派遣していたはずで、いくら相手が厳重に秘していたとしても、多少なりともその動静が掴めていなかったというのは絶対に可笑しい。
(それに、簒奪者側の動きも変だ)
自分がもし同じ立場なら、国内の混乱に乗じて兵を挙げたばかりだ。国内をまだ固めきれてもいないのに、他国からの使者に略奪行為を働くようなことなどしては、その国に介入してくる口実を与えるようなものだ。それに万が一、なにかの弾みでそういう状況に陥ったのだとしても、
(肝腎の使節団の代表を逃してしまうと云うのは、あまりに間が抜けすぎていないか)
実は、この時、正使の王玄策は危機を脱して逃亡し、吐蕃(※八)西部の辺境地帯に身を潜めていたのである。しかも、彼は自らの判断で周辺諸国に檄を飛ばし、簒奪者を討つための援兵を依頼するという手際の良さまで見せていた。当初、使節団が襲撃されたとの報を受けて蒼くなっていた朝廷は、この続報に愁眉を開き、安堵の胸を撫で下ろしたことは云うまでもない。しかし、
(『唐』の正式な使節団の代表とはいえ、たかだか王玄策が出した命令で、周辺諸国がそう簡単に動いてくれるものか?)
それも自国にまったく関係のない、他国の内乱を鎮圧するために、だ。
ところが、実際には、王玄策が発した檄で、吐蕃からは兵一千が、さらに泥婆羅(ネパール)からは七千騎もの兵が彼の元に集まったのだという。こうして逆襲の体制は整い、王玄策、そして副使の蒋師仁はこの八千の兵を二軍に分けて進軍し、阿羅那順の軍と遭遇するとこれを大いに打ち破った。三千の首級を得るとともに、「溺死する者、一万人」という大勝だったという。この敗戦で阿羅那順は国を捨てて逃走し、再起を図ろうとしたものの捕らえられ、その妻と息子を奉じて抵抗を継続しようとした残党も一掃されて、天竺内の騒動は意外にも短期間で収まったのである。
(どう考えても出来すぎだ!?最初から段取りがついていたとしか思えない)
李義府の違和感は、もはや確信へと変わっている。
(すると、今回の絵を描いたのは、……)
最終決定者は主上だとしても、その詳細を詰めたのは、玄奘ではないか。李義府はそう推測していた。
天竺での最終的な戦勝が京師に届いたのは、つい先日のことである。これに喜んだ主上は、この後、阿羅那順を連行して長安に凱旋した王玄策を抜擢し、朝散大夫(※九)に任じることを決定している。
「文官ながら王玄策は大したものだ。まさに『入りては相となり、出でては将となる』の面目躍如といったところだな」
来済はどこまでも表に出ている情報だけを信頼しているようである。しかし、それが間違っていると云い切れる確証が李義府にもあるわけではない。余計なことを云うのも気が引けて、李義府としては黙っているしかなかったが、それで調子に乗ったのか、
「だが、これで天竺との関係も、当面、大きく変わることになるんだろうな」
と、なにかを期待するように、来済がそんなことを云う。
対等だったはずの天竺と『唐』の間の均衡が崩れ、『唐』が優位に立ったことで、なんらかの国益が得られることを期待しているのだろう。
(陛下の目的も、おそらくそれだろうな)
李義府の考えも、当然、そこに行き着いていた。
これまで天竺と本朝との交流はほとんどなかったこともあり、『唐』と天竺との間では、本来あってはならない対等な関係での交流が行われていたのだ。しかし、この度の王玄策の活躍により、っ戒日王の支配下にあった地域は再び平穏を取り戻すことができ、領域内の諸侯国に対する『唐』の威信は、急速に高まっている。
(「親子」とまではいかなくても、「兄弟」ぐらいにはなったかな?)
実際、この後、天竺の諸侯は相次いで使者を『唐』に送り、短期間ではあるが朝貢するという事態が起こっている。現代まで通じてみても、インドに存在した政治勢力が中国の政権に対して礼を尽くし、朝貢関係を結んだのは、歴史上、この時期のみの特異な現象である。
これは余談だが、主上はこの後、天竺から寄せられた貢物のうち、糖霜(白砂糖)に興味を持ち、中天竺に位置する『摩伽陀(マガダ)』国に使者を派遣し、この国の熬糖法を学ばせている。そして揚州(※一〇)に勅を発して各種の砂糖黍を献上させ、その汁を圧縮して薬剤のように精製してみたところ、その色と味は、西域産のものより数段勝っていたため、これ以降、中国国内での砂糖づくりが盛んになるという副産物が生じている。その後、『唐』で栽培・生産力が高まった砂糖は、日本にも薬として輸入されるようになるが、それを最初にもたらしたのは鑑真だと云われている。
「西方で『唐』の威信は格段に高まったんだ。これに満足して、高句麗征伐は取りやめようと陛下は思って下さらないものかな。なあ、どう思う?」
やはり来済は、西方の慶事で懸案の東方問題が片付くことを期待しているようだ。だがそれは、あまりにも主上の高句麗に対する執念を甘く見すぎている。
「そんなうまくはいかないだろう。陛下の高句麗に対する執着は、半端ではないからな」
李義府がそう云いきってみせると、やはりそうかと、来済は判りやすいほどの落胆ぶりで、思い切り肩を落とした。高句麗への度重なる軍旅で、国庫は相当に疲弊している。さらに、臨時に兵士の徴発を割り当てられた諸州からも、悲鳴に近い上訴が連日、中書省にも届いているらしい。
特に、これまで比較的負担が小さかった長江中・下流域の諸州からの反発が、非常に激しいものとなっている。もし、再度、高句麗との本格的な戦端が開かれるようなことにでもなれば、こうした負の反応は、一気に爆発する可能性すら秘めている。
(それでは煬帝の二の舞だ!?)
来済はおそらく、そんな危機感を抱いているのだろう。
「陛下は『(西)漢』代の再来を夢見ておられるのかもしれないが、如何せん、その当時とは国情があまりにも違いすぎる」
思わず李義府は、そう口にしてしまう。
本朝では、数多くの王朝が歴史を刻んできたが、そのうち、中国全土の支配に成功した統一王朝は、いまの御代を除くと、始皇帝に始まる『秦』と劉氏の興した『(西・東)漢』、さらに、司馬氏の『晋』と楊氏による『隋』の四つしかない。
(そのうち、短命に終わった三つの王朝は、陛下の視野には入っていない。陛下が目指されているのは、『漢』と肩を並べてみせることだけだ)
では、いまの御代と『漢』代とでは、どこがどう異なっているのか。その支配領域を比較してみると、中国本土と西域とでは、それほど差がみられない。違いがあるとすれば、それは遼東と朝鮮半島だ。『(西)漢』の武帝が現在の高句麗から朝鮮半島の北部・中部にあたる地域に四郡を設置した当時、国内は「文景の治」(※一一)と呼ばれる充実した時期を経て、財政的にも大きな蓄積があり、また、人口も大幅に回復していた、いわば全盛期だった。その人口も、およそ五千万程度はあったと明確に記録が残されている。この余裕のある国力で、当時はまだ人口過疎だったこの地域に植民を進めることは、比較的容易だったろう。
だが、現在の状況はまさにその逆だ。高句麗や百済、そして新羅が国家としての体裁を整え、人口を増やしている一方、『唐』はと云えば、この二十年、民力の涵養に努めてきたことで、ようやく回復傾向にあるものの、まだようやく一千万人を超えた程度にすぎない。この状況で、偉大なる『(西)漢』帝国の復興を夢見るなど、忖度なしに云わせてもらえるなら、それは単なる妄想でしかない。
(けれど、さすがに厳しい現実を痛感した後だ、高句麗征伐そのものは諦めないにしても、自ら親征したり、『唐』単独で攻め込むというような愚を、陛下も二度は犯しはしないだろう)
次に軍旅を起こす際には、もっと現実的な方策を模索するにちがいない。
「おそらく新羅と同盟を結び、高句麗が両面対応せざるを得ない状況に追い込む戦略を採られるんじゃないか」
「だが、新羅が本当に靡くか?」
来済は懐疑的だ。ついこの間、親『唐』を掲げて立った反乱勢力が呆気なく、新女王を擁する勢力に鎮圧されたばかりだ。新羅の新政権も、当然、『唐』に対する警戒心を強めているはずだ。しかし、李義府には自信があった。
「いや、双方ともに高句麗を敵としている点では共通している。敵の敵は味方さ」
昨年の七月、新しく立った女王に「柱国・楽浪郡王」の冊封が行われたが、これは、おそらくこちらからの秋波だ。それに対して、新羅側も謝恩使を派遣する形で応えてきたのだから、この時、おそらくなんらかの話し合いが、秘密裏に行われたことは間違いない。
「同盟に関する盟約も、既にある程度固まっているんじゃないか。だとすれば、対高句麗で、陛下も近々に本格的な軍事行動を起こされる可能性は高い」
尤もらしい顔をして、李義府はそう予測してみせるが、実際のところ、その大半は御史台(あるいは侍御史の劉清秀)から得た情報を、右から左に流用しているにすぎない。さほど感心してもらうようなことでもないのだが、
「おまえ、いつの間にか、えらく軍事通になったな!?」
と、来済は驚いてくれる。それになんとも返しようがなくて、李義府はただ冷たくなった残りの茶を啜り、惚けた顔をしているしかなかった。
高句麗の疲弊が強まったとして、明年、三十万の軍を派遣することを主上が朝議に諮ったのは、このわずか一月後のことである。
【注】
※一 「蜀」
現在の中国四川省一帯の古い呼び名。
三国時代、劉備がこの地方を支配し、国名としたことでも知られる
※二 「連州」
現在の広東省清遠市北部一帯
※三 「右衛率府長史」
宿衛にあたる右衛率府の属僚(文官)。官品は「従六品上」
※四 「大月氏」
イラン系の遊牧氏族であるとされる月氏(民族名)は、始め現在の中国の甘粛省
付近(黄河上流域)を拠点としていたが、前三世紀末、匈奴に攻撃されて敗れ、主
力は西方に逃れて、まず天山山脈北方のイリ地方に移動した。この移動した月氏を
「大月氏」と呼ぶ。
大月氏はさらに北方から烏孫に攻撃されてイリ地方を追われ、パミール高原を越
えて、アム川上流のソグディアナ、さらにバクトリアの地に入り、「大月氏国」を
建てた。大月氏国では、アム川上流のオアシス都市を土着の五人の有力者たち(翕
侯、ヤブグ)に支配させていたが、やがてその五翕侯の一人、クシャーン・ヤブグ
が月氏の支配を覆し、北部インドに進出して「クシャーナ朝」を建国している。
なお、中国の資料では、このクシャーナ朝も大月氏国と呼び、明確な区分がなさ
れていない
※五 「バクトリア」
アムダリア川上流、ヒンドゥークシュ山脈の北側に広がる盆地を指す。現在のア
フガニスタン北部
※六 「衛尉氶」
宮門の警備を司る役所の属官。官品は「従七品上」
※七 「融州」
現在の広西チワン族自治区
※八 「吐蕃」
七世紀初めから九世紀中頃にかけてチベットにあった統一王国
※九 「朝散大夫」
文官に対する散官の一つ。官品は「従五品下」
※一〇 「揚州」
現在の江蘇省揚州市
※一一 「文景の治」
『(西)漢』の文帝・景帝の統治期間(前一八〇年~前一四一年)を云う。
(西)漢の初期、秦末以来の戦乱により、国力は極度に疲弊しており、その
充実を図るため、朝廷では民力の休養と賦役の軽減を柱とした政策を実行した
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歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
【受賞作】小売り酒屋鬼八 人情お品書き帖
筑前助広
歴史・時代
幸せとちょっぴりの切なさを感じるお品書き帖です――
野州夜須藩の城下・蔵前町に、昼は小売り酒屋、夜は居酒屋を営む鬼八という店がある。父娘二人で切り盛りするその店に、六蔵という料理人が現れ――。
アルファポリス歴史時代小説大賞特別賞「狼の裔」、同最終候補「天暗の星」ともリンクする、「夜須藩もの」人情ストーリー。
勇者の如く倒れよ ~ ドイツZ計画 巨大戦艦たちの宴
もろこし
歴史・時代
とある豪華客船の氷山事故をきっかけにして、第一次世界大戦前にレーダーとソナーが開発された世界のお話です。
潜水艦や航空機の脅威が激減したため、列強各国は超弩級戦艦の建造に走ります。史実では実現しなかったドイツのZ計画で生み出された巨艦たちの戦いと行く末をご覧ください。
戦国三法師伝
kya
歴史・時代
歴史物だけれども、誰にでも見てもらえるような作品にしていこうと思っています。
異世界転生物を見る気分で読んでみてください。
本能寺の変は戦国の覇王織田信長ばかりではなく織田家当主織田信忠をも戦国の世から葬り去り、織田家没落の危機を迎えるはずだったが。
信忠が子、三法師は平成日本の人間が転生した者だった…
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
白雉の微睡
葛西秋
歴史・時代
中大兄皇子と中臣鎌足による古代律令制度への政治改革、大化の改新。乙巳の変前夜から近江大津宮遷都までを辿る古代飛鳥の物語。
――馬が足りない。兵が足りない。なにもかも、戦のためのものが全て足りない。
飛鳥の宮廷で中臣鎌子が受け取った葛城王の木簡にはただそれだけが書かれていた。唐と新羅の連合軍によって滅亡が目前に迫る百済。その百済からの援軍要請を満たすための数千騎が揃わない。百済が完全に滅亡すれば唐は一気に倭国に攻めてくるだろう。だがその唐の軍勢を迎え撃つだけの戦力を倭国は未だ備えていなかった。古代に起きた国家存亡の危機がどのように回避されたのか、中大兄皇子と中臣鎌足の視点から描く古代飛鳥の歴史物語。
主要な登場人物:
葛城王(かつらぎおう)……中大兄皇子。のちの天智天皇、中臣鎌子(なかとみ かまこ)……中臣鎌足。藤原氏の始祖。王族の祭祀を司る中臣連を出自とする
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
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