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拾陸ノ章
李義府、子顕の死に動揺す(貞観二十一(六四七)年、十一月)
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「それじゃあ戻るわね」
肚兜(※一)一枚だった身体に薄絹の衫襦(※二)だけを羽織り、裙は左腕にかけたままの姿で春蘭は云った。吐く息を白くする夜気は冷たいが、いまの火照った身体を冷ますには心地良い。
そんな春蘭に固い表情を向けながら、
「ああ、また明日の朝」
と、烈の態度は素っ気ない。
人目には冷たく映るかもしれないが、その声音にはいつにも増して、親愛の情がこもっていることを春蘭は感じていた。近頃、仕事で厄介事が続いていたせいか、二人きりでいるときでも、どこか苛立っていて、愚痴ばかりこぼしていたのだが、今宵はちがう。酒食の席はもちろん、褥のなかでも烈は情熱的に自分を愛してくれたのだ。
「このところ当たってばかりで悪かった。お前にはなんの関わりもないことだったのにな」
そう云って、烈はまず詫びてくれた。そんなふうに、本当は根っから優しくて、不器用なくらい生真面目な人なのだ。そして、
「だが、それもようやく片がつきそうだ。李舎人が間に入ってくれるという話になって、相手の方から折れてきたんだ。これでやっと、私も一族のなかで、大きな顔ができそうだ」
長孫無忌が事実上、皇太子の後見役を務めるようになって以降、彼の子弟らはみな、廟堂で大いに幅を利かせている。なのに、同じ長孫氏でありながら、これまで中央に烈の居場所はなかった。彼の祖父であり、無忌の族叔でもある順徳がその晩年、主上の不興を買い、中央の官職から離れていたからである。そのせいもあって、烈も地方の州府の司馬として長年冷や飯を食わされており、そのことにどれだけ劣等感を抱いているかを、春蘭はよく知っている。そんな彼にも、ようやく陽の当たる機会が訪れようとしていることに、春蘭は心の底から喜びを感じていた。
今宵の烈の話によると、こじれるだけこじれていた『晋書』の担当巻をどのように執筆するかに関しては、当初から烈が主張していたように、担当する巻を二人で単純に振り分けるのではなく、すべての巻を共同して執筆することで決着したのだそうだ。
「まず、担当するすべての巻を前半部と後半部に分ける。次に、担当する巻を半分に分けて、各々がまずその前半部を執筆する。そして、お互いにそれを終えたところで書いたものを交換し、今度はそれぞれが後半部を記述して、完成させるというわけさ」
春蘭には少し煩雑なような気もしたが、烈にしてみると、その案なら執筆したと主張できる巻の数は倍になるわけで、十分に納得できるものだったらしい。それで一昨日、前半部分を仕上げたこちら側の巻を崔雄の元に届けたところ、早速、昨日の昼にあちらの方からも約束どおり、崔雄が前半部を仕上げたものが送られてきたのだそうだ。
「やはり、詰まらないことで意地を張って揉めているより、お互いに約束を守る方が気分はいいものだな」
そう云って、爽やかに笑う烈の表情が妙に眩しかったことを思い出しながら、いま静かに彼を見つめていると、
(この人なら、本当に信じていいかもしれない‼)
そんな熱い想いが、自然と湧きあがってくる。
州の長吏(※三)を務めていた父が上役の罪を押し付けられ、家族全員が籍没の憂き目にあったのは、春蘭が十一歳の秋のことだ。それから十有余年、教坊(※四)所属の官妓という烙印を押されて生きてきた春蘭に対して、男たちから投げつけられる言葉には、常に侮蔑と欺瞞がつきまとっていた。それを仮面と化した上辺だけの笑顔で受け流しながら、妓女としての経験を重ねてきた春蘭である。妓楼で語られる男たちの言葉など、枯れ葉一枚ほどの重みもないことを春蘭は知っている。ましてや烈は、朝廷内でも名高い名門一族の御曹司という、まさに雲の上の存在なのだ、
(この人の言葉を、決してまともに受け取ってはいけない)
これまでずっと、そう固く心に戒めてきたのである。けれど、真剣に甘い言葉を囁き続ける烈と接し、閨のなかで熱烈な愛撫を受けていると、どうしても彼のことが気になる存在になっていくことは否めない。
(本当に実現しなくても構わない。私にはいま、この人の言葉だけで充分だ)
去りがたい思いを胸に、春蘭がそのまま烈を見つめ続けていると、照れ臭さに間が持たなくなったのか、彼は傍らの床几に置いてあった高盃に手を伸ばすと、その中にまだ半分ほど残っていた酒を一気に飲み干した。そして、なにかを語ろうと思ったのだろう、言葉を探してしばらく春蘭の方を見つめていたが、不意に烈は驚愕の表情を浮かべる。次の瞬間、手にしていた高盃を突然投げ捨てると、まるで春蘭に縋りつこうとでもするかのように、両手を大きくこちらに伸ばしてきた。
反射的に駆け寄ろうとした春蘭だったが、しかし、それを待つことなく烈は、いきなり喉を掻きむしり始めた。いつの間にかその表情は苦悶のそれへと変わり、獣のような低い唸り声をあげて勢いよく牀台に倒れこむ。そのまま自分の喉に爪を食い込ませ、ひたすらのたうち回りながら、まだ消化しきれていない胃のなかのものを何度も吐き戻している。けれど、その姿を凝視している春蘭は、ただ茫然として立ち尽くしたまま、一歩も動くことができなくなっていた。
(嘘だ!?)
あまりにも一瞬にして変貌した眼前の光景が、春蘭にはとても現実のものとは思えない。そのままで、一体どれほどの時間が経過したのだろうか。やがて、激しく痙攣していた烈の全身が、ゆっくりとその動きを止めていく。喉から漏れていたかすかな音までが、自分の耳に届かなくなったのを意識した瞬間、
「嫌だあーー⁉」
喉が潰れるかと思えるほど、甲高い叫び声が春蘭の口をついて飛び出していた。
「なに、子顕が死んだ!?」
書状の内容を確認した途端、思わず声が出てしまった李義府は、口にしていた夜食の饅頭を思わず吹き出しそうになっていた。
両筆の書状は、いつもながら見事なまでの仮名釘流で、見慣れた李義府でなければとても理解できないほどだが、ともかく子顕の死という事実だけは、はっきりと読み取れる。
(一体、どういうことだ?)
まず頭のなかをよぎったのは、『晋書』の編纂業務にどのような影響が出るかという懸念だったが、それはほんの一瞬のことで、次に、胸中を占めたのは、
(春蘭にどうやって伝えよう!?)
そんな困惑だったことが、李義府には意外だった。
美眉との関係が真剣なものになっていくにつれて、その周辺にいる者とのつながりもまた、いつの間にか深まっていた。なかでも春蘭は、美眉と気の置けない関係にあることもあって、李義府にとっても大事な存在となっている。役人生活のなかでは、そんな関係性の人間など一人もいないくせに、烈の死を知らせるという嫌な役回りは、自分が果たすしかないと、なぜか李義府は、直感的にそう思ったのである。
しかし、春蘭にその事実を伝えるにしても、そもそも子顕がいつどこで、また、どのようにして亡くなったのか、その詳細が判然としない。両筆の書状には、そのあたりのことがまったく触れられていないからで、ともかく御史台まで至急おいでを乞うと、ただそれだけで結ばれている。
御史台が関係しているとなると、子顕の死が尋常なものでなかったことだけは明らかで、いろいろな想像ばかり頭をもたげてくる。夜が明けるのを待って、すぐにでも駆け付けたい気持ちはやまやまだったが、生憎、風疾(リウマチ・中風)に罹患され、京師の酷暑を避けて終南山の翠微宮に行幸されていた主上が先日、太極宮に戻られたばかりで、明日はどうしても中書省でこなさねばならない用務が待っていた。主上の思し召しによって、旧臣・功臣のうちから幾許かが昇進・恩典の栄誉に浴することが内定しており、その準備を進めるために出仕しなければならないことが申し渡されていたからである。
(なんとも間の悪い、……)
この夜、眠りに就こうとしても、なぜか春蘭の悲し気な表情ばかりが脳裏にちらつき、どうにも落ち着くことができない。そのまま浅い眠りに終始し、頭の冴えない李義府ではあったが、ともかく早朝から中書省に顔を出す。そこで、久方ぶりに顔をあわせる中書侍郎、褚遂良からの指示を仰ぎ、主上の御意向に沿った詔勅の草案作りに来済とともに取り掛かるが、やはり通常よりも刻を要し、最終的に主上の御裁可をいただけたのは、既に夕刻が近付き、陽も落ちかけようとしている頃だった。
「後は頼む‼」
そう一言だけ告げ、非難がましい視線を向けてくる来済を拝み倒して先に中書省から飛び出すと、外朝にある御史台へと、李義府は大急ぎで足を向けた。その御史台では、窓口で顔馴染みの役人に挨拶されるが、半ば無視して両筆の詰所へと急ぐ。いつもなら既に役所を後にしていてもおかしくはない時刻だが、今日に限っては、間違ってもその心配はないだろう。その見込みどおり、両筆の詰め所には彼ともう一人、まだ顔を見たことのない若者が待ってくれていた。
「よう、やっときたな、李舎人。紹介するよ、書令史の王栄だ。子顕殿の最期を確認してくれたのは、この男さ」
「お初にお目にかかります、李大人。王栄と申します。お噂はかねがね」
(ああ、この若者が王栄か)
李義府よりは多少小柄で、一見優男風だが、意外と筋肉質の体形をしていることは、袍の上からでも見て取れる。拱手したままの姿勢も、背筋が見事にピンと伸びていて、それなりに武術の心得もありそうだ。実際に顔を合わせるのは初めてだが、両筆からは、可愛がっている後輩としてよく聞かされている名前なので、とても初対面とは思えない。それに、
「先の話だが、もしよかったら、あんたの職田の管理を俺に代わって、あいつに任せてやってくれないか」
そんな頼みも両筆から受けている。古い知り合いの息子ということだが、よほどこの若者のことを見込んでいるのだろう。普通の際なら、聞きたいことはやまほどあるのだが、いまはそんな悠長なことを云っている暇はない。挨拶もそこそこに、李義府はまず、王栄に聞きたいことから尋ねかけた。
「よろしく王栄。それで、いつ、どこで子顕は……」
「まあ、そう慌てるな、李大人。とりあえず座ってくれ」
気が急くばかりの李義府を宥めるように、傍らから両筆が声をかけ、用意していた席に李義府をともかく座らせる。そして、自分も腰を下ろし、王栄に目配せすると、それに頷いた王栄は椀を人数分用意し、そこに何かを満たしてそれぞれの前に配り、自分も同じように席に着いた。
喉の渇きをおぼえていた李義府は、椀の中身を一息に飲み干す。だが、それは意外にも白湯ではなく、上質な酒だった。両筆が気を利かせてくれたのだろう、予想外の弔い酒に少し咽せながら、李義府は王栄の口が開かれるのを今度は静かに待った。
「侍御史からの命を受けて、私は仲間とともに、この三月から交代で百華苑の見張りについていました」
「なんだって!?すると、子顕が亡くなったのは百華苑か」
(なら春蘭は、もう既に子顕の死を知っている?)
自分から春蘭に知らせる必要はない。そう思っただけで、ほんの少し気は楽になったものの、同時に、思いもかけない場所の名が飛び出し、李義府は驚いた。そんな彼に、百華苑は例の新羅の留学生が殺害された事件以降、引き続き御史台の(というよりは、劉清秀個人の)最重点監視対象となっているんだと、両筆が横から補足する。
(すると、監視は既に五ヶ月以上にもなるじゃないか⁉)
実際に見張りに当たる王栄たちも大変だとは思うが、しかし、それよりも李義府が気になったのは、この監視のために必要とされている費えの方だった。御史台の正式な任務ではないのだから、役所の官費を回すわけにはいかないはずだ。だとすれば、この件の責任者である劉清秀が、身銭を切って用意しているとしか思えない。
(なんともご苦労なことだ)
そんな素直な感想とともに、劉清秀という人間の、役人としての肚の括り方を初めて実感したような気がして、李義府は一度、彼とゆっくり話をしてみたい、そんな気分になっていた。
だが、それはそれとして、
「子顕はどうして死んだんだ?急な病か、事故か、……まさか、殺害されたなんてことはないんだろう?」
どうしても気が急いてしまい、李義府が早口でそう捲し立てようとすると、
「李大人⁉すまないが、王栄の話しやすいようにさせてやってくれないか」
呆れたような表情で、両筆がそれを止めに入る。これほど焦っている李舎人をみるのが珍しいのだろう。二人の空気感が垣間見えたような気がして、傍らで見ている王栄は、なんだか少し微笑ましい気分になっていた。
「ああ、これはすまない」
顔を赫らめた李義府が、冠の上から頭を掻く。その姿に笑いを噛み殺しながら、王栄はあらためて報告を始めた。
「留学生が殺害された事件以降、およそ二月ほど経過した頃から、百華苑には新たな新羅の関係者と思しき人間が複数、定期的に姿を現わすようになったことを我々は掴んでいますが、それがこの件と繋がっているかどうかは、いまのところ判然としませんので、一旦置くこととします」
まず、それだけを云うと、王栄も盃に口をつけ、適度に喉を湿らせる。
「本件の経緯だけに絞ってお話しします。子顕殿が昨日、百華苑を訪ねてきたのは日入の初刻(午後五時頃)だったと、私が交代する前の見張り役は証言しています。その後、私が表口を見張っている間、子顕殿が店を出られることはありませんでした。そして、そのまま夜半の正刻(午前零時頃)を迎えるまで、百華苑には正規の客が出入りする以外、特にこれといって妙な動きがなかったことは、いつもどおりの風景といったところでした」
新羅の関係者と比定する人物として、いまは西の市で油を扱う小店の主と、弘化坊に邸を構える初老の女主人に仕える三十絡みの侍女、この二人に御史台は目星をつけているらしい。二人が揃って動くことはなく、また、それぞれ百華苑に姿を見せるのも不定期で、二日続けて見かけることもあれば、半月以上姿を現さないこともあるのだと云う。当然、二人の側にも監視の眼を光らせており、どこに向かった場合でも逐一記録され、特に百華苑を訪れそうな気配がある際には、張り付いている者から事前の知らせが入る手筈になっているらしい。
「なんだか、随分と堂々としたもんだな!?」
少し困惑気味に、李義府は呟いた。ここまで完璧に関係が掴まれているようでは、秘密の保持などあってないようなものだ。監視している御史台側が優秀なのか、それとも新羅の関係者にあまりにも警戒心がなさすぎるのなか、なんとも判じかねるところではある。しかし、いずれにせよ、『唐』と新羅の同盟関係は、既に後戻りすることが許されないところにまで来ていることは間違いないようだ。
「まあ、たしかにその気味は見受けられますね」
と、王栄も苦笑する。
「新羅の関係者も近頃は、百華苑に用がある場合、深夜にこっそりと忍んでくるというようなことは、ほとんどありません。ですから、昨夜は、事前のつなぎもありませんでしたし、何事もなさそうだと、こちらも暢気に構えていたんです」
ところが、そんなところに突然、変事は起こりましたと、王栄は、いきなり核心に迫ってくる。
「騒ぎがあったのは、鶏鳴(午前一時頃)にはまだ少し間がある頃だったと思います。私の耳に、男の呻き声のようなものがしばらく続いて届き、それがようやく途切れたかと思った途端、今度は、女の甲高い悲鳴が聞こえてきたんです」
少し離れた表に身を潜めている自分の耳にまで届いたのだ。なかでは相当の騒ぎとなっていることは、容易に察しがつく。一瞬どうしようかと迷ったが、すぐに肚をくくって見張り場所から飛び出すと、御史台の者だと名乗りをあげながら、王栄は表口の戸を激しく叩き続けた。なかでは何かざわつく気配はあるものの、しかし、一向に扉は開かない。
(いっそ蹴破るか、……)
王栄がそう考え始めた瞬間、ようやく内側から扉を開けようとする気配があった。実際はそれほどの時間ではなかったと思われるが、扉が開くまでの間がやけにもどかしく感じられ、開くやいなや、王栄は直ちにそこから踏み込むと、扉の傍らに立っていた男の腕を掴み、強引に現場へと案内をさせた。
「事件が起こっていたのは、客が泊まる際に利用する三階の宿泊房の一つでした」
その房の前には使用人らしい男が三人、なにか小声で相談していたが、王栄が姿を現すと、途端にみな口を噤んでしまう。
「彼らにも後で詳しく事情を聴く必要があるなとは思いましたが、ともかく、まずは現場です。房のなかに踏み込んでみると、薄絹一枚の姿で、女が激しく身を震わせていました。悲鳴をあげたのは、どうやらこの女だったようです」
そして、その視線の先には、いかにも藻掻き苦しんだという感じで、嘔吐した汚物にまみれ、苦悶の表情を浮かべた男の屍が牀台の上に一つ。そして、その傍らで膝をつき、脈を確認しながら屍体を調べている男を王栄は見つけたのだと云う。
「その場にいた女は春蘭で、屍体を検分していたのは蒙岳の旦那だったみたいだ」
ここは両筆がしたり顔で補足してくる。
「すると、春蘭は、子顕が亡くなるその瞬間を目撃していたわけか⁉」
李義府は複雑な気持ちになった。美眉の観察どおり、春蘭も本気で子顕に心を寄せ始めていたのだとしたら、
(そんな場面に遭遇して、精神を壊してはしまわなかっただろうか?)
そんなことを思いながらも、
「それで、子顕の様子はどうだった?」
と、李義府は王栄に質問を続ける。
「はい、検分していた男と震える女をとりあえず房の外に出し、後から駆けつけてきた仲間に彼らを委ねた後、まず私が屍体の調べに手をつけました」
房内にあった燭台から蝋燭を取り出し、その頼りない灯りの下で死体の着衣を下帯まで外すと、王栄はまず外傷がないか、全身をくまなく確かめてみたと云う。
「細部まで確認するのは、朝になってから検屍官に任せることにしましたが、私がその場で一見した限りでは、喉のあたりをしきりに引っ掻いた爪痕以外、髪で隠れた頭部も含めて、傷のようなものはどこにもありませんでした」
そう王栄は断言する。
「ほかに何か死につながるような痕跡はないかと探りましたが、これもなし。死体の特長的な異変といえば、口の周りから首筋、さらには腹部にかけて、蕁麻疹のような発疹が広く見受けられたこと、そして、口から細かな白い泡のようなものを吹いていたこと、この二つでした」
そこまで聞いたところで、李義府は首を傾げた。
「どうもいま聞いた屍体の様子からすると、なにかの食べ物で過敏症を起こした人間に特有の、そんな症状のような気がするんだが、……」
「ええ、私も以前、似たような状態の屍体に出くわしたことがあります。その男は、魚介類の蒸し物、特に蝦が原因で同じような症状を引き起こしたようで、その際、検屍にあたってくれた医官の診立てでも、同じ判断が下されました」
今回の件でも、すぐに御史台へと連絡がゆき、夜が明けてから改めて検屍官にお越しを願ったのだが、その鑑定でも、やはりなにかの食べ物による過剰反応によって、呼吸不全を起こした結果による死ではないか、そういう結論に至ったらしい。
「担当してくれた医官はこの道二十年の達者で、俺もよく知っている漢だ。あいつがそう判断したのなら、まず間違いない」
両筆までその結論に太鼓判を押し、子顕の死因を補強する。
「それなら、一体、なにが問題なんだ?」
李義府はあらためて疑問を呈した。
「子顕はあの若さで気の毒だとは思うが、たまたま自分に害のあるものを口にして、亡くなったというだけだ。これも天命だったということだろう」
と、ごく当たり前の感想を口にする。春蘭がその場に居合わせたことだけは不運としか云いようがないが、所詮は不慮の事故だ。誰が悪いという云うわけでもなく、李義府にしてみれば、二人が何を勿体ぶってこのように構えているのかが理解できない。
「いえ、話はここからです。子顕殿の死を引き起こした原因物が、どうやってその体内に入ってしまったのか、その経緯が判らないんです」
「ん、どういう意味だ?」
李義府には王栄の云っていることが、すぐには理解できなかった。
「子顕殿に死をもたらした原因物の正体は、すぐに判明した」
こちらは、両筆の台詞だ。
「夜が明けるのを待ち、子顕殿の自邸にすぐに人を走らせ、ご子息の不慮の死をご家族にお知らせしたんだ。すると、御母堂はその死に様を耳にするやいなや、すぐに『胡桃のせいだ』と泣き出したらしい」
長孫烈にはその昔、胡桃を食べて、身体が過剰反応を起こして呼吸困難となり、危険な状態に陥った苦い体験があるのだという。
「八歳の頃、山で遊んでいるうちに、なにげなく口にしたのだそうです」
今度は、そう王栄が補足してくる。
幸いその際は、すぐに異変に気付いた大人が胡桃を吐かせ、水を大量に飲ませてから近くの薬師のもとに駆け込んだことで、大事には至らなかったらしいが、それ以降、子顕は自分が胡桃に対して過敏であることを理解し、少しでもそれを口にするとすぐに拒否反応を起こすため、常に気を付けていたのだと云う。ところが、思わぬ事態が昨年起こった。
「百華苑で出された料理のなかに、胡桃の油が一部に使われていて、そのせいでまた呼吸困難になりかけたんだそうです」
胡桃の本体ではなく、そこからの抽出物であったために、口にしただけではすぐには判らず、体内に入って反応が出てしまったわけだが、幸い、この際にも店の者が機転を利かし、食べたものを吐かせるために大量の水を飲ませてくれたお蔭で、なんとか事無きを得たらしい。
(待てよ、確かにそんなことがあったな?)
李義府も思い出した。たしか、美眉との関係が初めて深まった、あの因縁の日だ。その後、春蘭が親身になって看病したことに子顕がほだされ、二人がいまのような関係になることへと繋がった記念の日でもある。
「このとき、子顕殿は百華苑の者に自分の体質について明かし、今後、自分に出す料理には、決して胡桃の油を使うことのないようにと、きつく申し入れをされたのだそうです。御母堂はその話を子顕殿から聴いておられたので、『それなのにまた』と、いたく嘆いていらっしゃいました」
どうやら子顕の母親は、昨夜も店のなんらかの手違いで、胡桃の油がなにかの料理に誤って使われ、そのために息子は死に至ったと思い込んでいるようだ。
「それで、御母堂は、『息子は百華苑に殺されたのも同然だ。すぐに責任者を捕まえてくれ』と、それはもう、ものすごい剣幕で、……」
「ところが、ことはそう単純じゃあない」
再び両筆が口を挟んでくる。そして、それに呼応するように、王栄も話を繰る。
「そうなんです。子顕殿は食事をされた後、すぐに亡くなられたわけではありません」
検屍官の意見では、死につながるような重篤な症状が引き起こされるのは、原因物が体内に入ってすぐの場合が大半なのだそうだ。発疹や嘔吐など、前段階の症状がないまま、八刻(二時間)以上も過ぎてから劇的な症状が突然に起こるようなことは稀なのだという。実際に子顕が苦しみだしたのは、春蘭の証言によれば、食事を終え、宿泊用の房に移ってかなりたってからのことだ。その証言に間違いがないなら、食事が直接の原因でないことは、自ずから明らかだ。
「ただし、念のため、厨房の人間にも厳しく取り調べは行いました。ですが、みな口を揃えて、昨夜の料理に胡桃の油は使っていないと、強硬に否定しています」
厨房内もつぶさに調べてみたが、やはりどこからも胡桃の油は出てこなかった。
「子顕が亡くなった時刻に関しては、春蘭だけじゃない、王栄、君も証人だ。疑う余地はないだろう。やはりそうすると、子顕の死の原因は、酒席での食事に問題があった事故ではない。その判断は動かないな」
まず、その点に関して、李義府は結論を下した。
「それじゃあ、子顕のその後の行動はどうなっている?」
「はい、その後、子顕殿は宿泊用の房に移られ、春蘭と二人きりになっています。そこで口にされたものといえば、牀台の脇に置かれていた鉢のなかの果実と酒だけ。これについては、春蘭がはっきりとそう申し立てており、嘘はないと思われます」
夜が明け、ようやく少し落ち着いた春蘭に事情を確認したところ、夜半、あの房で少し酒を呑みながら四方山話をした後、身体を重ねたのだそうだが、その時点まではなんの異変もなかったと、そう証言している。それが、春蘭が房を離れようとした別れ際、春蘭を見送りながら高盃に残っていた酒を飲み干した途端、突然子顕は苦しみだし、しばらく藻掻き回った挙句、泡を吹いて死んでしまったと、そう春蘭は語っている。
「なので、素直に考えれば、最後に飲み干した酒のなかに、胡桃の油が入っていたということになるのでしょう」
そこで一旦区切って、王栄は勿体をつける。
「その場合、確認だが、胡桃の油は、何者かが故意に酒のなかに入れた。そういうことになるわけだな」
「そうですね、店の者がわざわざ胡桃の油入りの酒を用意していない限りは」
王栄がそんな皮肉で返す。さらに、
「だとしてもです、同じ高坏のなかの酒を子顕殿はその前にも口にされています。とするなら、食事に胡桃の油が混ざってはいなかったのと同じ理屈で、最初に口をつけた時点では、酒のなかにやはり胡桃の油は混じっていなかった、そういうことになります」
(なるほど、……)
李義府の思考が回転し始める。
「論理的に突き詰めると、残っていた酒に胡桃の油を混ぜることができた者は、その場に居合わせた二人、春蘭、そして死んだ子顕のいずれかしかいない。そういう結論になるわけだ」
ようやくにして李義府は、両筆と王栄がそろって頭を悩ませている、本当の理由を理解することができた。
「子顕殿が自ら、そんな行為をされるとは、到底考えられません」
そう王栄が断言する。すると、それに乗っかるように、
「とすれば、残るは春蘭しかいないんだが、李大人はどう思う?俺には、その線もどうにも考えにくいんだが、……」
両筆が首を捻ってみせると、
「俺も同感だな」
李義府も即座に相槌を打った。
いまの時点で確証があるわけではないが、心証だけで云うなら、春蘭は限りなく真っ白だ。美眉から聞かされている話では、二人の仲は順調で、単なる客と妓女との間柄を越えたものになりつつあったことは間違いない。
(それにだ、……)
証言の内容も辻褄があわない。子顕が最期に飲んだ酒は一口目であると、そう云いさえすれば、「細工を行えた人間は、自分以外にもいたはず」と主張できるのに、いまの証言内容では、自分で自分の首を絞めてしまっている。その矛盾があるからこそ、やはり、下手人は春蘭ではないと、確信に近いものを李義府は感じていた。
しかし、そうなると、どうしても厄介な問題が残ることになる。
房のなかにいる二人に気付かれずに、残された酒のなかに胡桃の油を混入するなど、姿を消せる天女の羽衣でも持っていない限り、絶対に不可能だ。ならば、子顕は別の方法で胡桃の油を口にさせられたということになるが、
「死に至るほどの劇的な症状は、原因物を体内に入れてしまうと直ぐに表れる」
その条件こそ難問だ。波斯から到来した幻術使いでもあるまいし、
(二人しかいなかったあの房のなかで、春蘭に目撃されることなく、どうやったらそんな真似ができる?)
李義府にもまだ、答えはまったく見えてこない。そのせいで、三人揃って押し黙る時間がしばらく続いたが、こんなことをしていても、話は一向に前には進まない。場の空気を変えるつもりで、李義府は少し視点を変えてみることにした。
「で、結局、子顕の死は、当面、どう扱われることになる?」
「どう扱うかもそうなんだが、どこが担当するのかで、まず揉めている」
両筆が困ったような表情になって、そう吐き捨てた。官位を持つ役人の不審死であり、発見の経緯もあることから、いまのところ御史台が先んじて動いている。だが、もし、その原因が百華苑側の落度による事故なら、担当すべきは基本的に京兆府ということになる。また、何者かによる故意の事件だとするなら、その下手人が民間の者なのか、あるいは、なんらかの形で役人が関わっているかどうかで、担当すべき役所も京兆府・御史台のいずれにもなり得る。
「だから京兆府の担当者とも情報は完全に共有しているんだが、あちらさんはどうにも及び腰だ」
両筆は正直にぼやいた。
(まあ、俺が京兆府の役人だったとしても、そうなるだろうな)
名門一族の御曹司の、しかも、あまり好ましくない場所での死だ。関わりあって得があるとは到底思えない。
「そこに、話をさらにややこしくしているのが、長孫侍中様さ」
子顕の母親は「百華苑の処罰を」の一点張りなのに対して、この一件を早くも耳にしたらしい長孫無忌は御史中丞を通じて、「早々に適切な処置を」との内意を早々に伝えてきているのだと云う。
「たしかに謎が残っていることは間違いないが、死因は明らかだし、亡くなった場所が場所だ。侍中様にしてみれば、世間の噂にのぼる前に、不慮の病死ということで早急に幕引きを図りたい。そんなお考えのようだ」
やはり長孫一族のなかでも、外部には漏らせない色々な葛藤があるようだ。子顕の母親には長孫侍中から一筆書状を添えて送り、それで納得させようという算段が内々に進められているらしい。
「御母堂にはいろいろと不満もおありでしょうが、下手に騒ぎ立てると家門を汚すことにもなりかねません。家督を無事に親族の誰かに継がせるためにも、結局、納得されるしか仕方ないと思いますね」
王栄は子顕の母親に同情しているようだが、さすがに役人の世界のことをよく判っている。それもあって、自邸において病死したと、正式に役所に届け出るために、子顕の亡骸も、明後日には自邸に戻す手はずになっているらしい。
「すでに凶肆にも手配は、……」
そう云いかけたところで、なぜか王栄の言葉が詰まる。なにか考えこんでいるようだ。
「ん、どうした王栄?」
怪訝な顔で李義府が問いかけると、
「いえ、失礼しました」
王栄は改めて言葉を接いだ。
「亡骸が戻れば、御母堂も少しは落ち着かれるでしょう。こちらの方はまあ、侍中の思惑どおりに、なんとか収まるんじゃないでしょうか」
そして、これで事件ではなく、無事に病死ということで収まるのなら、京兆府も安心して手を引くことができるということだ。
「すると後は、御史台としてどうするかという問題だけが残るということか、……」
「それを侍御史が、非常に気にされているわけさ」
ここで両筆が急に身を乗り出してくる。
「このまま病死ということで幕引きをされてしまうと、御史台としては、これ以上どうにも探索のしようがない。しかし、……」
李大人、あんたなら、仕事上関係のある部下の突然死の事情を知りたいと、強引に探索に首を突っ込んできたとしても、心情的には理解できる。だからもし、あんたにその気があるのなら、御史台としても、最大限その手伝いをすることについてはやぶさかではない。
「侍御史からそうお言葉があったので、俺が書状を認めて、李大人にわざわざお越しを願ったというわけなのさ」
多少、後ろめたそうな表情で、両筆はそんな裏の事情を初めて明かしてみせた。いつの間にか両筆は劉清秀に魅せられ、御史台の一員として、その意向を汲んで動くことになんの抵抗感もなくなっているようだ。
「なるほど、そういうことか、……」
苦笑を浮かべた李義府は、劉清秀が自分に求めている役割にようやく合点がいった。それと同時に、この件に関する彼の読み筋も見えてくる。
「となると侍御史殿は、今回の子顕の死は、その大前提として、新羅との同盟云々の件とはなんの関係もない。そう睨んでいるということだな」
(おっ!?)
一瞬、感心したような表情をみせた両筆だったが、すぐにその気配を消し、逆に李義府に問い返してくる。
「どうしてそう思う?」
「至極当たり前のことさ」
姿勢を正して両筆の方に向き直り、にやりと笑って、李義府は妙な余裕を見せつけた。
「新羅との同盟問題に関連があると思うなら、正式に探索はできなくても、あの切れ者で信念のお人が、そう簡単に諦めたりはしないだろう」
では、なぜこの件が新羅との同盟問題に関係がないと云い切れるのか。その理由を、李義府はこう説明する。
「さっきの話を聞く限り、肌感覚として、折衝を進めている新羅側の代理人、百華苑の裏に潜むこちら側の大物、双方ともに以前とは異なり、相当に余裕を持って行動していることは間違いなさそうだ。おそらく、話は既に最終段階まで進んでおり、もはやこれを邪魔される懸念はほとんどなくなっているんだろう。そんな状況下で、同盟に反対しているわけでもなく、それどころか、そんな話が進んでいることすら知らないであろう子顕に危害を加えるような真似をして、一体どんな得がある?余計な探索の手が伸びてくるだけで、まさに百害あって一利なしじゃないか」
「ですが、こうは考えられませんか」
そこに王栄が割り込んでくる。
「たしかに、同盟問題に関してはそうかもしれません。しかし、子顕殿は百華苑の常連客でした。店に出入りしているうちに、たまたま百華苑にとって知られたくない別の秘密、例えば不当な税役逃れかなにかに感づいてしまい、それを危険視した百華苑内部の人間が行動を起こした。そういう可能性はありませんか?」
これまで手を出せなかった百華苑の人間がこの件に関わっていれば、本格的な探索に踏み込む口実ができて都合がいい。王栄がそんなふうに期待しているのが透けて見えるが、李義府は、その期待を瞬時に否定する。
「いや、その可能性はないだろう」
李義府は右手の指を二本立ててみせた。
「理由は二つだ。まず、どのようにして成し遂げたのかは置いておくとして、問題は子顕を害する方法として、胡桃の油による食の過敏症というやり方が選ばれたことだ。たまたま今回、最終的に子顕は死に至ったが、もし本気で殺害したいと思うのなら、手段としてあまりにも不確実すぎるとは思わないか?」
「なるほど。たしかに、本気で殺すつもりなら、普通、毒を使うだろうな」
両筆が横から合いの手を入れる。
「そして、なにより重要なのは、事件が百華苑のなかで起こっていることだ」
元々、新羅からの留学生の一件で、あの店は御史台から目を付けられていた。さらに、その留学生が殺害されたことで、監視の目は一層厳しくなり、ここ数ヶ月の間、連日、百華苑に見張りの眼が注がれていることは、店の側でも認識している。
「そんな状況なのに、監視されている自分たちの城で、わざわざ面倒事を起こしたりするはずがないじゃないか」
そんなことをすれば、王栄の期待するとおり、御史台相手に百華苑の内部を探らせてやる機会をわざわざ与えることになるだけだ。
「うーん⁉」
一言そう唸ると、王栄は自らの頬を両の手で思い切り叩いた。どうやら李義府の考えに納得したようである。そんな二人の様子を、両筆は澄ました顔でただ黙って見守っているが、この感じからすると、自分の推測は清秀の考えとそれほど違ってはいないなと、李義府は確信した。しかし、だからと云って、結局、最後の謎は依然として手付かずのままだ。
(胡桃の油が入れられていたのは酒のなかだったのか、それともなにか、別の方法が使われたのか?)
やったのは春蘭ではない。それを大前提として、事件の組み立てを考え直すべく、李義府の思考は再び急速に回転し始めている。
「ところで、現場はまだそのままの状態かな?」
「はい、店そのものの営業を取りやめさせるわけにはいきませんでしたが、現場となった房だけは、十日間使用しないように云いつけてあります」
「判った。それなら明日、現場を見せてくれないか」
役所の方には適当に理由をつけて、なんとか休暇が取れるようにするからと、李義府は早口で云った。
「春蘭に話を聞いてみたい。それと、その前に子顕の屍体も見せてくれ。掌を合わせてもやりたいしな。あっ、あと、検屍官とも話ができるよう、取りはからってくれないか」
「おいおい、注文が多すぎるぜ」
両筆は無理を云うなと云わんばかりに声をあげるが、自分が引っ張り出した手前、断るわけにもいかないと思ったのだろう。李義府の願いが叶うよう、王栄にその手配を指示してくれる。それに対して礼を云う李義府の眼には、ここしばらく忘れかけていた好奇の光が灯り始めていた。
「おや、李大人。今宵はお客さんですか、それともただの野次馬で?」
翌日、朝のうちに検屍官のもとを訪れて情報交換を済ませ、長孫烈の亡骸とも対面した李義府が百華苑に向かったのは、夕刻前のことだった。しかし、いざ到着してみると、意外なことに、入り口のところで蒙岳が待ち構えている。いきなり皮肉たっぷりの声音で出迎えられては、さすがに李義府も出鼻を挫かれるが、そこは素知らぬ顔をして、
「なに、すぐにいつもの客に変わるよ。だから、少しだけ大目に見てくれないか」
と、砕けた調子で頼んだ。
「まあ、仕方ありませんね」
蒙岳の方も、わざとらしく顔を顰めながら、
「御史台の旦那方もご一緒のようだ、ご案内はしませんが、悪しからず」
そう言い残して、帳場の奥へ早々に姿を消していく。それを見送った後、いまの芝居がかったお出迎えの意味を考えながら、李義府は両筆と王栄を従え、問題の三階の房へと急いだ。すると、そこには、美眉と翔娘に付き添われた春蘭が、緊張した面持ちで待っていた。後で聞いた話だが、実は、風柳と竜胆もこの場に付き添いたいと、最後までごねていたらしい。特に決まっているわけではないが、大きな宴席の場合、この五人で班を組むことが多いため、みな非情に仲が良いそうで、風柳と竜胆も今回の件では、相当に春蘭のことを案じているらしい。しかし、今日に限っては、あまりに人数が多くなってもと、美眉が二人を説得してくれたそうで、その代わり、ここでの次第を後で二人にも報告することになっており、そのための記録係は、翔娘が果たすらしい。
ふと気が付くと、脇の卓子には焼餅と飲み物が器とともに人数分用意されている。李義府のその視線を感じたのか、
「ああ、それだったら、蒙旦那が『よろしければどうぞ』って」
そう翔娘が教えてくれる。
「そうか。なら折角だから、いただこう。その方が気楽に話せるだろう」
翔娘、すまないが皆に配ってやってもらえないか。李義府がそう頼むと、弾かれたように翔娘は動き出すが、なにやら変に緊張しているようで、どうにも動きがぎこちない。その様子を眼で追いながら、李義府は蒙岳の意図を考えていた。
嫌味満開で出迎えておきながら、現場にはちょっとした気遣いをみせて、歓心を買おうとする。矛盾しているようにもみえるが、どうやら蒙岳は、「この一件に自分は無関係」、こちらにそう強く印象付けようとしているようだ。少なくとも、探られて困るようなことは一切ない、そう云いたいのだろう。
(やはり、百華苑そのものは、この件に関しては無関係か、……)
しかし、この店が現場である限り、内部の人間がなんらかの形で関わっているだろうことも、また確実だ。その厄介者を見つけ出してほしい、そう蒙岳は云っているのだろうかと、李義府は勝手に想像を逞しくしていた。
そのうちに、翔娘も無事に務めを果たし終えてくれる。配ってくれた焼餅を手にしながら、
「春蘭、もし良かったら少しでも食べてくれないか。あの一件からずっと、なにも口にしていないんだろう?」
そう李義府はすすめてみるが、春蘭は薄く微笑んで、静かに首を横に振るばかりだ。
「ねえ、李大人、春蘭は本当に恐ろしい思いをして、大事な人を亡くしてしまったばかりなのよ。それをその現場にわざわざ引っ張り出して、無理矢理そのときのことを思い出させるような真似をするなんて、……」
傍らに立ち、心配そうに春蘭の肩を抱いた美眉が、李義府に抗議しようとする。しかし、春蘭はすぐにそれを止め、
「いいのよ、美眉。私は大丈夫。それに、どうしてあの人があんなことになってしまったのか、私もその訳が知りたいの」
と、か細い声で云った。
なんとか気丈に振舞ってはいるが、春蘭が憔悴しきっていることは李義府にも判る。一回り身体もほっそりとしており、いつもの溌溂とした雰囲気が微塵も感じられない。春蘭にとって、子顕がどれほど大事な人になっていたかが窺い知れて、李義府の胸は痛んだ。
(もし、俺が突然死んだら、美眉も同じように悲しんでくれるんだろうか!?)
自分と美眉の関係が髣髴とさせられて、李義府はついそんなことを思った。
「すまない、春蘭。なるべく簡単に済ませるようにするから」
この房そのものには初めて足を踏み入れるが、室内の造りと調度は、李義府がいつも美眉と利用する部屋とまったく変わらない。さすがに吐瀉物などは片付けられており、腰を下ろせる床几は春蘭の分しかないので、やむなく李義府は牀台に腰かけ、春蘭と向きあった。
「春蘭、あまり思い出したくないとは思うんだが、あの夜、子顕がこの店に姿を現してから亡くなるまでのことをもう一度、細かなところまで思いだして、話してくれないか」
李義府の問いかけに春蘭は小さく頷き、ゆっくりと語りだした。正確に、そして細かなところまで思い出しながら答えてくれるが、やはり事前に王栄から聞いていた内容と基本的に相違はない。
「食事をしているときは、なんの異変もなかったんだね?」
「ええ」
「その夜、泊ることになって、この部屋に移った後、子顕が口にしたのは盆に盛られていた李と茘枝、それに酒。それで間違いないかな?」
「ええ、それだけだったわ」
「そのとき、子顕とはどんな話をした?」
「どんなって、……」
このところ、仕事で人と揉めていて、そのせいで辛く当たって済まなかったと詫びていたこと。だが、それもようやく片がつきそうだと喜んでいたことなど、思い出せる限り、詳細に春蘭は語ってくれた。しかし、そのときの子顕の様子が思い出されるのか、震えそうになる春蘭の肩を、必死で美眉が抱きしめている。
「そして、話が終わった後、その、なんだ、……少し間があり、君が部屋を出ようとした際に、子顕が残っていた酒を一息に呷った。すると、子顕は急に苦しみだし、しばらく藻掻いていたが、最後には事切れてしまったと、そういう流れで間違いないかな?」
問われた春蘭は目を瞑り、その時のことを必死で思い出そうとしている。しかし、すぐに目を開くと、「ええ、その通りよ」と、短く答えた。
本当は思い出すことが辛いのだろうが、強い意志でなんとかそれを抑え込んでいる。
(できれば春蘭に、子顕に掌を合わせる機会を作ってやりたいが、……)
しかし、現実的には難しいだろうと、李義府は九分九厘諦めていた。子顕の亡骸は、明日には自邸に戻されることになっている。そこから葬儀、埋葬へと進んでいくことになるが、死亡した経緯もあり、親族だけでしめやかに行うことになるのだろう。そんな場に、最期の場に一緒だった妓女が顔を出すなど、絶対に許されるはずがない。
そんな不憫な春蘭に対して、いま李義府のしてやれることと云えば、なんとか一刻でも早く謎を解き、春蘭にかかっている嫌疑だけでも晴らしてやることだけだ。しかし、
「なんとも困ったな、……」
その言葉どおり、李義府は本当に困惑の表情を浮かべている。
「いまの話の通りだとすれば、子顕が最期に口にした酒のなかに、胡桃の油が入っていたとしか考えられない。しかし、その酒のなかに胡桃の油を混ぜることができた者といえば、房内にいた二人、亡くなった当の子顕か、さもなければ春蘭、君しかいないことになる」
「そんな、絶対に私はそんなことはしていないわ!?」
絶叫に近い声を春蘭は上げる。それに同調するように、
「そうよ、李大人。あんまりだわ」
美眉まで非難の眼差しを向け、李義府のことを詰問してくる。そして、それを傍らで見つめる翔娘は、ただおろおろとするばかりだ。
「判ってる、判ってるって⁉」
俺も春蘭がそんな真似をしたなんて、まったく思っていないさと、慌てて李義府は二人を宥めにかかった。酒と果実は子顕が泊る際、房内に用意しておくよういつも注文されているので、あの日もいつもどおり、二人が房に入る前から、事前に用意して置いてあったことが確認されている。もし、春蘭が呑み残しの酒に胡桃の油を入れたのであれば、正直に「残っていた酒」を口にしてから苦しみだしました、などと云うわけがない。「まだ口をつけていなかった酒でした」、そう証言するはずだ。そうすれば、二人が房に入る前から酒は置かれていたのだから、そこに胡桃の油を混ぜることは誰にでもできると、言い訳ができる。
「自分の証言で自分を追い込んでいるからこそ、俺は春蘭の無実を信じているのさ」
本当に理屈になっているのか自分でも曖昧で、なんとかこの場を誤魔化してはみたものの、両筆と王栄の男性陣はさておき、女性陣の反応は実に微妙だ。特に美眉は、春蘭を抱きしめたまま、まだ李義府をねめつけることを止めようとはしない。だが、李義府が本気で春蘭の無実を信じていることだけはなんとか信用してもらえたようで、顰蹙を買うことだけは免れることができたのには助かった。
(呑み残しの酒は、子顕の人生の最期の幕を引いたことはたしかだが、胡桃の油が混ぜられていたのは、実はそこにではない)
実はいま、李義府はある仮説を持っていた。子顕の屍体を検めた際、唇にうっすらと紅い痕が残っていたことで、不意に頭の片隅に浮かんできたものだ。こうした不可解な状況が生じてしまったことを説明するには、これしか方法はないと思う。だが、その仮説が正しいかどうかを検証するには、ある事実を確かめておく必要があった。
「美眉、ちょっとこっちにきてくれないか」
牀台から腰を上げ、少し歩いて距離を取ると、李義府は美眉だけをそっと手招きし、こちらに呼んだ。
「私?」
いきなり呼ばれて驚いたようで、美眉は一瞬逡巡し、翔娘と顔を見合わせているが、無論、翔娘にも訳は判らず、しきりに首を振っている。
「いいから早く‼」
再度、催促され、渋々近寄ってきた美眉の耳元にそっと手を添えてから、李義府はこう囁いた。
「美眉、いまから私の云うことを春蘭に確かめてもらえないか?」
「えっ、どうして私が?自分で尋ねたらいいんじゃ……」
「黙って。ちょっと人前では尋ねにくいことなんだ。春蘭も皆に聞かれたら恥ずかしいだろうから、君から頼むよ」
李義府は、確かめてほしい内容を簡潔に告げる。それを聞き終えると、美眉は項まで赤く染まっていた。
「本当にそんなことを聞く必要があるの?」
「もちろん、事の真相を知るためだ」
「なら、……仕方ないわね」
まだ半信半疑なのだろう。納得はしていないという表情で、美眉は春蘭の元へ歩み寄っていく。そして、そのまま春蘭の耳元に手を添えると、李義府から頼まれたことをそのまま口にする。その問いに吃驚した顔で春蘭は李義府の方を振り向くが、彼が大きく頷くのを確認すると、納得してくれたのか、今度は春蘭が美眉の耳元で何事かを囁いた。
なにが起こっているのか理解できないまま、両筆と王栄、それに翔娘は、置いてきぼりである。すると、春蘭からの答えを聞き終えた美眉は、李義府に向かって今度は自分が大きく頷いてみせた。
「判った。どうやら謎は解決したようだ」
李義府はそう宣言してみせたものの、その表情は少しも晴れやかには見えなかった。
「つまり、子顕さんが最後に口にしたお酒は、自分の唇についていた『毒』を体内に洗い流す役割を果たしたというわけだったの」
いきなり翔娘はそう切り出すが、あの場に同席できていなかった風柳と竜胆には、結論だけを聞かされても、まるで珍紛漢紛である。その様子を見て取った美眉は、翔娘に代わってあの場の経緯を掻い摘んで説明したうえで、李義府の推測した内容を改めてなぞっていく。
「酒の中に胡桃の油は仕込まれていなかった」
李義府の推理は、まずそこから始まっている。酒の中に混じっていた、そう考えてしまうから、では、いつ仕込まれたのかが問題となり、それができたのは春蘭しかいないという結論になってしまうのである。
そこで、発想を転換して、胡桃の油が溶かされていたのは、なにか別のものではなかったかと考えてみる。そこで、李義府が注目したのが、子顕の屍体の唇にうっすらと残されていた紅い痕跡だった。つまり、春蘭が唇に差していた紅に胡桃の油は溶かされていたのではないか、李義府はそう仮説を立てたのである。
「胡桃の油は最初、春蘭が唇に差していた紅のなかに溶かされていて、その一部が子顕さんの唇に移った。つまり、胡桃の油が子顕さんの唇に移動するには、『口づけ』という行為が介在していたのよ」
子顕の死の直接的な原因が、自分が差していた紅だったと聞かされ、春蘭はさらに精神的な痛手を負ってしまったようで、あの後、自室に戻ってからもふさぎ込んでいる。当面、立ち直ることは難しいだろう。そんな春蘭を少しでも力づけてやるには、彼女を利用して子顕を死に追いやった卑劣な人間を見つけるしかない。美眉は李義府の知恵を借り、独自に探索することを決意していた。
「春蘭の紅に胡桃の油を仕込んだ人間からすると、子顕さんとの間で口づけが早々に行われ、食事中に事が起こった方がありがたかったでしょうね。そうすれば、料理のなかに胡桃の油が紛れ込んでいた可能性が否定できなくなり、料理を作った者の責任ということにできたでしょうから」
しかし、酒席の前後では二人の間で口づけが交わされることはなかったために、何事も起こらないまま刻はすぎていった。そして、その状況は、現場となった房のなかで二人きりになっても、会話を楽しんでいる間には変化がない。
「でも、さすがに褥のなかで男と女が睦みあうとなれば、当然、口づけは欠かせない行為の一つになるわ。そうでしょう?」
美眉の話を風柳と竜胆は、ただ黙って聞いている。しかし、傍らでこれを見守っている翔娘だけは、さすがに俯き加減になって、首筋まで赤く染めながら、恥ずかしそうにしている。そんな翔娘に気を使い、慎重に言葉を選びながらも、美眉は李義府の考えを忠実に再現していった。
「その時、春蘭の紅が子顕さんの唇に移って残る。そして、事が終わった後、あらためて酒を口にした瞬間、唇や口中に残っていた紅が洗い流され、それが喉から胃へと体内に入り込んでしまったせいで、子顕さんの身体は過剰反応を起こして呼吸困難に陥り、最終的に死に至ってしまった。順を追うと、そういうことになるわ」
だが、この仮説に無理がないかどうかを検証するためには、二人の間でいつ口づけが交わされたのかを確認しなければならない。もしも、食事の前後や、三階の房に移って直ぐに口づけが交わされ、子顕の唇に紅が残っているような可能性があれば、この仮説は根底から崩れてしまうからだ。そして、それが春蘭の証言によって確認された結果、李義府の推測は正鵠を得ていることが見事に証明されたのである。
「ちょっといいかしら」
不意に風柳が手を挙げ、美眉の説明を遮った。どうも納得できない部分があるらしい。
「理屈としては判ったわ。でも、それって無理があるんじゃない。いつも差している紅のなかに急に胡桃の油が混ぜられたりなんてしたら、差し具合とか、……そうだ、味の違いなんかで、春蘭さん、すぐに気が付くんじゃないの?」
実は、その点は美眉も考えたところだ。自分もそうだが、唇に紅を差している間に、無意識のうちについ舌で舐めてしまうのはよくあることだ。もし、紅に胡桃の油が溶かされていたら、それを舐めてしまったときに、味の違いを感じるのではないか、風柳はそう云いたいのだ。
だが、この点に関しても、李義府は一定の見解を用意していた。
「胡桃自体には、独特の苦みと渋みがあるけど、その油は過熱しない限り、淡い香りがするくらいで、それほど味は感じないらしいわ」
けれど、それでも心配があると思うなら、
「何度かに分けて溶かし、少しづつ濃くしていくなかで、春蘭の反応を確認していればいいのよ」
子顕もさすがに毎日、春蘭の元を訪れているわけではない。一度訪れて、次に来店するまで、平均して十日前後の間はある。その間に、徐々に濃度を高めていき、春蘭が違和感を抱いているように感じれば、この手段を用いることは諦め、別の手段を用意すればいいだけだ。
「ねえ、待ってよ!?」
今度、声を上げたのは、竜胆の方だった。
「春蘭の反応をみながら、実際にやるかどうかを決めるなんて、彼女のすぐそばにいる人間じゃないと無理じゃない⁉」
少し興奮気味の竜胆に対して、しかし、美眉はあくまでも冷静だった。
「ええ、その通りね」
そう小さく頷いて、さらに言葉をつないでいく。
「よく考えてみて。春蘭の部屋に入り込んで、化粧道具の紅のなかに胡桃の油を混ぜていくなんていう芸当、どんな人なら可能かしら?」
外部の人間にはまず不可能だ。見咎められる可能性が高すぎる。そして、百華苑内部の人間であったとしても、この雇い人居住用の建屋に住み込み、お抱えの妓女の部屋に出入りしてもおかしくない人間と云えば、同じ妓女仲間ぐらいしか考えられない。妓女同士であれば、衣装や小物の貸し借りなど、お互いの部屋を行き来することなど、よくある話だからだ。
そこまで聞いて、部屋のなかの空気は一気に重くなる。弱い立場にある者にとって、同じ境遇にある仲間を疑うなんて、一番避けたいことなのだ。しかし、そんな重い沈黙のなかでも、美眉の肚は固まっている。
「だから春蘭さんのために、あなた達にも是非、探索に協力してほしいの」
そう美眉は二人に告げた。李義府から教えられたことは一つ。
「実際に子顕さんを害することに使われた胡桃の油入りの紅は、既に春蘭の部屋から持ち去られ、すり替えられていたわ。その人間してみれば、本当なら、春蘭のところから持ち出した紅は、さっさと捨ててしまいたいところでしょうね」
しかし、化粧用の紅はこの店でも貴重品だ。そんなものがどこかに遺棄されていれば、誰だって不審に思うし、ひょっとすると子顕の一件と結びつけて考える者も出てこないとは限らない。
「それなら、隠し場所として一番安全なのは、……」
自分が使っている紅と交換して、手元に置いておくことだ。幸い、百華苑の場合、店が大量に購入した紅を各自が小分けして使っているので、見た目には判らない。
「もし、そう考えて手元においているなら、むしろ好都合だわ」
まだ事件が起こってからそれほど日は経っていない。証拠を隠滅するために必死で消費しようとしても、完全には使い切れていない可能性が高い。
「お店の妓女一人ひとりの部屋を回り、紅を貸してほしいと頼んで、いま使っている紅を集めて回るのよ」
これは、一気にやってしまわないと意味がない。下手に時間がかかってしまうと、直ぐに怪しまれ、処分されてしまう恐れがあるからだと、美眉は説明する。だから協力者が必要なのと、美眉は二人に訴えた。
「集めてもらった紅のなかに、胡桃の油が溶かされているかどうかは、御史台の方で調べてもらえるように、既に手筈はつけてあるわ」
仲間を疑うようなことは私もしたくはないけど、これもすべて春蘭のためなの。そう真剣に語りかけてくる美眉には、なんとも表現のしようがない迫力があった。互いに顔を見合わせていた風柳と竜胆だったが、その気迫に抗すべき術はない。仕方なく、二人そろって黙って頷くと、美眉はにっこりと笑い、そして翔娘は、静かに胸を撫で下ろしていた。
「すると、子顕を死に追いやった者は、百華苑の内部の者、それも春蘭の周りにいる妓女のうちの誰か、という可能性が高いことになるな」
口調は落ち着いている。だが、許敬宗の大きく開かれた眼には、強烈な光が宿っていた。
「まあ、そういうことになります」
さすがに理解が早いと、李義府は思った。昨年起こった出来事で、百華苑の人間なら誰でも、子顕が胡桃の油に対して過敏症を持っていることは知っている。しかし、その胡桃の油が仕掛けられたのが春蘭の紅ということになると、それができるのは、春蘭と生活を共にしている妓女仲間の誰か、という可能性がぐっと高くなってくる。
そんなことは欠片も思っていないが、
(可能性だけなら、美眉にだってある)
それはどこまでいっても、完全には否定できない。
「ですが、私が気になっているのは、『誰が』ということよりも、むしろ、『なぜか』という動機の方なんです」
「さて、それはどういう意味かな?」
許敬宗は首を捻る。
「実際に手を染めた人間がいるなら、その者には、子顕を害したい理由があったということだろう。捕えてから、その理由を聞き糺せばよいだけではないか」
「果たしてそうでしょうか?」
わざとらしく大仰に、李義府は首を横に振って見せた。
「考えてもみてください、万が一、百華苑の人間、特に妓女たちの誰かが子顕か春蘭に個人的な恨みを抱いていたとしても、店の中でこんな回りくどい、しかも危ない真似を仕掛けて、何の得があります?」
もし、不慮の事故で片付いたとしても、なんらかの処罰を店が被るのは必至で、店が処罰されれば、妓女にだってなにがしかの影響があるはずだ。直接に胡桃の油という毒を仕掛けた人間が百華苑の妓女のうちの誰かだとしても、子顕を害さなければならない理由を持った人間は、必ず別に存在する。
「すると、その方は子顕を害する理由を持った人間について、誰か心当たりがあるということなのかな?」
許敬宗の表情が変わった。李義府が何を云おうとしているのか、興味津々といった風情である。李義府はあくまで勝手な推測ですがと断ったうえで、自分の考えを許敬宗に突き付けた。。
「この数か月ほどの間、子顕を取り巻いていた状況に着目すべきでしょう。ご存じのとおり、子顕は執筆者の空きのできた「志」部の一部をどちらが執筆するかで、徳裕と熾烈な諍いになっていました」
ところが、その死亡した当日、子顕はそれに決着がついたというふうに、春蘭には語っていたらしい。
「実は、その少し前に私の方から子顕と徳裕に書状を送り、近々に話をして調整したい旨を申し送っていたのです」
それが実現するよりも前に、徳裕が折れたことで、子顕は事が片付いたと春蘭に語り、そしてその夜にたまたま奇禍に遭うというのは、あまりにできすぎなのではないか。
「つまり、この度の件は、『晋書』執筆の巧名争いに駆られた崔雄が暴走し、それが最悪の結果を招いたと、そう云いたいのじゃな」
許敬宗は眉を顰めるが、いいえ、そんな単純な話ではありませんと、李義府は続けた。
「徳裕がなんらかの形で絡んでいるのは、間違いないでしょう。ですが、功名心のためだけに、徳裕が単独でこんな馬鹿な真似をしでかしたというのは、果たしてどうですかねえ?」
李義府はさらに自論を展開する。
「今回、機会を逸したとしても、崔雄ほどの名家の子弟であれば、これからいくらでも世に出る機会はあるでしょう。なのに、罪に問われかねない危険を負ってまで、ただ執筆者に名を連ねることに固執するなんて、どう考えても変ですよ」
今回の『晋書』の編纂でしか果たせない、なにか別の大きな目論見があるのではないか。
(徳裕の背後には、何者かが控えている)
李義府はそう確信していた。そして、その何者かが、今度の筋書きを描いたにちがいない。
正直なところ、李義府は自分に腹が立っていた。もう少し早く、この企みに気付き、それを阻止すべく動いていれば、子顕が無題に命を亡くすことはなかったかも知れないからだ。
(だが、その責任の一端は、この爺さんにもある)
許敬宗は必ず、自分よりも早く、その何者かの存在に感づいていたはずだと、李義府の直感がそう教えてくれている。李義府はじっと許敬宗の顔を見つめるが、その視線を正面から受け止めて、許敬宗はまったく身じろぎもしない。だが、二人の睨みあいはそう長くは続かなかった。不意に視線を外した許敬宗は、ぽつりと呟く。
「判った。後のことは、すべて儂に任せておけ」
「ありがとうございます」
李義府はそっと一礼する。しかし、その後に、
「ですが、きちんとけじめだけは付けていただけるんでしょうね?」
そう付け加えることだけは忘れなかった。李義府としては、いまできる最大限の反撃のつもりだったのだが、許敬宗からはなんの反応もない。さすがにいま、李義府にはそれ以上、許敬宗を追い込むだけの武器は、まだ持ち合わせていなかった。
【注】
※一 「肚兜」
日本の腹掛けのような中国の伝統的な肌着
※二 「汗衫」
中国風の襦袢のような肌着
※三 「長吏」
州の刺史を補佐する属僚。官品は、上州の場合「従五品上」
※四 「教坊」
『唐』以降、宮廷に仕える楽人や妓女たちに宮廷音楽を教習させるための機関を
さす。楽曲や歌舞の習得を主な目的とするが、官妓にあたる妓女を統括する役割も
あった
肚兜(※一)一枚だった身体に薄絹の衫襦(※二)だけを羽織り、裙は左腕にかけたままの姿で春蘭は云った。吐く息を白くする夜気は冷たいが、いまの火照った身体を冷ますには心地良い。
そんな春蘭に固い表情を向けながら、
「ああ、また明日の朝」
と、烈の態度は素っ気ない。
人目には冷たく映るかもしれないが、その声音にはいつにも増して、親愛の情がこもっていることを春蘭は感じていた。近頃、仕事で厄介事が続いていたせいか、二人きりでいるときでも、どこか苛立っていて、愚痴ばかりこぼしていたのだが、今宵はちがう。酒食の席はもちろん、褥のなかでも烈は情熱的に自分を愛してくれたのだ。
「このところ当たってばかりで悪かった。お前にはなんの関わりもないことだったのにな」
そう云って、烈はまず詫びてくれた。そんなふうに、本当は根っから優しくて、不器用なくらい生真面目な人なのだ。そして、
「だが、それもようやく片がつきそうだ。李舎人が間に入ってくれるという話になって、相手の方から折れてきたんだ。これでやっと、私も一族のなかで、大きな顔ができそうだ」
長孫無忌が事実上、皇太子の後見役を務めるようになって以降、彼の子弟らはみな、廟堂で大いに幅を利かせている。なのに、同じ長孫氏でありながら、これまで中央に烈の居場所はなかった。彼の祖父であり、無忌の族叔でもある順徳がその晩年、主上の不興を買い、中央の官職から離れていたからである。そのせいもあって、烈も地方の州府の司馬として長年冷や飯を食わされており、そのことにどれだけ劣等感を抱いているかを、春蘭はよく知っている。そんな彼にも、ようやく陽の当たる機会が訪れようとしていることに、春蘭は心の底から喜びを感じていた。
今宵の烈の話によると、こじれるだけこじれていた『晋書』の担当巻をどのように執筆するかに関しては、当初から烈が主張していたように、担当する巻を二人で単純に振り分けるのではなく、すべての巻を共同して執筆することで決着したのだそうだ。
「まず、担当するすべての巻を前半部と後半部に分ける。次に、担当する巻を半分に分けて、各々がまずその前半部を執筆する。そして、お互いにそれを終えたところで書いたものを交換し、今度はそれぞれが後半部を記述して、完成させるというわけさ」
春蘭には少し煩雑なような気もしたが、烈にしてみると、その案なら執筆したと主張できる巻の数は倍になるわけで、十分に納得できるものだったらしい。それで一昨日、前半部分を仕上げたこちら側の巻を崔雄の元に届けたところ、早速、昨日の昼にあちらの方からも約束どおり、崔雄が前半部を仕上げたものが送られてきたのだそうだ。
「やはり、詰まらないことで意地を張って揉めているより、お互いに約束を守る方が気分はいいものだな」
そう云って、爽やかに笑う烈の表情が妙に眩しかったことを思い出しながら、いま静かに彼を見つめていると、
(この人なら、本当に信じていいかもしれない‼)
そんな熱い想いが、自然と湧きあがってくる。
州の長吏(※三)を務めていた父が上役の罪を押し付けられ、家族全員が籍没の憂き目にあったのは、春蘭が十一歳の秋のことだ。それから十有余年、教坊(※四)所属の官妓という烙印を押されて生きてきた春蘭に対して、男たちから投げつけられる言葉には、常に侮蔑と欺瞞がつきまとっていた。それを仮面と化した上辺だけの笑顔で受け流しながら、妓女としての経験を重ねてきた春蘭である。妓楼で語られる男たちの言葉など、枯れ葉一枚ほどの重みもないことを春蘭は知っている。ましてや烈は、朝廷内でも名高い名門一族の御曹司という、まさに雲の上の存在なのだ、
(この人の言葉を、決してまともに受け取ってはいけない)
これまでずっと、そう固く心に戒めてきたのである。けれど、真剣に甘い言葉を囁き続ける烈と接し、閨のなかで熱烈な愛撫を受けていると、どうしても彼のことが気になる存在になっていくことは否めない。
(本当に実現しなくても構わない。私にはいま、この人の言葉だけで充分だ)
去りがたい思いを胸に、春蘭がそのまま烈を見つめ続けていると、照れ臭さに間が持たなくなったのか、彼は傍らの床几に置いてあった高盃に手を伸ばすと、その中にまだ半分ほど残っていた酒を一気に飲み干した。そして、なにかを語ろうと思ったのだろう、言葉を探してしばらく春蘭の方を見つめていたが、不意に烈は驚愕の表情を浮かべる。次の瞬間、手にしていた高盃を突然投げ捨てると、まるで春蘭に縋りつこうとでもするかのように、両手を大きくこちらに伸ばしてきた。
反射的に駆け寄ろうとした春蘭だったが、しかし、それを待つことなく烈は、いきなり喉を掻きむしり始めた。いつの間にかその表情は苦悶のそれへと変わり、獣のような低い唸り声をあげて勢いよく牀台に倒れこむ。そのまま自分の喉に爪を食い込ませ、ひたすらのたうち回りながら、まだ消化しきれていない胃のなかのものを何度も吐き戻している。けれど、その姿を凝視している春蘭は、ただ茫然として立ち尽くしたまま、一歩も動くことができなくなっていた。
(嘘だ!?)
あまりにも一瞬にして変貌した眼前の光景が、春蘭にはとても現実のものとは思えない。そのままで、一体どれほどの時間が経過したのだろうか。やがて、激しく痙攣していた烈の全身が、ゆっくりとその動きを止めていく。喉から漏れていたかすかな音までが、自分の耳に届かなくなったのを意識した瞬間、
「嫌だあーー⁉」
喉が潰れるかと思えるほど、甲高い叫び声が春蘭の口をついて飛び出していた。
「なに、子顕が死んだ!?」
書状の内容を確認した途端、思わず声が出てしまった李義府は、口にしていた夜食の饅頭を思わず吹き出しそうになっていた。
両筆の書状は、いつもながら見事なまでの仮名釘流で、見慣れた李義府でなければとても理解できないほどだが、ともかく子顕の死という事実だけは、はっきりと読み取れる。
(一体、どういうことだ?)
まず頭のなかをよぎったのは、『晋書』の編纂業務にどのような影響が出るかという懸念だったが、それはほんの一瞬のことで、次に、胸中を占めたのは、
(春蘭にどうやって伝えよう!?)
そんな困惑だったことが、李義府には意外だった。
美眉との関係が真剣なものになっていくにつれて、その周辺にいる者とのつながりもまた、いつの間にか深まっていた。なかでも春蘭は、美眉と気の置けない関係にあることもあって、李義府にとっても大事な存在となっている。役人生活のなかでは、そんな関係性の人間など一人もいないくせに、烈の死を知らせるという嫌な役回りは、自分が果たすしかないと、なぜか李義府は、直感的にそう思ったのである。
しかし、春蘭にその事実を伝えるにしても、そもそも子顕がいつどこで、また、どのようにして亡くなったのか、その詳細が判然としない。両筆の書状には、そのあたりのことがまったく触れられていないからで、ともかく御史台まで至急おいでを乞うと、ただそれだけで結ばれている。
御史台が関係しているとなると、子顕の死が尋常なものでなかったことだけは明らかで、いろいろな想像ばかり頭をもたげてくる。夜が明けるのを待って、すぐにでも駆け付けたい気持ちはやまやまだったが、生憎、風疾(リウマチ・中風)に罹患され、京師の酷暑を避けて終南山の翠微宮に行幸されていた主上が先日、太極宮に戻られたばかりで、明日はどうしても中書省でこなさねばならない用務が待っていた。主上の思し召しによって、旧臣・功臣のうちから幾許かが昇進・恩典の栄誉に浴することが内定しており、その準備を進めるために出仕しなければならないことが申し渡されていたからである。
(なんとも間の悪い、……)
この夜、眠りに就こうとしても、なぜか春蘭の悲し気な表情ばかりが脳裏にちらつき、どうにも落ち着くことができない。そのまま浅い眠りに終始し、頭の冴えない李義府ではあったが、ともかく早朝から中書省に顔を出す。そこで、久方ぶりに顔をあわせる中書侍郎、褚遂良からの指示を仰ぎ、主上の御意向に沿った詔勅の草案作りに来済とともに取り掛かるが、やはり通常よりも刻を要し、最終的に主上の御裁可をいただけたのは、既に夕刻が近付き、陽も落ちかけようとしている頃だった。
「後は頼む‼」
そう一言だけ告げ、非難がましい視線を向けてくる来済を拝み倒して先に中書省から飛び出すと、外朝にある御史台へと、李義府は大急ぎで足を向けた。その御史台では、窓口で顔馴染みの役人に挨拶されるが、半ば無視して両筆の詰所へと急ぐ。いつもなら既に役所を後にしていてもおかしくはない時刻だが、今日に限っては、間違ってもその心配はないだろう。その見込みどおり、両筆の詰め所には彼ともう一人、まだ顔を見たことのない若者が待ってくれていた。
「よう、やっときたな、李舎人。紹介するよ、書令史の王栄だ。子顕殿の最期を確認してくれたのは、この男さ」
「お初にお目にかかります、李大人。王栄と申します。お噂はかねがね」
(ああ、この若者が王栄か)
李義府よりは多少小柄で、一見優男風だが、意外と筋肉質の体形をしていることは、袍の上からでも見て取れる。拱手したままの姿勢も、背筋が見事にピンと伸びていて、それなりに武術の心得もありそうだ。実際に顔を合わせるのは初めてだが、両筆からは、可愛がっている後輩としてよく聞かされている名前なので、とても初対面とは思えない。それに、
「先の話だが、もしよかったら、あんたの職田の管理を俺に代わって、あいつに任せてやってくれないか」
そんな頼みも両筆から受けている。古い知り合いの息子ということだが、よほどこの若者のことを見込んでいるのだろう。普通の際なら、聞きたいことはやまほどあるのだが、いまはそんな悠長なことを云っている暇はない。挨拶もそこそこに、李義府はまず、王栄に聞きたいことから尋ねかけた。
「よろしく王栄。それで、いつ、どこで子顕は……」
「まあ、そう慌てるな、李大人。とりあえず座ってくれ」
気が急くばかりの李義府を宥めるように、傍らから両筆が声をかけ、用意していた席に李義府をともかく座らせる。そして、自分も腰を下ろし、王栄に目配せすると、それに頷いた王栄は椀を人数分用意し、そこに何かを満たしてそれぞれの前に配り、自分も同じように席に着いた。
喉の渇きをおぼえていた李義府は、椀の中身を一息に飲み干す。だが、それは意外にも白湯ではなく、上質な酒だった。両筆が気を利かせてくれたのだろう、予想外の弔い酒に少し咽せながら、李義府は王栄の口が開かれるのを今度は静かに待った。
「侍御史からの命を受けて、私は仲間とともに、この三月から交代で百華苑の見張りについていました」
「なんだって!?すると、子顕が亡くなったのは百華苑か」
(なら春蘭は、もう既に子顕の死を知っている?)
自分から春蘭に知らせる必要はない。そう思っただけで、ほんの少し気は楽になったものの、同時に、思いもかけない場所の名が飛び出し、李義府は驚いた。そんな彼に、百華苑は例の新羅の留学生が殺害された事件以降、引き続き御史台の(というよりは、劉清秀個人の)最重点監視対象となっているんだと、両筆が横から補足する。
(すると、監視は既に五ヶ月以上にもなるじゃないか⁉)
実際に見張りに当たる王栄たちも大変だとは思うが、しかし、それよりも李義府が気になったのは、この監視のために必要とされている費えの方だった。御史台の正式な任務ではないのだから、役所の官費を回すわけにはいかないはずだ。だとすれば、この件の責任者である劉清秀が、身銭を切って用意しているとしか思えない。
(なんともご苦労なことだ)
そんな素直な感想とともに、劉清秀という人間の、役人としての肚の括り方を初めて実感したような気がして、李義府は一度、彼とゆっくり話をしてみたい、そんな気分になっていた。
だが、それはそれとして、
「子顕はどうして死んだんだ?急な病か、事故か、……まさか、殺害されたなんてことはないんだろう?」
どうしても気が急いてしまい、李義府が早口でそう捲し立てようとすると、
「李大人⁉すまないが、王栄の話しやすいようにさせてやってくれないか」
呆れたような表情で、両筆がそれを止めに入る。これほど焦っている李舎人をみるのが珍しいのだろう。二人の空気感が垣間見えたような気がして、傍らで見ている王栄は、なんだか少し微笑ましい気分になっていた。
「ああ、これはすまない」
顔を赫らめた李義府が、冠の上から頭を掻く。その姿に笑いを噛み殺しながら、王栄はあらためて報告を始めた。
「留学生が殺害された事件以降、およそ二月ほど経過した頃から、百華苑には新たな新羅の関係者と思しき人間が複数、定期的に姿を現わすようになったことを我々は掴んでいますが、それがこの件と繋がっているかどうかは、いまのところ判然としませんので、一旦置くこととします」
まず、それだけを云うと、王栄も盃に口をつけ、適度に喉を湿らせる。
「本件の経緯だけに絞ってお話しします。子顕殿が昨日、百華苑を訪ねてきたのは日入の初刻(午後五時頃)だったと、私が交代する前の見張り役は証言しています。その後、私が表口を見張っている間、子顕殿が店を出られることはありませんでした。そして、そのまま夜半の正刻(午前零時頃)を迎えるまで、百華苑には正規の客が出入りする以外、特にこれといって妙な動きがなかったことは、いつもどおりの風景といったところでした」
新羅の関係者と比定する人物として、いまは西の市で油を扱う小店の主と、弘化坊に邸を構える初老の女主人に仕える三十絡みの侍女、この二人に御史台は目星をつけているらしい。二人が揃って動くことはなく、また、それぞれ百華苑に姿を見せるのも不定期で、二日続けて見かけることもあれば、半月以上姿を現さないこともあるのだと云う。当然、二人の側にも監視の眼を光らせており、どこに向かった場合でも逐一記録され、特に百華苑を訪れそうな気配がある際には、張り付いている者から事前の知らせが入る手筈になっているらしい。
「なんだか、随分と堂々としたもんだな!?」
少し困惑気味に、李義府は呟いた。ここまで完璧に関係が掴まれているようでは、秘密の保持などあってないようなものだ。監視している御史台側が優秀なのか、それとも新羅の関係者にあまりにも警戒心がなさすぎるのなか、なんとも判じかねるところではある。しかし、いずれにせよ、『唐』と新羅の同盟関係は、既に後戻りすることが許されないところにまで来ていることは間違いないようだ。
「まあ、たしかにその気味は見受けられますね」
と、王栄も苦笑する。
「新羅の関係者も近頃は、百華苑に用がある場合、深夜にこっそりと忍んでくるというようなことは、ほとんどありません。ですから、昨夜は、事前のつなぎもありませんでしたし、何事もなさそうだと、こちらも暢気に構えていたんです」
ところが、そんなところに突然、変事は起こりましたと、王栄は、いきなり核心に迫ってくる。
「騒ぎがあったのは、鶏鳴(午前一時頃)にはまだ少し間がある頃だったと思います。私の耳に、男の呻き声のようなものがしばらく続いて届き、それがようやく途切れたかと思った途端、今度は、女の甲高い悲鳴が聞こえてきたんです」
少し離れた表に身を潜めている自分の耳にまで届いたのだ。なかでは相当の騒ぎとなっていることは、容易に察しがつく。一瞬どうしようかと迷ったが、すぐに肚をくくって見張り場所から飛び出すと、御史台の者だと名乗りをあげながら、王栄は表口の戸を激しく叩き続けた。なかでは何かざわつく気配はあるものの、しかし、一向に扉は開かない。
(いっそ蹴破るか、……)
王栄がそう考え始めた瞬間、ようやく内側から扉を開けようとする気配があった。実際はそれほどの時間ではなかったと思われるが、扉が開くまでの間がやけにもどかしく感じられ、開くやいなや、王栄は直ちにそこから踏み込むと、扉の傍らに立っていた男の腕を掴み、強引に現場へと案内をさせた。
「事件が起こっていたのは、客が泊まる際に利用する三階の宿泊房の一つでした」
その房の前には使用人らしい男が三人、なにか小声で相談していたが、王栄が姿を現すと、途端にみな口を噤んでしまう。
「彼らにも後で詳しく事情を聴く必要があるなとは思いましたが、ともかく、まずは現場です。房のなかに踏み込んでみると、薄絹一枚の姿で、女が激しく身を震わせていました。悲鳴をあげたのは、どうやらこの女だったようです」
そして、その視線の先には、いかにも藻掻き苦しんだという感じで、嘔吐した汚物にまみれ、苦悶の表情を浮かべた男の屍が牀台の上に一つ。そして、その傍らで膝をつき、脈を確認しながら屍体を調べている男を王栄は見つけたのだと云う。
「その場にいた女は春蘭で、屍体を検分していたのは蒙岳の旦那だったみたいだ」
ここは両筆がしたり顔で補足してくる。
「すると、春蘭は、子顕が亡くなるその瞬間を目撃していたわけか⁉」
李義府は複雑な気持ちになった。美眉の観察どおり、春蘭も本気で子顕に心を寄せ始めていたのだとしたら、
(そんな場面に遭遇して、精神を壊してはしまわなかっただろうか?)
そんなことを思いながらも、
「それで、子顕の様子はどうだった?」
と、李義府は王栄に質問を続ける。
「はい、検分していた男と震える女をとりあえず房の外に出し、後から駆けつけてきた仲間に彼らを委ねた後、まず私が屍体の調べに手をつけました」
房内にあった燭台から蝋燭を取り出し、その頼りない灯りの下で死体の着衣を下帯まで外すと、王栄はまず外傷がないか、全身をくまなく確かめてみたと云う。
「細部まで確認するのは、朝になってから検屍官に任せることにしましたが、私がその場で一見した限りでは、喉のあたりをしきりに引っ掻いた爪痕以外、髪で隠れた頭部も含めて、傷のようなものはどこにもありませんでした」
そう王栄は断言する。
「ほかに何か死につながるような痕跡はないかと探りましたが、これもなし。死体の特長的な異変といえば、口の周りから首筋、さらには腹部にかけて、蕁麻疹のような発疹が広く見受けられたこと、そして、口から細かな白い泡のようなものを吹いていたこと、この二つでした」
そこまで聞いたところで、李義府は首を傾げた。
「どうもいま聞いた屍体の様子からすると、なにかの食べ物で過敏症を起こした人間に特有の、そんな症状のような気がするんだが、……」
「ええ、私も以前、似たような状態の屍体に出くわしたことがあります。その男は、魚介類の蒸し物、特に蝦が原因で同じような症状を引き起こしたようで、その際、検屍にあたってくれた医官の診立てでも、同じ判断が下されました」
今回の件でも、すぐに御史台へと連絡がゆき、夜が明けてから改めて検屍官にお越しを願ったのだが、その鑑定でも、やはりなにかの食べ物による過剰反応によって、呼吸不全を起こした結果による死ではないか、そういう結論に至ったらしい。
「担当してくれた医官はこの道二十年の達者で、俺もよく知っている漢だ。あいつがそう判断したのなら、まず間違いない」
両筆までその結論に太鼓判を押し、子顕の死因を補強する。
「それなら、一体、なにが問題なんだ?」
李義府はあらためて疑問を呈した。
「子顕はあの若さで気の毒だとは思うが、たまたま自分に害のあるものを口にして、亡くなったというだけだ。これも天命だったということだろう」
と、ごく当たり前の感想を口にする。春蘭がその場に居合わせたことだけは不運としか云いようがないが、所詮は不慮の事故だ。誰が悪いという云うわけでもなく、李義府にしてみれば、二人が何を勿体ぶってこのように構えているのかが理解できない。
「いえ、話はここからです。子顕殿の死を引き起こした原因物が、どうやってその体内に入ってしまったのか、その経緯が判らないんです」
「ん、どういう意味だ?」
李義府には王栄の云っていることが、すぐには理解できなかった。
「子顕殿に死をもたらした原因物の正体は、すぐに判明した」
こちらは、両筆の台詞だ。
「夜が明けるのを待ち、子顕殿の自邸にすぐに人を走らせ、ご子息の不慮の死をご家族にお知らせしたんだ。すると、御母堂はその死に様を耳にするやいなや、すぐに『胡桃のせいだ』と泣き出したらしい」
長孫烈にはその昔、胡桃を食べて、身体が過剰反応を起こして呼吸困難となり、危険な状態に陥った苦い体験があるのだという。
「八歳の頃、山で遊んでいるうちに、なにげなく口にしたのだそうです」
今度は、そう王栄が補足してくる。
幸いその際は、すぐに異変に気付いた大人が胡桃を吐かせ、水を大量に飲ませてから近くの薬師のもとに駆け込んだことで、大事には至らなかったらしいが、それ以降、子顕は自分が胡桃に対して過敏であることを理解し、少しでもそれを口にするとすぐに拒否反応を起こすため、常に気を付けていたのだと云う。ところが、思わぬ事態が昨年起こった。
「百華苑で出された料理のなかに、胡桃の油が一部に使われていて、そのせいでまた呼吸困難になりかけたんだそうです」
胡桃の本体ではなく、そこからの抽出物であったために、口にしただけではすぐには判らず、体内に入って反応が出てしまったわけだが、幸い、この際にも店の者が機転を利かし、食べたものを吐かせるために大量の水を飲ませてくれたお蔭で、なんとか事無きを得たらしい。
(待てよ、確かにそんなことがあったな?)
李義府も思い出した。たしか、美眉との関係が初めて深まった、あの因縁の日だ。その後、春蘭が親身になって看病したことに子顕がほだされ、二人がいまのような関係になることへと繋がった記念の日でもある。
「このとき、子顕殿は百華苑の者に自分の体質について明かし、今後、自分に出す料理には、決して胡桃の油を使うことのないようにと、きつく申し入れをされたのだそうです。御母堂はその話を子顕殿から聴いておられたので、『それなのにまた』と、いたく嘆いていらっしゃいました」
どうやら子顕の母親は、昨夜も店のなんらかの手違いで、胡桃の油がなにかの料理に誤って使われ、そのために息子は死に至ったと思い込んでいるようだ。
「それで、御母堂は、『息子は百華苑に殺されたのも同然だ。すぐに責任者を捕まえてくれ』と、それはもう、ものすごい剣幕で、……」
「ところが、ことはそう単純じゃあない」
再び両筆が口を挟んでくる。そして、それに呼応するように、王栄も話を繰る。
「そうなんです。子顕殿は食事をされた後、すぐに亡くなられたわけではありません」
検屍官の意見では、死につながるような重篤な症状が引き起こされるのは、原因物が体内に入ってすぐの場合が大半なのだそうだ。発疹や嘔吐など、前段階の症状がないまま、八刻(二時間)以上も過ぎてから劇的な症状が突然に起こるようなことは稀なのだという。実際に子顕が苦しみだしたのは、春蘭の証言によれば、食事を終え、宿泊用の房に移ってかなりたってからのことだ。その証言に間違いがないなら、食事が直接の原因でないことは、自ずから明らかだ。
「ただし、念のため、厨房の人間にも厳しく取り調べは行いました。ですが、みな口を揃えて、昨夜の料理に胡桃の油は使っていないと、強硬に否定しています」
厨房内もつぶさに調べてみたが、やはりどこからも胡桃の油は出てこなかった。
「子顕が亡くなった時刻に関しては、春蘭だけじゃない、王栄、君も証人だ。疑う余地はないだろう。やはりそうすると、子顕の死の原因は、酒席での食事に問題があった事故ではない。その判断は動かないな」
まず、その点に関して、李義府は結論を下した。
「それじゃあ、子顕のその後の行動はどうなっている?」
「はい、その後、子顕殿は宿泊用の房に移られ、春蘭と二人きりになっています。そこで口にされたものといえば、牀台の脇に置かれていた鉢のなかの果実と酒だけ。これについては、春蘭がはっきりとそう申し立てており、嘘はないと思われます」
夜が明け、ようやく少し落ち着いた春蘭に事情を確認したところ、夜半、あの房で少し酒を呑みながら四方山話をした後、身体を重ねたのだそうだが、その時点まではなんの異変もなかったと、そう証言している。それが、春蘭が房を離れようとした別れ際、春蘭を見送りながら高盃に残っていた酒を飲み干した途端、突然子顕は苦しみだし、しばらく藻掻き回った挙句、泡を吹いて死んでしまったと、そう春蘭は語っている。
「なので、素直に考えれば、最後に飲み干した酒のなかに、胡桃の油が入っていたということになるのでしょう」
そこで一旦区切って、王栄は勿体をつける。
「その場合、確認だが、胡桃の油は、何者かが故意に酒のなかに入れた。そういうことになるわけだな」
「そうですね、店の者がわざわざ胡桃の油入りの酒を用意していない限りは」
王栄がそんな皮肉で返す。さらに、
「だとしてもです、同じ高坏のなかの酒を子顕殿はその前にも口にされています。とするなら、食事に胡桃の油が混ざってはいなかったのと同じ理屈で、最初に口をつけた時点では、酒のなかにやはり胡桃の油は混じっていなかった、そういうことになります」
(なるほど、……)
李義府の思考が回転し始める。
「論理的に突き詰めると、残っていた酒に胡桃の油を混ぜることができた者は、その場に居合わせた二人、春蘭、そして死んだ子顕のいずれかしかいない。そういう結論になるわけだ」
ようやくにして李義府は、両筆と王栄がそろって頭を悩ませている、本当の理由を理解することができた。
「子顕殿が自ら、そんな行為をされるとは、到底考えられません」
そう王栄が断言する。すると、それに乗っかるように、
「とすれば、残るは春蘭しかいないんだが、李大人はどう思う?俺には、その線もどうにも考えにくいんだが、……」
両筆が首を捻ってみせると、
「俺も同感だな」
李義府も即座に相槌を打った。
いまの時点で確証があるわけではないが、心証だけで云うなら、春蘭は限りなく真っ白だ。美眉から聞かされている話では、二人の仲は順調で、単なる客と妓女との間柄を越えたものになりつつあったことは間違いない。
(それにだ、……)
証言の内容も辻褄があわない。子顕が最期に飲んだ酒は一口目であると、そう云いさえすれば、「細工を行えた人間は、自分以外にもいたはず」と主張できるのに、いまの証言内容では、自分で自分の首を絞めてしまっている。その矛盾があるからこそ、やはり、下手人は春蘭ではないと、確信に近いものを李義府は感じていた。
しかし、そうなると、どうしても厄介な問題が残ることになる。
房のなかにいる二人に気付かれずに、残された酒のなかに胡桃の油を混入するなど、姿を消せる天女の羽衣でも持っていない限り、絶対に不可能だ。ならば、子顕は別の方法で胡桃の油を口にさせられたということになるが、
「死に至るほどの劇的な症状は、原因物を体内に入れてしまうと直ぐに表れる」
その条件こそ難問だ。波斯から到来した幻術使いでもあるまいし、
(二人しかいなかったあの房のなかで、春蘭に目撃されることなく、どうやったらそんな真似ができる?)
李義府にもまだ、答えはまったく見えてこない。そのせいで、三人揃って押し黙る時間がしばらく続いたが、こんなことをしていても、話は一向に前には進まない。場の空気を変えるつもりで、李義府は少し視点を変えてみることにした。
「で、結局、子顕の死は、当面、どう扱われることになる?」
「どう扱うかもそうなんだが、どこが担当するのかで、まず揉めている」
両筆が困ったような表情になって、そう吐き捨てた。官位を持つ役人の不審死であり、発見の経緯もあることから、いまのところ御史台が先んじて動いている。だが、もし、その原因が百華苑側の落度による事故なら、担当すべきは基本的に京兆府ということになる。また、何者かによる故意の事件だとするなら、その下手人が民間の者なのか、あるいは、なんらかの形で役人が関わっているかどうかで、担当すべき役所も京兆府・御史台のいずれにもなり得る。
「だから京兆府の担当者とも情報は完全に共有しているんだが、あちらさんはどうにも及び腰だ」
両筆は正直にぼやいた。
(まあ、俺が京兆府の役人だったとしても、そうなるだろうな)
名門一族の御曹司の、しかも、あまり好ましくない場所での死だ。関わりあって得があるとは到底思えない。
「そこに、話をさらにややこしくしているのが、長孫侍中様さ」
子顕の母親は「百華苑の処罰を」の一点張りなのに対して、この一件を早くも耳にしたらしい長孫無忌は御史中丞を通じて、「早々に適切な処置を」との内意を早々に伝えてきているのだと云う。
「たしかに謎が残っていることは間違いないが、死因は明らかだし、亡くなった場所が場所だ。侍中様にしてみれば、世間の噂にのぼる前に、不慮の病死ということで早急に幕引きを図りたい。そんなお考えのようだ」
やはり長孫一族のなかでも、外部には漏らせない色々な葛藤があるようだ。子顕の母親には長孫侍中から一筆書状を添えて送り、それで納得させようという算段が内々に進められているらしい。
「御母堂にはいろいろと不満もおありでしょうが、下手に騒ぎ立てると家門を汚すことにもなりかねません。家督を無事に親族の誰かに継がせるためにも、結局、納得されるしか仕方ないと思いますね」
王栄は子顕の母親に同情しているようだが、さすがに役人の世界のことをよく判っている。それもあって、自邸において病死したと、正式に役所に届け出るために、子顕の亡骸も、明後日には自邸に戻す手はずになっているらしい。
「すでに凶肆にも手配は、……」
そう云いかけたところで、なぜか王栄の言葉が詰まる。なにか考えこんでいるようだ。
「ん、どうした王栄?」
怪訝な顔で李義府が問いかけると、
「いえ、失礼しました」
王栄は改めて言葉を接いだ。
「亡骸が戻れば、御母堂も少しは落ち着かれるでしょう。こちらの方はまあ、侍中の思惑どおりに、なんとか収まるんじゃないでしょうか」
そして、これで事件ではなく、無事に病死ということで収まるのなら、京兆府も安心して手を引くことができるということだ。
「すると後は、御史台としてどうするかという問題だけが残るということか、……」
「それを侍御史が、非常に気にされているわけさ」
ここで両筆が急に身を乗り出してくる。
「このまま病死ということで幕引きをされてしまうと、御史台としては、これ以上どうにも探索のしようがない。しかし、……」
李大人、あんたなら、仕事上関係のある部下の突然死の事情を知りたいと、強引に探索に首を突っ込んできたとしても、心情的には理解できる。だからもし、あんたにその気があるのなら、御史台としても、最大限その手伝いをすることについてはやぶさかではない。
「侍御史からそうお言葉があったので、俺が書状を認めて、李大人にわざわざお越しを願ったというわけなのさ」
多少、後ろめたそうな表情で、両筆はそんな裏の事情を初めて明かしてみせた。いつの間にか両筆は劉清秀に魅せられ、御史台の一員として、その意向を汲んで動くことになんの抵抗感もなくなっているようだ。
「なるほど、そういうことか、……」
苦笑を浮かべた李義府は、劉清秀が自分に求めている役割にようやく合点がいった。それと同時に、この件に関する彼の読み筋も見えてくる。
「となると侍御史殿は、今回の子顕の死は、その大前提として、新羅との同盟云々の件とはなんの関係もない。そう睨んでいるということだな」
(おっ!?)
一瞬、感心したような表情をみせた両筆だったが、すぐにその気配を消し、逆に李義府に問い返してくる。
「どうしてそう思う?」
「至極当たり前のことさ」
姿勢を正して両筆の方に向き直り、にやりと笑って、李義府は妙な余裕を見せつけた。
「新羅との同盟問題に関連があると思うなら、正式に探索はできなくても、あの切れ者で信念のお人が、そう簡単に諦めたりはしないだろう」
では、なぜこの件が新羅との同盟問題に関係がないと云い切れるのか。その理由を、李義府はこう説明する。
「さっきの話を聞く限り、肌感覚として、折衝を進めている新羅側の代理人、百華苑の裏に潜むこちら側の大物、双方ともに以前とは異なり、相当に余裕を持って行動していることは間違いなさそうだ。おそらく、話は既に最終段階まで進んでおり、もはやこれを邪魔される懸念はほとんどなくなっているんだろう。そんな状況下で、同盟に反対しているわけでもなく、それどころか、そんな話が進んでいることすら知らないであろう子顕に危害を加えるような真似をして、一体どんな得がある?余計な探索の手が伸びてくるだけで、まさに百害あって一利なしじゃないか」
「ですが、こうは考えられませんか」
そこに王栄が割り込んでくる。
「たしかに、同盟問題に関してはそうかもしれません。しかし、子顕殿は百華苑の常連客でした。店に出入りしているうちに、たまたま百華苑にとって知られたくない別の秘密、例えば不当な税役逃れかなにかに感づいてしまい、それを危険視した百華苑内部の人間が行動を起こした。そういう可能性はありませんか?」
これまで手を出せなかった百華苑の人間がこの件に関わっていれば、本格的な探索に踏み込む口実ができて都合がいい。王栄がそんなふうに期待しているのが透けて見えるが、李義府は、その期待を瞬時に否定する。
「いや、その可能性はないだろう」
李義府は右手の指を二本立ててみせた。
「理由は二つだ。まず、どのようにして成し遂げたのかは置いておくとして、問題は子顕を害する方法として、胡桃の油による食の過敏症というやり方が選ばれたことだ。たまたま今回、最終的に子顕は死に至ったが、もし本気で殺害したいと思うのなら、手段としてあまりにも不確実すぎるとは思わないか?」
「なるほど。たしかに、本気で殺すつもりなら、普通、毒を使うだろうな」
両筆が横から合いの手を入れる。
「そして、なにより重要なのは、事件が百華苑のなかで起こっていることだ」
元々、新羅からの留学生の一件で、あの店は御史台から目を付けられていた。さらに、その留学生が殺害されたことで、監視の目は一層厳しくなり、ここ数ヶ月の間、連日、百華苑に見張りの眼が注がれていることは、店の側でも認識している。
「そんな状況なのに、監視されている自分たちの城で、わざわざ面倒事を起こしたりするはずがないじゃないか」
そんなことをすれば、王栄の期待するとおり、御史台相手に百華苑の内部を探らせてやる機会をわざわざ与えることになるだけだ。
「うーん⁉」
一言そう唸ると、王栄は自らの頬を両の手で思い切り叩いた。どうやら李義府の考えに納得したようである。そんな二人の様子を、両筆は澄ました顔でただ黙って見守っているが、この感じからすると、自分の推測は清秀の考えとそれほど違ってはいないなと、李義府は確信した。しかし、だからと云って、結局、最後の謎は依然として手付かずのままだ。
(胡桃の油が入れられていたのは酒のなかだったのか、それともなにか、別の方法が使われたのか?)
やったのは春蘭ではない。それを大前提として、事件の組み立てを考え直すべく、李義府の思考は再び急速に回転し始めている。
「ところで、現場はまだそのままの状態かな?」
「はい、店そのものの営業を取りやめさせるわけにはいきませんでしたが、現場となった房だけは、十日間使用しないように云いつけてあります」
「判った。それなら明日、現場を見せてくれないか」
役所の方には適当に理由をつけて、なんとか休暇が取れるようにするからと、李義府は早口で云った。
「春蘭に話を聞いてみたい。それと、その前に子顕の屍体も見せてくれ。掌を合わせてもやりたいしな。あっ、あと、検屍官とも話ができるよう、取りはからってくれないか」
「おいおい、注文が多すぎるぜ」
両筆は無理を云うなと云わんばかりに声をあげるが、自分が引っ張り出した手前、断るわけにもいかないと思ったのだろう。李義府の願いが叶うよう、王栄にその手配を指示してくれる。それに対して礼を云う李義府の眼には、ここしばらく忘れかけていた好奇の光が灯り始めていた。
「おや、李大人。今宵はお客さんですか、それともただの野次馬で?」
翌日、朝のうちに検屍官のもとを訪れて情報交換を済ませ、長孫烈の亡骸とも対面した李義府が百華苑に向かったのは、夕刻前のことだった。しかし、いざ到着してみると、意外なことに、入り口のところで蒙岳が待ち構えている。いきなり皮肉たっぷりの声音で出迎えられては、さすがに李義府も出鼻を挫かれるが、そこは素知らぬ顔をして、
「なに、すぐにいつもの客に変わるよ。だから、少しだけ大目に見てくれないか」
と、砕けた調子で頼んだ。
「まあ、仕方ありませんね」
蒙岳の方も、わざとらしく顔を顰めながら、
「御史台の旦那方もご一緒のようだ、ご案内はしませんが、悪しからず」
そう言い残して、帳場の奥へ早々に姿を消していく。それを見送った後、いまの芝居がかったお出迎えの意味を考えながら、李義府は両筆と王栄を従え、問題の三階の房へと急いだ。すると、そこには、美眉と翔娘に付き添われた春蘭が、緊張した面持ちで待っていた。後で聞いた話だが、実は、風柳と竜胆もこの場に付き添いたいと、最後までごねていたらしい。特に決まっているわけではないが、大きな宴席の場合、この五人で班を組むことが多いため、みな非情に仲が良いそうで、風柳と竜胆も今回の件では、相当に春蘭のことを案じているらしい。しかし、今日に限っては、あまりに人数が多くなってもと、美眉が二人を説得してくれたそうで、その代わり、ここでの次第を後で二人にも報告することになっており、そのための記録係は、翔娘が果たすらしい。
ふと気が付くと、脇の卓子には焼餅と飲み物が器とともに人数分用意されている。李義府のその視線を感じたのか、
「ああ、それだったら、蒙旦那が『よろしければどうぞ』って」
そう翔娘が教えてくれる。
「そうか。なら折角だから、いただこう。その方が気楽に話せるだろう」
翔娘、すまないが皆に配ってやってもらえないか。李義府がそう頼むと、弾かれたように翔娘は動き出すが、なにやら変に緊張しているようで、どうにも動きがぎこちない。その様子を眼で追いながら、李義府は蒙岳の意図を考えていた。
嫌味満開で出迎えておきながら、現場にはちょっとした気遣いをみせて、歓心を買おうとする。矛盾しているようにもみえるが、どうやら蒙岳は、「この一件に自分は無関係」、こちらにそう強く印象付けようとしているようだ。少なくとも、探られて困るようなことは一切ない、そう云いたいのだろう。
(やはり、百華苑そのものは、この件に関しては無関係か、……)
しかし、この店が現場である限り、内部の人間がなんらかの形で関わっているだろうことも、また確実だ。その厄介者を見つけ出してほしい、そう蒙岳は云っているのだろうかと、李義府は勝手に想像を逞しくしていた。
そのうちに、翔娘も無事に務めを果たし終えてくれる。配ってくれた焼餅を手にしながら、
「春蘭、もし良かったら少しでも食べてくれないか。あの一件からずっと、なにも口にしていないんだろう?」
そう李義府はすすめてみるが、春蘭は薄く微笑んで、静かに首を横に振るばかりだ。
「ねえ、李大人、春蘭は本当に恐ろしい思いをして、大事な人を亡くしてしまったばかりなのよ。それをその現場にわざわざ引っ張り出して、無理矢理そのときのことを思い出させるような真似をするなんて、……」
傍らに立ち、心配そうに春蘭の肩を抱いた美眉が、李義府に抗議しようとする。しかし、春蘭はすぐにそれを止め、
「いいのよ、美眉。私は大丈夫。それに、どうしてあの人があんなことになってしまったのか、私もその訳が知りたいの」
と、か細い声で云った。
なんとか気丈に振舞ってはいるが、春蘭が憔悴しきっていることは李義府にも判る。一回り身体もほっそりとしており、いつもの溌溂とした雰囲気が微塵も感じられない。春蘭にとって、子顕がどれほど大事な人になっていたかが窺い知れて、李義府の胸は痛んだ。
(もし、俺が突然死んだら、美眉も同じように悲しんでくれるんだろうか!?)
自分と美眉の関係が髣髴とさせられて、李義府はついそんなことを思った。
「すまない、春蘭。なるべく簡単に済ませるようにするから」
この房そのものには初めて足を踏み入れるが、室内の造りと調度は、李義府がいつも美眉と利用する部屋とまったく変わらない。さすがに吐瀉物などは片付けられており、腰を下ろせる床几は春蘭の分しかないので、やむなく李義府は牀台に腰かけ、春蘭と向きあった。
「春蘭、あまり思い出したくないとは思うんだが、あの夜、子顕がこの店に姿を現してから亡くなるまでのことをもう一度、細かなところまで思いだして、話してくれないか」
李義府の問いかけに春蘭は小さく頷き、ゆっくりと語りだした。正確に、そして細かなところまで思い出しながら答えてくれるが、やはり事前に王栄から聞いていた内容と基本的に相違はない。
「食事をしているときは、なんの異変もなかったんだね?」
「ええ」
「その夜、泊ることになって、この部屋に移った後、子顕が口にしたのは盆に盛られていた李と茘枝、それに酒。それで間違いないかな?」
「ええ、それだけだったわ」
「そのとき、子顕とはどんな話をした?」
「どんなって、……」
このところ、仕事で人と揉めていて、そのせいで辛く当たって済まなかったと詫びていたこと。だが、それもようやく片がつきそうだと喜んでいたことなど、思い出せる限り、詳細に春蘭は語ってくれた。しかし、そのときの子顕の様子が思い出されるのか、震えそうになる春蘭の肩を、必死で美眉が抱きしめている。
「そして、話が終わった後、その、なんだ、……少し間があり、君が部屋を出ようとした際に、子顕が残っていた酒を一息に呷った。すると、子顕は急に苦しみだし、しばらく藻掻いていたが、最後には事切れてしまったと、そういう流れで間違いないかな?」
問われた春蘭は目を瞑り、その時のことを必死で思い出そうとしている。しかし、すぐに目を開くと、「ええ、その通りよ」と、短く答えた。
本当は思い出すことが辛いのだろうが、強い意志でなんとかそれを抑え込んでいる。
(できれば春蘭に、子顕に掌を合わせる機会を作ってやりたいが、……)
しかし、現実的には難しいだろうと、李義府は九分九厘諦めていた。子顕の亡骸は、明日には自邸に戻されることになっている。そこから葬儀、埋葬へと進んでいくことになるが、死亡した経緯もあり、親族だけでしめやかに行うことになるのだろう。そんな場に、最期の場に一緒だった妓女が顔を出すなど、絶対に許されるはずがない。
そんな不憫な春蘭に対して、いま李義府のしてやれることと云えば、なんとか一刻でも早く謎を解き、春蘭にかかっている嫌疑だけでも晴らしてやることだけだ。しかし、
「なんとも困ったな、……」
その言葉どおり、李義府は本当に困惑の表情を浮かべている。
「いまの話の通りだとすれば、子顕が最期に口にした酒のなかに、胡桃の油が入っていたとしか考えられない。しかし、その酒のなかに胡桃の油を混ぜることができた者といえば、房内にいた二人、亡くなった当の子顕か、さもなければ春蘭、君しかいないことになる」
「そんな、絶対に私はそんなことはしていないわ!?」
絶叫に近い声を春蘭は上げる。それに同調するように、
「そうよ、李大人。あんまりだわ」
美眉まで非難の眼差しを向け、李義府のことを詰問してくる。そして、それを傍らで見つめる翔娘は、ただおろおろとするばかりだ。
「判ってる、判ってるって⁉」
俺も春蘭がそんな真似をしたなんて、まったく思っていないさと、慌てて李義府は二人を宥めにかかった。酒と果実は子顕が泊る際、房内に用意しておくよういつも注文されているので、あの日もいつもどおり、二人が房に入る前から、事前に用意して置いてあったことが確認されている。もし、春蘭が呑み残しの酒に胡桃の油を入れたのであれば、正直に「残っていた酒」を口にしてから苦しみだしました、などと云うわけがない。「まだ口をつけていなかった酒でした」、そう証言するはずだ。そうすれば、二人が房に入る前から酒は置かれていたのだから、そこに胡桃の油を混ぜることは誰にでもできると、言い訳ができる。
「自分の証言で自分を追い込んでいるからこそ、俺は春蘭の無実を信じているのさ」
本当に理屈になっているのか自分でも曖昧で、なんとかこの場を誤魔化してはみたものの、両筆と王栄の男性陣はさておき、女性陣の反応は実に微妙だ。特に美眉は、春蘭を抱きしめたまま、まだ李義府をねめつけることを止めようとはしない。だが、李義府が本気で春蘭の無実を信じていることだけはなんとか信用してもらえたようで、顰蹙を買うことだけは免れることができたのには助かった。
(呑み残しの酒は、子顕の人生の最期の幕を引いたことはたしかだが、胡桃の油が混ぜられていたのは、実はそこにではない)
実はいま、李義府はある仮説を持っていた。子顕の屍体を検めた際、唇にうっすらと紅い痕が残っていたことで、不意に頭の片隅に浮かんできたものだ。こうした不可解な状況が生じてしまったことを説明するには、これしか方法はないと思う。だが、その仮説が正しいかどうかを検証するには、ある事実を確かめておく必要があった。
「美眉、ちょっとこっちにきてくれないか」
牀台から腰を上げ、少し歩いて距離を取ると、李義府は美眉だけをそっと手招きし、こちらに呼んだ。
「私?」
いきなり呼ばれて驚いたようで、美眉は一瞬逡巡し、翔娘と顔を見合わせているが、無論、翔娘にも訳は判らず、しきりに首を振っている。
「いいから早く‼」
再度、催促され、渋々近寄ってきた美眉の耳元にそっと手を添えてから、李義府はこう囁いた。
「美眉、いまから私の云うことを春蘭に確かめてもらえないか?」
「えっ、どうして私が?自分で尋ねたらいいんじゃ……」
「黙って。ちょっと人前では尋ねにくいことなんだ。春蘭も皆に聞かれたら恥ずかしいだろうから、君から頼むよ」
李義府は、確かめてほしい内容を簡潔に告げる。それを聞き終えると、美眉は項まで赤く染まっていた。
「本当にそんなことを聞く必要があるの?」
「もちろん、事の真相を知るためだ」
「なら、……仕方ないわね」
まだ半信半疑なのだろう。納得はしていないという表情で、美眉は春蘭の元へ歩み寄っていく。そして、そのまま春蘭の耳元に手を添えると、李義府から頼まれたことをそのまま口にする。その問いに吃驚した顔で春蘭は李義府の方を振り向くが、彼が大きく頷くのを確認すると、納得してくれたのか、今度は春蘭が美眉の耳元で何事かを囁いた。
なにが起こっているのか理解できないまま、両筆と王栄、それに翔娘は、置いてきぼりである。すると、春蘭からの答えを聞き終えた美眉は、李義府に向かって今度は自分が大きく頷いてみせた。
「判った。どうやら謎は解決したようだ」
李義府はそう宣言してみせたものの、その表情は少しも晴れやかには見えなかった。
「つまり、子顕さんが最後に口にしたお酒は、自分の唇についていた『毒』を体内に洗い流す役割を果たしたというわけだったの」
いきなり翔娘はそう切り出すが、あの場に同席できていなかった風柳と竜胆には、結論だけを聞かされても、まるで珍紛漢紛である。その様子を見て取った美眉は、翔娘に代わってあの場の経緯を掻い摘んで説明したうえで、李義府の推測した内容を改めてなぞっていく。
「酒の中に胡桃の油は仕込まれていなかった」
李義府の推理は、まずそこから始まっている。酒の中に混じっていた、そう考えてしまうから、では、いつ仕込まれたのかが問題となり、それができたのは春蘭しかいないという結論になってしまうのである。
そこで、発想を転換して、胡桃の油が溶かされていたのは、なにか別のものではなかったかと考えてみる。そこで、李義府が注目したのが、子顕の屍体の唇にうっすらと残されていた紅い痕跡だった。つまり、春蘭が唇に差していた紅に胡桃の油は溶かされていたのではないか、李義府はそう仮説を立てたのである。
「胡桃の油は最初、春蘭が唇に差していた紅のなかに溶かされていて、その一部が子顕さんの唇に移った。つまり、胡桃の油が子顕さんの唇に移動するには、『口づけ』という行為が介在していたのよ」
子顕の死の直接的な原因が、自分が差していた紅だったと聞かされ、春蘭はさらに精神的な痛手を負ってしまったようで、あの後、自室に戻ってからもふさぎ込んでいる。当面、立ち直ることは難しいだろう。そんな春蘭を少しでも力づけてやるには、彼女を利用して子顕を死に追いやった卑劣な人間を見つけるしかない。美眉は李義府の知恵を借り、独自に探索することを決意していた。
「春蘭の紅に胡桃の油を仕込んだ人間からすると、子顕さんとの間で口づけが早々に行われ、食事中に事が起こった方がありがたかったでしょうね。そうすれば、料理のなかに胡桃の油が紛れ込んでいた可能性が否定できなくなり、料理を作った者の責任ということにできたでしょうから」
しかし、酒席の前後では二人の間で口づけが交わされることはなかったために、何事も起こらないまま刻はすぎていった。そして、その状況は、現場となった房のなかで二人きりになっても、会話を楽しんでいる間には変化がない。
「でも、さすがに褥のなかで男と女が睦みあうとなれば、当然、口づけは欠かせない行為の一つになるわ。そうでしょう?」
美眉の話を風柳と竜胆は、ただ黙って聞いている。しかし、傍らでこれを見守っている翔娘だけは、さすがに俯き加減になって、首筋まで赤く染めながら、恥ずかしそうにしている。そんな翔娘に気を使い、慎重に言葉を選びながらも、美眉は李義府の考えを忠実に再現していった。
「その時、春蘭の紅が子顕さんの唇に移って残る。そして、事が終わった後、あらためて酒を口にした瞬間、唇や口中に残っていた紅が洗い流され、それが喉から胃へと体内に入り込んでしまったせいで、子顕さんの身体は過剰反応を起こして呼吸困難に陥り、最終的に死に至ってしまった。順を追うと、そういうことになるわ」
だが、この仮説に無理がないかどうかを検証するためには、二人の間でいつ口づけが交わされたのかを確認しなければならない。もしも、食事の前後や、三階の房に移って直ぐに口づけが交わされ、子顕の唇に紅が残っているような可能性があれば、この仮説は根底から崩れてしまうからだ。そして、それが春蘭の証言によって確認された結果、李義府の推測は正鵠を得ていることが見事に証明されたのである。
「ちょっといいかしら」
不意に風柳が手を挙げ、美眉の説明を遮った。どうも納得できない部分があるらしい。
「理屈としては判ったわ。でも、それって無理があるんじゃない。いつも差している紅のなかに急に胡桃の油が混ぜられたりなんてしたら、差し具合とか、……そうだ、味の違いなんかで、春蘭さん、すぐに気が付くんじゃないの?」
実は、その点は美眉も考えたところだ。自分もそうだが、唇に紅を差している間に、無意識のうちについ舌で舐めてしまうのはよくあることだ。もし、紅に胡桃の油が溶かされていたら、それを舐めてしまったときに、味の違いを感じるのではないか、風柳はそう云いたいのだ。
だが、この点に関しても、李義府は一定の見解を用意していた。
「胡桃自体には、独特の苦みと渋みがあるけど、その油は過熱しない限り、淡い香りがするくらいで、それほど味は感じないらしいわ」
けれど、それでも心配があると思うなら、
「何度かに分けて溶かし、少しづつ濃くしていくなかで、春蘭の反応を確認していればいいのよ」
子顕もさすがに毎日、春蘭の元を訪れているわけではない。一度訪れて、次に来店するまで、平均して十日前後の間はある。その間に、徐々に濃度を高めていき、春蘭が違和感を抱いているように感じれば、この手段を用いることは諦め、別の手段を用意すればいいだけだ。
「ねえ、待ってよ!?」
今度、声を上げたのは、竜胆の方だった。
「春蘭の反応をみながら、実際にやるかどうかを決めるなんて、彼女のすぐそばにいる人間じゃないと無理じゃない⁉」
少し興奮気味の竜胆に対して、しかし、美眉はあくまでも冷静だった。
「ええ、その通りね」
そう小さく頷いて、さらに言葉をつないでいく。
「よく考えてみて。春蘭の部屋に入り込んで、化粧道具の紅のなかに胡桃の油を混ぜていくなんていう芸当、どんな人なら可能かしら?」
外部の人間にはまず不可能だ。見咎められる可能性が高すぎる。そして、百華苑内部の人間であったとしても、この雇い人居住用の建屋に住み込み、お抱えの妓女の部屋に出入りしてもおかしくない人間と云えば、同じ妓女仲間ぐらいしか考えられない。妓女同士であれば、衣装や小物の貸し借りなど、お互いの部屋を行き来することなど、よくある話だからだ。
そこまで聞いて、部屋のなかの空気は一気に重くなる。弱い立場にある者にとって、同じ境遇にある仲間を疑うなんて、一番避けたいことなのだ。しかし、そんな重い沈黙のなかでも、美眉の肚は固まっている。
「だから春蘭さんのために、あなた達にも是非、探索に協力してほしいの」
そう美眉は二人に告げた。李義府から教えられたことは一つ。
「実際に子顕さんを害することに使われた胡桃の油入りの紅は、既に春蘭の部屋から持ち去られ、すり替えられていたわ。その人間してみれば、本当なら、春蘭のところから持ち出した紅は、さっさと捨ててしまいたいところでしょうね」
しかし、化粧用の紅はこの店でも貴重品だ。そんなものがどこかに遺棄されていれば、誰だって不審に思うし、ひょっとすると子顕の一件と結びつけて考える者も出てこないとは限らない。
「それなら、隠し場所として一番安全なのは、……」
自分が使っている紅と交換して、手元に置いておくことだ。幸い、百華苑の場合、店が大量に購入した紅を各自が小分けして使っているので、見た目には判らない。
「もし、そう考えて手元においているなら、むしろ好都合だわ」
まだ事件が起こってからそれほど日は経っていない。証拠を隠滅するために必死で消費しようとしても、完全には使い切れていない可能性が高い。
「お店の妓女一人ひとりの部屋を回り、紅を貸してほしいと頼んで、いま使っている紅を集めて回るのよ」
これは、一気にやってしまわないと意味がない。下手に時間がかかってしまうと、直ぐに怪しまれ、処分されてしまう恐れがあるからだと、美眉は説明する。だから協力者が必要なのと、美眉は二人に訴えた。
「集めてもらった紅のなかに、胡桃の油が溶かされているかどうかは、御史台の方で調べてもらえるように、既に手筈はつけてあるわ」
仲間を疑うようなことは私もしたくはないけど、これもすべて春蘭のためなの。そう真剣に語りかけてくる美眉には、なんとも表現のしようがない迫力があった。互いに顔を見合わせていた風柳と竜胆だったが、その気迫に抗すべき術はない。仕方なく、二人そろって黙って頷くと、美眉はにっこりと笑い、そして翔娘は、静かに胸を撫で下ろしていた。
「すると、子顕を死に追いやった者は、百華苑の内部の者、それも春蘭の周りにいる妓女のうちの誰か、という可能性が高いことになるな」
口調は落ち着いている。だが、許敬宗の大きく開かれた眼には、強烈な光が宿っていた。
「まあ、そういうことになります」
さすがに理解が早いと、李義府は思った。昨年起こった出来事で、百華苑の人間なら誰でも、子顕が胡桃の油に対して過敏症を持っていることは知っている。しかし、その胡桃の油が仕掛けられたのが春蘭の紅ということになると、それができるのは、春蘭と生活を共にしている妓女仲間の誰か、という可能性がぐっと高くなってくる。
そんなことは欠片も思っていないが、
(可能性だけなら、美眉にだってある)
それはどこまでいっても、完全には否定できない。
「ですが、私が気になっているのは、『誰が』ということよりも、むしろ、『なぜか』という動機の方なんです」
「さて、それはどういう意味かな?」
許敬宗は首を捻る。
「実際に手を染めた人間がいるなら、その者には、子顕を害したい理由があったということだろう。捕えてから、その理由を聞き糺せばよいだけではないか」
「果たしてそうでしょうか?」
わざとらしく大仰に、李義府は首を横に振って見せた。
「考えてもみてください、万が一、百華苑の人間、特に妓女たちの誰かが子顕か春蘭に個人的な恨みを抱いていたとしても、店の中でこんな回りくどい、しかも危ない真似を仕掛けて、何の得があります?」
もし、不慮の事故で片付いたとしても、なんらかの処罰を店が被るのは必至で、店が処罰されれば、妓女にだってなにがしかの影響があるはずだ。直接に胡桃の油という毒を仕掛けた人間が百華苑の妓女のうちの誰かだとしても、子顕を害さなければならない理由を持った人間は、必ず別に存在する。
「すると、その方は子顕を害する理由を持った人間について、誰か心当たりがあるということなのかな?」
許敬宗の表情が変わった。李義府が何を云おうとしているのか、興味津々といった風情である。李義府はあくまで勝手な推測ですがと断ったうえで、自分の考えを許敬宗に突き付けた。。
「この数か月ほどの間、子顕を取り巻いていた状況に着目すべきでしょう。ご存じのとおり、子顕は執筆者の空きのできた「志」部の一部をどちらが執筆するかで、徳裕と熾烈な諍いになっていました」
ところが、その死亡した当日、子顕はそれに決着がついたというふうに、春蘭には語っていたらしい。
「実は、その少し前に私の方から子顕と徳裕に書状を送り、近々に話をして調整したい旨を申し送っていたのです」
それが実現するよりも前に、徳裕が折れたことで、子顕は事が片付いたと春蘭に語り、そしてその夜にたまたま奇禍に遭うというのは、あまりにできすぎなのではないか。
「つまり、この度の件は、『晋書』執筆の巧名争いに駆られた崔雄が暴走し、それが最悪の結果を招いたと、そう云いたいのじゃな」
許敬宗は眉を顰めるが、いいえ、そんな単純な話ではありませんと、李義府は続けた。
「徳裕がなんらかの形で絡んでいるのは、間違いないでしょう。ですが、功名心のためだけに、徳裕が単独でこんな馬鹿な真似をしでかしたというのは、果たしてどうですかねえ?」
李義府はさらに自論を展開する。
「今回、機会を逸したとしても、崔雄ほどの名家の子弟であれば、これからいくらでも世に出る機会はあるでしょう。なのに、罪に問われかねない危険を負ってまで、ただ執筆者に名を連ねることに固執するなんて、どう考えても変ですよ」
今回の『晋書』の編纂でしか果たせない、なにか別の大きな目論見があるのではないか。
(徳裕の背後には、何者かが控えている)
李義府はそう確信していた。そして、その何者かが、今度の筋書きを描いたにちがいない。
正直なところ、李義府は自分に腹が立っていた。もう少し早く、この企みに気付き、それを阻止すべく動いていれば、子顕が無題に命を亡くすことはなかったかも知れないからだ。
(だが、その責任の一端は、この爺さんにもある)
許敬宗は必ず、自分よりも早く、その何者かの存在に感づいていたはずだと、李義府の直感がそう教えてくれている。李義府はじっと許敬宗の顔を見つめるが、その視線を正面から受け止めて、許敬宗はまったく身じろぎもしない。だが、二人の睨みあいはそう長くは続かなかった。不意に視線を外した許敬宗は、ぽつりと呟く。
「判った。後のことは、すべて儂に任せておけ」
「ありがとうございます」
李義府はそっと一礼する。しかし、その後に、
「ですが、きちんとけじめだけは付けていただけるんでしょうね?」
そう付け加えることだけは忘れなかった。李義府としては、いまできる最大限の反撃のつもりだったのだが、許敬宗からはなんの反応もない。さすがにいま、李義府にはそれ以上、許敬宗を追い込むだけの武器は、まだ持ち合わせていなかった。
【注】
※一 「肚兜」
日本の腹掛けのような中国の伝統的な肌着
※二 「汗衫」
中国風の襦袢のような肌着
※三 「長吏」
州の刺史を補佐する属僚。官品は、上州の場合「従五品上」
※四 「教坊」
『唐』以降、宮廷に仕える楽人や妓女たちに宮廷音楽を教習させるための機関を
さす。楽曲や歌舞の習得を主な目的とするが、官妓にあたる妓女を統括する役割も
あった
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ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
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