『晋書』編纂異聞 ~英主の妄執と陰謀~

織田正弥

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弐ノ章

玄奘、辯機と校正す(貞観二十(六四六)年、七月)

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 読み上げられる草稿を度々止めて、玄奘は幾許かの修正を指示する。その都度、律儀に別の紙に書き写しながら、辯機は細かな点まで玄奘に確認していった。
 足掛け十六年にもわたる長い旅である。十年に及んだ天竺での記憶ならまだしも、逗留することなく通過しただけの地や、伝聞で耳にしただけの国や地域に関して述べている部分も多い。本来であれば、可能な限り正確なものにしたいところなのだが、「ともかく急げ」との思し召しだ。記憶と記録をなんとか掘り起こし、少しでも正しい形に近づけていくしかない。
 辯機はさらに何点か詳細に確認すると、玄奘の意向を踏まえた修正案に直すべく、自室へと下がっていった。
 それと入れ替わるようにして、馬玄智が椀を乗せた盆を手にして、坊のなかへ入ってくる。おそらく、玄奘の身体が空くまで坊の表で控えていたのだろう。
「和上、白湯をどうぞ」
 この一年ほどで、玄智の漢語は驚くほどに上達している。風貌には天竺人の母の気配が濃厚に残るが、言葉だけなら本朝人のなかに混じっても、さほど違和感を覚えることはないだろう。
 玄奘は笑みをみせながら、右手でその椀を受け取る。それに玄智は軽く一礼すると、盆を脇に挟み、そのまま自分の仕事に戻っていった。
 まだ少年といってもよい年齢だが、玄智に対する玄奘の信頼は厚い。いや、信頼という言葉よりも、親愛といった方が正確かもしれない。玄智は、天竺までの旅で苦楽をともにした、数少ない知己が残してくれた忘れ形見だからだ。
(結局、『唐』に連れ帰ってしまったが、本当にこれで良かったのだろうか?)
 いまもその思いは拭い去れない。天竺には、玄智の親代わりになってくれる優しい家族もいたのだ。いくら彼が望んだこととはいえ、やはり無情ではなかったかと、いまも玄奘に悔やむ気持ちは残されていた。
(だが、あの子が側にいてくれるお蔭で、確かに儂の心は癒されている)
 仏法に捧げた身とはいえ、玄奘も人間だ。孤独に苛まれることもある。しかし、そんなときに、玄智と他愛もない天竺での四方山話をすることで、心が和まされていることも事実だ。玄奘にとって玄智は、私的な部分でかけがえのない存在であると云えた。
 碗の白湯で喉を湿らしながら、暫く静かに瞑想していると、
「和上、これでいかがでしょう?」
 指示を受けた箇所の修正案を巻物に纏め、改めて辯機が玄奘の前に姿を現した。
 それに目を通すと、
「そうだな、ここと、……後、この部分を修正してもらおうか」
 第二巻の健駄邏国(ガンダーラ)と第十巻の瞻波国(チャンパー)に関する記述に、玄奘は再修正を指示する。だが、後の部分については、おおむね了として辯機に返した。
「それでは、この部分を直し終えましたら、いつなりとも主上に奉呈することは叶いますが、そちらの方はいかがいたしましょうか?」
「うむ、随分と早く成った。主上にお見せするのなら、なるべく早い方がよかろう。それと、あちらの方は、……」
「それも準備は整っております」
 囁くように小声でそう辯機が答えると、ゆっくりと玄奘は頷いてみせた。
(むしろ、こちらの方こそ重要だ)
 主上はその内容を眼にすることを、首を長くして待っておられるはずだと、辯機の胸は高鳴る。
こちらの報告書の取りまとめに関して、玄奘からは、
「誰にも知られることのないよう、秘密裡に頼む」
 そう云われた際には戸惑ったが、玄奘と二人、作業を進めていくうちに、辯機は玄奘と秘密を共有することで、いままでにない精神的な高揚感を感じ始めている。
(やはり、この方の元で仏の道に立ち戻ったことに間違いはなかった)
 辯機はいま、そう思い定めていた。
 これまでの仏道人生は、常に迷走ばかりだったと、辯機は悔やんでいる。十五歳で道岳和尚の門を叩いて以降、本当の意味で、自分が仏道に精進していた日々がどれほどあっただろうか。ようやくいま、すべての雑念を捨てて学びたいと思える、本物の師に出会えたのだ。
(この機会を絶対に逃してはならない)
 玄奘と出会えた幸運に、辯機は心の底から感謝していた。
「このように早く完成を見たのは、すべてその方のお蔭だ。礼を申すぞ、辯機」
「なにを仰せられます。私はただ和上のお言葉を紙の上に落としただけでございます」
 少し頬を朱に染めて、辯機は俯く。だが、いくら謙遜しようと、主上への報告がこれほど早く可能となったのは、玄智の協力もあったとはいえ、やはりこの眼前の青年僧の力によるところが大である。
 昨年二月、天竺からの帰国後、初めての拝謁が許された際、経典翻譯事業を国として全面的に支援する旨の勅許を得ることには成功したが、その代償として主上から命じられたのが、西域・天竺方面の状況を詳しく認めた報告書の提出だった。ようやく勅許を得た経典の翻訳に専念したい玄奘としては、できることならこれもお断りしたいところではあったのだが、さすがにそこまではできなかった。
 なぜなら、その前段階として既に二度、主 上からの熱烈な要望を、玄奘は固辞していたからである。
 まず一つ目は、還俗して、国政を補佐せよとのご下命だ。初めての対面で、どれほど玄奘に関する情報が届いていたのかは判らないが、主上はその場で、
「苻堅が道安を得たことに匹敵する」
 と、述べるほどの惚れ込みようで、直ちに還俗して政策顧問となるよう命じてこられたのだが、仏道に邁進したい玄奘としては、当然のことながら、これは固辞せざるを得なかった。
「私は幼い頃より仏道に帰依し、儒学の道は一向に存じません。いま還俗して国政を補佐するなどというのは、舟を河から上げて陸で用いようとするようなもので、功がないのみか、無駄に腐敗してしまいます。願いますれば、玄奘一代、仏道に専念させていただくことで、国恩に報いることができますれば、幸甚でございます」
 すると主上は、それならこのまま、高句麗遠征に陪従せよと命じてくる。その間に、改めて玄奘を翻意させようとする目論見であることは明らかで、
(陛下は僧侶というものについて、なにも判っておられない‼)
 内心の嘆息と警戒を押し隠しながら、玄奘はこれに対しても、長旅から戻ったばかりで病身であること、また、戒律により戦闘を目にすることは許されていないことを理由に、丁寧に、しかし、断固として拒否した。
「それもならぬのか」
 明らかに不満そうな主上ではあったが、さすがにこれ以上の無理強いは無粋だと悟ったのか、その代わりに、条件として玄奘に示したのが、西域や天竺で見聞した内容を著述し、報告書として提出することだった。
(それもいずれ、政治的に利用されることは確実だ)
 ひょっとすると、軍事活動にも結びつくかもしれない。玄奘はそこまで察していたが、さすがにこの条件まで拒否するようでは、主上の面目もあるし、勅許を得たばかりの譯経事業に対して、国から得られるはずの支援にまで支障が生じかねない。
(ここは、譲歩しなければならない最低限の線だな)
 と、玄奘は思った。
 実は、経典の翻譯場をどうするかに関しても、主上との間で微妙な駆け引きがまだ残っていたのである。
 元々の玄奘の腹積もりとしては、翻譯の勅旨が得られた場合、その作業場にと考えていたのは、嵩岳の南、少室山の北に位置する少林寺だった。そこであれば、都の喧騒に邪魔されることなく、翻譯に当たれるという利点がある。
 だが主上は、玄奘が自分の目の届かないところに引き籠ることを許さなかった。
「翻譯の場なら、亡き太后の菩提を弔うために、儂が京師に造営した弘福寺にせよ」
 そう命じてくる。
 ならば、場所はやむを得ないにしても、そこでは物見高い見物人が押しかけて、翻譯作業が邪魔されないとも限らない。そこで、次善の策として、静かに作業が行えるよう、警備の兵をお願いしたい旨を申し出たところ、主上はこれを、「保身の言」であると笑って許し、後は都に帰って留守の房玄齢と相談せよと、その裁量に任せてくれたのである。
 その後、再び長安に戻って房玄齢と詳細を詰めてみると、彼の元には主上の言が正確に届けられていたようで、必要となる紙や墨といった大量の消耗品、翻譯作業に携わる優秀な人員、そして警備の体制まで、ほぼ玄奘の希望どおり、中書省の個性的な役人がそのすべての差配を進めてくれたのである。
「これで和上の念願がようやく叶いますな」
 黄色い歯を見せて笑いかけながら、その役人が完了を報告しに来たとき、主上から促された西域方面の報告書の提出は、絶対的な義務に変わっていたのである。
 このようにして弘福寺に腰を落ち着け、譯経作業に本格的に取り掛かることとなった玄奘は、その当初、西域方面の報告書の作成に関しては、己が一人の手で成し遂げようと考えていた。けれども、いざ実際に着手してみると、これがなかなかに手の取られる作業だということに直ぐに気が付いた。
(これは、思いの外だ⁉)
 このままでは、本来進めるべき譯経作業もおろそかになり、一方、報告書の完成もまた遅れてしまう。高句麗遠征から都に戻られて以降、天竺との使者が往還していることもあって、主上の関心は再び西方にも向けられている。作業の遅れは主上の御機嫌を損ないかねず、玄奘は焦っていた。そこで思いついたのが、この報告書の作成に関して、朝廷から遣わされた譯経僧のなかから適当な者を選び出し、その力を借りることだった。
 翻譯作業を進めるには、訳語の考証を行う「証義」や文体の統一を図る「綴文」、口述筆記を担う「筆受」、浄書を行う「書手」など、各々役割を担う者たちがいるが、そのなかで玄奘が白羽の矢を立てたのは、「証義」と「綴文」を担当する青年僧、辯機だった。並行して口述すべき部分はあったが、西域への旅の途中で記録した文書や資料の類をすべて渡し、ほぼ丸投げに近い形で、玄奘は報告書の作成を彼に一任したのである。
 玄奘がこの作業を辯機に託したのは、譯経作業にあたる碩学のなかで、彼がもっとも若年で、頼みやすかったこともあるが、それ以上に重要だったのは、彼の師、道岳和尚が既に鬼籍に入り、今後、己の直弟子として育成できる可能性が高いということだった。玄奘は、この譯経事業が己一代では成し遂げられない場合があることも想定し、予めその後継者となるべき人材を育てておきたいと、そんな思惑も有していたのである。そして、その期待に見事に応え、本務もつつがなくこなしながら、ほぼ一年半という短期間でこれほど質の高い報告書を完成させた辯機の能力は、玄奘を満足させるのに十分すぎるものだった。
 そのお蔭で、譯経作業に己の心血を注ぐことができた玄奘は、翻譯を終えた「大菩薩蔵論」二十巻、「仏地経」一巻、「六門陀羅尼経」一巻、「顕揚聖教論」二十巻、「大乗阿毘達磨雑集論」十六巻を報告書と同時に主上の御高覧を仰ぎ、仏教への関心を高めてもらおうと、既に提出する準備を整えている。
「和尚の一番弟子として、少しでもお役に立つことができましたなら、まことに光栄なことでございます」
 四十の坂を越え、壮年となってますます頑強で筋肉質な玄奘とは対照的に、中性的な雰囲気で痩身の辯機は、剃髪した姿が不思議と端正な顔立ちに似合っている。衆道の癖などまったくない玄奘ではあったが、その風情があまりに好ましかったので、少し揶揄ってみたくなった。
「いや、その方は一番弟子ではない。三番弟子じゃ」
「えっ?」
 玄奘の言葉を真に受けて、辯機は真面目に驚いている。
「和上には、天竺で弟子をお取りになっていたのでございますか?」
「いや、そうではない」
 『高昌』に残してきたと、玄奘は答える。
「高昌国?」
 意外な名を聞いた、辯機はそんな表情だ。
「玉門関(※一)を避けながら、ようやく国外に出た儂は、莫賀延磧(※二)で死と背中合わせの旅をしながら、ようやく高昌に行き着いたのだが、そこで一時的に足止めされることとなった。この話はしたな」
 辯機が頷くと、玄奘は静かに語り始めた。
 当時、『高昌』国王だった麴文泰は熱心な仏教徒として知られ、玄奘の仏教への熱い思いに感動したことに加え、その人格・識見にいたく傾倒して、
「国人みな帰依いたしますので、国師として、このまま高昌に留まっていただけませんか」
 そう望んで止まなかったのである。そこには、これからの天竺までの行旅の危険性を見越し、純粋に玄奘の身を案じる彼の好意も含まれていたにちがいない。
 だが、玄奘の情熱は揺るがなかった。
「もちろん儂は丁重にお断りした。しかし、国王も諦めない」
 そんな静かな攻防が三月ほども続き、玄奘は厚く遇されはしたが、その間、一歩も城外に出ることを許されず、天竺に向かうための準備もまったく進まなかったのである。
「いまならば、これも御仏がお与えくださった試練と達観もしようが、儂も若かった。気持ちは焦るばかりで、このような無為な日々がいつまで続くのかと、悶々とした毎日を送っておったのだ」
 そんな玄奘にとって唯一の心の癒しともいえたのが、あの当時で五つか六つぐらいだったろう、同年代のお付きの娘と二人、いつも仲良く手をつなぎ、玄奘のところに遊びに来てくれた国王一族の姫だった。
「本朝では珍しい色白の肌に、切れ長の眼をしたかわいらしい姫でな。人伝てに聞くと、『康国』(※三)から使者として訪れた貴族の娘に国王の末弟が恋慕し、娘もそれに応えて子を成したのだという」
 しかし、娘は産後の肥立ちが悪く、産まれた姫が一歳にもならないうちに亡くなってしまう。また、その後を追うように、父親までが鬼籍に入ったのだそうだ。
「一人残された姫は、王族として遇されはしたが、異国の民の血を引いている。純粋な漢族の高昌国の王族のなかでは、浮いた存在となってしまったことは否めない」
 そのため、誰もが腫れ物に触るかのような扱いで、王城内でも侘しい暮らしを強いられていた。そんな環境のせいもあったのか、姫は幼心に、御仏を信じるようになっていた。
「儂のところへ遊びに来る度に、覚えたばかりの拙い楽を聞かせてくれる代わりに、たどたどしい言葉ではあるが、真剣に仏の教えについて尋ねてくるものだから、儂もつい本気になってしまってな。幼い子どもでもわかるよう、難解な経典を必死に解きほぐし、易しく語ってやったものよ」
 ある時、そんな姫が泣きじゃくりながら、珍しく一人でやってきたことがあった。どうしたのかと尋ねると、
「お付きの娘とつまらないことで口喧嘩になってしまい、突き飛ばした拍子に、左腕に大きな怪我をさせてしまった」
 と、必死の表情で訴えるのだ。
「そのお付きの子というのも、姫に劣らず愛らしい娘でな」
 玄奘は昔を懐かしむかのように、遠くに目を向けながら語り続ける。その表情を見ているだけで、いかにこの時の体験が玄奘にとって大切なものであったかを、辯機は直感的に感じ取っていた。
「母親は姫の母御の侍女を務めていた者で、奚琴(※四)を良くしたという。姫にとってこのお付きの娘は、城内で唯一気を置くことなく話せる友達だったらしいから、その娘に大怪我をさせてしまったことに、よほど衝撃をうけたのだろう」
 二人で一緒に西域の楽を嗜んでいる時が唯一安らげる時間なのに、その大事な楽友が一生演奏できなくなるかもしれない、そんな大きな傷を負わせてしまった。自分が背負った罪障は、生涯かけても償いきれないと悔やみ、
「このような私には、二度と和上の教えを受ける資格などないのでしょうか?」
 涙と鼻水でびしょびしょになった顔で問いかけてくるのだ。
「儂は姫を慰めると同時に、人をやって、すぐにその娘の傷の具合を確かめてみた。すると、幸い傷はそれほど深いものではなく、以降、楽器の演奏ができなくなるようなことはない。そんな話だった」
 そこで儂は、優しく姫を抱き寄せながら、こう云ってやったのだ。
「人はみな罪深いものだ。だが、そのことを知り、悔い改めて仏の教えに帰依しようとする者に対して、御仏は必ず慈悲をお与えくださる」
 仏僧は、そのための橋渡しをすることが役目。姫が素直にその娘に謝り、いつもどおり二人でこの玄奘を訪ねてきてくれるのであれば、この私が御仏の道を語らぬことなど、あろうはずがないではないか。
 儂のその言葉を聴いて、姫の涙がようやく止まり、笑顔を見せてくれたあの瞬間ほど、
「自分が御仏の教えを学ぶ身でよかったと、心底思えたときはない」
 玄奘はそう感慨深げに呟いた。
 それから三日の後、いつもどおり二人仲良く姿を見せてくれたとき、玄奘はこの二人の幼女を己の最初の仏弟子にしよう、そう固く心に誓ったのである。
「なるほど、そういうことでしたか⁉」
 良いお話を伺いしましたと、感慨深げな表情で、辯機は云った。
「ならば、たしかに私めは三番弟子でございます」
 と、嬉しそうに笑う。
「それで、その後、姫たちとは?」
「別れが訪れたのは、そのことがあって間もなくのことだ」
 天竺への想い止みがたかった玄奘は、その出来事を契機として、ついに意を固め、三日間の断食を行って見せることで、国王に己の決意の固さを示した。すると、これには麴文泰もさすがに折れて、玄奘に療養して体調を整えるよう勧めるとともに、これまでの姿勢を改め、今度は積極的に玄奘の天竺行を援助すべく、準備を進めてくれたのである。
 その際には、馬玄智の父となった人物を含む四人の沙弥と金銀綾絹、馬三十頭と人夫二十五人を供として揃えてくれたばかりか、通過予定の各地の国王や実力者らに対して、玄奘に対する保護と援助を求める高昌国王名の文書まで用意してくれるという、心憎いほどの気配りだった。
 それから半月余りが過ぎ、準備も整って慌ただしく旅立つことが決まったあの日、城門の外までお付きの娘と見送りに来てくれた姫は、必死で涙をこらえようとしていたが、
「帰路の折には、必ずもう一度立ち戻り、今度は三年の間、高昌に留まります。それまで、離れてはいても、姫が御仏の教えを忘れずにいてくださる限り、玄奘は常に姫のお心のなかに共におりますよ」
 そう云って、玄奘が自ら彫った小さな仏像をその小さな掌に握らせた刹那、姫ははじめて大声をあげて泣き出し、玄奘にむしゃぶりついてきた。
「泣き虫姫のあの日の切なそうな顔は、いまでも忘れることができぬ」
 姫と付き人の娘は、今頃どうしていることだろう。
 玄奘が高昌国の滅亡を初めて知ったのは、天竺からの帰路、沙河(※五)まで戻ったときのことだった。同時に、高昌国の王族らは皆、この長安に移住させられたという話も耳にした。
(この京師のどこか街角で、偶然出会うというような仏縁はないものか……)
 当時の想いが去来したのか、玄奘の眼に不意に涙が浮かぶ。それを知られるのが嫌で、玄奘が顔を上に向けると、辯機はただ黙って俯き、その場に控えていた。

「つまらぬ昔話をした。すまぬ、辯機」
「いえ、とんでもございません」
「それで、主上への報告だが、旬日のうちにも参内することが可能かどうか、まずはお伺いを立ててみてはくれぬか」
「えっ、参内されるのでございますか⁉」
辯機は驚いたように云う。
「報告書をその筋に提出するだけではいけませぬか?」
「いや、それはなるまい」
 玄奘は厳しい表情となり、ゆっくりと首を横に振った。
「ご披見賜れば、その内容について、ご下問ある場合もあろう」
 特に別添の報告に関しては、直ぐにでも確認されたいことが、陛下にはきっとおありになるはずだ。
「そのとき、直ちにお答えできるよう傍らに控えておらねば、せっかく報告する意義が半減してしまうではないか」
 玄奘は辯機を静かに諭した。このあたりの呼吸を悟るには、辯機はまだまだ若い。彼が真に成長するまで、主上のお相手は一身に引き受けねばならないと、玄奘は覚悟を決めていた。
(御仏の教えが陛下の御心にどれだけ浸透しているのか、いまの時点で判断を下すことは難しい)
 玄奘はそう考えていた。
 前回、拝謁を賜った際、意外と仏教に対する造詣が深いことには驚かされたが、それはあくまでも知識・教養の範疇だ。信仰と結びついているとは限らない。皇室では老子をその始祖と定め、「道前仏後」を公式に表明しており、皇室内ではやはり道教の方が優勢だと、玄奘は現実を認識している。これを逆転させるには、やはり主上を頼りにするしかない。
 いまは玄奘個人に対する関心だとしても、それを仏教への帰依に転換させることは、決して不可能ではないはずだ。そして、その自信が玄奘にはあった。
(儂は、覇者の扱いには慣れている)
 天竺においても、その絶対的な権力者、尸羅逸多王(戒日王、ハルシャ・ヴァルダナ)の信頼を最終的に勝ち取ることができたことが、その自信の根拠となっている。
 戒日王が玄奘に関心を持ってくれたその始まりは、遥か東方から訪れた異国の僧に対する単なる好奇心からであったにちがいない。しかし、最後には、仏法の師として仰がれるところにまで、その意識は姿を変えたのだ。
(尸羅逸多王に届いた言葉が、陛下にも響かないはずがない)
 玄奘は主上に対して、どこか戒日王と同じような臭いを感じ取っていた。偉大なる帝王がその晩年を迎え、満たされない何かを必死で追い求めている焦燥感のようなものを。  
 既に遠くなりかけている天竺での記憶を、玄奘は再び呼び起こしていた。
 天竺を訪れてみて、玄奘の予想外だったのは、ヒンドゥー教の隆盛がみられる一方で、仏教は教義の研究が中心となっており、宗教としては、民衆から遠く遊離した存在へと変質してしまっていたことだった。
 そのようななか、辛うじて仏教の救いとなっていたのは、当時、天竺北部の統一に成功し、賢帝の誉れ高かった戒日王が、彼自身、当初シヴァ神を奉じるヒンドゥー教徒だったにもかかわらず、仏教を主題とする戯曲を著わすなど、仏教に対しても積極的に興味を抱き、仏教教団への援助を行ってくれていたことだった。
 そんな状況下、貞観五(六三一)年の夏、ようやく天竺に到着した玄奘は、まず、グプタ朝(※六)の頃から続くナーランダ僧院において、シーラパドラ(戒賢)という老僧に師事することとなる。この僧院には各地から数千人もの学僧が集い、仏教教学がその中心ではあったが、バラモン教の教学や哲学、医学、天文学、さらには数学の研究なども行われており、現代風に云うと、総合大学のような趣きがあった。
 当然、そこに入学するには厳しい試験が待ち受けており、それに挑戦した俊英たちの実に八割が敗北し、早々に帰国させられたと云われている。また、無事に入学できたとしても、互いに切磋琢磨する日々が続き、多くの者が挫折する一方で、学業と徳行に秀でた者は、多くの栄光を享受することもできた。もちろん、玄奘はその後者で、学識とその徳の高さを称賛されるようになると、すべての雑徭を免除され、外出するに際しては、象の輿に乗ることが許されるなど、僧院内でも十人にしか許されない、特別待遇を受けることとなったのだ。
 すると、その噂が戒日王の元にも届いたようで、丁度この頃、遥か東方の大国、『唐』に関心を寄せ始めていた王は、この国から訪れたという求法僧、玄奘に対して非常な興味を抱き、対面することを望んだのである。
 戒日王との最初の謁見が叶ったあの日のことを、玄奘はいまでもはっきりと思い出すことができる。このとき、戒日王は四十代後半、北天竺の統一に成功して君臨すること既に三十年を経過し、その威厳は他を圧するものがあった。
 にもかかわらず、玄奘はこの荘厳なる覇者に対して、なぜかその栄光が、
(そう長くは続かないのではないか⁉)
 そんな予感がしたことを記憶している。ただ、それが何に由来したものなのか、いまとなっては玄奘にも判然としない。そんな戒日王から、あの日、玄奘はこう尋ねられたのだ。
「法師は支那から来られたという。儂の聞くところでは、汝の国に聖人が出現し、『秦王破陣楽』なる楽を作って称えられているとのことだが、試みに私のために、その秦王の人となりを話してはくれぬか」
 にこやかな表情でそう問いかける晦日王の瞳には、少年の頃なら誰もが持っていたはずの好奇の色が満ちていた。噂でしか知らない『唐』の真実の情報に、よほど飢えていたのだろう。
 それに対して、自分の持っている知識の範囲内で、玄奘は、主上の秦王時代の神の如き武勇と、即位後の理想的な政治について語って聞かせたのだが、そこには多少の誇張と、多くの脚色が含まれていたことは否めない。玄奘が『唐』から出国したのは貞観三(六二九)年のことで、それ以降の情報は持ち合わせていなかったし、秦王時代の武勇伝に関しても、仏道修行に励んでいた玄奘には、はるか遠い世界の出来事だったからである。
 だが、それでも、漢族の一員として、民族の英雄を偶像化し、祖国を理想的な国として他国の人に知ってもらいたいという意識を持つことは、決して悪いことではないはずだ。
「いま、我が国の人びとが『秦王破陣楽』を歌うのは、長く乱れていた世を平和に導き、安寧の世を築いてくれた恩徳を懐かしみ、心から感謝しているからです」
 そう玄奘は戒日王に語った。
 『秦王破陣楽』とは、秦王時代の主上が劉武周と戦った際に作曲されたもので、『唐』ではその御代を通じて、宴会の時には必ず舞い歌われたと云い、いわば主上が武将として絶頂期にあった頃に作られたものである。
こ の玄奘の解説が、それまで以上に戒日王の『唐』への関心を高めることにつながったことは確かなようで、事実、この五年後、戒日王は『唐』に向けて歴史的な使節を初めて送っている。
 その後、玄奘は、間接的に戒日王となんらかの接触を持つことはあっても、直接、顔を合わせることだけは、極力避けるよう気をつけていた。玄奘の本能的な感覚が、王と関りを持つことの危険性を、なんとなく感じ取っていたからである。
 その関係性を改め、逆に積極的に接近するようになったのは、天竺において学ぶべきものを大方終え、そろそろ『唐』への帰国を考え始めていた貞観十六(六四二)年頃のことだった。帰国に関する許可を得るとともに、その行程への支援を依頼するためである。
 玄奘の才徳を認め、その教えを乞うことを熱望していた戒日王は、この姿勢の変化に喜んだ。
無論、玄奘が帰国の途につくことは惜しんだが、その代わりに、天竺に滞在している間は最大限その教えを広めるべく、五年に一度無遮大会を実施し、僧侶や貧者に施しを行うという約束を条件に、玄奘を論主に迎えた大法会を行いたいと、申し出たのである。
(そして、儂はそれを受けた)
 壮大なる茶番劇だったと、思い出しただけで、玄奘は苦笑を禁じ得ない。会場に居並ぶ碩学を玄奘は次々と論破してみせるが、それに彼はなんの実感も見いだせなかった。戒日王が後ろ盾となっている自分を本気で説き伏せようと考えている出場者などおらず、玄奘にしてみても、所詮は言葉遊びに過ぎないという思いがあった。信仰の本質とは、こんな場所で議論を競わせることによって得られるようなものではないはずだ。
(だが、戒日王に対しては、非常に大きな意義を持つ大法会だった⁉)
 と、玄奘は評価してもいた。
 大法会の結果に、改めて戒日王は玄奘への尊崇の念を深めるとともに、仏教への傾倒を一層深めていったからである。
 この直後、戒日王を始めとする天竺諸侯の支援を受けて、玄奘は『唐』への帰国の途についたのだが、後に聞いたところでは、玄奘との約束を果たすべく、「無遮大会」を戒日王は後日、挙行したらしい。そこでは、金銀、真珠、紅玻璃、大青珠など多くの貴石や宝石が準備され、王の装身具や衣服までが施されてしまったために、大会が終わると国庫が完全に空になってしまったと云う。さすがにこれを見かねた地方の領主たちは、王の私物を急いで買い戻し、改めて差し出したと伝えられている。
(やはり、あまりに度を越している‼)
 自分が感じていた危うさとは、こうした部分だったのではないかと、玄奘は思う。
 こうした仏教への極端な傾倒は、本朝で云うなら、どうしても南朝の『梁』の武帝(在位:五〇二年~五四九年)を思い出さずにはいられない。
 彼の皇帝も、その治世の前半では、沈約や范雲に代表される名族出身者を宰相として登用し、倹約の奨励や官制の整備、租税の軽減など各方面で優れた実績を挙げ、また、土断法(※七)を実施して、流民対策でも有効的な施策を断行した名君だった。
 しかし、その治世も後半になると、武帝が帰依する仏教教団に対する多額の支援が際立ち、ついには大通元(五二七)年以降、自らが建立した同泰寺で「捨身」という名目のもと、莫大な財物を施与した結果、国家財政が極度に逼迫し、民衆に対する苛斂誅求が行われるという、本末転倒の事態を引き起こしている。
(やはり、俗世の権力者が仏教に帰依する場合、その在り方にも最低限の矩が必要だ)
 そういう点で、玄奘は冷徹な現実主義者でもある。最高の権力と名声を得た者ほど、精神的な不安を感じ始めると、その拠るべきものに対して極端に頼るようになってしまうものだ。
(戒日王にも、その傾向が見える)
 そして、その翳りは、主上にも微かに漂い始めている。
 戒日王が仏教への傾倒を深めた理由は、なにもすべてが玄奘の影響によるものというわけではないだろう。しかし、少なくとも王の思想になんらかの一石を投じた部分があることも確かだ。
(決して戒日王のようになってもらいたいわけではなく、……)
 その政治思想の底流に、御仏の教えを組み込んでもらえればそれでいいと、玄奘は願っていた。そして、それを成し遂げることこそが、自分に与えられた天命だと思う。
 玄奘の決意はさらに固まっていくが、
「お側近く仕えるよう、また陛下からお言葉があったりはしないでしょうか?」
 辯機は依然として憂い顔を消せない。もし玄奘が宮中に留め置かれ、最悪、強引に還俗させられるようなことにでもなれば、ようやく軌道に乗り始めた譯経事業も頓挫しないとも限らない。
 たしかに、玄奘にも一抹の不安がないわけではなかった。だが、その一方で、もう一つの目論見を果たしたい、そんな狙いも彼にはあった。それは、
(翻訳のなった経典を各地に頒布し、その際、主上に序文を書いていただくことはできないか?)
 というものだった。
 これを思いついたのは、いま朝廷内で編纂が進められている史書、『晋書』の一部に、主上自ら論贊を書き加えられているという話を耳にしたからである。もし主上から序文がいただければ、正式に皇室が仏教の意義を認めたことになり、現在の「道先仏後」の状況が転換する契機ともなるだろう。
 だが、そうした道教との競争以上に、
(仏教界において、我らの教義の正統性を確固たるものにする証しになる)
 玄奘はさらにその先を読んでいた。
(主上の序文を戴いた経典は、いまの王朝が続く限り、未来永劫絶対的なものとなる)
 そしてその経典を翻訳したのは、玄奘らの功績なのである。今後、自分が持ち帰った経典以外にも、各種の経典が翻訳される場合が出てくるだろう。その時、個々の経典の正偽や翻訳の正誤に関して判断する基準は、自分たちが訳したものになるはずだ。
 本来なら、そんな考えを持つこと自体、邪心だということを、玄奘は理解している。しかし、だとしても、やり遂げねばならないと、彼は強く意識していた。
 天竺から貴重な経典を大量に持ち帰るという、未曽有の偉業を成し遂げた玄奘を、いま仏教界は熱狂的に迎え入れてくれている。けれど同時に、いずれは独自の教団を興し、本朝の仏教界を席巻しようとしているのではないか、そんな猜疑心が渦巻いていることもまた、彼には見えていた。
(仏僧とて、所詮は凡夫にすぎぬ)
 玄奘は、そんな醒めた見方のできる質の漢でもある。
「案じるな、辯機。何事もこの世は御仏の御心のままよ」
 笑顔をみせながら玄奘は合掌し、それ以上辯機の口を開かせなかった。

【注】
※一 「玉門関」
 現在の中華人民共和国甘粛省敦煌市の北西約九十キロの位置にある、河西回廊を防衛する目的で『唐』代に建設された堅固な関所の一つ
※二 「莫賀延磧」
 瓜州から伊州〈ハミ〉にかけて位置するゴビ砂漠の一部で、もっとも荒涼とした地域。
 玄奘の伝記『大慈恩寺三蔵法師伝』では、この場所を旅した時の様子を、「上に飛ぶ鳥なく、下に走る獣なし。また水草なし。このとき影を顧みるに唯一のみ」と記している
※三 「康国」
 『隋』・『唐』時代、サマルカンド地域の呼称で、昭武九姓の一国。
 河川からの人工灌漑によって穀物・果樹栽培が発達し、ソグディアナ地方の中心的オアシス都市として栄えた。また、シルクロードの要地にあたっていたため、『康国』人は東西交易路上の各地に植民集落を形成し、盛んに交易活動を行った
※四 「奚琴」
 北方の異民族によって用いられていた楽器の一種。二胡の原型になったと云われている
※五 「沙河」
 敦煌~鄯善国間の大砂漠。この地はゴビ砂漠の西端、タクラマカン砂漠の東端にあたる
※六 「グプタ朝」
 三二〇年~五五〇年頃までパータリプトラを都として栄えたインドの王朝
※七 「土断法」
 『(東)晋』以降、南朝の各王朝で採られた戸籍登録法。
 晋の南遷以来、華北・中原から多くの漢民族が江南(長江中・下流域)地域に移住してきたが、その多くは無戸籍であったため、課税の対象とならなかった。また、土地を持てない者は豪族の私有民となり、王朝の掌握外となることが多かった。
 そのため、東晋以降の各南朝政権では、移住者に対して現住地で戸籍を編成することとし、豪族の私有民となることを防ぐとともに、課税の対象としてその平等化を図った。
 このように、現住地で戸籍に編入することを「土断法」と呼ぶ
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