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大地くんの揺らぎ

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いつもの時間、俺は、ピンクのつなぎの上にスーツを着て、大地くんの家へと向かった。

あぁ、それにしても……。今日の勇者の炊き込みご飯を思い出しただけで、幸せな気持ちになるのは何故だろう。
その答えが、スミさんの輝きを放つ卵蒸しパンに詰められていたことは分かっている。
優しくて、甘くて……幸せな気持ちになる、その気持ち。
うぅ。だけれど、俺が、鈴子さんに告白?
一体、なんて言えば良いんだ?君の作る味噌汁が飲みたい?違う。これじゃプロポーズだ!!
そんなことを考えていると、駐車場に到着した。


俺は、大地くんの家の前に立った。
手には、いつもは持たない鞄を持って。
これも前の仕事の時に使っていたものだから、スーツで持っていても、違和感がない。
この中には、あの練乳メロンパンと……友人から教えて貰って無料で取り寄せた資料がいくつか入っている。
本当にこれを見せても良いのだろうか。大地くんを悩ませたり、もしかしたら辛い想いをさせるかもしれない。
だけれど、大地くんは、俺に夢を話してくれた。誰にも言っていないであろうことも。
俺には、本来の依頼である、勉強を教えるということはできない。
むしろこれは、依頼者である大地くんのお母さんへの反逆だととられてもおかしくない行為だ。
……それでも、この話を社長にしたとき、社長は笑って頷いてくれた。いつもの笑顔で。
「なにかあったら、私が出向くさ」と。


大地くんのお母さんは、俺を見て、とても喜んだ顔をした。
だけれど、今ならわかる。目が笑っていないことに。前の上司と同じだ。
「まぁ!!先生!そんなに参考書を持ってきて下さったのですね!さすがは先生ですわ。うちにも揃えられるものはそろえていましたけれど、やはり先生は違いますわ!」
俺は、大地くんのお母さんに頭を下げると、逃げるように、大地くんの部屋に急いだ。

「どうぞ」
大地くんの声を確認して、部屋へと入る。
いつもの場所でスマホをいじる大地くんが、俺を見た。
「やぁ!こんばんは!」
大地くんに挨拶をして、部屋に入って扉を閉めると、何故か少しほっとして、ふぅと一息つくと、俺は鞄を下ろして、スーツを脱ぎ始めた。
スーツを脱いで、ピンクのつなぎになると、いつもの場所に座る。
それを見計らったように、大地くんが顔を上げた。
「おじさん、何持ってきたの?」
ふっ、ふっ、ふっ、よくぞ聞いてくれた!この中には少なくとも、世界を救う練乳メロンパンが入っているのだから!
俺は、鞄から練乳メロンパンを取り出して、大地くんに差し出した。
「えっ……?」
大地くんが驚いている。そうだろう、そうだろう。なんたって練乳メロンパンだ。
「練乳メロンパンだよ!!美味しいのは間違いない!!ちゃんと確認できたから!!」
「練乳メロンパン……?」
不思議そうな顔をしながら、大地くんが、手を伸ばして練乳メロンパンを受け取ってくれた。
袋から取り出して、まじまじと眺めている。
うん、とても良いことだ。パンとは、まずは目で見て楽しむことに間違いはない。
「なんで、これ?」
「うん?なんだか前に来たときに、大地くん、元気がないというか……うん、お腹が空いていると、元気がなくなると思ってね!!」
俺の言葉に、大地くんがふっと軽く吹き出した。
「え……」
俺は驚いた。大地くんが吹き出して、ほんの少しだけれど笑っているのだ。
前に見た、苦しそうな笑顔とは違う、なんというか、自然な笑顔で。
「おじさん、俺が、食事を与えられてないとでも思ったの?」
「そんなことはないさ。でも、三食食べていたって、お腹が空くことは、よくあるだろう?」
「……これ、食べて良いの?」
「あぁ!もちろん!その為に買ってきたんだから!!」
大地くんは、練乳メロンパンを一口サイズにちぎると、口に運んだ。
な、なんて行儀の良い食べ方だ。鈴子さんと同じだ。
「うん、初めて食べたけれど、美味しいね」
「初めて食べたのかい?大地くんは、こういうパンを山ほど食べているのかと思っていたよ」
「山ほどパンは食べないけれど……いつも、チョコチップメロンパンを買うことが多いからさ」
「ちょ……チョコチップメロンパン……!?」
さらりと言われた言葉に、俺は動揺を隠せなかった。
大地くんがお金持ちだと分かっていた。お母さんの話で、ネットで買い物をしているのも知っていた。だけれど、チョコチップメロンパンを買って食べる程の猛者だったとは……!!

大地くんは、そんな俺をよそに、練乳メロンパンを食べながら、俺の鞄を見た。
「他には、何が入っているの?」
「うん、実はね、約束していた友人に連絡をして、色々と持ってきたんだ」
「本当に!?」
大地くんが、驚いた様子で、前のめりになった。
あ、危ないぞ!練乳メロンパンは喉に詰まりやすい!食べ終わってから言えば良かったかな!?
大地くんが、もの凄いスピードで練乳メロンパンを食べ始めた。
ふむ、やはり、これを食べたら、虜になってしまうのはしょうがないだろう。
そう思って見ていると、大地くんは最後の一口を食べ終わった。
「ごちそうさま!それで、おじさん、どんなものを持ってきてくれたの!?」
大地くんの、今まで見たことのない顔に、俺は慌てて、鞄から無料で取り寄せた資料を取り出した。
「これさ、航空専門学校の資料なんだけど……」
「えっ!?」
初めて、大地くんは、スマホも持たずに、勢いよくベッドから降りて、俺の隣に座った。そして、前のめりになっている。
俺は、資料を大地くんに渡した。
勢いよくページをめくり、風のように読み進める、大地くん。
「凄い!航空整備士の国家資格!?」
大地くんの顔が変わっている。これも、初めて見る、大地くんの顔。
目が輝いていて、キラキラしている。
俺は、思わず、胸を押さえた。
嬉しい、嬉しいはずなのに。お願いだ。もうこれ以上、俺の心の引き出しよ、開かないでくれ……。
思い出したくないんだ。これ以上。思い出したって、あの子にはもう、何もできないんだ。

大地くんが、手を止めると、少し悲しそうに俺を見た。
いつもと違い、今日は、大地くんの感情が素直に分かる。
「でも、専門学校って……高校を卒業してからでしょ?」
「俺も、そう思っていたんだ。だけどね」
俺は手を伸ばして、大地くんから資料を受け取ると、募集要項のページを開いた。
「友人が教えてくれたんだ。ここ見て」
俺が指を指した場所を、大地くんはじっと見つめている。それはまるで、子供が宝物を見つけたような目だった。
大人びていたから、ついつい忘れてしまいがちだったけれど、大地くんは、まだ中学生なのだ。
だからこそ、これを見せることを迷った。迷ったけれども、このままだと大地くんが……あの子のようになりそうで……。そこまで考えて、俺は必死に、心の引き出しを閉めようとした。
「これって、具体的には……?」
「うん。高等学校卒業程度認定試験っていうのがあるんだ。おじさん達の頃は、大検って言っていたんだけど。それに合格すれば、大地くんの年齢でも行けるところが多いらしい。それに、ここに書いてあるように、寮の設備がしっかりとしているところもあるし、奨学金制度だってある」
大地くんが、輝く目で俺を見ていた。
「だけどね……」
俺は、友人から言われた、デメリットも、しっかりと伝えなければいけなかった。
俺は、スマホのメモを見ながら、一つずつ、大地くんに説明した。
大地くんは、一言も聞き逃さないようにしているのか、じっと俺を見て、話を聞いていた。

「凄い……こんな学校が、こんなにあるなんて、知らなかった。いや、実は、調べるのが怖かったのかも」
大地くんが、隣に座ったまま、俺を見つめて言った。
「航空整備士や、他のここに書いてある資格は調べたことがあるんだ。確かにその時、広告として、こういう専門学校が出ていた気がするけど、まずは高校を卒業しないと駄目だって先入観があったんだ」
「うん。おじさんも全く知らなかったよ」
「デメリットまで、しっかりと教えてくれてありがとう、おじさん。今まで出会った大人はさ、何か勧めてくるとき、メリットばっかり言って、ちゃんとデメリットを教えてくれたことなんてなかったよ」
「ははは、それは、友人に言われたんだ」
「……おじさんには、凄く素敵な友達がいるんだね」
「そうだね。でも、それに気がつけたのは、大地くんのお陰だよ」
「え……?」
「おじさん、もう何年も、友人と連絡をとっていなかったからね。実家にも戻っていなかったし。大地くんが、キッカケをくれたんだ」
「……俺が?」
「うん。大地くんの為じゃなかったら、今でも、連絡はとっていなかったと思う」
「……そ、そうなんだ……」
大地くんが、俺を驚くような目で見つめていた。その目は、今までの大地くんの、どこか冷めた目と違う。
「母さんのことは、どうするかな……久しぶりに、父さんに連絡とってみようかな……」
大地くんが呟いた。
そういえば、大地くんのお父さんの話は聞いたことがない。
だけれど、大地くんが何か真剣に考えている今は、聞かない方が良いだろう。

ハッとしたように、大地くんは壁にかけてある時計を見ると、いつものように問題集を書き始めた。
「おじさん、友人さんとは、他に何か話した?」
「あぁ。話し出すと止まらなくなるものだね。そうそう、その友人はね、前に話した、おじさんが書いていた小説を読んでくれていた友人なんだ。また書いてみろだの、無料の投稿サイトだの言われたよ」
苦笑いをしながら、ピンクのつなぎの上にスーツを着ていた俺を、大地くんが見た。でもすぐに、問題集に戻る。
「俺が書いた、最初の小説も覚えていてね。驚いたよ」
「もう書かないの?」
大地くんが、書き終わった問題集を俺に差し出しながら、まっすぐに俺を見て言った。
「……書けるかなぁ。いつの間にか、書かなくなってしまったし、小説を書く勉強もしていないし」
「でも、書いてたんでしょ?」
「……」
「おじさん、今日のお礼に、無料の小説投稿サイトで、良さそうなところを調べておいてあげる。もちろん、デメリットもね」
大地くんが、笑った。
初めて見る、にっこりと笑った、大地くんの笑顔。
こんな笑顔が、大地くんの【根っこ】にはあったんだ。
そう思ったとき、俺も、反射的に笑っていた。
「じゃあ、お願いしようかな。あ、でも、書くことは約束できないよ」
「うん、もちろん」
「ありがとう。じゃあ、またね」
俺は、問題集と、空になった鞄を持って、部屋から出ようとした。
「あの……おじさん!」
「ん?どうしたんだい?」
「えっと……れ、練乳メロンパンだっけ?あれ、本当に美味しかったよ!」
俺が思わず満面の笑みになった。だけれど、何か言おうとした瞬間、大地くんのお母さんが部屋に近づいてくる気配がした。
俺は黙って、そのまま頷くと、手を振って、部屋の外に出た。
やっぱり、練乳メロンパンは世界を救うんだ。


「先生、新しい参考書、いかがでしたか?」
大地くんのお母さんが、笑顔で聞いてきた。
「ええ、とても気に入ったようです」
「さすが、先生ですわ!!」
嘘はついていない。俺は、何を持ってきたなんて一言も言っていないし、見方によっては、あれだって立派な参考書だ。
俺は頭を下げると、足早に、大地くんの家を後にした。



報告書を書いていた俺に、いつものように社長が近づいてきた。
この仕事について、とても気にしていてくれることがわかる。
俺は、また口頭で、全て隠さずに報告した。
「大丈夫、何かあったら私が出向くさ」
いつものように、社長が頷きながら言ってくれた。
この安心する言葉のおかげで、俺は、大地くんの【根っこ】を見ることができたのだ。
……それにしても……。

チョコチップメロンパンを普段から食べてるなんて……やっぱり歴戦の猛者だな。

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