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スミさんのアップルパイ

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ドンドコドンドコ ドンドコドンドコ

俺の心の中で和太鼓が止まらない。
鈴子さんの家に行って、手作りのご飯を食べる……。
お昼のお弁当は宝石箱で、サンドウィッチはまさに伯爵の食事だった。
良いのか?手作り料理なんてそんな高級なものを食べさせてもらって良いのか?
でも、もう約束をしてしまった。
嬉しい。正直めっちゃくちゃ嬉しい。
でも、お礼、本当にどうしよう……。


そんなことを考えていると、スミさんの家に着いた。
いつものように……と思ったけれど、なんて言えば良いんだろう。この前と同じように、出会った頃よりイキイキとした素敵な笑顔で、俺を待っていてくれた。

「まぁまぁ、いらっしゃっい。待っていたわ」
スミさんが笑顔で俺を家に入れてくれた。
「はい!俺も、庭仕事をしたくて、思わずネットで色々と調べてきました!」
これは本当のことだった。
庭仕事について何も知らない俺は、世界のグー○ルさんで調べたのだ。
まあ……出てきたのはガーデニングや盆栽が多くて、この状況からのものは上位にはなかったのだが……。

そんな俺を、スミさんは驚いて見ていた。そして、少し顔を歪めると、笑顔になった。
「じゃあ、お願いしようかしら。そのかわり、1時間だけね。疲れてしまうし、あなたに見せたいものもあるの」
スミさんの言葉に俺は満面の笑みで頷いた。
見てもらいたいものがある。なんだかわからないけれど、今日はしっかりと仕事ができるじゃないか!!

そう思いながら、俺は縁側に用意されていた長靴を履かせてもらい、庭に立った。
「どうかしら?夫のものなんだけれど、古いから、動きにくくないかしら」
スミさんが縁側に立って、心配そうに声をかけてくれた。
「大丈夫です!!えっと、まずはこの草を抜いたら良いですかね?」
結局俺は、世界のグー○ルさんで調べたにも関わらず、最初に何をすれば良いかわからなかった。
「えぇ、そうしましょう。お願いしますね。ここにお茶を置いておきますから、いつでも休んでくださいね」
優しいスミさんの言葉。
俺は頷くと、とりあえずしゃがんで、目の前の草をむしっていった。
雑草は強いというが、本当に強かった。
根を深く張って、引っ張っても簡単には抜けなかった。
だけれど、俺は一生懸命、目の前の草を抜いた。
心のどこかで、スミさんが写真を見せてくれた時の、あの庭に戻したいと思っていた。それがなぜなのかわからなかったから、俺はとにかく雑草を抜くのに集中した。

「約束の1時間ですよ」

スミさんに声をかけられるまで、俺は夢中で雑草を抜いていた。
顔を上げると、スミさんの頬が濡れていた。でも顔は笑顔だ。顔でも洗ってきたのかな?

俺は周りを見た。
雑草を抜いた場所の地面が見えて、少し庭らしくなったかと思ったけれど、なんせ庭が広いから、まだまだほんの少ししかできていない。

「さぁさぁ、もう肉体労働は終わりですよ。約束ですからね」
スミさんに言われて、俺は長靴を脱ぎ始めた。
本当はもう少しやりたいけれど……時間も限られているし、しょうがない。
また明日やろう。
「……なんだか、昔の夫を見ているようだったわ」
スミさんが、ポツリと言った。
ん?あの庭は、旦那さんが手入れをしていたのか。
仕事もして、庭仕事もして、凄い人だったんだろうなぁ。
新しいものが好きだったとも言ってたし、昨日のパン屋のチラシに入っていたベーグルも、沢山食べられたんだろうなぁ。だって、ベーグル、高かったもんなぁ。

そんなことを思いながら、スミさんに促されて、手と顔を洗うと、居間に連れて行かれた。

「ちょっと座って待っていてくださいね」
スミさんはそう言うと、俺を座らせて、台所の方に消えていった。
そして戻ってきた時には……両手で、俺の目には金色に輝いて見えるものを持っていた。
それを俺の前に置く。
丸くて、金色のそれは……。
「アップルパイなの」
スミさんが笑って言った。
そう、アップルパイだ。目の前に置かれたのは金色に輝くアップルパイだ。
高級な食べ物だ。生地の上に、フルーツが乗っているんだぞ!?
パン屋のチラシに書いてあった目玉商品の中にあったそれは、小さいのに高かった。
それが、両手じゃないと持てないほどの大きさで、目の前にある。どういうことだ!?

俺はスミさんを見た。
スミさんは、少し恥ずかしそうに笑っていた。
「あなたに写真を見せて昔話をしたら、思い出しちゃって。このアップルパイ、家族にとても好評でね。夫なんて、子供達と競って食べていたのよ。まるで子供のようだったわ」
なるほど、それでこのアップルパイを作って見せてくれたのか。
それにしても、旦那さんのことを話すスミさんの顔は、とてもイキイキしている。
ずっとその顔を見ていても飽きないくらいに。

「さあ、温めたから、冷めないうちにどうぞ」
「え?ええええ!?」
スミさんの言葉が理解できなかった。
俺が、この、金色に光るパイを、食べて良いのか!?!?
固まってしまった俺に、スミさんが、意地悪っぽい、可愛い笑顔で俺を見ていた。
「これはお仕事の依頼よ。そのパイを、少しで良いから食べてちょうだいな」
うっ……さすがスミさんだ。仕事だと言われたら、俺が断れないのをよく知っている。
でも……食べたい。この金色に光るパイを食べたい。
「じゃ、じゃあ、少しだけいただきます……」
俺は横に置かれたフォークを手に取ると、金色に光るパイを口に入れた。
う、ううううううううう、美味い!!!!
なんだ、この美味いものは!!
リンゴに火が通って、甘さが増していて、ほんのりと香るシナモン……。
俺は気がついたら夢中で二口目を頬張っていた。
これは……リンゴと生地の間にあるこの甘いものは……。

「ふふ、本当に美味しそうに食べてくれるわね。その下にあるのはね、カスタードよ。生地がリンゴで湿気てしまわないように、カスタードをいれているの」
スミさんが、机を挟んで座り、紅茶を入れていた。
「はい。今日は紅茶よ。ミルクとお砂糖は好きなだけ入れてね」
スミさんに紅茶と、ミルクと砂糖を差し出された。
「美味しいです!!スミさん、これ、本当に美味しいです!!俺……じゃなくて、私、スミさんの旦那さんが、息子さんと競ってでも食べたかった理由がわかります!!」
気がついたら、俺は大きい声で言っていた。だって、本当にそうだ。こんな素晴らしいもの、取り合うに決まっている。食卓戦争になるに決まっている。
スミさんは、目を潤ませて、くしゃっと笑って俺を見ていた。
「ありがとう。全部食べても良いのよ」
「え、ええっ!?」
「さぁさぁ、ゆっくり食べてちょうだい。食べながら、あなたが最近、恋をしている顔の理由を教えてね」
俺は、顔が真っ赤になっていくのが分かった。
それを隠すように、また金色に光るパイを頬張った。
だけれど、スミさんは誤魔化せない。

結局俺は食べながら、鈴子さんとの出会い、宝石箱のお弁当を食べさせてもらったこと、伯爵のサンドウィッチを食べさせてもらったこと……次の休みに鈴子さんの家で料理を作ってもらうこと、全てを話してしまっていた。
だけれど不思議だ。スミさんにこのことを話すのが、俺は何故だか嬉しい。
スミさんも、凄く優しい笑顔で全部聞いてくれて、どんどん質問してくれた。

「それで……お礼に何か持っていかないとと思うんですけれど、何を持っていって良いかわからなくて」
俺の言葉をうんうんと聞いた後に、スミさんが笑った。
「そんなこと。このばぁに任せなさい!」
「へっ!?」
「デートの日の前日も来てくれるのよね?大丈夫、私がしっかりと用意しておいてあげる」
「い、いやいや!スミさん、待ってください!スミさんはお客様で……!!そんなことさせる訳には……!!」
正直とても助かる。助かるのだけれど、さすがにそこまでさせる訳にはいかない!!
スミさんは俺が言うことを分かっていたかのように、ふふふと笑った。
「普段お世話になっているお礼に、差し入れをしても問題ないと社長さんから聞いているわ」
なっ……!!社長にそんなことを確認していたのか!!だから、スミさんはいつも躊躇なく色々なお菓子を出してくれていたのか……!!
「だから、このばぁに任せなさい」
イキイキしている、スミさんの顔。いつまでも見ていたくなる、なんだか元気をくれる顔。
この前アルバムも見てから、見せてくれるようになった顔。
「じゃ、じゃあ、お願いします……その代わり、明日はもっと庭仕事を頑張りますね!!」
俺はそう言った。
スミさんが明るい顔で頷いた。

こうして俺は、旦那さんの仏陀に挨拶をすると、金色のパイを食べてこの上なく幸せで、鈴子さんへのお礼も安心して、何より……スミさんのイキイキとした笑顔が嬉しくて……そんな気持ちで会社へと戻った。


社長に報告書を渡すと、社長はいつもの優しい笑顔で頷きながらその場で読んでくれた。
「うん、素晴らしい仕事だ」
「えっ……」
素晴らしい仕事。今日は庭仕事をしたからだろう。嬉しい、いつも社長は褒めてくれるけれど、今日は何故かいつもより嬉しい!!心でサンバが踊りだす。
すると、社長は、心配そうな顔になって俺を見つめていた。
「それで……三星 大地くんのことだが……制服をどうするか決めたかい?」
社長の言葉に我に返り、俺は社長を見つめると、ゆっくりと頷いた。
「……聞かせてくれるかい?」
「はい」

俺は、俺が一晩ずっと考えて決めたことを社長に話した。
社長の顔が、次第に柔らかくなっていく。
「うん。良いだろう。それで君の思うようにやってみなさい。……大丈夫、何かあったら私がいつでも出向くさ」
社長の力強い言葉に、俺もしっかりと頷いた。
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