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第1章 突然のさよならから
第3話 始まりの合図
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静謐な図書室の中に響く、場違いに熱を帯びた吐息の音。
くらくらする頭で、先ほどの藍達くんの言葉を思い返した。
『――全部、僕が埋めてあげる』
本当にそんなことができるのだろうか。
朋哉につけられたこの深い傷を。
なにも知らない藍達くんが。
……そんなの無理だ。藍達くんにできるわけ――否、他の誰にもできるわけがない。朋哉に傷つけられたこの心は、きっと朋哉にしか癒せない。
「ん、んぅ、はぁ……ッふ、ぅ」
鎖骨や胸に雨のように降り注いでいたキスは、気づけばくちびるへと移っていた。
始めは軽く、優しく、確かめるように触れていたけれど、それは徐々に激しさを増していく。噛みつくような強い口づけに変わると、脳がくらりと揺さぶられる感覚に見舞われた。
「んっ……は、ァ……やぁ……」
「……羽村さん、もっと僕を求めて」
くちびるの隙間から漏れる彼の声は、まるで蜜をたっぷりと含んだように甘い。
傷をつけて上書きするなんて言っておきながら、実際に彼がするのは驚くほどに心地の良いキスだ。
朋哉と別れてぽっかり空いた心の穴は、そう簡単には埋まらないと思っていたけれど……藍達くんとくちびるを合わせていると、朋哉のことを忘れられる瞬間がある。
……気持ちいい。
「……気持ちよさそうな顔をしてるね」
くすりと笑う声。
本心を見透かされている。
彼のキスに酔っていることを、気づかれている。
「いいよ、もっとしてあげる」
まるで媚薬だ。
その声は、言葉は、仕草は、すべて燃えるような熱となって、正常な思考までもとろりと溶かしてしまう。
なにもかもを忘れさせてくれるようなキス。朋哉とのことを過去にしてくれるようなキス。こんなことは初めてで、脳内をぐらぐら揺さぶられる。いけないこととわかってはいても、やめられなくなる。理性と本能のあいだで押し潰され、どうにかなってしまいそうだった。
「キス、好きなの?」
「……ん、んぅ……」
「かわいいね。舌吸ってあげる」
ちゅくちゅくと音を立て、赤子がミルクを飲むように吸われる。舌先がぴりぴりと痺れて、藍達くんからの口づけに翻弄される。
キスは今まで付き合ってきた人たちとした。多くはないけど、少なくもない人数だ。それでも、その上手下手の違いがどんなものかは正直全然わからなかった。ただくちびるを合わせて舌を絡めるだけの行為に、大きな違いなんて見いだせなかった。
……でも、今ならわかる。
藍達くんはキスが上手だ。
キスだけで体も脳内もとろとろに溶かされる。気持ちいいと思う。このままずっとこうしていたいと思ってしまうくらいには……彼のキスに夢中になっていた。
でも、どこでこんなテクニックを培ったのだろう。
一見すると藍達くんは童貞ぽい。遊んでいるようにはまったく見えないし、正直彼女がいるようにも見えない。それなのに、どうしてこんなにも相手を翻弄させるキスができるのだろう。
……ああ、そうだ。人は見た目で判断してはいけないと、ついさっき彼から学んだばかりだった。
わたしたちが知らないところで、きっと藍達くんは――。
「ちょっと待っててね」
ふいにくちびるを離される。
藍達くんはわたしの頭をひと撫でし、おもむろに立ち上がった。
密着していた体を離されると、火照った体温がすうっと冷えていく。その感覚に寂しさを覚え、もっと抱き合いたいという思いが芽生えて、慌てて掻き消した。あんなに朋哉だけがいいと言っていたのに、そういった考えが一瞬でも浮かぶのが信じられない。
……藍達くんには傷を癒せないと、あんなに強く思っていたのに。
ちらりと彼のほうを見る。藍達くんはカウンターへと足を運び、引き出しを開けてなにかを探しているようだった。それからすぐに目的のものを見つけ出したのか、彼はなにかを手にしてこちらへ戻ってきた。
「……え……?」
目を疑った。
藍達くんが持っているものを見て、驚愕と動揺を隠しきれなかった。
「お待たせ、羽村さん」
目の前まで来ると、書架を背に座り込むわたしを見下ろし藍達くんが口角を上げてにっこりと笑う。
冗談だとしても、わたしはそんなふうに笑えなかった。
「あ、藍達くん……それって……」
わたしの怯える表情を見て、彼はさらに笑みを深くさせる。
そしてひどく愉しげな声で、一言囁いた。
「これはね、羽村さんを悦ばせる道具だよ」
ロープの束と手錠だった。
全身がぞくりと恐怖心に包まれる。背中に、つうっと汗が伝った。一体それをどうするのだろう。恐ろしい想像ばかりが思考を支配する。
「立って」
腕を引かれて、わたしはふらりとよろめきながらその場に立った。脚がガクガクと震えている。書架に手をかけていないと、今にも倒れてしまいそうだった。
「さあ、こっちに来て」
彼は目の前にあったテーブルからひとつの椅子を引き出し、とんとんと叩いてみせる。ここへ座れということだろうか。
……無理だ。わたしはふるふると首を横に振る。それを見た藍達くんは、まるで幼い子どもにするように、優しい笑みを浮かべながら手招きした。
……行かない。行きたくない。
わたしはいっそう強くかぶりを振る。
「い、嫌……」
「だめだよ、それは許さない。約束したじゃないか。君には僕に貢献する義務がある」
「できないよ……そんなの嫌……無理だよ……!」
「……ねえ、羽村さん。お願いだから、僕の言うことを聞いて?」
「嫌だっ……怖いよ!」
カタカタと震えながら必死に叫んだ。
彼はひとつ大きな溜め息をつく。
そしてわたしの瞳を真正面からとらえると、まるで普段の彼からは想像もつかないような、低く恐ろしい声でこう言った。
「――ねえ、あんまり僕をいらつかせないでよ」
眼鏡の奥にある瞳に剣呑な光が宿る。
きっと逃げられない。彼は本気だ。キスをしたときから――いや、図書室に足を踏み入れたあの瞬間から、きっと引き返すことは不可能だった。
恐怖で震えるわたしの腕を引くと、彼はわたしの両手を後ろ手に回して手錠をかける。それから、押さえつけるようにわたしをその椅子へと座らせた。
……体に力が入らない。動けない。目の前にある恐怖から逃げることは許されない。
視界が白く霞んでいく。それが涙のせいだということを、頬に伝って初めて気づく。いくら泣いたってこの現状が変わるわけではない。それでも溢れ出る涙は止められない。
しゃくりあげるわたしのことなどまったく気にする様子もなく、彼は束ねられていたロープを解き、わたしの体に巻きつけ始めた。
「ま、待って……! わたしを縛りつけて……なにをする気なの……っ!?」
「…………」
「お願い……藍達くん、お願いだから教えて……っ」
なにを言ったって、彼はわたしを無視して答えない。そのあいだにも手際よくわたしの体を椅子へと縛りつけ拘束していく。
あっという間に身動きが取れなくなった。
「い、いやっ……離して、怖い……!」
「怖くないよ」
「怖いよ……怖い!」
狂ったように泣き喚くわたしに、彼はうざったそうに眉を顰めた。
「……ああ、もう」
まるで氷のような冷酷な視線が向けられる。
「本当うるさい」
彼はわたしの制服のポケットに入っていたハンカチを抜き取ると、それをわたしの口へと無理矢理押し込んだ。
突然の出来事に目を見開く。口の中に拡がる乾いた布の味が嫌で、必死に舌でハンカチを押した。けれどうまく吐き出すことができない。くぐもった声をあげながら彼に目で訴える。
「んぐっ……ンンーッ!」
そんな様子を愉しげに見ていた彼は、ゆるやかに首をか傾けながら口の端を上げて言う。
「どうしたの? 苦しい?」
「んん……ッ」
「そう。あんまり叫ぶと息ができなくなるよ」
「んう、ぅ……」
「いい子にしていたほうが自分のためだからね」
いつまで続くかわからないこの恐怖に、わたしの涙は止まらない。ぽたり、ぽたりとスカートに透明な雫が落ちていく。
間もなくして、彼が満足そうに呟いた。
「……うん、できた」
自分の体にそろそろと視線を落とす。
椅子ごと体を縛り付けられていて、一切の身動きも許されないような状態だった。無理に暴れれば、椅子もろとも倒れてしまいそうになる。
「縛られるのってどんな気持ち? これではまっちゃうかもしれないね。自縛もできるんだよ。今度教えてあげるね」
羞恥で頬が上気するのがわかる。
短い呼吸を繰り返しながら、大粒の涙を落とす。
そんなわたしを見て、藍達くんは美術品を見てこぼすような恍惚のため息を漏らした。
「綺麗だよ、羽村さん」
こんなもののどこが綺麗というのだろう。
俯瞰で自分を見たときを想像し、なんて恥ずかしくて、なんてみっともない姿なのだと思った。
いっそのこと気を失ってしまいたいとさえ思う。
「今の羽村さんは、僕が思い描いていた理想の姿だよ」
熱情に満ちた声。
全身を舐め回すような視線。
目眩がした。くらりと意識が飛んでしまいそうになった、そのとき――ようやく彼はわたしの口からハンカチを引き抜いてくれた。
けほけほと咽るわたしを、優しく抱きしめる藍達くん。
「ハンカチは取ってあげる。だからおとなしくしててね」
髪をそっと撫でてから、再び体を離す。
至近距離で目が合うと、彼はにっこりと微笑んだ。
「じゃあ始めようか」
――その一言は、まるで奈落への幕開けの合図のようだった。
窓から差し込む夕陽は、柔らかなオレンジを通り越して燃えるような赤へと変化していた。
普段人の出入りがほとんどない北校舎。いくら泣いたって、いくら叫んだって、きっと誰も来てはくれない。……そうだ。だから朋哉は別れを切り出すのにこの場所を選んだのだ。わたしが泣き喚くのを知っていて。嫌だと取り乱し叫ぶのを知っていて。
――朋哉。会いたい。話したい。助けてほしい。
「――あれ。羽村さん、今僕じゃない人のことを考えてるね」
「え……?」
伏せていた目を上げた。
眼鏡の奥の瞳が、心の中までも見透かすように、囚われたわたしをじっと見つめていた。
「僕、そういうのわかっちゃうんだよね。あーあ、僕とのお楽しみの時間に他の男のことを考えるなんて信じられないな。せっかく興奮してきたのに、萎えちゃったよ。どうしてくれるの?」
藍達くんの目が怖かった。わたしの体に触れる手が、いつ攻撃的なそれに変わるかわからない。恐ろしくて瞬きすらできなかった。
こくりと息を飲む。
「……それは……」
「考えてたよね」
「か、考えてなんか……」
「ねえ、羽村さん」
わたしを呼ぶその声に、恐る恐る彼と目を合わせた。
「嘘ついたらお仕置きだよ」
呼吸が止まってしまいそうになった。
藍達くんは口元だけに笑みを貼り付けていた。
彼は気づいていた。最初からわたしの嘘などお見通しだったのだ。わたしがなにを言ったって、きっとそれはしらじらしい空言にしか聞こえない。
これ以上、彼を怒らせたくない。嘘をついたら叱られる。……今正直に話したら、きっと許してくれるはず。
「……ご、ごめん……なさい……」
ぽつりと小さな声で謝ると、藍達くんはふうんと鼻を鳴らした。
「素直だね。僕のことを理解してくれてるんだ。さすが羽村さん」
「……ッ」
「……それで、謝るってことはやっぱり他の人を考えたんだね。その相手はやっぱり西野先輩かな?」
こくりと頷く。
わたしはずっと朋哉のことしか考えていない。今でも大好きな朋哉のことだけを想い続けている。
困ったことがあれば、すぐに助けてくれた。だからきっと、別れた今でも、朋哉は戻ってきてくれると心のどこかで信じている自分がいる。
だって朋哉は王子様だから。
わたしの彼氏だから。
諦められるわけなんてないから。
俯くわたしを見やり、彼は一度目を細めると――くちびるに指で触れ、くすりと笑った。
「じゃあ、お仕置きだね」
藍達くんは楽しげに言った。
はっとし、顔を上げる。絶望を感じた。
考えが甘かった。どうしてわからなかったのだろう。常軌を逸しているこの人に、「正直に言えば許してくれる」だなんて考えが通用するはずなどないのに。
なにを言っていたって、結局彼の思いどおりにされていた。悩んでいたわたしがばかみたいだ。少し考えればわかるはずなのに。
「……さて、と」
彼の声で、わたしは現実に引き戻される。
息を吸う。喉からヒュッと音がした。
「ま、待って……っ」
「待たない」
「こんなこと、もうやめて……!」
「やめない」
話すら聞いてもらえない。涙がじわりと滲んでいく。カタカタと震える全身を、彼の視線が這うように見据えてくる。一体わたしはこれからどんなことをされてしまうのだろう。想像もつかない。
「せめてなにをするのかだけ教えて……。痛いこと……? 苦しいこと……?」
「それ言ったらつまんないでしょ」
藍達くんはわたしの周りをぐるぐると歩き始める。
全身をすべての角度からくまなく見定められる感覚に、ぞくりと身震いをする。
ぎゅっと目を閉じ、体を強張らせるわたしを見て、彼が笑う。
「あはは。ずいぶんと怖がってるね」
この状況に似つかわしくない、楽しげな声。
歩く彼を、そっと目で追う。
「嘘、嘘。大丈夫、ちゃんとお仕置きの内容は教えてあげるよ。だからそんなに怯えた目をしないで」
慈愛に満ちたような声なのに、どこか狂気じみている。藍達くんは縛られるわたしの姿を見ながら、独り言のように言った。
「とはいえ、まだなにをしてあげるかは考えてないんだよね。そうだなあ、どんなことをしようかなあ」
ぐるぐるとわたしの周りを彼が何度もまわる。
息が乱れる。涙が溢れる。
なぜ自分が今こんな状況にあるのかがまったくわからない。わたしはただ、朋哉のことを想っていただけだったのに。なんで。どうして。
そんなことばかりを頭の中で繰り返していた。
そのとき、藍達くんがわたしの目の前で足を止める。
ゆっくりとその場にしゃがみ込むと、わたしを見上げるように顔を覗き込んだ。
「……うん、決めた」
真っ赤な夕日の光が藍達くんの瞳に反射する。
刺すような視線がわたしを射抜いたとき、彼ははっきりと口にした。
「とりあえず、気を失うまでイッてよ」
目を見張る。
まるで背筋が凍りつくような感覚を憶えた。
藍達くんの笑みに、わたしはふるふると首を横に振る。
「……い、嫌……」
「なに?」
「そんなの、嫌だ……っ」
「なんで?」
「なんでって……そんなこと、嫌に決まってる……!」
したくない。できるわけない。
震える声で、必死に拒否の言葉を口にする。
今だって、もうすでに卒倒してしまいそうなほどなのだ。そんなことまでされたら自分の体が、頭が、どうなってしまうかわからない。きっと普通ではいられなくなる。
わたしが拒絶すると、藍達くんは顎に手をあてた。
「だめ? したくない? そっか、そんなに嫌なのかぁ……」
「そ、そうだよ……。ね、だからお願い。こんなこと、もうやめてほしいの……」
「うーん、そうだなぁ……」
考えるそぶりを見せる藍達くん。
懇願すれば、あるいは解放してくれるかもしれない。一縷の望みを掛け、わたしは彼を見つめる。
……それでも彼は。
「うん、無理だね」
藍達くんは、にこりと微笑む。この行為を、衝動を、止めることはできないとはっきりと口にして。
絶望を感じた。
逃げたい。今すぐにここから逃げ出したい。
そう思っても、両腕は手錠で拘束され、全身はロープできつく縛られ、身動きひとつとれやしない。
自分でも、もうどうすればいいのかわからなくなり、まるで子どものように泣きじゃくった。
「や、やだっ……。いやああっ!」
「だからうるさいって。泣いたって誰も来やしないのに。西野先輩だって、とっくに帰っちゃったでしょ。ここにいるのは僕と君の二人だけだよ」
「やだ……っ。やだやだ……! やだやだやだやだあっ」
狂ったように泣き叫ぶ。涙がとめどなく溢れてくる。
ただのクラスメイトに、どうしてこんなに怯えなくてはならないのかわからない。わたしが一体なにをしたというのだろう。なにか気に入らないことをしてしまったのならすぐに謝るから、こんなことはもうやめてほしかった。
なのに、彼は呆れたようにわたしを見て言う。
「どうしてそんなに泣いてるのか僕にはわからないよ。たくさん気持ちよくしてもらえるんだ。嬉しいお仕置きでしょ? 違う?」
「ち、違うよ……っ」
「違わないよ」
違う。そんなのは違う。何度そう叫んでも、彼にはいっさい届かない。
もうなにをしても逃げられないのだろうか。もうなにをしてもむだなのだろうか。じわり、じわりと、心が絶望の闇に蝕まれていく。それでもまだ、わたしはこの現実に抗いたかった。こんなのは夢だって信じたかった。だから彼の言葉には耳を貸さず、ただひたすらに首を振って、目の前の光景から逃げていた。
「あのさ、自分が置かれてる状況わかってる? どんなに嫌だって叫んでも、君はもう逃げられない。誰も助けに来ない。……君がしてることは全部無意味なんだよ」
藍達くんはそう言って薄く笑った。制服に落ちた涙がじわりと滲んで消える。
彼の言うとおり、もう誰も助けに来ない。わたしはどこにも逃げられない。……このまますべてを受け入れるしか方法はないのだろうか。
おとなしくなったわたしを見て、藍達くんは満足そうに微笑むと、ゆっくりとその場に立ち上がった。
それは、まるで始まりの合図のようで――。
くらくらする頭で、先ほどの藍達くんの言葉を思い返した。
『――全部、僕が埋めてあげる』
本当にそんなことができるのだろうか。
朋哉につけられたこの深い傷を。
なにも知らない藍達くんが。
……そんなの無理だ。藍達くんにできるわけ――否、他の誰にもできるわけがない。朋哉に傷つけられたこの心は、きっと朋哉にしか癒せない。
「ん、んぅ、はぁ……ッふ、ぅ」
鎖骨や胸に雨のように降り注いでいたキスは、気づけばくちびるへと移っていた。
始めは軽く、優しく、確かめるように触れていたけれど、それは徐々に激しさを増していく。噛みつくような強い口づけに変わると、脳がくらりと揺さぶられる感覚に見舞われた。
「んっ……は、ァ……やぁ……」
「……羽村さん、もっと僕を求めて」
くちびるの隙間から漏れる彼の声は、まるで蜜をたっぷりと含んだように甘い。
傷をつけて上書きするなんて言っておきながら、実際に彼がするのは驚くほどに心地の良いキスだ。
朋哉と別れてぽっかり空いた心の穴は、そう簡単には埋まらないと思っていたけれど……藍達くんとくちびるを合わせていると、朋哉のことを忘れられる瞬間がある。
……気持ちいい。
「……気持ちよさそうな顔をしてるね」
くすりと笑う声。
本心を見透かされている。
彼のキスに酔っていることを、気づかれている。
「いいよ、もっとしてあげる」
まるで媚薬だ。
その声は、言葉は、仕草は、すべて燃えるような熱となって、正常な思考までもとろりと溶かしてしまう。
なにもかもを忘れさせてくれるようなキス。朋哉とのことを過去にしてくれるようなキス。こんなことは初めてで、脳内をぐらぐら揺さぶられる。いけないこととわかってはいても、やめられなくなる。理性と本能のあいだで押し潰され、どうにかなってしまいそうだった。
「キス、好きなの?」
「……ん、んぅ……」
「かわいいね。舌吸ってあげる」
ちゅくちゅくと音を立て、赤子がミルクを飲むように吸われる。舌先がぴりぴりと痺れて、藍達くんからの口づけに翻弄される。
キスは今まで付き合ってきた人たちとした。多くはないけど、少なくもない人数だ。それでも、その上手下手の違いがどんなものかは正直全然わからなかった。ただくちびるを合わせて舌を絡めるだけの行為に、大きな違いなんて見いだせなかった。
……でも、今ならわかる。
藍達くんはキスが上手だ。
キスだけで体も脳内もとろとろに溶かされる。気持ちいいと思う。このままずっとこうしていたいと思ってしまうくらいには……彼のキスに夢中になっていた。
でも、どこでこんなテクニックを培ったのだろう。
一見すると藍達くんは童貞ぽい。遊んでいるようにはまったく見えないし、正直彼女がいるようにも見えない。それなのに、どうしてこんなにも相手を翻弄させるキスができるのだろう。
……ああ、そうだ。人は見た目で判断してはいけないと、ついさっき彼から学んだばかりだった。
わたしたちが知らないところで、きっと藍達くんは――。
「ちょっと待っててね」
ふいにくちびるを離される。
藍達くんはわたしの頭をひと撫でし、おもむろに立ち上がった。
密着していた体を離されると、火照った体温がすうっと冷えていく。その感覚に寂しさを覚え、もっと抱き合いたいという思いが芽生えて、慌てて掻き消した。あんなに朋哉だけがいいと言っていたのに、そういった考えが一瞬でも浮かぶのが信じられない。
……藍達くんには傷を癒せないと、あんなに強く思っていたのに。
ちらりと彼のほうを見る。藍達くんはカウンターへと足を運び、引き出しを開けてなにかを探しているようだった。それからすぐに目的のものを見つけ出したのか、彼はなにかを手にしてこちらへ戻ってきた。
「……え……?」
目を疑った。
藍達くんが持っているものを見て、驚愕と動揺を隠しきれなかった。
「お待たせ、羽村さん」
目の前まで来ると、書架を背に座り込むわたしを見下ろし藍達くんが口角を上げてにっこりと笑う。
冗談だとしても、わたしはそんなふうに笑えなかった。
「あ、藍達くん……それって……」
わたしの怯える表情を見て、彼はさらに笑みを深くさせる。
そしてひどく愉しげな声で、一言囁いた。
「これはね、羽村さんを悦ばせる道具だよ」
ロープの束と手錠だった。
全身がぞくりと恐怖心に包まれる。背中に、つうっと汗が伝った。一体それをどうするのだろう。恐ろしい想像ばかりが思考を支配する。
「立って」
腕を引かれて、わたしはふらりとよろめきながらその場に立った。脚がガクガクと震えている。書架に手をかけていないと、今にも倒れてしまいそうだった。
「さあ、こっちに来て」
彼は目の前にあったテーブルからひとつの椅子を引き出し、とんとんと叩いてみせる。ここへ座れということだろうか。
……無理だ。わたしはふるふると首を横に振る。それを見た藍達くんは、まるで幼い子どもにするように、優しい笑みを浮かべながら手招きした。
……行かない。行きたくない。
わたしはいっそう強くかぶりを振る。
「い、嫌……」
「だめだよ、それは許さない。約束したじゃないか。君には僕に貢献する義務がある」
「できないよ……そんなの嫌……無理だよ……!」
「……ねえ、羽村さん。お願いだから、僕の言うことを聞いて?」
「嫌だっ……怖いよ!」
カタカタと震えながら必死に叫んだ。
彼はひとつ大きな溜め息をつく。
そしてわたしの瞳を真正面からとらえると、まるで普段の彼からは想像もつかないような、低く恐ろしい声でこう言った。
「――ねえ、あんまり僕をいらつかせないでよ」
眼鏡の奥にある瞳に剣呑な光が宿る。
きっと逃げられない。彼は本気だ。キスをしたときから――いや、図書室に足を踏み入れたあの瞬間から、きっと引き返すことは不可能だった。
恐怖で震えるわたしの腕を引くと、彼はわたしの両手を後ろ手に回して手錠をかける。それから、押さえつけるようにわたしをその椅子へと座らせた。
……体に力が入らない。動けない。目の前にある恐怖から逃げることは許されない。
視界が白く霞んでいく。それが涙のせいだということを、頬に伝って初めて気づく。いくら泣いたってこの現状が変わるわけではない。それでも溢れ出る涙は止められない。
しゃくりあげるわたしのことなどまったく気にする様子もなく、彼は束ねられていたロープを解き、わたしの体に巻きつけ始めた。
「ま、待って……! わたしを縛りつけて……なにをする気なの……っ!?」
「…………」
「お願い……藍達くん、お願いだから教えて……っ」
なにを言ったって、彼はわたしを無視して答えない。そのあいだにも手際よくわたしの体を椅子へと縛りつけ拘束していく。
あっという間に身動きが取れなくなった。
「い、いやっ……離して、怖い……!」
「怖くないよ」
「怖いよ……怖い!」
狂ったように泣き喚くわたしに、彼はうざったそうに眉を顰めた。
「……ああ、もう」
まるで氷のような冷酷な視線が向けられる。
「本当うるさい」
彼はわたしの制服のポケットに入っていたハンカチを抜き取ると、それをわたしの口へと無理矢理押し込んだ。
突然の出来事に目を見開く。口の中に拡がる乾いた布の味が嫌で、必死に舌でハンカチを押した。けれどうまく吐き出すことができない。くぐもった声をあげながら彼に目で訴える。
「んぐっ……ンンーッ!」
そんな様子を愉しげに見ていた彼は、ゆるやかに首をか傾けながら口の端を上げて言う。
「どうしたの? 苦しい?」
「んん……ッ」
「そう。あんまり叫ぶと息ができなくなるよ」
「んう、ぅ……」
「いい子にしていたほうが自分のためだからね」
いつまで続くかわからないこの恐怖に、わたしの涙は止まらない。ぽたり、ぽたりとスカートに透明な雫が落ちていく。
間もなくして、彼が満足そうに呟いた。
「……うん、できた」
自分の体にそろそろと視線を落とす。
椅子ごと体を縛り付けられていて、一切の身動きも許されないような状態だった。無理に暴れれば、椅子もろとも倒れてしまいそうになる。
「縛られるのってどんな気持ち? これではまっちゃうかもしれないね。自縛もできるんだよ。今度教えてあげるね」
羞恥で頬が上気するのがわかる。
短い呼吸を繰り返しながら、大粒の涙を落とす。
そんなわたしを見て、藍達くんは美術品を見てこぼすような恍惚のため息を漏らした。
「綺麗だよ、羽村さん」
こんなもののどこが綺麗というのだろう。
俯瞰で自分を見たときを想像し、なんて恥ずかしくて、なんてみっともない姿なのだと思った。
いっそのこと気を失ってしまいたいとさえ思う。
「今の羽村さんは、僕が思い描いていた理想の姿だよ」
熱情に満ちた声。
全身を舐め回すような視線。
目眩がした。くらりと意識が飛んでしまいそうになった、そのとき――ようやく彼はわたしの口からハンカチを引き抜いてくれた。
けほけほと咽るわたしを、優しく抱きしめる藍達くん。
「ハンカチは取ってあげる。だからおとなしくしててね」
髪をそっと撫でてから、再び体を離す。
至近距離で目が合うと、彼はにっこりと微笑んだ。
「じゃあ始めようか」
――その一言は、まるで奈落への幕開けの合図のようだった。
窓から差し込む夕陽は、柔らかなオレンジを通り越して燃えるような赤へと変化していた。
普段人の出入りがほとんどない北校舎。いくら泣いたって、いくら叫んだって、きっと誰も来てはくれない。……そうだ。だから朋哉は別れを切り出すのにこの場所を選んだのだ。わたしが泣き喚くのを知っていて。嫌だと取り乱し叫ぶのを知っていて。
――朋哉。会いたい。話したい。助けてほしい。
「――あれ。羽村さん、今僕じゃない人のことを考えてるね」
「え……?」
伏せていた目を上げた。
眼鏡の奥の瞳が、心の中までも見透かすように、囚われたわたしをじっと見つめていた。
「僕、そういうのわかっちゃうんだよね。あーあ、僕とのお楽しみの時間に他の男のことを考えるなんて信じられないな。せっかく興奮してきたのに、萎えちゃったよ。どうしてくれるの?」
藍達くんの目が怖かった。わたしの体に触れる手が、いつ攻撃的なそれに変わるかわからない。恐ろしくて瞬きすらできなかった。
こくりと息を飲む。
「……それは……」
「考えてたよね」
「か、考えてなんか……」
「ねえ、羽村さん」
わたしを呼ぶその声に、恐る恐る彼と目を合わせた。
「嘘ついたらお仕置きだよ」
呼吸が止まってしまいそうになった。
藍達くんは口元だけに笑みを貼り付けていた。
彼は気づいていた。最初からわたしの嘘などお見通しだったのだ。わたしがなにを言ったって、きっとそれはしらじらしい空言にしか聞こえない。
これ以上、彼を怒らせたくない。嘘をついたら叱られる。……今正直に話したら、きっと許してくれるはず。
「……ご、ごめん……なさい……」
ぽつりと小さな声で謝ると、藍達くんはふうんと鼻を鳴らした。
「素直だね。僕のことを理解してくれてるんだ。さすが羽村さん」
「……ッ」
「……それで、謝るってことはやっぱり他の人を考えたんだね。その相手はやっぱり西野先輩かな?」
こくりと頷く。
わたしはずっと朋哉のことしか考えていない。今でも大好きな朋哉のことだけを想い続けている。
困ったことがあれば、すぐに助けてくれた。だからきっと、別れた今でも、朋哉は戻ってきてくれると心のどこかで信じている自分がいる。
だって朋哉は王子様だから。
わたしの彼氏だから。
諦められるわけなんてないから。
俯くわたしを見やり、彼は一度目を細めると――くちびるに指で触れ、くすりと笑った。
「じゃあ、お仕置きだね」
藍達くんは楽しげに言った。
はっとし、顔を上げる。絶望を感じた。
考えが甘かった。どうしてわからなかったのだろう。常軌を逸しているこの人に、「正直に言えば許してくれる」だなんて考えが通用するはずなどないのに。
なにを言っていたって、結局彼の思いどおりにされていた。悩んでいたわたしがばかみたいだ。少し考えればわかるはずなのに。
「……さて、と」
彼の声で、わたしは現実に引き戻される。
息を吸う。喉からヒュッと音がした。
「ま、待って……っ」
「待たない」
「こんなこと、もうやめて……!」
「やめない」
話すら聞いてもらえない。涙がじわりと滲んでいく。カタカタと震える全身を、彼の視線が這うように見据えてくる。一体わたしはこれからどんなことをされてしまうのだろう。想像もつかない。
「せめてなにをするのかだけ教えて……。痛いこと……? 苦しいこと……?」
「それ言ったらつまんないでしょ」
藍達くんはわたしの周りをぐるぐると歩き始める。
全身をすべての角度からくまなく見定められる感覚に、ぞくりと身震いをする。
ぎゅっと目を閉じ、体を強張らせるわたしを見て、彼が笑う。
「あはは。ずいぶんと怖がってるね」
この状況に似つかわしくない、楽しげな声。
歩く彼を、そっと目で追う。
「嘘、嘘。大丈夫、ちゃんとお仕置きの内容は教えてあげるよ。だからそんなに怯えた目をしないで」
慈愛に満ちたような声なのに、どこか狂気じみている。藍達くんは縛られるわたしの姿を見ながら、独り言のように言った。
「とはいえ、まだなにをしてあげるかは考えてないんだよね。そうだなあ、どんなことをしようかなあ」
ぐるぐるとわたしの周りを彼が何度もまわる。
息が乱れる。涙が溢れる。
なぜ自分が今こんな状況にあるのかがまったくわからない。わたしはただ、朋哉のことを想っていただけだったのに。なんで。どうして。
そんなことばかりを頭の中で繰り返していた。
そのとき、藍達くんがわたしの目の前で足を止める。
ゆっくりとその場にしゃがみ込むと、わたしを見上げるように顔を覗き込んだ。
「……うん、決めた」
真っ赤な夕日の光が藍達くんの瞳に反射する。
刺すような視線がわたしを射抜いたとき、彼ははっきりと口にした。
「とりあえず、気を失うまでイッてよ」
目を見張る。
まるで背筋が凍りつくような感覚を憶えた。
藍達くんの笑みに、わたしはふるふると首を横に振る。
「……い、嫌……」
「なに?」
「そんなの、嫌だ……っ」
「なんで?」
「なんでって……そんなこと、嫌に決まってる……!」
したくない。できるわけない。
震える声で、必死に拒否の言葉を口にする。
今だって、もうすでに卒倒してしまいそうなほどなのだ。そんなことまでされたら自分の体が、頭が、どうなってしまうかわからない。きっと普通ではいられなくなる。
わたしが拒絶すると、藍達くんは顎に手をあてた。
「だめ? したくない? そっか、そんなに嫌なのかぁ……」
「そ、そうだよ……。ね、だからお願い。こんなこと、もうやめてほしいの……」
「うーん、そうだなぁ……」
考えるそぶりを見せる藍達くん。
懇願すれば、あるいは解放してくれるかもしれない。一縷の望みを掛け、わたしは彼を見つめる。
……それでも彼は。
「うん、無理だね」
藍達くんは、にこりと微笑む。この行為を、衝動を、止めることはできないとはっきりと口にして。
絶望を感じた。
逃げたい。今すぐにここから逃げ出したい。
そう思っても、両腕は手錠で拘束され、全身はロープできつく縛られ、身動きひとつとれやしない。
自分でも、もうどうすればいいのかわからなくなり、まるで子どものように泣きじゃくった。
「や、やだっ……。いやああっ!」
「だからうるさいって。泣いたって誰も来やしないのに。西野先輩だって、とっくに帰っちゃったでしょ。ここにいるのは僕と君の二人だけだよ」
「やだ……っ。やだやだ……! やだやだやだやだあっ」
狂ったように泣き叫ぶ。涙がとめどなく溢れてくる。
ただのクラスメイトに、どうしてこんなに怯えなくてはならないのかわからない。わたしが一体なにをしたというのだろう。なにか気に入らないことをしてしまったのならすぐに謝るから、こんなことはもうやめてほしかった。
なのに、彼は呆れたようにわたしを見て言う。
「どうしてそんなに泣いてるのか僕にはわからないよ。たくさん気持ちよくしてもらえるんだ。嬉しいお仕置きでしょ? 違う?」
「ち、違うよ……っ」
「違わないよ」
違う。そんなのは違う。何度そう叫んでも、彼にはいっさい届かない。
もうなにをしても逃げられないのだろうか。もうなにをしてもむだなのだろうか。じわり、じわりと、心が絶望の闇に蝕まれていく。それでもまだ、わたしはこの現実に抗いたかった。こんなのは夢だって信じたかった。だから彼の言葉には耳を貸さず、ただひたすらに首を振って、目の前の光景から逃げていた。
「あのさ、自分が置かれてる状況わかってる? どんなに嫌だって叫んでも、君はもう逃げられない。誰も助けに来ない。……君がしてることは全部無意味なんだよ」
藍達くんはそう言って薄く笑った。制服に落ちた涙がじわりと滲んで消える。
彼の言うとおり、もう誰も助けに来ない。わたしはどこにも逃げられない。……このまますべてを受け入れるしか方法はないのだろうか。
おとなしくなったわたしを見て、藍達くんは満足そうに微笑むと、ゆっくりとその場に立ち上がった。
それは、まるで始まりの合図のようで――。
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