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休息

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  (腹が減った。)
  あの後結局何も食べずに市場を歩き回って親父おやじからの仕事を済まし旅籠はたごに戻ったがどうしても腹の虫が収まらず、気分転換にと愛馬に飛び乗って遠乗りに出かけた。
  無論、親父達が帰る頃には間に合う範囲でだ。

  だが、もう秋と言っても差支えない季節にも関わらず赫奕と大地を照らす太陽から放たれる熱気により空気は揺らぎ、降り注ぐ光は白嬰の黒々とした髪や首筋やまくった腕を焼き影をも焦がさんばかりである。
  炎天下と言っても差支えない。
  自分の苛立ちがさらに増してきているのが分かる。
あまりの暑さに愛馬の華淑もへばってしまっている。

  華淑は白嬰が生まれた時に家にやってきた雄馬おうまで何をする時もずっと一緒なほど仲がいい。
  共に生まれ育ったためかお互いの心がわかる、母のいない白嬰にとっては家族のような存在なのだ。
 

  ちなみに、茶房は華淑よりずっと前から家にいて親父と共に店を切り盛りしてきたいわば右腕的な人物で幼い頃からよく遊んでもらっていた。
  親父とは古い付き合いのようだがそこら辺は親父に聞いてもはぐらかされるためよくわかっていない。
  まぁ、深く詮索しようとも思わないが。
 
 
  「頑張れ華淑!後もう少しだ。」
  そう言って持ってきた水を華淑にかけてやりついでに自分の頭にもかける。
  すっかり温くなった水は頭から首筋を伝っていきこそばゆい感じがしたと思ったらすぐに乾いてしまう。
  だが少し涼しくなったような気がする。
 
  (それにしても…)
  先ほどまで曇くもっていたのに町から出た途端空に黒い帳を垂らしていた雲がかき消え白い太陽が顔をだした。
  何やら不吉な兆しに思えてならない。
  自分が空腹やら何やらでとても苛立っているせいなのかもしれないが。
 
 

  街道の脇道を逸れ疎らに生えた木々の間を縫うように進んでいくと黒々とした口をぽっかりと開けた森の入り口にたどり着く。
  ここを抜ければもうすぐだ。
  森の中は樹々が生い茂り所々に穏やかな緑を発する苔がむしている。
  葉が形作る 天蓋てんがいから漏れ出た木洩れ日が森の遍《あまね》く生命に優しいスポットライトを当て周囲から奏でられる鳥の囀さえずりや川のせせらぎが暖かく白嬰を包み込む。
 
 
  暫く行ったところで白く輝く壁が見えそこを抜けるとようやく目的地にたどり着いた。
  まず目につくのは光を反射し翡翠の如き艶を放つ紺青の泉でその周囲を青々とした芝生が囲んでおりそのまた周囲を深い緑が囲んでいる。
  空から俯瞰すればまるでそれぞれ大きさと色が違う三つの輪が重なり合っているように見えるだろう。
 
  ここは以前白圭と白嬰が道に迷った際偶然見つけた場所で地元の人たちですら知らない二人だけの秘密の場所なのだ。
  おっと、華淑も入れたら三人か。
  白嬰は初めて見た時からこの場所に心を奪われそれ以来機会があるたびに必ずここを訪れる。
 
  白嬰は火に引き寄せられる虫のようにふらふらと泉の側に近づき水を掬いゴクリと飲み干した。
  …美味い
  冷たく透き通った水が乾ききった体の隅々まで染み渡るようだ。
  華淑も首を突っ込んで夢中になって飲んでいる。
  白嬰はもう一杯おかわりした後護身用の剣を外し服を脱いで下着だけとなり泉に飛び込んだ。
  汗みずくとなった体を洗い流しついでに絞れるほど濡れていた服も洗濯する。
 

  それから暫く泳いだ後持ってきた布で体を拭き森の茂みが芝生を覆い陰となっている涼しいところで花の蜜を吸い腹を満たしたらそのままごろんと仰向けに寝転んだ。
  風が吹くたびに草木がさわさわと揺れ、えもいえぬ心地よい清涼感が身体中を駆け巡る。
  殺伐《さつばつ》とした戦乱の狂騒と隔離された別世界としか思えぬ神秘的な雰囲気に思わず気が緩みなんだか眠気がしてきた。
  都の喧騒けんそうも悪くないが白嬰はやはり森林の静寂せいじゃくの方がすきだった。
  暫くウトウトしていた白嬰の意識は微睡《まどろみ》の淵へと落ちて行った。
 
  これが彼の人生最後の安息になるともしらないで。
 
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