上 下
10 / 13

10話 真っ白な君はもういない

しおりを挟む
 私に寝室から追い出されたのが相当こたえたのか、しろは今朝、私が起きる前に家を出て行ったようだ。
 早めにバイトに行った……だけだと思うが、もう帰ってこないかもしれない。
 昨日どうしたらよかったんだろう。しろの言うとおりに引っ越しを了承していたら丸く収まったのかな。

 少しの後悔と不安を抱えながら玄関の鍵を開ける。

「ただいまー」

 おかえりが返ってこない静かな玄関。しろのスニーカーはまだなかった。
 普段なら私より先に帰宅し、夕飯を作り始めている時間だ。やっぱりもう帰ってこないのかもしれないな。
 一人ぼっちの玄関にため息が溶けて、この静けさに妙な胸騒ぎがした。

 "しろ"の出迎えがない。
 しろの膝の上にいないなら甘えんぼうの小猫は鈴の音を鳴らしながら駆け寄ってくるはずなのに……。

「……しろ? しろどこ? どこに隠れてるの? ねぇ、出てきてよ! しろ、しろ!」

 しろがいない。こんなこと初めてだった。どんどん不安が募る。
 引き出しの中から冷蔵庫の裏まで確認しながら家中探し回っていると、リビングのカーテンが揺れていることに気付いた。

「しろ!……あ……」

 ベランダに続く窓が開いている。ちょうどしろが通れるだけの隙間だった。
 慌てて出たベランダにもしろの姿はない。ここは二階だ。猫ならひととびで地面へと降りられるかもしれないし、外壁の配管を伝っていくことも可能だろう。

 目の前が真っ暗になるような感覚。思わずしゃがみこんだ私の頭上で、二人分の洗濯物が風に揺れている。
 仕事へ行く前に洗濯物を干したのは私だ。窓を閉め忘れたの? 気を付けていたのに、そんな、まさか。
 しろに外を出歩かせたことはないのだ。何もわからないまま道路へと飛び出し、車に轢かれる絶望の光景が目に見えるようだった。

「や、やだ……っ、しろを探しに行かなくちゃ!」
「……しろならここにいるよ」

 立ち上がろうとした私の背後から腕が巻き付いてきた。そのまま背中に感じる熱。

「しろ帰ってきたんだね。大変なの! しろがいなくなったの。すぐに探そう。しろも手伝ってよ。お願い!!」
「だから、しろならいるでしょ」
「え?」
「しろはここにいる」

 両頬に手が添えられている。すぐにでも"しろ"を探しに行きたいのに私の視線は強制的に目の前のしろへと向けさせられていた。

「何言ってるの!? 猫のしろが窓から出ていっちゃったんだよ。早く見つけなくちゃ!」
「うん。また置いていかれて辛かったね。でも大丈夫。大丈夫だよ。お姉さんには俺がいるからさ。何も心配いらないよ」
「だから何を言って……」

 もしかしたらしろは出ていったばかりかもしれない。こんなことをしている場合じゃないのだ。
 一刻を争う緊迫した状況のなか、私の話に聞く耳を持たずあやすように髪と背中を撫でてくるしろが不気味に思える。

「ああ、よかった。これで心置きなく引っ越しができるね」
「っ!」

 極めつけに穏やかな声で告げられた言葉……私はしろの異常さに全身の毛が逆立つような恐怖を感じていた。

――本当に私が窓を閉め忘れたのだろうか?





 しろがいなくなってから一週間――
 然るべき場所に迷子の届け出をし、近所に張り紙を貼らせてもらい、ツイッターでも拡散願いをし、毎日仕事終わりに範囲を広げて探し回っているが、しろは見付かっていない。

「ツイッター見てるの?」
「うん……目撃情報もないみたい……」
「そっか。残念だね」

 しろが今どうしているか考えたら生きた心地がしない。この一週間ほとんど眠れず、ご飯もろくに口にしないで沈みこんでいる私の横で、しろはあろうことか賃貸物件サイトをチェックしていた。
 弾んだ声で「ここなんてどう?」とペット不可物件のページを見せられる度にしろへの疑惑は強まってくる。

「しろ、」

――しろが逃がしたの? 私の可愛い"しろ"をどこへやったの?

 喉元まで出かかった言葉を今日も私は飲み込んだ。
 しろを疑うだなんてどうかしている。しろだって毎日バイト帰りに懸命に探してくれているのだ。しろが変に明るく見えるのは塞ぎ込んでいる私を心配し、励まそうとしてくれているだけだ。

「お姉さん、大丈夫だよ。俺はお姉さんを置いて突然いなくなったりしないよ。前に書き置きをして出ていった日だって自分からお姉さんの元に帰ってきたでしょう? 俺もね、お姉さんがいないと駄目みたいなんだ」
「うん……しろ、生きてるよね……」
「きっと生きてるよ。お姉さんが良い子にしてたらまた会えるんじゃないかな」
「うん……」

 つまるところ私は怖いのだ。
 私の隣にいてくれる優しい彼が、もしかしたら……と考えることが。このことを追及して彼までいなくなり、一人きりになってしまうことが恐ろしかった。

「しろ、しろ……」
「ねぇ、花澄。俺の名前を呼んでくれる?」
「え、しろ……?」

 しろが私の名前を呼ぶのは珍しい。最近はベッドを共にしていないが、それこそ私を抱く時しか呼ぶことはない。
 ツイッターの迷子猫の情報から顔を上げると、しろが口を開く。

「"ましろ" 真っ白って書いて真白。俺の本名だよ。そう呼んで」
「……真白。良い、名前だね」

 決して嘘ではなかった。しかし、今一番会いたい真っ白な毛並みの"しろ"のことがまた頭に浮かんでしまったから、私の言葉は心がこもっていないように聞こえたのかもしれない。
 しろはあまり見せたことがない、寂しそうな笑みを浮かべた。

「……真っ白ってさ、なんにでも染まることができるっていうけど、それって中身がないのと一緒。俺は名前の通り、自分ってもんがなかった」
「そ、そんなことないよ。真白って素敵な名前だと思うよ」
「……どうかな。けど、いいんだー。お姉さんといるとね、俺は真っ白じゃないから。流れに身を任せるんじゃなくてさ、お姉さんのためなら必死になれるの。なんか、恋に人生とか賭けてるバカの気持ちが少しわかるなあ」

 しなだれかかってくるしろの体を受け止めながら、私は告白の返事を考えていた。
 しろのこと、まだまだ何も知らない。けれど、自分から名前を明かしてくれた。知らないならこれからもっと知っていけばいい。
 しろとだったら年の差も乗り越えていけるだろうか。
 出会いのきっかけがツイッターの神待ちだなんて間違っている……でも、それが運命の出会いだったと思える日がいつか来るのだろうか?


 二週間が経った。白猫のしろはまだ帰ってこないが、私はしろのおかげで少しずつ元気を取り戻していた。

 アヤサカデンキの事務所で業務をこなしていると応接室に呼び出された。
 詳細は聞かされていないが本社からの来客だという。応接室では店長が来客相手に愛想笑いを浮かべている。
 相手は私も知っている人だった……アヤサカデンキの代表取締役社長、礼坂一臣だ。

 席を外すように言われた店長はすれ違いざま「何をやらかしたんだ」と目で訴えてきたが、私だって聞きたい。
 忙しい社長が私のような店舗勤務の平社員と個人面談をしに来る理由に全く心当たりがなかったからだ。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

最後の恋って、なに?~Happy wedding?~

氷萌
恋愛
彼との未来を本気で考えていた――― ブライダルプランナーとして日々仕事に追われていた“棗 瑠歌”は、2年という年月を共に過ごしてきた相手“鷹松 凪”から、ある日突然フラれてしまう。 それは同棲の話が出ていた矢先だった。 凪が傍にいて当たり前の生活になっていた結果、結婚の機を完全に逃してしまい更に彼は、同じ職場の年下と付き合った事を知りショックと動揺が大きくなった。 ヤケ酒に1人酔い潰れていたところ、偶然居合わせた上司で支配人“桐葉李月”に介抱されるのだが。 実は彼、厄介な事に大の女嫌いで―― 元彼を忘れたいアラサー女と、女嫌いを克服したい35歳の拗らせ男が織りなす、恋か戦いの物語―――――――

10 sweet wedding

国樹田 樹
恋愛
『十年後もお互い独身だったら、結婚しよう』 そんな、どこかのドラマで見た様な約束をした私達。 けれど十年後の今日、私は彼の妻になった。 ……そんな二人の、式後のお話。

完結*三年も付き合った恋人に、家柄を理由に騙されて捨てられたのに、名家の婚約者のいる御曹司から溺愛されました。

恩田璃星
恋愛
清永凛(きよなが りん)は平日はごく普通のOL、土日のいずれかは交通整理の副業に励む働き者。 副業先の上司である夏目仁希(なつめ にき)から、会う度に嫌味を言われたって気にしたことなどなかった。 なぜなら、凛には付き合って三年になる恋人がいるからだ。 しかし、そろそろプロポーズされるかも?と期待していたある日、彼から一方的に別れを告げられてしまいー!? それを機に、凛の運命は思いも寄らない方向に引っ張られていく。 果たして凛は、両親のように、愛の溢れる家庭を築けるのか!? *この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。 *不定期更新になることがあります。

二人の甘い夜は終わらない

藤谷藍
恋愛
*この作品の書籍化がアルファポリス社で現在進んでおります。正式に決定しますと6月13日にこの作品をウェブから引き下げとなりますので、よろしくご了承下さい* 年齢=恋人いない歴28年。多忙な花乃は、昔キッパリ振られているのに、初恋の彼がずっと忘れられない。いまだに彼を想い続けているそんな誕生日の夜、彼に面影がそっくりな男性と出会い、夢心地のまま酔った勢いで幸せな一夜を共に––––、なのに、初めての朝チュンでパニックになり、逃げ出してしまった。甘酸っぱい思い出のファーストラブ。幻の夢のようなセカンドラブ。優しい彼には逢うたびに心を持っていかれる。今も昔も、過剰なほど甘やかされるけど、この歳になって相変わらずな子供扱いも! そして極甘で強引な彼のペースに、花乃はみるみる絡め取られて……⁈ ちょっぴり個性派、花乃の初恋胸キュンラブです。

【完結】育てた後輩を送り出したらハイスペになって戻ってきました

藤浪保
恋愛
大手IT会社に勤める早苗は会社の歓迎会でかつての後輩の桜木と再会した。酔っ払った桜木を家に送った早苗は押し倒され、キスに翻弄されてそのまま関係を持ってしまう。 次の朝目覚めた早苗は前夜の記憶をなくし、関係を持った事しか覚えていなかった。

一夜限りのお相手は

栗原さとみ
恋愛
私は大学3年の倉持ひより。サークルにも属さず、いたって地味にキャンパスライフを送っている。大学の図書館で一人読書をしたり、好きな写真のスタジオでバイトをして過ごす毎日だ。ある日、アニメサークルに入っている友達の亜美に頼みごとを懇願されて、私はそれを引き受けてしまう。その事がきっかけで思いがけない人と思わぬ展開に……。『その人』は、私が尊敬する写真家で憧れの人だった。R5.1月

涙溢れて、恋開く。

美並ナナ
恋愛
長年の叶わぬ恋に苦しむ小日向詩織は、 ある日決定的な出来事によって心が掻き乱され、 耐えきれずに海外へ一人旅にでる。 そこで偶然に出会ったのは、 気さくで明るい容姿端麗な日本人の男性。 悲しみを忘れたい一心で、 詩織は“あの人”と同い年のカレと一夜を共にし、 ”初めて”を捧げてしまう。 きっと楽になれる、そう思ったはずだったのに、 残ったのは虚しさだけ。 やっぱり”あの人”にしか心が動かないと痛感し、 その場をそっと立ち去った。 帰国後、知人の紹介で転職した詩織は、 新しい職場で一夜を共にしたカレと再会することに。 しかもカレはその会社の社長だったーー! 叶わぬ恋を拗らせた主人公の 一夜の過ちから始まるラブストーリー。 ※この作品はエブリスタ様、ムーンライトノベルズ様でも掲載しています。

【完結】maybe 恋の予感~イジワル上司の甘いご褒美~

蓮美ちま
恋愛
会社のなんでも屋さん。それが私の仕事。 なのに突然、企画部エースの補佐につくことになって……?! アイドル顔負けのルックス 庶務課 蜂谷あすか(24) × 社内人気NO.1のイケメンエリート 企画部エース 天野翔(31) 「会社のなんでも屋さんから、天野さん専属のなんでも屋さんってこと…?」 女子社員から妬まれるのは面倒。 イケメンには関わりたくないのに。 「お前は俺専属のなんでも屋だろ?」 イジワルで横柄な天野さんだけど、仕事は抜群に出来て人望もあって 人を思いやれる優しい人。 そんな彼に認められたいと思う反面、なかなか素直になれなくて…。 「私、…役に立ちました?」 それなら…もっと……。 「褒めて下さい」 もっともっと、彼に認められたい。 「もっと、褒めて下さ…っん!」 首の後ろを掬いあげられるように掴まれて 重ねた唇は煙草の匂いがした。 「なぁ。褒めて欲しい?」 それは甘いキスの誘惑…。

処理中です...