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10話 真っ白な君はもういない
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私に寝室から追い出されたのが相当こたえたのか、しろは今朝、私が起きる前に家を出て行ったようだ。
早めにバイトに行った……だけだと思うが、もう帰ってこないかもしれない。
昨日どうしたらよかったんだろう。しろの言うとおりに引っ越しを了承していたら丸く収まったのかな。
少しの後悔と不安を抱えながら玄関の鍵を開ける。
「ただいまー」
おかえりが返ってこない静かな玄関。しろのスニーカーはまだなかった。
普段なら私より先に帰宅し、夕飯を作り始めている時間だ。やっぱりもう帰ってこないのかもしれないな。
一人ぼっちの玄関にため息が溶けて、この静けさに妙な胸騒ぎがした。
"しろ"の出迎えがない。
しろの膝の上にいないなら甘えんぼうの小猫は鈴の音を鳴らしながら駆け寄ってくるはずなのに……。
「……しろ? しろどこ? どこに隠れてるの? ねぇ、出てきてよ! しろ、しろ!」
しろがいない。こんなこと初めてだった。どんどん不安が募る。
引き出しの中から冷蔵庫の裏まで確認しながら家中探し回っていると、リビングのカーテンが揺れていることに気付いた。
「しろ!……あ……」
ベランダに続く窓が開いている。ちょうどしろが通れるだけの隙間だった。
慌てて出たベランダにもしろの姿はない。ここは二階だ。猫ならひととびで地面へと降りられるかもしれないし、外壁の配管を伝っていくことも可能だろう。
目の前が真っ暗になるような感覚。思わずしゃがみこんだ私の頭上で、二人分の洗濯物が風に揺れている。
仕事へ行く前に洗濯物を干したのは私だ。窓を閉め忘れたの? 気を付けていたのに、そんな、まさか。
しろに外を出歩かせたことはないのだ。何もわからないまま道路へと飛び出し、車に轢かれる絶望の光景が目に見えるようだった。
「や、やだ……っ、しろを探しに行かなくちゃ!」
「……しろならここにいるよ」
立ち上がろうとした私の背後から腕が巻き付いてきた。そのまま背中に感じる熱。
「しろ帰ってきたんだね。大変なの! しろがいなくなったの。すぐに探そう。しろも手伝ってよ。お願い!!」
「だから、しろならいるでしょ」
「え?」
「しろはここにいる」
両頬に手が添えられている。すぐにでも"しろ"を探しに行きたいのに私の視線は強制的に目の前のしろへと向けさせられていた。
「何言ってるの!? 猫のしろが窓から出ていっちゃったんだよ。早く見つけなくちゃ!」
「うん。また置いていかれて辛かったね。でも大丈夫。大丈夫だよ。お姉さんには俺がいるからさ。何も心配いらないよ」
「だから何を言って……」
もしかしたらしろは出ていったばかりかもしれない。こんなことをしている場合じゃないのだ。
一刻を争う緊迫した状況のなか、私の話に聞く耳を持たずあやすように髪と背中を撫でてくるしろが不気味に思える。
「ああ、よかった。これで心置きなく引っ越しができるね」
「っ!」
極めつけに穏やかな声で告げられた言葉……私はしろの異常さに全身の毛が逆立つような恐怖を感じていた。
――本当に私が窓を閉め忘れたのだろうか?
▽
しろがいなくなってから一週間――
然るべき場所に迷子の届け出をし、近所に張り紙を貼らせてもらい、ツイッターでも拡散願いをし、毎日仕事終わりに範囲を広げて探し回っているが、しろは見付かっていない。
「ツイッター見てるの?」
「うん……目撃情報もないみたい……」
「そっか。残念だね」
しろが今どうしているか考えたら生きた心地がしない。この一週間ほとんど眠れず、ご飯もろくに口にしないで沈みこんでいる私の横で、しろはあろうことか賃貸物件サイトをチェックしていた。
弾んだ声で「ここなんてどう?」とペット不可物件のページを見せられる度にしろへの疑惑は強まってくる。
「しろ、」
――しろが逃がしたの? 私の可愛い"しろ"をどこへやったの?
喉元まで出かかった言葉を今日も私は飲み込んだ。
しろを疑うだなんてどうかしている。しろだって毎日バイト帰りに懸命に探してくれているのだ。しろが変に明るく見えるのは塞ぎ込んでいる私を心配し、励まそうとしてくれているだけだ。
「お姉さん、大丈夫だよ。俺はお姉さんを置いて突然いなくなったりしないよ。前に書き置きをして出ていった日だって自分からお姉さんの元に帰ってきたでしょう? 俺もね、お姉さんがいないと駄目みたいなんだ」
「うん……しろ、生きてるよね……」
「きっと生きてるよ。お姉さんが良い子にしてたらまた会えるんじゃないかな」
「うん……」
つまるところ私は怖いのだ。
私の隣にいてくれる優しい彼が、もしかしたら……と考えることが。このことを追及して彼までいなくなり、一人きりになってしまうことが恐ろしかった。
「しろ、しろ……」
「ねぇ、花澄。俺の名前を呼んでくれる?」
「え、しろ……?」
しろが私の名前を呼ぶのは珍しい。最近はベッドを共にしていないが、それこそ私を抱く時しか呼ぶことはない。
ツイッターの迷子猫の情報から顔を上げると、しろが口を開く。
「"ましろ" 真っ白って書いて真白。俺の本名だよ。そう呼んで」
「……真白。良い、名前だね」
決して嘘ではなかった。しかし、今一番会いたい真っ白な毛並みの"しろ"のことがまた頭に浮かんでしまったから、私の言葉は心がこもっていないように聞こえたのかもしれない。
しろはあまり見せたことがない、寂しそうな笑みを浮かべた。
「……真っ白ってさ、なんにでも染まることができるっていうけど、それって中身がないのと一緒。俺は名前の通り、自分ってもんがなかった」
「そ、そんなことないよ。真白って素敵な名前だと思うよ」
「……どうかな。けど、いいんだー。お姉さんといるとね、俺は真っ白じゃないから。流れに身を任せるんじゃなくてさ、お姉さんのためなら必死になれるの。なんか、恋に人生とか賭けてるバカの気持ちが少しわかるなあ」
しなだれかかってくるしろの体を受け止めながら、私は告白の返事を考えていた。
しろのこと、まだまだ何も知らない。けれど、自分から名前を明かしてくれた。知らないならこれからもっと知っていけばいい。
しろとだったら年の差も乗り越えていけるだろうか。
出会いのきっかけがツイッターの神待ちだなんて間違っている……でも、それが運命の出会いだったと思える日がいつか来るのだろうか?
二週間が経った。白猫のしろはまだ帰ってこないが、私はしろのおかげで少しずつ元気を取り戻していた。
アヤサカデンキの事務所で業務をこなしていると応接室に呼び出された。
詳細は聞かされていないが本社からの来客だという。応接室では店長が来客相手に愛想笑いを浮かべている。
相手は私も知っている人だった……アヤサカデンキの代表取締役社長、礼坂一臣だ。
席を外すように言われた店長はすれ違いざま「何をやらかしたんだ」と目で訴えてきたが、私だって聞きたい。
忙しい社長が私のような店舗勤務の平社員と個人面談をしに来る理由に全く心当たりがなかったからだ。
早めにバイトに行った……だけだと思うが、もう帰ってこないかもしれない。
昨日どうしたらよかったんだろう。しろの言うとおりに引っ越しを了承していたら丸く収まったのかな。
少しの後悔と不安を抱えながら玄関の鍵を開ける。
「ただいまー」
おかえりが返ってこない静かな玄関。しろのスニーカーはまだなかった。
普段なら私より先に帰宅し、夕飯を作り始めている時間だ。やっぱりもう帰ってこないのかもしれないな。
一人ぼっちの玄関にため息が溶けて、この静けさに妙な胸騒ぎがした。
"しろ"の出迎えがない。
しろの膝の上にいないなら甘えんぼうの小猫は鈴の音を鳴らしながら駆け寄ってくるはずなのに……。
「……しろ? しろどこ? どこに隠れてるの? ねぇ、出てきてよ! しろ、しろ!」
しろがいない。こんなこと初めてだった。どんどん不安が募る。
引き出しの中から冷蔵庫の裏まで確認しながら家中探し回っていると、リビングのカーテンが揺れていることに気付いた。
「しろ!……あ……」
ベランダに続く窓が開いている。ちょうどしろが通れるだけの隙間だった。
慌てて出たベランダにもしろの姿はない。ここは二階だ。猫ならひととびで地面へと降りられるかもしれないし、外壁の配管を伝っていくことも可能だろう。
目の前が真っ暗になるような感覚。思わずしゃがみこんだ私の頭上で、二人分の洗濯物が風に揺れている。
仕事へ行く前に洗濯物を干したのは私だ。窓を閉め忘れたの? 気を付けていたのに、そんな、まさか。
しろに外を出歩かせたことはないのだ。何もわからないまま道路へと飛び出し、車に轢かれる絶望の光景が目に見えるようだった。
「や、やだ……っ、しろを探しに行かなくちゃ!」
「……しろならここにいるよ」
立ち上がろうとした私の背後から腕が巻き付いてきた。そのまま背中に感じる熱。
「しろ帰ってきたんだね。大変なの! しろがいなくなったの。すぐに探そう。しろも手伝ってよ。お願い!!」
「だから、しろならいるでしょ」
「え?」
「しろはここにいる」
両頬に手が添えられている。すぐにでも"しろ"を探しに行きたいのに私の視線は強制的に目の前のしろへと向けさせられていた。
「何言ってるの!? 猫のしろが窓から出ていっちゃったんだよ。早く見つけなくちゃ!」
「うん。また置いていかれて辛かったね。でも大丈夫。大丈夫だよ。お姉さんには俺がいるからさ。何も心配いらないよ」
「だから何を言って……」
もしかしたらしろは出ていったばかりかもしれない。こんなことをしている場合じゃないのだ。
一刻を争う緊迫した状況のなか、私の話に聞く耳を持たずあやすように髪と背中を撫でてくるしろが不気味に思える。
「ああ、よかった。これで心置きなく引っ越しができるね」
「っ!」
極めつけに穏やかな声で告げられた言葉……私はしろの異常さに全身の毛が逆立つような恐怖を感じていた。
――本当に私が窓を閉め忘れたのだろうか?
▽
しろがいなくなってから一週間――
然るべき場所に迷子の届け出をし、近所に張り紙を貼らせてもらい、ツイッターでも拡散願いをし、毎日仕事終わりに範囲を広げて探し回っているが、しろは見付かっていない。
「ツイッター見てるの?」
「うん……目撃情報もないみたい……」
「そっか。残念だね」
しろが今どうしているか考えたら生きた心地がしない。この一週間ほとんど眠れず、ご飯もろくに口にしないで沈みこんでいる私の横で、しろはあろうことか賃貸物件サイトをチェックしていた。
弾んだ声で「ここなんてどう?」とペット不可物件のページを見せられる度にしろへの疑惑は強まってくる。
「しろ、」
――しろが逃がしたの? 私の可愛い"しろ"をどこへやったの?
喉元まで出かかった言葉を今日も私は飲み込んだ。
しろを疑うだなんてどうかしている。しろだって毎日バイト帰りに懸命に探してくれているのだ。しろが変に明るく見えるのは塞ぎ込んでいる私を心配し、励まそうとしてくれているだけだ。
「お姉さん、大丈夫だよ。俺はお姉さんを置いて突然いなくなったりしないよ。前に書き置きをして出ていった日だって自分からお姉さんの元に帰ってきたでしょう? 俺もね、お姉さんがいないと駄目みたいなんだ」
「うん……しろ、生きてるよね……」
「きっと生きてるよ。お姉さんが良い子にしてたらまた会えるんじゃないかな」
「うん……」
つまるところ私は怖いのだ。
私の隣にいてくれる優しい彼が、もしかしたら……と考えることが。このことを追及して彼までいなくなり、一人きりになってしまうことが恐ろしかった。
「しろ、しろ……」
「ねぇ、花澄。俺の名前を呼んでくれる?」
「え、しろ……?」
しろが私の名前を呼ぶのは珍しい。最近はベッドを共にしていないが、それこそ私を抱く時しか呼ぶことはない。
ツイッターの迷子猫の情報から顔を上げると、しろが口を開く。
「"ましろ" 真っ白って書いて真白。俺の本名だよ。そう呼んで」
「……真白。良い、名前だね」
決して嘘ではなかった。しかし、今一番会いたい真っ白な毛並みの"しろ"のことがまた頭に浮かんでしまったから、私の言葉は心がこもっていないように聞こえたのかもしれない。
しろはあまり見せたことがない、寂しそうな笑みを浮かべた。
「……真っ白ってさ、なんにでも染まることができるっていうけど、それって中身がないのと一緒。俺は名前の通り、自分ってもんがなかった」
「そ、そんなことないよ。真白って素敵な名前だと思うよ」
「……どうかな。けど、いいんだー。お姉さんといるとね、俺は真っ白じゃないから。流れに身を任せるんじゃなくてさ、お姉さんのためなら必死になれるの。なんか、恋に人生とか賭けてるバカの気持ちが少しわかるなあ」
しなだれかかってくるしろの体を受け止めながら、私は告白の返事を考えていた。
しろのこと、まだまだ何も知らない。けれど、自分から名前を明かしてくれた。知らないならこれからもっと知っていけばいい。
しろとだったら年の差も乗り越えていけるだろうか。
出会いのきっかけがツイッターの神待ちだなんて間違っている……でも、それが運命の出会いだったと思える日がいつか来るのだろうか?
二週間が経った。白猫のしろはまだ帰ってこないが、私はしろのおかげで少しずつ元気を取り戻していた。
アヤサカデンキの事務所で業務をこなしていると応接室に呼び出された。
詳細は聞かされていないが本社からの来客だという。応接室では店長が来客相手に愛想笑いを浮かべている。
相手は私も知っている人だった……アヤサカデンキの代表取締役社長、礼坂一臣だ。
席を外すように言われた店長はすれ違いざま「何をやらかしたんだ」と目で訴えてきたが、私だって聞きたい。
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