【完結】その手を伸ばさないで掴んだりしないで

コメット

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エピローグⅡ

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あぁまたかと思った。
しんしんと無音の降り積もる一寸先も見通せない真っ暗闇の中、僕は一人立っている。
金糸の編み込まれた腰ほどまでの黒の三つ編みや四肢や首周りを彩る金細工は身じろげば華やかな音を立てるはずなのにそれすらしないのだから嫌になる。
見に纏うのは金糸で刺繍が施された褐色の肌よりなお暗い胸までしかない漆黒の上衣。
腰履きにした緩い白の裾広がりのパンツは足首できゅっとまとめられ赤を基調とした糸で編まれた腰布で止められている。
裸足で立っているのにそこがでこぼことした地面なのかつるつるとした床なのか温かいのか冷たいのかもわからない。
そこまで確認していつもとは違うことに気付く。
右手に剣を持っていた。
諸刃の長剣、ただただ切り裂くことのみを目的とした実にシンプルなそれ。
装飾はまったくない。
柄はあるけどただ真っ直ぐなだけで彫刻のひとつもされていない。
銘すらわからぬ鉄の塊をためすすがめつしているうちにそれは来た。
真っ黒な手の群。
逃げれば逃げた分だけどんどん増える手は僕を捕まえようと音もなく近づいてくる。
いつもなら視界の端に捉えた瞬間に身を翻して逃げてしまうけれど今日は違う。
手に持った剣を振るう。
剣なんてそんなに握った記憶がない。
先代の記憶、過去に共に戦ってほしいと願われたときの記憶を掘り出してなんとかそれらしく振り回した。
一閃、二閃、そして更にもう一度。
もがき苦しむように切りつける度に身をよじるようにして消える手の群れに興奮を覚える。
今、僕は逃げるのではなく戦っている。
戦えている。
走り回って剣を夢中で振るって手の群れと対峙する。
でも多勢に無勢でどんどんと押されてくる。
切られて消える数よりも影から生まれ出る方が早くて多い。
こんな右も左も手ばかりでは身動きが取れなくなってしまう。
切りつけて空いた隙間に身を割り込ませて脱兎の如く走り抜ける。
邪魔な手は片っ端から切り捨てて切り捨ててただ走る。
いきなりがくんとつんのめった。
足下を見ればぎりぎりと痛いほどの力で足首を掴む手が見えて怒りのまま切り払う。
でも遅かった。
手の群れが追いついてきてそのまま側にできた大きくてどこまでも深く沈む湖へと落とされる。
慌てて水を蹴って手で搔いても関係ないぐらいの力でもって底へ底へと引きずり込まれる。
あぁ駄目だ変えられなかった。
いつもいつもそうなんだ。
このあとは真っ暗な水底で延々と呪詛を垂れ流される。
どれだけ謝っても許しを請うても罰されるだけの地獄のような時間が待っている。
身体に纏わり付く運命の糸が煩わしい。
こんなときまでお前は僕の味方にはなってはくれないのかと苛立たしげに身をよじるも小揺るぎもしない。
ふとなにかに呼ばれた気がして顔を上げた。
大丈夫、こっちを見ろとそう言われた気がした。
水面が一瞬光る。
遠い遠い光の中に見えたのは一本の腕。
男らしく太くて節くれ立った長い指が特徴的な大きな手。
僕はこの手を知っている。
いつもこちらに伸ばされる温かくて心地のよい大好きな彼の手だ。
必死で手を伸ばす。
届かないとは思わなかった。
絡みつく運命の糸を振りほどいて不様でも構わないとただただがむしゃらに水を蹴って大きく手を振って上に向かって身体を動かす。
近づく水面にもう少しと手を伸ばす。
彼の指先に手が触れてそのまま握りしめられる。
強い力で水面まで引きずりあげられた。
両手足を地面について蹲りながらげほげほと苦しいくらいにむせていると背を優しく撫でられた。
顔を上げれば心配そうな顔をした愛しい人が屈み込んでこちらを見ている。
「遅くなってすまなかった。他に苦しいところはないか。」
大丈夫かとは聞かない。
だって僕は大丈夫と答えてしまうのを彼は知っているから。
だからそうではない聞き方をするのだ。
「うん、ない。ちょっと息苦しかっただけ。」
顔にかかる髪が邪魔くさくて手で払う。
気遣うような視線を感じたけれど嘘をついていないことは伝わったようですぐに安堵したかのようにその顔は緩められた。
少しだけ怖さがぶり返してきて目の前のたくましい身体にしがみついた。
一瞬、驚いたように大きな身体は硬直したけどすぐにこちらの心境を察してか優しい力で抱擁を返される。
ほうと息が漏れる。
そうこの温かさだ。
ちょっとやそっとじゃ小揺るぎもしない身体に抱きしめられる安心感は他では味わえない僕だけの安らぎの場所。
今日は慣れないことをしすぎた。
いつもは怖くて仕方ない手の群れ相手に切った張ったを繰り広げた。
碌に泳げもしないのに水の中をもがいて水面を目指した。
そこに来てなによりも安心できる腕の中にいるのだからどうしても気は緩む。
「すごかったじゃないか。剣を片手に手の群れに立ち向かって、水の中に落っことされても諦めずに水面を目指して。」
格好よかったぞと耳元に言葉を落とされて身体が震えた。
見ていてくれた。
すごいと言ってくれた。
頑張りを認めてもらえた。
でもなによりも嬉しかったのは。
「この悪夢に君が現れてくれたのが僕はとてもとても、言葉に言い表せないほどに嬉しい。」
そうなのだ、これは夢だ。
度々うなされて飛び起きる一等質の悪いそれ。
でも今日は違う。
戦うことができた。
抗うことができた。
なにより彼が現れてこうして側にいてくれる。
約束を果たしてくれた。
彼ならきっと夢にまで現れてくれると信じさせてその通りに登場してくれた。
その愛情の深さ。
思われることの甘美なこと。
きっと目覚めたその先にはあたたかな笑顔を浮かべた彼が待っていてくれるはずだ。
だからもう大丈夫。
きっとこの夢はもう見ない。
だって彼がこうして見張ってくれているのならあの影たちが現れるはずがないのだから。
唇へ口づけをひとつ。
もう一度、今度はその額にひとつ落とす。
ここにずっと残していってしまう彼に対して申し訳ない気持ちが募った。
おいていかれるのは辛い。
その先を共に歩めないのは心苦しい。
それを夢の中の別人といえど思い人に味あわせるのはあまりにも酷だと思った。
「いいんだよ、それで。お前が怖いと思わず夢路に旅立てるのならこれくらいのこと苦労にすら思わないさ。」
君はいつだって優しい。
僕に惚れたと言ってこのくらい屁でもないさと軽やかに重荷を背負ってみせる。
「君が好きだ。君を好きになれたことを僕は誇りに思う。」
人を愛することを教えてくれたかけがえのない人。
涙がこぼれ落ちる。
いやだな、別れは笑顔がいいのに泣けるようになってからこちら、涙腺が緩くなっていけない。
ぽろぽろと零れ落ちるままの滴を彼はそっと唇で受け止めて眦にキスをして全然泣き止まない僕の鼻頭をかぷりと噛んだ。
それがいつもの彼のキスそのものでくすくすと笑い声が漏れる。
泣いて笑って顔はもうくしゃくしゃだ。
「俺だけのお姫様。愛おしい君。俺もお前を愛せたことをこれ以上ない幸福だとそう思う。」
だからと温かな手で涙を拭われる。
あぁもうお別れの時間なのだ。
「もう起きる時間だ。ここに俺がいる限りお前は二度と悪夢を見ない。あとは現実の俺に任せるとしよう。」
まだまだ涙は零れ落ちていたけれどぎゅっと目をつむって手で擦ってその残骸を振り払う。
最後は笑顔がいい。
これ以上ないほどの特上の笑顔で送り出してさよならを言うのだ。
「ありがとう。そしてさようなら。いつかまた会えるその日まで僕は泣かないように頑張るよ。」
僕の決意にほどほどになと彼は返して一度だけ唇同士が触れあった。
意識が高みへと引きずられるような感覚がして徐々に徐々に身体が浮いていく。
もう手を伸ばしても触れあうことができない遠くへと来てしまった。
愛しい彼の現身へと手を振る。
大きく振り返される手に更に手を振って大きな声で愛してると叫んだ。
その姿が見えなくなるまでただただ愛してると叫び続けた。
それが今の僕にできる唯一彼に送れるものだった。
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