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ランプの魔人Ⅳ

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酒杯を揺らし揺らし語られた一人の男の話は畢竟、この男へと辿り着くものだった。
水族館へと足を向けた日からこちら、男と差しで酌み交わし過去を語ることを繰り返して早数か月。
その日の男はいつもとはどこか雰囲気が異なっていた。
眼差しは遠く奏でる声は物悲しさを帯び静かに酒杯を傾ける様はどこか触れがたく男を別の世界へと誘う空気を纏っていた。
途中から雲行きの怪しかった話はめでたしめでたしで終わらず、結局どう声をかければいいかわからないまま黙って拝聴するにとどまった。
「その後、少年はどうなったんだ?」
言葉にできたのはそんなありきたりのもので、それを聞き届けた男はくふりと酒精混じりの吐息を漏らすと関心のなさそうな声音でこう答えた。
「さあね。今頃どこぞの空の下で誰かの願いでも叶えているんじゃないの。」
あくまで他人事として答えるその姿は妙に痛々しく見えて、それがなんだか無性に悲しかった。
たくさんの人々の願いを叶える傍ら、自らの自由だけは夢見ることすら許されない。
死ねない身体に詰め込まれた少年の魂はどれだけの年月、孤独に苛まれてきたんだろうか。
気付くと視界がじわりと滲んでいてそれを男に悟られぬよう目頭にぐっと力を込めて目をつむる。
しぱしぱと瞬きを繰り返し涙の予兆を振り払った。
「分不相応の願いを持つと、身を滅ぼす。
 少年はいっときの気の迷いで大きな過ちを犯したわけだ。」
喉を晒すように大きく酒杯を傾け飲み干すと、男はぽつりとそう溢した。
「そういってやるなよ。
 誰だって、死ぬのは怖い。
 それを覆せるのなら藁にだって縋りつく。そういうものじゃないのか。」
吐き捨てるように言う男を見ていたくなくて思ったままの反論を口にした。
少年と言うからには若ければ十にも満たない年頃だったはずだ。
そんな子どもに悪魔の取引を持ちかけた男がどう言い繕っても悪いに決まっている。
それがわからぬ訳でもなかろうに男はいっそ頑なだった。
「それでもだよ。
 おいしい話には裏がある。
 そのくらいには世の道理を知っていたんだ、少年にも罪はあろうさ。」
嘲るような語り口はそれ以上の詮索を拒む響きを宿していたがそんなものにかかずらわってやるほど俺は優しくはない。
「あるはずないだろそんな道理!
 一〇:〇で男が悪い!
 仮にあったとしても、そんなの俺は認めない。」
鼻息荒く言い募る。
身体中どこもかしこも熱くてたまらなかったがその中でも一等目頭が熱を放って仕方なかった。
この熱さは泣く前兆だと頭ではわかっていたがどうすることもできず分からず屋な男を睨み据える。
「随分と少年の肩を持つじゃないか。
 これはあくまでも昔話、終わってしまった話だよ。」
君には何の関係もない、ね。
いっそ優しく諭すように落とされたその一言でぷつりとどこかの糸が焼き切れた。
「お前の話だろう!
 なんで他人事として終わらそうとしてるんだ!」
机越しに胸倉を掴み上げたその手が怒りで震えるのがわかる。
そうして無理矢理近づけた男の顔は平静そのもので命の色混じりの茶色の瞳は乾ききり凪いでいた。
ごとんと男の手から酒杯が落ち、それと同時に男の口から魂の叫びがほとばしる。
「少年は子どものままではいられなかった。
 途方もない年月をかけて数えあげるのも難しいくらいの多くの人々の願いを叶えて彷徨い続けた。
 中には少年に寄り添おうとしてくれる人もいたよ。
 でも駄目だった。最後は皆こう言うんだ。
 貴方の代わりにはなってあげられないって。」
誰もが皆、己が一等かわいい。
それ故にここぞというところで手を離され続けた少年だった男の漏らす小さな願いは踏みにじられ省みられない。
だからこそ己に対して無関心を貫かざるを得ないのだ。
そうやって己の心を守ることでしか安寧を得られなかった男がただひたすらに愛おしかった。
「どうすればお前を自由にしてやれる?
 俺が代わりになればお前は自由になれるのか。」
言葉を選び間違えたと気付いたのは傷ついたように男の顔がしかめられたからだった。
無抵抗に吊られるままだった男の身体に力が入り、胸倉を掴み上げる手に触れると引き剥がそうとするのでとっさに手に力を込めた。
今この手を離せば二度と届かなくなる―そしてその予感はおそらく外れてはいないだろう。
必死になって手を振りほどこうとする男を決して離すまいとつかみ続ける。
「離して! 離してよ!!
 君たちはいつだってそうだ。同情はしても肝心なところで手を離す!
 だったらはじめっから期待なんてさせるな!!」
泣いてないのが不思議なくらいにその声は悲痛に塗れていた。
期待して期待して遂に本懐を遂げられると安堵した先にまた地獄へと逆戻り。
それを幾度も繰り返してきた者のひび割れた魂の発する絶叫はそれだけで凶器となり得るものだった。
痛くて痛くて仕方なくて癒す術を探しても見つからない。
一緒に探してくれる人もその傷を分かち合える人もいない。
ただ一人で耐えじっと嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
そしてその嵐は自らの内にあるからこそいつまでたっても止むことなくその身を苛み続ける。
「離せるか馬鹿野郎!
 俺は、お前と人として共に歩みたいと望む!
 それのどこが悪いか言ってみろ!!」
耳を塞ぎ目を閉ざし内にこもろうとする男を怒鳴りつけるようにして心からの願いを吐き出した。
どうすればこの傷ついた魂を持つ男を癒してやれるのか俺には見当すらつかないが、それでもこの手を離してやる気にはなれなかった。
「全部悪いに決まってる!!
 そういって、君だって最後には手の平を返すんだろう!?
 できもしないことを大声で宣うな!!」
首を振り拒絶を示す男の顎を掴み前へ正す。
そうして否やを叫ぶ口へかぶりついた。
「ッ~!!」
更なる拒絶を吐こうとした口蓋に舌を這わす。
開かれていたその隙間へぬるりと入り込むと熱持つ粘膜へと舌先を伸ばし舐め啜ってやった。
硬いエナメルをなぜその先の上顎をくすぐるように舌を遊ばせ、下顎をかわいがりながら溢れ出る唾液に身をくぐらせるとびくびくと男の肩が震えるのが見てとれた。
最後に逃げ縮こまる舌をすり合わせてから口を離すと大きく肩で息をする男の姿が目に入る。
「今、そういう雰囲気じゃなかったよね? 正気?」
紺のトレーナーの袖で唾液まみれの口元を拭う男に頷き返す。
正気も正気だとも。
少なくとも自暴自棄になりかけてたこいつよりかは真面だったが確かにキスするべきタイミングではなかったのでそれについてはやや反省した。
もう胸倉を掴まずとも逃げる気配を感じなかったのでそっと男を降ろし改めて目を合わす。
「お互い熱くなりすぎてたろう。」
「そうだね、それを気付かせるために男同士で接吻したと?
 身体を張るのも大概にしな?」
静かに怒りを表す男の言い分を訂正すべく口を開く。
「俺はお前が好きだ。
 だから、投げやりなお前を見てられないしそう振る舞ってほしくない。」
大きく見開かれた双眸に映る自分はこれ以上ないほどに甘ったるい顔で好意を嘯いた。
「……信じられるかそんな言葉。
 さっきも言ったでしょ。
 皆、最後は手の平を返す。僕の代わりになんて絶対になっちゃくれない。」
「あぁお前の代わりにはなってやれない。
 ただ、お前の一番身近にいるのは俺がいいし、その隣を歩みたい。
 だから、俺のために人に落ちてくれ。」
乞い願うように言葉を重ねる。
男ははじめの一言に傷ついた顔をして、続く言葉に目を見開いて、最後の口上に褐色の肌でもわかるほどに頬を赤らめた。
「正気?」
「正気も正気だ。
 俺はお前が一等恋しい。」
ここまで来れば恥じ入るのも馬鹿らしい。
ただ愚直に愛を紡ぐ。届けと願う。響いてほしいと叫ぶ。
「裏切らないでいてくれる?
 いや、裏切ってもいい。
 最後まで騙し通してくれるなら、その言葉を信じてもいい。」
男にとっての最大限の譲歩がそれなのだろう。
信じ抜いて裏切られてそれでも諦めきれなくて、でもこれ以上傷つきたくはないから夢を見させてくれと頼むいじらしさ。
「騙したりなんてしない。
 必要がない。
 だから……俺と一緒に生きてくれ。」
永劫の生に雁字搦めにされた男に今生限りの愛を捧げ渡す。
共に生きられるならそれ以上の何もいらないのだと伝わってほしいと言葉と視線に込めて。
「馬鹿だなぁ君は。
 そしてそんな君を信じてしまう僕はそれに輪をかけた大馬鹿者なんだろう。」
はにかむように崩れた相好は今まで見てきた中で一番優しい形をしていた。
「最後の願いだ。
 お前に自由を。そして人の生を望む。」
この男の前身を象った神よ。
お前の愛は本物だったんだろう。
だけどもういいだろう?
愛しい男は正しく人としてその生を閉じた。
お前の狂愛による歪みを幼子に背負わせるだけ背負わせて放り出すのはあまりにもひどい仕打ちだと思わないか。
だから、もう、これ以上は。
この男を縛ってくれるな。
呟かれる願いを静かに目をつむり聞き届けた男は大きく息を吸ってそして吐いた。
ゆうるりと開かれた赤褐色の双眸に笑いかければ同じように笑みが返される。
「ものすごい欲張りだ。ごうつくばりだ。
 だけど、ごめん。それがこんなにも嬉しい。」
噛みしめるように落とされる言葉は一言一言喜びに震えていた。
「運命の糸を紐解くのが喜ばしいなんてどれくらいぶりだろう。
 たとえこの願いを叶えられなかったとしても僕はきっと後悔なんてしない。」
「それは困る。」
言葉だけで充分だなんてあんまりだ。
この男の辿った道のりに釣り合うくらいの幸せを与えてやりたい。
できることならこの腕に抱え上げれないくらいたくさんのものを差しだしてそうして笑うこいつを見たい。
真剣な表情で虚空を見上げそこにある何かを手に取りひとつひとつ選り分ける仕草をする男をただ静かに見守ることしか俺にはできない。
「君の運命と僕の運命をより合わす。
 君の命の炎が尽きるときに僕もまた鼓動を止められるように、二人の生命を繋ぎ合わせる。
 だから……失敗したら、君も僕のように永劫の時を流離うことになるかもしれない。」
それでも僕と一緒に生きてくれますか。
恐る恐る差し出された思いをこれ以上ないほど優しく手に取り握りしめた。
「万年ハネムーンってことだろう。
 だったらそれも悪くない。」
本心からそう答えれば笑顔が花開く。
「何を言ってるんだか。
 そうなったら君は、僕のオプションパーツ扱いになるんだよ。それでもそんな発言ができるのかい。」
これ以上ないほど幸せだと示すような笑顔を見せておいて呆れた風にかわいくないことを言う男に笑ってしまった。
存外さみしがり屋なこの男を抱きしめ眠る唯一になれるならきっとそれも悪くはない。
だから本心から笑ってやることができた。
「できるとも。
 ランプの魔人が二人だなんて前代未聞だな。」
「ぬかせオプションパーツ。
 この権能はそんな安い代物じゃあないよ。」
じゃあその力を見せてもらおうじゃないか。
軽口を叩き合いつつもその手は休まず虚空を手繰り男の言葉を借りるなら運命の糸を選り分け続けていた。
時折どこかを強く掴み引きちぎるように両手で何かを手繰っては離しそしてより合わせるように近づけては離すを繰り返す。
自分の周りを見えない何かが巡っているのがわかる。
いままさにこの場には二人分の運命が横たわっているのだと誰に言われずとも知覚する。
それは本能の部分で理解するもので理屈ではないのだろう。
男の額と言わず顔中に大粒の汗が浮かぶ。
それは熱を持っているのか虚空を掴む度に火傷の跡を残すように男を苛む。
部屋の温度もどんどんと上がりまだ肌寒い日も多い季節にもかかわらず真夏の締め切った部屋のように熱いと感じる。
難航しているのだとわかってはいても固唾を飲んで見守ることしかできないのがもどかしい。
神様、と譫言のように男の唇が音もなくそう形作った。
「どうか、どうか、この願いを聞き届けて下さい。
 この男と共に歩み眠りにつける、ただそれだけでいいんです。
 永遠の命なんていらない。
 だからどうかこの願いを聞き届けて下さい。」
この男の前身を象った神へ祈るように願いを捧げる男の姿を目に焼き付ける。
おそらく最後の糸なのだろう。
それを力強く握りしめるようにして両手をすり合わせると、男はふいごのように大きく胸を膨らませて熱い息を吐いた。
どこからか、かたかたと震えるような音が聞こえる。
探るように耳を澄ませれば居間の端にある小棚の上で古ぼけたランプがひとりでに躍るようにして震えていた。
その震えは次第に大きく激しくなって奏でられる悲鳴のような金属音もそれに合わせて絶叫のように響き渡る。
これ以上大きくなったら鼓膜が破れるかもしれないほどの轟音となった瞬間、ぴたりと動きが止まるときらきらと輝く砂粒となって端から解けるようにして崩れて消えた。
あ、と思わず零れた男の声で硬直が解ける。
これはもしかするともしかするんじゃないか。
「消えた。
 僕を取り巻いてた運命の糸が消えた。
 違う、見えなくなったんだ。
 もう、もう、僕を縛るものは何もない……っ!」
それは歓喜だった。だけどどこか寂しさも孕んでいた。
それもそうだ。
この男の長い長い道のりと共に歩んだあらゆるしがらみはたった一言で言い表せるものではない。
どれほど疎んだとしてもそれは男の一部だったのだから、欠片も残さず消えてしまえば喪失感を覚えて然るべきなのだ。
切れ長の瞳からぽろりと一粒の雫が転がり落ちて頬を濡らす。
後から後から流れ出るそれは滂沱の涙となって男の顔を彩った。
「僕はっ……おかしいっ!
 こんなにも嬉しくてたまらないのに、疎ましくて仕方なかったのに、なんでこんなに遣る瀬ない気持ちになるの。
 立ってられないくらいに寂しくて気が狂いそうなの。」
くしゃりと髪を掻きむしり涙で濡れた顔を歪めに歪めて放たれた慟哭は自らを構築していた様々なものとの永劫の別れに身を裂かれ喪失に喘ぐ叫びとなってほとばしった。
疎ましく感じていた、それでも自身を構築する柱だった、運命を見る目と因果を紡ぎ合わせ手繰りよせる手。
それにより支えられていたランプの魔人であるという自負。
叶えてきた願いと託されてきた思い。
自身の上を通り過ぎていく数多の人々との記憶。
それらがない交ぜになり作り上げられた自我は、自ら望んで手放したにもかかわらず削り取られた半身を求めてすすり泣いていた。
自由になったことを歓喜する心と不自由ではあれど人の手に余る力を行使してきたという自尊心が男の中で対立し混乱を呼び起こしている。
喉が枯れるほどの絶叫を放ち泣き喘ぐ男の姿を見ていられなくてその身体をかき抱いた。
見る間に胸の辺りが熱い雫で濡れていく。
胸に押しつけるようにして頭を抱き寄せれば、ひぐひぐと喉を鳴らし溺れるようにして呼吸の苦しみに喘いでいる。
本当の意味でこの男の抱える苦悩を理解してやることはできない。
それでも一人ではないのだと伝わるように強く強く抱きしめた。
ごめんなさいと譫言のように繰り返す男の頭を何度もなでその額に口づける。
なぜ謝るのかきっと男は理解してはいないだろう。
自由になれたことを素直に喜べなくて申し訳ないと思う気持ち。
万能の権能をもって願いを叶える愉悦に身を委ねるその甘やかさを惜しんでしまった後ろめたさ。
もう残されることはないという安堵。
俺の思いを利用して己の願いを叶えてしまったことへの罪悪感。
素直によかったよかったと喜ぶにはそれらは重く心を苛み傷つける。
それに涙する男には悪いが俺にとってはそんな男の姿が喜ばしい。
己を道具と卑下し一歩引いたところに立っていた男が、身も世もなく泣きじゃくる。
それだけの心を未だ大事に有していたことが嬉しくて仕方がなかった。
「泣けるだけ泣け。
 お前を責め苛むものはもうどこにもないんだから。」
わぁとまた大声をあげて泣きつかれ溢れ出た涙を胸に擦りつけられる。
男の流したそれが一人の人間が溢すにはあまりに多すぎて布地の吸収力を超えて腹まで滴り落ちているのがわかる。
このままでは枯れ果ててしまうのではなかろうかと危惧するも、おそらく数百年、下手をすれば数千年分のたまりにたまったものだろうと思えば好きなだけ泣かせてやりたかった。
男の秀でた額に優しく思いを込めた口づけを落とす。
早く泣き止めばいい。
そして笑いかけてほしい。
世界はこんなにも優しい色をしている。
それを隣で並んで見ることのできる喜びを分かち合いたいとただただその時が来るのを待ち望んだ。
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