1 / 1
全一話
しおりを挟む
断崖に突き出した大きな岩棚からは、日向の里が一望できた。緑と山河に囲まれた天然の要害をもつ堅牢な里だ。建速はこの里で産まれ、十五になるまでずっとここで暮らしてきた。
――なにより美しい。
建速は、この日向の里が好きだった。
国父殿は何かと言うと出雲への郷愁を口にし、この日向の里を田舎呼ばわりするが、彼にとっては出雲の国こそ縁もゆかりもない異国。この日向の地こそが世界のすべてだった……昨日までは。
新緑眩しい眼下の景色から空へと目を移す。手元の岩魚の焼きものを狙って、鷹がゆらりと風を掴んで飛んでいた。
「俺にも、かように自由な翼があればな」
「でかいため息じゃ。阿蘇の煙も吹きとぼう」
人の気配などまったく感じなかった建速は、急に背中に声を浴びて驚いた。
「月読兄者! これは人が悪い。肝を冷やした」
「はっは。この程度の戯れ事で驚いていては肝がいくつあっても足らんぞ」
建速と月読は、六尺|(約百八十センチ)の高身長、固く締まった筋肉、彫りの深い顔立ち、切れ長の目もと、どれもが瓜二つの兄弟だ。違いは兄の月読が知に秀で、建速が武に秀でていることだった。
「で、どうだった?」
「兄者の言うとおりだった。出雲奪還の足掛かりに、夜見の国討伐を命じられた。手勢五十!」
「またえらく少ないな」
元より討伐の成功など期待されてはいない。むしろ戦死を望まれている。命を落とさなかったとしても、敗北の責任を追及し亡きものにできる。これを無理難題だと出征を拒んだ建速は、国父殿の怒りを買って追放されることになった。どう転ぼうが、建速にとって分の悪い罠だった。
「大宜都の異母姉上は、もはや魂胆を隠す気など更々ないようだな」
これが国父殿ではなく、異母姉上の差し金であることは間違いない。予てより異母姉上は、建速たち三姉弟が国母様の子ではないために、疎んじていたのだ。
「やはり、異母姉上の策略ですか」
「だな。それにしても、国父殿は、まるで言いなりじゃないか。酷いもんだ。ここまでとなると猶予はないな。建速、直ぐにここを出るぞ」
「兄者も一緒に?」
「ああ。ただし、俺は表の世界からは姿を消す。これよりはお前の影となる」
一人ではなし得ないことも二人でならやれるかもしれない。
建速が木串を勢いよく振ると、岩魚の噛り残しが空へ飛んだ。機を逃さず翼を折り畳んだ鷹が弾丸のように飛来した。そして両足にしっかりと獲物を捉えて再び空へと舞い上がっていった。
※※※
建速と月読を乗せた船が関門海峡に差し掛かった。従う兵こそ少なかったが、船には大宜都比売から奪った食料や酒をたっぷりと積み込んでいた。
「兄者。上手くいった」
「ああ。上首尾だ」
「しかし、姉御と別れの言葉を交わせなんだのは残念」
建速は、まず長姉の天照を訪れた。あらかじめ使いを出して示し合わせていた通り、天照は固く門戸を閉ざして会おうとはせず、建速に矢を放って追い払った。この時、随伴の兵たちともはぐれ、建速はたった一人で逃げることになった。
「弟が離反したことで肩身は狭かろうが、矢をもって追い返した姉御が酷い扱いを受けることはなかろう」
次に建速は敢えてみすぼらしい形に身をやつし、大宜都比売の館を訪れた。月読が気配を殺し、徹底的に建速を孤立させ、お供さえも失った単身のように見せかけたお陰で、大宜都比売も油断していた。
長年密かに憎んできた異母弟が、恥も外聞も捨てて空腹を訴え、自分に命乞いをする様は、最高に甘美だった。
「そなた、天照からも矢で追われたそうな。不憫よの。どうじゃ、我の慰みとして匿ってやってもよいぞ。飼われる身というのも悪くはなかろう」
その夜、夜陰に乗じた月読が伏兵と共に守りの薄いところを攻め立てるのに呼応して、建速は、あっさりと大宜都比売を討ち取った。
船は関門海峡の西へ向かう潮に乗り、順調に進んでいた。
「兄者。この後は?」
「夜見の先、鳥髪峰|(現在の船通山)に住まう【たたらの民】と会う」
「たたらの民?」
「あぁ。製鉄を生業とし、釜に使う良き土の出る山中に住まう者たちよ。独立独歩の精神に富む連中で、支配されることを好まぬ奴らだ」
「そのような者たちが、味方になってくれますか?」
「なるさ。追放の身とはいえ、伊邪那岐の血を引く者へ恩を売るのを拒むものなどおらぬ。そして……」
そう言うと、月読は山と積まれた酒樽を指さした。
「これがある。たたらは八か所、これを遠呂智八衆と言うらしい。彼らを味方にすれば鉄が手に入る。鉄があれば出雲を取り戻すことも、姉御を盛り立てていくことも意のままだ。俺たちで伝説を作ろう」
「わかった。兄者を信じる」
そう言うと、建速は空へと拳を突き上げた。そこへ日向の里から付いてきた鷹がふわりと留まった。
「良き仲間が出来たな。何か名を付けてやれ」
「そうだな。よし、俺の名をやろう。お前は速だ」
建速須佐之男は、そう言うと珂々と笑った。
――なにより美しい。
建速は、この日向の里が好きだった。
国父殿は何かと言うと出雲への郷愁を口にし、この日向の里を田舎呼ばわりするが、彼にとっては出雲の国こそ縁もゆかりもない異国。この日向の地こそが世界のすべてだった……昨日までは。
新緑眩しい眼下の景色から空へと目を移す。手元の岩魚の焼きものを狙って、鷹がゆらりと風を掴んで飛んでいた。
「俺にも、かように自由な翼があればな」
「でかいため息じゃ。阿蘇の煙も吹きとぼう」
人の気配などまったく感じなかった建速は、急に背中に声を浴びて驚いた。
「月読兄者! これは人が悪い。肝を冷やした」
「はっは。この程度の戯れ事で驚いていては肝がいくつあっても足らんぞ」
建速と月読は、六尺|(約百八十センチ)の高身長、固く締まった筋肉、彫りの深い顔立ち、切れ長の目もと、どれもが瓜二つの兄弟だ。違いは兄の月読が知に秀で、建速が武に秀でていることだった。
「で、どうだった?」
「兄者の言うとおりだった。出雲奪還の足掛かりに、夜見の国討伐を命じられた。手勢五十!」
「またえらく少ないな」
元より討伐の成功など期待されてはいない。むしろ戦死を望まれている。命を落とさなかったとしても、敗北の責任を追及し亡きものにできる。これを無理難題だと出征を拒んだ建速は、国父殿の怒りを買って追放されることになった。どう転ぼうが、建速にとって分の悪い罠だった。
「大宜都の異母姉上は、もはや魂胆を隠す気など更々ないようだな」
これが国父殿ではなく、異母姉上の差し金であることは間違いない。予てより異母姉上は、建速たち三姉弟が国母様の子ではないために、疎んじていたのだ。
「やはり、異母姉上の策略ですか」
「だな。それにしても、国父殿は、まるで言いなりじゃないか。酷いもんだ。ここまでとなると猶予はないな。建速、直ぐにここを出るぞ」
「兄者も一緒に?」
「ああ。ただし、俺は表の世界からは姿を消す。これよりはお前の影となる」
一人ではなし得ないことも二人でならやれるかもしれない。
建速が木串を勢いよく振ると、岩魚の噛り残しが空へ飛んだ。機を逃さず翼を折り畳んだ鷹が弾丸のように飛来した。そして両足にしっかりと獲物を捉えて再び空へと舞い上がっていった。
※※※
建速と月読を乗せた船が関門海峡に差し掛かった。従う兵こそ少なかったが、船には大宜都比売から奪った食料や酒をたっぷりと積み込んでいた。
「兄者。上手くいった」
「ああ。上首尾だ」
「しかし、姉御と別れの言葉を交わせなんだのは残念」
建速は、まず長姉の天照を訪れた。あらかじめ使いを出して示し合わせていた通り、天照は固く門戸を閉ざして会おうとはせず、建速に矢を放って追い払った。この時、随伴の兵たちともはぐれ、建速はたった一人で逃げることになった。
「弟が離反したことで肩身は狭かろうが、矢をもって追い返した姉御が酷い扱いを受けることはなかろう」
次に建速は敢えてみすぼらしい形に身をやつし、大宜都比売の館を訪れた。月読が気配を殺し、徹底的に建速を孤立させ、お供さえも失った単身のように見せかけたお陰で、大宜都比売も油断していた。
長年密かに憎んできた異母弟が、恥も外聞も捨てて空腹を訴え、自分に命乞いをする様は、最高に甘美だった。
「そなた、天照からも矢で追われたそうな。不憫よの。どうじゃ、我の慰みとして匿ってやってもよいぞ。飼われる身というのも悪くはなかろう」
その夜、夜陰に乗じた月読が伏兵と共に守りの薄いところを攻め立てるのに呼応して、建速は、あっさりと大宜都比売を討ち取った。
船は関門海峡の西へ向かう潮に乗り、順調に進んでいた。
「兄者。この後は?」
「夜見の先、鳥髪峰|(現在の船通山)に住まう【たたらの民】と会う」
「たたらの民?」
「あぁ。製鉄を生業とし、釜に使う良き土の出る山中に住まう者たちよ。独立独歩の精神に富む連中で、支配されることを好まぬ奴らだ」
「そのような者たちが、味方になってくれますか?」
「なるさ。追放の身とはいえ、伊邪那岐の血を引く者へ恩を売るのを拒むものなどおらぬ。そして……」
そう言うと、月読は山と積まれた酒樽を指さした。
「これがある。たたらは八か所、これを遠呂智八衆と言うらしい。彼らを味方にすれば鉄が手に入る。鉄があれば出雲を取り戻すことも、姉御を盛り立てていくことも意のままだ。俺たちで伝説を作ろう」
「わかった。兄者を信じる」
そう言うと、建速は空へと拳を突き上げた。そこへ日向の里から付いてきた鷹がふわりと留まった。
「良き仲間が出来たな。何か名を付けてやれ」
「そうだな。よし、俺の名をやろう。お前は速だ」
建速須佐之男は、そう言うと珂々と笑った。
0
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説

軟弱絵師と堅物同心〜大江戸怪奇譚~
水葉
歴史・時代
江戸の町外れの長屋に暮らす生真面目すぎる同心・十兵衛はひょんな事に出会った謎の自称天才絵師である青年・与平を住まわせる事になった。そんな与平は人には見えないものが見えるがそれを絵にして売るのを生業にしており、何か秘密を持っているようで……町の人と交流をしながら少し不思議な日常を送る二人。懐かれてしまった不思議な黒猫の黒太郎と共に様々な事件?に向き合っていく
三十路を過ぎた堅物な同心と謎で軟弱な絵師の青年による日常と事件と珍道中
「ほんま相変わらず真面目やなぁ」
「そういう与平、お前は怠けすぎだ」
(やれやれ、また始まったよ……)
また二人と一匹の日常が始まる

陰陽師の娘
じぇいど
歴史・時代
時は乱世。京は応仁の乱ですっかり荒れ果て、日本各地で武将たちが戦を繰り返している永禄3年(1560
年)。
勧修寺晴豊は17歳。公家と武家の両方の血を引く彼は、山深き若狭国(福井県大飯郡)に足を踏み入れていた。
政略結婚の相手――かの安倍晴明の末裔である、土御門家の姫に会うために。
朝敵、まかり通る
伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖!
時は幕末。
薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。
江戸が焦土と化すまであと十日。
江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。
守るは、清水次郎長の子分たち。
迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。
ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。

陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――
黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。
一般には武田勝頼と記されることが多い。
……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。
信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。
つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。
一介の後見人の立場でしかない。
織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。
……これは、そんな悲運の名将のお話である。
【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵
【注意】……武田贔屓のお話です。
所説あります。
あくまでも一つのお話としてお楽しみください。

淡き河、流るるままに
糸冬
歴史・時代
天正八年(一五八〇年)、播磨国三木城において、二年近くに及んだ羽柴秀吉率いる織田勢の厳重な包囲の末、別所家は当主・別所長治の自刃により滅んだ。
その家臣と家族の多くが居場所を失い、他国へと流浪した。
時は流れて慶長五年(一六〇〇年)。
徳川家康が会津の上杉征伐に乗り出す不穏な情勢の中、淡河次郎は、讃岐国坂出にて、小さな寺の食客として逼塞していた。
彼の父は、淡河定範。かつて別所の重臣として、淡河城にて織田の軍勢を雌馬をけしかける奇策で退けて一矢報いた武勇の士である。
肩身の狭い暮らしを余儀なくされている次郎のもとに、「別所長治の遺児」を称する僧形の若者・別所源兵衛が姿を見せる。
福島正則の元に馳せ参じるという源兵衛に説かれ、次郎は武士として世に出る覚悟を固める。
別所家、そして淡河家の再興を賭けた、世に知られざる男たちの物語が動き出す。
蘭癖高家
八島唯
歴史・時代
一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。
遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。
時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。
大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを――
※挿絵はAI作成です。
新説・川中島『武田信玄』 ――甲山の猛虎・御旗盾無、御照覧あれ!――
黒鯛の刺身♪
歴史・時代
新羅三郎義光より数えて19代目の当主、武田信玄。
「御旗盾無、御照覧あれ!」
甲斐源氏の宗家、武田信玄の生涯の戦いの内で最も激しかった戦い【川中島】。
その第四回目の戦いが最も熾烈だったとされる。
「……いざ!出陣!」
孫子の旗を押し立てて、甲府を旅立つ信玄が見た景色とは一体!?
【注意】……沢山の方に読んでもらうため、人物名などを平易にしております。
あくまでも一つのお話としてお楽しみください。
☆風林火山(ふうりんかざん)は、甲斐の戦国大名・武田信玄の旗指物(軍旗)に記されたとされている「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の通称である。
【ウィキペディアより】
表紙を秋の桜子様より頂戴しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる