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八月十五日 可愛いあの子
⑨
しおりを挟む「加藤さん、体調は大丈夫ですか?」
加藤さんは静かに頷いた。
「さっきの写真…
あの、玄関に飾られていた昔の写真…
康之さんは写らなかったのかしら…」
私はお気に入りの場所に座る幽さんをチラッと見た。幽さんは加藤さんの言動に懐かしそうに顔をほころばせている。
…何も昔と変わってない。
このふんわりとした雰囲気もそのままだよ。
私はその言葉を加藤さんに伝えてあげたかった。でも、それもグッと我慢する。この我慢が最後まで保てればいいけれど。
「祖母に聞けは分かると思うんですけど、今日はあいにく旅館組合の会合に出かけてて…
帰って来たら、その時に聞いてみますね」
加藤さんはお茶を飲みながら、優しく微笑んでくれた。
「加藤さん、今夜の夕食は六時からとなっていますので、先にお風呂はいかがですか?
今の時間は女性専用だし、それに、まだ人が少ないのでゆっくりと入れると思います」
加藤さんはパッと目を輝かせた。どうやら、温泉が好きらしい。だって、昨日も違う温泉宿に泊ったと言っていたし、温泉好きのせいかお肌もつるつるして見える。
「じゃ、そうさせていただきますね。
さっき旅館の入口でここの露天風呂の写真を見て、素敵なお風呂って思っていたところだったの」
私はそんな風に話す加藤さんに、すぐに浴衣とタオルを渡した。加藤さんはありがとうと小さな声で囁いた。
「お風呂から上がって、ご飯を食べて、そして、ゆっくりとこの部屋で過ごしたい。
康之さんに少しでも綺麗な姿で近づきたいものね」
私はにっこりと笑って、頷くだけだった。刻々と時間が過ぎて行く現実に気持ちが焦って、遠くに見える幽さんを無意識の内に睨んでいる。
…多実ちゃん、怖いよ。
幽さんはいつもの調子で何も変わらない。私はそんな幽さんの事は無視して、加藤さんを大浴場へと連れて行った。
「幽さん、話があるの」
私は加藤さんを大浴場へ連れて行った後、また、109号室へ帰って来た。そして、窓の近くに立っている幽さんへ向かってそう叫んだ。
「ねえ、幽さん…
やっぱり加藤さんのために何かしてあげてほしい。幽さんからのメッセージを、私を通して伝えたらダメ?」
幽さんは私を真っ直ぐに見ている。何だか幽さんの姿は今でもちょっとだけ薄く見えるけど、でも、そんな事を今は気にしている暇なんてない。私は幽さんからの返事を待った。
「それは、僕の中ではまだ決心がつかないんだ…」
私はずっと我慢をしていた涙を解放した。幽さんだけの前ならそれは絶対に我慢なんてできない。
「幽さんのバカ…
いつも誰にも優しい幽さんなのに、何で加藤さんに優しくできないのよ…
加藤さんは心臓が悪くて、もう自分の命は短いって分かってる。だから、こうやって、幽さんに会いに来たんだよ…
東京からこんな田舎に、一人で幽さんのかけらを求めて会いにきたのに、何で、そんな他人事みたいなふりができるの…?」
幽さんは幽霊だけど幽霊じゃない。実体はないけれどちゃんと心はある。それは幽さんの長所であり、今では最悪の短所だった。何も言わず自分を出さない事が、加藤さんのためになると幽さんの心が告げている。
「るりちゃんの寿命は僕もちゃんと分かってる…
もう、そんなに長くない。
それに…
その前に、僕は、多実ちゃんが思っているようないい人間じゃなかった。だって、僕を信じて僕を心から愛してくれた恋人を、さよならも言わずに永遠に一人ぼっちにしてしまったんだから。
だから、僕から何も言う立場じゃない。彼女は天真爛漫で心が綺麗な人だから、今のままでいいんだよ。彼女なりに悩んで苦しんで、そして、今のるりちゃんがいる。あの幸せそうな顔を見たら、尚更、僕の事なんか思い出させない方がいいんだ。僕の事は、一つの思い出として、るりちゃんの心のひきだしの中に眠っていればいい…」
こんな頑固な幽さん、今まで見た事がない。いつもは、多実ちゃんの好きなようにしていいよって笑顔で許してくれるのに。
「眠ってなんかないから、ここまで来たのに…
幽さんのバカ…
もっと、加藤さんの気持ちを考えてあげて…」
私はそう言うのが精一杯だった。祖母が言うように男と女の関係に首を突っ込んじゃいけない。死んでしまった幽さんの事なら尚更の事。
でも、でも…
もし二人に誤解があるのなら、それだけでも解いてあげたい。きっと、誤解だらけだと思うから。
死んでしまった幽さんよりも、加藤さんをその呪縛から解放させてあげたいって思う気持ちはそんなに悪い事?
幽さんを亡くしてからの五十年、幽さんだけを想って生きてきた加藤さんだから、その長い年月に真実で終止符を打たせてあげたい。
私は涙を拭いていつもの精神状態に戻して、大浴場へ向かう。そして、入口の暖簾の前で加藤さんを待った。
こんなに加藤さんの事が気になって心配な私は、一体どうなっているのだろう。やっぱり、これは、素直になれない幽さんの本物の想いだと信じている。だって、幽さんと私は一心同体で、お互い隠し事ができない関係性を必要以上に大切にしてきた親友同志だから。
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