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八月十五日 可愛いあの子
⑦
しおりを挟む「幽さん、もういい!
言わなくていいよ。言わなくていい…」
幽さんは結局死んでしまった。夢や希望は、幽さんを助けてはくれなかった。
私の大好きな幽さん…
何でその時に私は居なかったのだろう…
一人で苦しんでいる幽さんに、手を差し伸べたかった…
「多実ちゃん…
もし、るりちゃんとこういう話をする機会があったら、こう伝えてほしいんだ。
僕が死んだのは君のせいじゃない…
だって、君は、最後まで僕に生きる勇気を与えてくれたんだからって」
私は幽さんを睨んで首を横に振った。私の涙は枯れる事を知らない。きっと、これは幽さんの涙。
「言わない、言いたくない…
そんな大切な事…
幽さんが伝えればいいじゃない…
わざわざこんな田舎まで幽さんを探しに来てくれた加藤さんに、それは幽さんが伝えなきゃ…」
幽さんは困ったように微笑んだ。
「彼女の想いはちゃんと僕に伝わってるよ。でも、僕からは何もできないんだ。
いや、できないというより、何もしない方がいい。
るりちゃんがこの部屋に来て、僕が最後に過ごしたこの部屋で何かを感じてくれたのなら、それだけでいいのかもしれない」
幽さんは涙が止まらない私に、私が大好きな幽さんの笑顔を見せてくれる。
「僕は五十年以上も前に死んでしまったんだ。
僕の時間はあの時で止まってしまったけれど、るりちゃんはその後の未来をちゃんと生きてきた。
だから、僕がしてあげられる事は、るりちゃんの心に小さな癒しを与えるくらい。
その小さな癒しでるりちゃんの心に真っ青な空が広がってくれれば、それだけで僕は幸せだし、きっと、るりちゃんだって今よりほんの少し幸せになれるよ」
カーテンを閉め切っているせいで、外の様子が分からない。
どしゃ降りの雨は少しは止んだかな…
私は悲し過ぎて、もう幽さん達の事を考える事はやめた。そして、気を紛らわすためにちょっとだけカーテンを開けてみる。
「今回は、肝試しツアーだけど、普通のお客様と、いや、普通のお客様より大切に加藤さんの事をおもてなしする。幽さんは好きにしていいよ。私は私のやり方で、加藤さんを迎えるから」
私の投げやりな言葉に、幽さんは肩をすくめる。でも、きっと、幽さんは分かっている。私がここに居る意味を。幽さんも加藤さんも無意識の中で、きっとこの日を待ち望んでいた。五十年の月日は無駄に流れたわけじゃない。私が二人の問題に首を突っ込む事は偶然じゃなく必然で、それに、愛する人を救いたいという気持ちに嘘はつけない。今から究極のお節介をしようとする自分への、ただの言い訳なのかもしれないけど…
旅館の前のバス停に停まるバスは、一日中降っている雨のせいで時間がかなり遅れていた。
私は加藤さんの事が心配で、ずっとバス停の前で待っている。すると、十五分遅れでやっと緑色のバスが見えた。急な坂道を上ったところがうちの旅館だ。加藤さんはバスの窓から私を見つけると、嬉しそうに手を振ってくれた。
「加藤さん、疲れたんじゃないですか?」
私は加藤さんに傘をさしかけながら、そう聞いてみる。
「全然、大丈夫よ。この雨のしずくで夏の緑の葉っぱがとても綺麗に見えて、ちょっと得した気分」
私は加藤さんの荷物を受け取ると、降りしきる雨から加藤さんを守りたいと思った。大きめの傘を加藤さんの方へ向ける。すると、何だか心の迷いが消えた気がした。
幽さんの気持ちはよく分かった。でも、ごめんね、やっぱり今日は加藤さんの気持ちを優先させて…
旅館の玄関に入ると、お父さんが出迎えてくれた。加藤さんは感慨深そうに旅館を隈なく眺めている。
「多実、本当に、109号室に泊めるのか?
今日は空き室があるから、変更してもいいんだぞ」
加藤さんを見たら、誰だってそう思うだろう。加藤さんは高齢にはなるけれど、小綺麗にしていて育ちの良さが垣間見える。こんな素敵な人が、あのオンボロ部屋に泊まるなんて、何も知らない人なら理解ができないのは当たり前。
「何だか不思議な人で、あの部屋がいいんだって。
私も何度も聞いたんだけど…
でも、大丈夫。お客様がお休みになるまでは、私が話し相手になるから」
お父さんはホッとしたように微笑んだ。
加藤さんは壁に飾られている昔の古い写真に釘付けになっている。すると、お父さんがその写真の説明をし始めた。まだ工場があって栄えていた頃の商店街の写真や、その工場を撮った写真もある。でも、何よりも加藤さんの目が離れない写真は、この旅館の前で撮ったその頃の従業員と一部のお客様が写っている写真だ。
「これは何年位前の写真でしょうか?」
お父さんは目をキラキラさせて質問してくる加藤さんに、ちょっと戸惑っている。
「この写真は、まだ僕が生まれていない頃の写真なので、五十年程前になります。
僕が今年で四十七歳なので」
加藤さんはお父さんを見て優しく微笑んで、でも、またすぐに写真に視線を戻す。お父さんがいるから私は何も言わないけれど、加藤さんはきっと幽さんを探している。このたくさんの人の中に幽さんがいるかもしれないと思って、夢中で写真を見ている加藤さんの瞳は何だか潤んで見えた。
「加藤さん、じゃ、お部屋に案内します」
私の言葉に加藤さんは嬉しそうに目を輝かせた。そんな加藤さんを見てお父さんは不思議そうに微笑んでいる。
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