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八月十五日 可愛いあの子
➄
しおりを挟む雨のせいで少し遅れたバスに私は急いで乗り込んだ。私はこの偶然のような出来事を大切にしたいと思った。どういう結末になろうとも、この日が来てよかったと笑って話せるように努力する。
バスの窓に叩きつける雨粒が、幽さんの過去の涙に思えてしまう。苦しかったから、辛かったから、幽さんは仕方なく命を落とした。その原因が、もしも加藤さんにあったとしても、私は恐れずに二人に向き合いたい。
ボタンの掛け違いで不幸になる人はたくさんいる。二人の関係が、本当にボタンの掛け違いで振り回されているのなら、私がそのボタンをちゃんと掛け直してあげたい。きっとそうするために私はこの歳まで幽さんと繋がっていたのだと、今ではそう思えるから。
「ただいま」
旅館に着いた時は、もうお昼の十二時を回っていた。田舎のバスは雨になると利用客が大幅に増える。そのため、いつもは四十分で済むところが五十分以上もバスに揺られてしまった。
「おかえり。109号室はおばあちゃんが掃除しといたからね」
カウンターに座っていた祖母が、笑顔でそう言った。
「おばあちゃんが?」
私の驚いた顔に祖母は目を丸くして首を傾げた。
「何だい、おばあちゃんが掃除したらおかしいのかな?」
情緒不安定な私は、そんな祖母の言葉にさえ涙が出そうになる。
「だって、おばあちゃん…
あの部屋の事、よく思ってないのかと思ってたから…」
祖母は皺くちゃの目じりを更に下げて私を見る。
「あの部屋の事をよく思ってないんじゃないよ…
助けてあげられなかった自分が悔しくなるだけ。
あの部屋は、きっと、おばあちゃんにとって、いい思い出も悪い思い出もたくさん詰まった場所で、まだ、何も解消されていない部屋だから」
時間の導きというものがあるのなら、きっと、加藤さんの存在が、この旅館の開けてはいけない場所を簡単に開けてしまうのだろう。だって、祖母がこんな話をする事自体が珍しいしあり得ない。
「そっか…
あ、でも、今日は、ありがとね。私の代わりに掃除してくれて」
私は冷静に平常心を保った。三時になったら訪れる意味のあり過ぎるお客様を、一般のお客様と同じ態度で迎えなければならない。
そして、私は109号室へ向かった。きっと、幽さんは、おばあちゃんが掃除に来て、目を丸くして驚いたに違いない。そして、そのずっと前に、もう加藤さんが来る事を察している。幽さんは幽霊だから、変なところで勘がいい。サプライズなんて無理。幽さんは何でも分かっている。
「幽さん、いる?」
私が109号室へ入ると、部屋の中が明るかった。おばあちゃんが窓のカーテンを全開にしているせいだ。私はすぐにカーテンを閉じ、薄暗い中でまた幽さんを呼んだ。
「幽さん…?」
二度目の呼びかけで、幽さんはいつものお気に入りの場所まで出てきてくれた。壁によりかかり笑みを浮かべて私を見ている。
私はハッとした。幽さんの姿がいつもより薄く見える。瞬きをして何度見ても、やっぱり幽さんの姿はぼんやりとしていた。
「幽さん?
幽さんの姿がいつもより薄く見えるけど、何でだろう…
気のせいかな、それとも私の視力が落ちちゃったかな」
幽さんはそれでも微笑んでいる。
「それは、多実ちゃんが大人になった証拠だよ。
そっか、僕が多実ちゃんの世界から消えるのももう時間の問題か、寂しいな」
私は、私の頭の中がグチャグチャなのは分かっていた。それに、更に輪をかけて幽さんの姿が薄く見えるなんて、色々な想いが混ざり合って理路整然と加藤さんの事を話し合うなんて無理かもしれない。
そんな私の頭の中を知ってか知らずか、幽さんは困ったように微笑んだ。
「もう、幽さん…
分かってるんでしょ…?」
その言葉を発しただけで、私の瞳はまた洪水状態だ。幽さんの前では、私はいつも小さな子供に戻る。学校で辛かった事や苦しかった事があった時、お父さんや祖母の前では泣かず、いつも幽さんの前で泣いた。幽さんの柔らかい笑顔は、何も言わなくても私のすり減った心に癒しを与えてくれた。
だから、幽さんの前ではいつも言葉より先に涙が出る。幽さんは、そんな私をいつもの優しさで静かに包み込んでくれる。
「多実ちゃんの動揺ぶりは、僕の頭にビンビン届いてるよ」
私は幽さんが薄く見えるのはこの涙のせいだと思った。今日だけでどれ程の涙を流しているか、そう思っただけで少し気持ちが楽になる。
「幽さん、怒ってない…?」
私は嗚咽で肩を震わせながら、幽さんにそう聞いてみた。
「怒ってないよ。僕が多実ちゃんのする事に怒った事はないだろ?」
私はシャツの半袖のところで涙を拭いながら、大きく頷いた。
「幽さん、会ってほしい人がいるの…
加藤るり子さんっていう人…
幽さんのかけらをずっと探してるって言ってた…」
私は幽さんの戸惑いを見逃さなかった。加藤さんが抱いている想いと幽さんが抱いている想いは決して同じじゃない。私は、そう分かっただけで胸の鼓動が止まらなくなった。
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