本物でよければ紹介します

便葉

文字の大きさ
上 下
30 / 43
八月十五日 可愛いあの子

しおりを挟む



 私は、今、駅のバス停に一人佇んでいる。
 朝から降っている小雨は昼に近づくにつれ本降りの雨になり始めた。ザアザアと路面に打ちつける音がうるさくて、でも、不思議と心地よい。
 今の私の心情に似ている。あの店で加藤さんに幽さんの存在を話した事は、これからの加藤さんや、幽霊だけれども普通の人間と同じ心を持つ幽さんにとって、いい事だったのか分からない。
 あの時の私は伝えたいという思いが勝って、後先の物事を深く考えられずにいた。今になって胸の奥がドキドキしている。この話が真実であれば、私は完璧に首を突っ込み過ぎている。



「幽さんは、いや、その方は、あの部屋で、ちゃんと生きてます…
 生きてますって言うと変かもしれないけど、何だか上手く表現できないけど、でも、やっぱり、ちゃんと生きてます…
 あの頃の二十六歳のままで、優しくて穏やかな幽さんが…」

 加藤さんの驚いた顔も可愛かった。目をぱちくりさせて口に手を当てている。そして、ゆっくりと加藤さんの大きな瞳を涙の粒が覆い始める。

「居るの…? 康之さんが…?」

 幽さんの名前は、柴田康之というらしい。私にとっては馴染みのない名前だけど。

「居るの?って言われれば、居ないです…
 加藤さん…
 ここからの話は、夢物語として聞いて下さい。
 そして、最後まで聞き終わった時に、ご自分がどうされるか決めて下さい」

 私の抽象的な説明に、加藤さんはちんぷんかんぷんな顔をしているけれど、でも、とりあえずは頷いてくれた。私は小さく息を吐いた。全ての責任は全部私が請け負うと心に言い聞かせて。

「幽さんは… 
 あ、その康之さんは、いや、康之さんの魂は、あの109号室にまだいらっしゃいます。
 ま、まずは、私と康之さんの不思議な関係から説明しますね。
 あの部屋で亡くなってしまった康之さんは、どこにも行く場所がなくて、今でもあの部屋で暮らしています。
 私は、物心ついた時から康之さんの姿は見えていました。あの旅館にいる人達の中では、きっと、私だけ。
 本当に小さい頃からなので全く怖くなくて、康之さんは加藤さんがいうように温厚で優しい人。
 そんな康之さんは、小さい時から一人っ子の私の話し相手でした。大きくなるにつれ、康之さんが幽霊である事を知り、あの109号室で自殺をしてしまったと知りました。でも、今でも私にははっきりと康之さんが見えますし、今でも大好きな友人なんです」

 私の中で感情が高ぶって、幽さんの事を想うだけで涙が止まらない。私は、さっき加藤さんから借りたハンカチで、何度も涙を拭った。

「幽霊のくせにいい人で、私や旅館を助ける事ばかり考えてくれる。だから、私はいつも神様に祈ってます。
 幽さんは自殺したから天には上がれないのかもしれないけど、でも、今の幽さんを見て下さいって…
 こんなに優しい幽霊はいませんって…
 どうか、幽さんの家族や愛する人の待つ天国へ上げて下さいって…」

 完全に話が脱線している。でも、私の幽さんへの溢れる想いを幽さんが愛した幽さんの大切な人に知ってもらいたい。そして、幽さんを受け入れてほしい…実体はない魂だけの幽さんを怖がらず愛してほしい…

「私がその109号室へ行っても、康之さんを感じる事はできる…?」

 加藤さんも泣いていた。加藤さんはきっと怖がったりなんかしない。だって、亡くなった幽さんのかけらを探す旅をしていたくらいだから。

「それは、分かりません。
 この幽さんとの関係は私と幽さんだけの特別なものみたいで、他の人が幽さんを感じ取れるのかって言われたら、それは何とも言えないんです…」

 私はこぼれ落ちる涙をもう一度拭った。

「加藤さん…
 私のこの話を信じてくれますか?

 私のこの話を聞いて、このツアーに参加するしないをもう一度考えて下さい。
 加藤さんが109号室に泊まって、何かを期待していたのに何もなかったっていう事も多いにあり得ます。
 その時の加藤さんの気持ちを考えたら、私も絶対に来てくださいとはやっぱり言えません。
 だから、慎重に考えて下さい。
 もし、ツアー自体をキャンセルするのなら、キャンセル料はいただきませんので…」

 幽さんと加藤さんの本当の関係を私はよく知らない。加藤さんから聞いた話しか知らない私は、もしかしたら、究極のいらぬお節介をしようとしているのかもしれない。
 でも、自分の直感に賭けてみる。一目見た時から湧き出る加藤さんへの保護本能や恋心に似た胸のときめきを、ただの偶然にはしたくない。
 しばらく時間が経ち、加藤さんは笑顔で私を見て頷いた。

「多実さん、今日、109号室に泊めて下さい。
 何も期待はしてない…
 だって、彼は、もう死んでしまっているのだから…」

 私は胸に込み上げるものを必死に飲み込んで、泣き笑いの顔で大きく頷いた。
 そして、加藤さんはチェックインの時間までこの街の観光地を回ると言って、甘味処やを後にした。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

王子様な彼

nonnbirihimawari
ライト文芸
小学校のときからの腐れ縁、成瀬隆太郎。 ――みおはおれのお姫さまだ。彼が言ったこの言葉がこの関係の始まり。 さてさて、王子様とお姫様の関係は?

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

【セリフ集】珠姫の言霊(ことだま)

珠姫
ライト文芸
セリフ初心者の、珠姫が書いたセリフばっかり載せております。 一人称・語尾改変は大丈夫です。 少しであればアドリブ改変なども大丈夫ですが、世界観が崩れるような大まかなセリフ改変は、しないで下さい。 著作権(ちょさくけん)フリーですが、自作しました!!などの扱いは厳禁(げんきん)です!!! あくまで珠姫が書いたものを、配信や個人的にセリフ練習などで使ってほしい為です。 配信でご使用される場合は、もしよろしければ【Twitter@tamahime_1124】に、ご一報ください。 覗きに行かせて頂きたいと思っております。 特に規約(きやく)はあるようで無いものですが、例えば劇の公演で使いたいだったり高額の収益(配信者にリアルマネー5000円くらいのバック)が出た場合は、少しご相談いただけますと幸いです。

飴玉と飛行士

キウサギ
ライト文芸
飴玉の詰め合わせみたいな作品にしたいと思います。私の弐作目さん。短編集みたいな感じの予定。一応のR15保険

日給二万円の週末魔法少女 ~夏木聖那と三人の少女~

海獺屋ぼの
ライト文芸
ある日、女子校に通う夏木聖那は『魔法少女募集』という奇妙な求人広告を見つけた。 そして彼女はその求人の日当二万円という金額に目がくらんで週末限定の『魔法少女』をすることを決意する。 そんな普通の女子高生が魔法少女のアルバイトを通して大人へと成長していく物語。

昆虫採集セットの正しい使い方

かみゅG
ライト文芸
 私が子供の頃に暮らしていた場所は田舎だった。  古き良き昭和の空気が漂う場所。  そう言えば聞こえはよいが実態は違う。  過疎が進む田舎だった。  そこには四人の子供達がいた。  安藤アオイ。  学校で唯一の男の子で、少しワガママ。   安藤アンズ。  アオイの双子の妹で、甘えっ子。  加藤カエデ。  気が強くて、おませな女の子。  佐藤サクラ。  好奇心が旺盛だけど、臆病な女の子。  どこにでもいる子供達だが、田舎に暮らしているおかげで純粋で無邪気だった。  必然的にそうなる環境だったし、それが許される環境でもあった。  そんなどこにでもある田舎の思い出話を、少し語ろうと思う。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

処理中です...