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八月十三日 厄介な二人組
⑨
しおりを挟む「あの、それじゃ、こちらの片付けが終わったら、お布団を敷きにまた伺いますね」
私は洗い物はお父さん達に任せて、その短い時間を使ってシャワーを浴びた。
今夜は長期戦になるかもしれない。暗闇が深まると、人間の負の部分が必要以上に騒ぎ出す。久美子さんの時がそうだったように。
そして、私はお父さんに手伝ってもらって、二組の布団を109号室まで運んだ。お父さんは部屋の入口に布団を置くと、ゆっくり休んで下さいねと言って部屋を後にした。
私は二人の様子を窺いながら二組の布団を隣合わせに敷いた。部屋自体が狭いせいで離して敷く事はできない。私は真っ白にクリーニングされたシーツを布団の中にたくし込んでパンパンと皺を伸ばした。
「おい、お前もここにいるんだろ?」
お前って、え、私に言ってる?
私は手を動かしながらその男の方を見てみると、どうやらお前の対象は私らしい。
「え、私ですか?」
布団を敷き終わった私は、驚いた顔でそう聞いた。
「あんな変な怪奇現象があったのに、それでいて他の部屋は開いてなくて、お客を何だと思ってるんだ。
何かあった時のためにお前もこの部屋にいろ」
私は鈴木さんの方を見た。鈴木さんは気の毒そうな目で私を見ている。
「分かりました」
私がそう言ったと同時に、LED電球に替えたばかりの電灯がチカチカと二回点滅した。その後にジージーと古いぜんまいを回す音がする。
私はゾッとした。背中に冷たいものが走る。だって、私の目に映る幽さんも驚いた顔をしているから。これは幽さんの仕業じゃない。
彼の方も耳を塞いで目をギュッと閉じている。自分が対象だと分かった今、彼の恐怖の感じ方は強烈なものだろう。だって、私だってこんなに怖いのに。
「大久保さん…」
鈴木さんのその声に私は嫌な予感がした。この声の感じ、以前も聞いた事がある。そう、久美子さんがあの蛇に憑かれている時と似ている。そして、私は呼ばれたから、鈴木さんを見るしかなかった。
「…はい、何でしょう」
鈴木さんはいつの間にか立ち上がっていた。私は恐怖のあまり言葉が出ない。
…多実ちゃん、どうやら、僕の力は必要ないみたいだ。
彼女の魂は完全に切り離されてる。
黒い塊になってこの部屋を行ったり来たりしてるよ。
…それは、い、生霊なの?
幽さんはスッと消えていなくなった。そんな時は、幽さんも何か力を使う時だ。私は、また視線を鈴木さんに戻した。
「鈴木さん、どうしたんですか? お布団敷いたから、そこに横になって」
私の言葉は途中でかき消された。でも、鈴木さんのターゲットは私ではない。
飾り用に置いていた太くて短いろうそくが急に壁に打ちつけられた。丈夫なはずのろうそくが粉々に壊れている。そして、もう一本のろうそくも静かに宙に浮いていた。ふわふわ上下に揺れながらまた物凄い勢いで、今度はその彼氏の元へ飛んでいく。
あっという間の出来事だった。そのろうそくは彼の右頬に当たって砕けた。男は激痛のあまり大きな声を出して前に倒れ込む。
「鈴木さん…」
私は心の底からゾッとした。目の前に立っている鈴木さんはこの世の人間じゃない。
子供の頃にセミの抜け殻を見つけた時を思い出した。もう、中身は飛んで行ってここにはいないんだ… その時に抱いた感情と似ている。
そう、鈴木さんはここにはいない。ここに居るのは、ここに立っているのは、鈴木さんの抜け殻。目は虚ろでその視線は誰もいない壁に向けられている。そして、その異様なビジュアルは109号室のどんな物を持ってきても太刀打ちできない。それほどの不気味さと圧倒するほどの恐怖感で、その場にいる人間を凍りつかせた。
…多実ちゃん、男の命が本気で危ないかもしれない。それくらい彼女の怨念が頂点に達してる。
多分、この部屋や、僕の存在が、彼女の邪悪な部分を刺激しているみたいだ。
…幽さん、どうすればいい?
私はそう聞いた後、すぐにあの男に目を向けた。さっきろうそくが当たった右頬は見る見るうちに腫れて、下の瞼が機能していない。そして、それ以上に鳥肌が立ったのは、その腫れている右頬が、鈴木さんがこの男にぶたれた箇所と同じだった事。
…この部屋から、いや、彼女から逃げた方がいい。
その男が本気で彼女と別れたいと思ってるなら、何か証拠を見せるか残すかしなきゃ、このパワーは簡単には治まる事はないと思う。今までの彼女の恨みつらみが相当過ぎて、彼女の意識のないところであの男を痛めたがってる。
私はその男の近くに行こうとしたが、体が石のように重く感じ全く動かない。
…あいつの近くにいくんじゃない。
伝えたい事があればここから叫んで伝えろ。
いつも温和な幽さんが珍しく私に命令をした。それほど今の状況が切羽詰まっている証拠だった。幽さんは何よりも私の安全を優先する。
「あの、鈴木さんから今すぐ逃げて下さい。
でも、逃げるだけじゃダメ!
今持っている鈴木さんの持ち物、キャッシュカードとか通帳とか、そういう物を持ってれば全部置いて行って下さい」
その男の顔は苦痛で歪んでいる。そして、よく見ると右腕が変な風に曲がっていた。
「謝って! 鈴木さんにごめんって謝って!
もう二度と暴力は振るわないって、何度も謝って!」
その男は苦悶の表情で私を見た。その男の悶え苦しむ姿が鈴木さんとオーバーラップして見える。そう、きっと、この姿が今までの鈴木さんの姿。そう思うと、不思議と、このまま死んでしまえと辛辣な感情が湧いてくる。
…多実ちゃん、正気に戻って!
このほたる荘で、死人を出したくないだろ。
私はハッと目を覚ました。そして、また大きな声で叫ぶ。
「死にたくなかったら、心から鈴木さんに謝って」
その男は痛みにのたうち回りながら、必死に声を上げる。
「里美… 許してくれ…」
そう言ったと同時に、その男の体は電気が走ったみたいに飛び跳ねた。
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