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その手の人
➄
しおりを挟む彼女の意識があの蛇の姿をした邪悪なものに支配されているのなら、私の中では幽さんが私を操っている。幽さんみたいな自殺者を出しちゃいけない。私は何かに急かされるように、彼女の食べる姿に意識を戻した。もう、何度もあんみつを口に放り込んでいる。彼女の顔の色は優しいクリーム色に変わり、そして、その顔には柔らかな笑みが浮かんできた。
「何だか、久しぶりな気がする。
こんな風に夢中で食べ物を食べるなんて」
「このあんみつは絶品なんです。
よかったです、気に入ってもらえて」
私は素直に嬉しかった。祖母の愛情のこもったあんみつは、きっと血の繋がらない彼女にも家庭の温かみを思い出させてくれるはず。
「私の母は… 私の母も料理が上手い人だった。
裕福じゃなかったから、少ない材料で、でも、私の大好きな味付けで私のために毎日料理を作ってくれた」
彼女の顔からまた笑みが消えていく。
「その中でも、何の料理が一番好きだったんですか?」
彼女は下を向いたまま、小さく微笑む。
「定番になっちゃうけど、やっぱり肉じゃがかな。お肉がその日によって色々な物に変わるの。
豚肉や鶏肉はしょっちゅうで、たまにシーチキンやソーセージの時もあった」
私は驚いたように微笑んで、でも、美味しそうと呟いた。
「じゃ、今でも、実家に帰られたら、肉じゃがを作ってもらうんですか?」
私って本当にバカ。
彼女の受け答えをちゃんと聞いていたら、その言葉は全て過去形だという事に気付いたはずなのに。
彼女の瞳はまた大粒の涙に支配される。
…幽さん、私、無理かもしれない。気を遣って会話をしていたつもりだけど、何だかドツボに嵌まった。
幽さんは目を細め、彼女の動向を伺っている。私が、柱の時計に目をやると、もう夜の九時をとうに過ぎていた。
…ううん、それでいい。とにかく、彼女の中から何でもいいから、話したい事を引き出してほしい。
あいつが顔を出したら、その時は僕が対峙する。
多実ちゃんは、彼女を守ってほしい。ただ話を聞いてあげるだけでいいんだ。彼女は彼女の中で必死に戦っているはずだから。
あいつ?
私には蛇の姿に見えているあの気持ちの悪い物は、幽さんには人間に見えてるの?
私はゾッとした。お客様を怖がらすための企画なのに、主催者の私が実に恐ろしい経験をしようとしている。私は、幽さんの姿を目で追った。彼女を凝視している幽さんは、チラッと私を見て肩をすくめる。まるで、私の心の言葉が全部分かっているように微笑んで。
「母は、三年前に亡くなりました」
彼女は意を決したように、自分の過去に向き合い始めた。
「すい臓がんで、分かった時にはもう手の施しようがない状態で…
でも、その頃、私にはつき合っている彼氏がいて、母が死んで途方に暮れていた時に、君は一人じゃないからって優しく抱きしめてくれて。
彼がいたから、私はどうにか頑張れた。
母一人子一人の家族だったけど、家族以上に私の事を想ってくれる人が近くにいる。
彼は、私より年下だったけど、結婚を前提に真剣につきあってくれた…」
くれた…って、私はまた嫌な予感がした。全て過去形の彼女の会話に、絶望に似た喪失感しか覚えない。私は黙って聞いた。余計な事は言わない。今は、彼女の心の叫びを引き出すだけだから。
「実は、その彼も三か月前に亡くなったんです。
趣味でバイクに乗る人だったんだけど、その大好きなバイクで事故ちゃって…
即死でした。その日の朝、私に笑顔で手を振って、その日の夕方には帰らぬ人になって…」
私はただならぬ気配を感じていた。古めかしい電灯はさっきまで柔らかい温もりのある明るさで私達を包み込んでいたのに、今は、バチバチと変なラップ音を響かせて、今にも消えてしまいそう。
彼女のすすり泣く音が、ますますその異常な雰囲気を加速させる。消したはずのテーブルのろうそくに、小さな火が灯った。私は、あまりの驚きに体が動かない。
…多実ちゃん、何か話して。
それでもあなたは一人ぼっちじゃないって、何でもいいから喋り続けて。
私は頭の中で幽さんの言葉を聞きながら、目は幽さんの姿を探した。テレビ台に置いていたろうそくもついたり消えたりを繰り返している。
「あ、あの、でも、お客様は一人じゃないです。
目には見えないけど、亡くなったお母様や、大好きだった恋人が必ず近くにいてくれます。
わ、私には、分かるんです」
彼女の伏し目がちな瞳は、私の話に一筋の希望を見出した。無意識に言い切った私の言葉が彼女の胸に響いたのだったら、幸運としか言いようがない。
部屋の中では、何かが必死に戦っている。不規則な空気の動きが私の肌をかすめ、馴染みのないラップ音が私の耳にこだまする。そして、静まり返る部屋の中で、何かがぶつかり合うイメージが私の頭にどんどん流れ込んできた。
でも、その攻防は、幽さんの力によって私の目に映る事はない。すると、大人しかった彼女が急に声を荒げた。
「何が分かるんですか?
大切な人を二度も失った私の気持ちの何が分かるんですか?
死にたい、死んで二人の元へ行きたい…
そんな事ばかり考える私の近くに、お母さん達がいるなんて考えられない」
伏し目がちな彼女の目が、虚ろに畳の縁を彷徨う。畳の縁を辿れば天国へ行けるとでも思っているみたいに。
「て、天国には行けない。
自分で命を絶った人は、天国には行けないんです。
幽さんが、あ、私の友達なんですけど、その人が言ってました。死んで楽になると思ったら大間違いだって。
自殺なんかしちゃったら、永遠に、何千年も、何億年も、ずっと一人ぼっちだって」
死に急いでいる人達に、私のこんな幼稚な言葉が届くとは思えない。でも、この話は真実だ。だって、自殺してしまって地縛霊になった幽さんが、悔しそうにそう話してたから。
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