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夢の館で 三
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「旦那様、お忘れですか? 私は二十年近くまえにもこんな状況をくぐりぬけて、母を看取ったのですよ」
「ああ……、そうだったな」
氏は懐かしむように目を遠くに向けた。
「あのときもパリは騒然としていてひどい混乱だったが……。あのころは、私がまだ新聞記者をしていたときだ」
ブルーム氏の厚みのある手が、ベッドの側に跪いているマルゴの頭を撫でた。
「あのときもひどい騒ぎだったな。私は三十になったばかりで……血気に燃えて、街を走っていたよ。そうだ、あのときだ。ユゴーが逃亡したのは」
貴族院の議員でもあり、ナポレオンの独裁的なやり方に反対していたユゴーは、クーデターが起こった当時、弾圧の対象とされ、国外への亡命を余儀なくされた。だが、そんな高名な作家の名を出されても、マルゴには今ひとつ響かない。女中には本を読む時間などそうないのだ。
「あのころ、私は最初の妻を亡くした……」
クララの母であるアデル夫人はブルーム氏にとって二度目の妻である。偶然だが、最初の妻もアデルといい、その女性は子を産むこともなく二年間のみじかい結婚生活のはてに肺を病んで亡くなったとマルゴは聞いている。
「私はその年に母を亡くしました」
ヴァイオレットの静かな言葉に、ブルーム氏は黒い瞳に同情と愛情をきらめかせた。
「思えば……あの混乱のとき、君の家に逃げこんだんだったんだな」
「ええ……最初はびっくりしました。警察か兵隊かと思って」
「兵隊に追われていたのは私だ。反乱軍だと思われて、追われて、路地をさまよって、君の家に転がりこんでしまった……。あのときの君の驚いた顔……今でも忘れないよ。君は、うら若い乙女で、死にゆく母親を必死に看病していた……」
二人の会話は続いた。
「母は……あなたがうちに来た二日後に亡くなりました。私にとってはたった一人の身内でした。父とはほとんど顔を合わすこともなかったですし。あなたがいてくれて良かった。私一人だったらあの孤独と恐怖に耐えられなかったでしょう」
ブルーム氏の黒い目とヴァイオレットの淡い青い目が互いに相手を見つめ、老いはじめた男と中年女の姿のそれぞれの向こうに、まだ若く青春の情熱と輝きにあふれていた季節を見ているようだ。
マルゴはどことなく居心地悪い気がしてきてばつが悪くなってきた。まるで自分がここにいることが、ひどく無粋で出しゃばりな真似をしているような心持ちで、そう感じた次の瞬間、ひどく苛立たしい想いが込みあげてくる。それは、ブルーム氏に対してではなく、ヴァイオットに対してだ。
「ああ……、そうだったな」
氏は懐かしむように目を遠くに向けた。
「あのときもパリは騒然としていてひどい混乱だったが……。あのころは、私がまだ新聞記者をしていたときだ」
ブルーム氏の厚みのある手が、ベッドの側に跪いているマルゴの頭を撫でた。
「あのときもひどい騒ぎだったな。私は三十になったばかりで……血気に燃えて、街を走っていたよ。そうだ、あのときだ。ユゴーが逃亡したのは」
貴族院の議員でもあり、ナポレオンの独裁的なやり方に反対していたユゴーは、クーデターが起こった当時、弾圧の対象とされ、国外への亡命を余儀なくされた。だが、そんな高名な作家の名を出されても、マルゴには今ひとつ響かない。女中には本を読む時間などそうないのだ。
「あのころ、私は最初の妻を亡くした……」
クララの母であるアデル夫人はブルーム氏にとって二度目の妻である。偶然だが、最初の妻もアデルといい、その女性は子を産むこともなく二年間のみじかい結婚生活のはてに肺を病んで亡くなったとマルゴは聞いている。
「私はその年に母を亡くしました」
ヴァイオレットの静かな言葉に、ブルーム氏は黒い瞳に同情と愛情をきらめかせた。
「思えば……あの混乱のとき、君の家に逃げこんだんだったんだな」
「ええ……最初はびっくりしました。警察か兵隊かと思って」
「兵隊に追われていたのは私だ。反乱軍だと思われて、追われて、路地をさまよって、君の家に転がりこんでしまった……。あのときの君の驚いた顔……今でも忘れないよ。君は、うら若い乙女で、死にゆく母親を必死に看病していた……」
二人の会話は続いた。
「母は……あなたがうちに来た二日後に亡くなりました。私にとってはたった一人の身内でした。父とはほとんど顔を合わすこともなかったですし。あなたがいてくれて良かった。私一人だったらあの孤独と恐怖に耐えられなかったでしょう」
ブルーム氏の黒い目とヴァイオレットの淡い青い目が互いに相手を見つめ、老いはじめた男と中年女の姿のそれぞれの向こうに、まだ若く青春の情熱と輝きにあふれていた季節を見ているようだ。
マルゴはどことなく居心地悪い気がしてきてばつが悪くなってきた。まるで自分がここにいることが、ひどく無粋で出しゃばりな真似をしているような心持ちで、そう感じた次の瞬間、ひどく苛立たしい想いが込みあげてくる。それは、ブルーム氏に対してではなく、ヴァイオットに対してだ。
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