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鬼女 三
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二人で廊下を走り、簀子をぬけ、北の建物への架け橋となる、水上の透渡殿を千手に手をひっぱられて、死に物狂いになって走りました。場違いなほどのどかなせせらぎがかすかに聞こえてまいります。
「お待ち! 待てというのに!」
背後からせまってくる山吹の声がおぞましくてなりません。
「こっち、ここへ!」
北の御殿につくや、小さな格子戸をあけると、千手は塗籠のなかへわたくしをそこへひっぱりこむようにしてかくまってくれました。
「ここなら大丈夫。あいつには見えないから」
どうして千手がそのようなことを言えるのか、わたくしは疑問に感ずる暇もなく、唐櫃や厨子などお道具のならべてあるはざまにうずくまると、こらえていた啜り泣きをこぼさずにはおれませんでした。
なんということでしょう。山吹がわたくしを生んだ母で、自分の利の為にわたくしを平気で犠牲にしようとしているのでございます。祖母となる尼君はそれを止めることもできず、ただなすすべなく山吹のしたいようにさせているのでございますから、わたくしはいっそ記憶をなくして、なにも知らぬままに山吹の手によって寝首でもかかれていた方が救われた気がいたします。けれど、そんなわたくしの小さな慟哭をおさえこむように、おねえさん、しずかにして、と千手がつぶやきました。
「千早、千早、どこにいる?」
ふだん走ることなどない山吹は疲れたように息をきらせながら、それでも長い廊下をわたってわたくしたちのこもっている塗籠の近くまでせまってまいります。
言われて、格子のはざまから恐る恐る目をこらしますと、不気味なことに、こちらへ歩いてくる山吹の全身が、蛍のようにほのかに光っているのでございます。
光っているといっても、それは月星や宝珠のような美々しく麗しい光りかたではございません。なにやら不気味な、例えていうならば、浅瀬に浮かぶ魚の死骸が腐敗して燐光をはなっているような、どろっとした鈍い光りようなのでございます。
(あっ!)
わたくしは内心、声をあげてしまいました。
「小娘が……、待てというのに」
はぁ、はぁと息をはく山吹のすがたが、吊り灯篭の明かりに照らされた瞬間、そこに小さな地獄絵巻がひもとかれたのでございます。
そこに見えたのは、ひからびて乾ききった土色の肌に、今にも髪がごっそり抜け落ちそうな骸骨を着物のうえに乗せている、醜悪な生き物でございました。それは山吹であって、山吹ではございません。わたくしは目の錯覚かと幾度となく我が目をこすってみました。
「あれは、今は山吹ではなく『ふ望鬼』という鬼なのよ。あの向こうにいる尼だったものもそうよ」
千手が指さすところには、やはり月光に照らされた不気味な生物がおり、よろめきながら、這うようにしてこちらへ向かってまいります。着ているものから、わたくしはそれが尼君であったものだとさとりました。やはり全身が骨と皮ばかりに乾ききり、くぼんだ眼窩からはぎょろっとした目がかすかに、あんな変わり果てた姿になっても命がまだあることをしめしています。
恐怖よりも驚きに力を得て、わたくしはなんとか気を失わずにおられましたが、身動きひとつできません。
「あの二人は、ここにいるあいだに「ふ望鬼」という鬼になってしまったのよ。自分の生んだ子どもを食べる鬼。気づいていた? ここにいると、ああなってしまうの」
二人、というか二匹の鬼はわたくしたちをさがしてきょろきょろ首をふっておりますが、気づかぬまま廊下を行ったり来たりしております。
さすがにすぐ前をとおったときは、失神しそうになりましたが、鬼たちはすぐそばにいるわたくしたちの気配を感じることなく、獰猛な獣のような動きで去っていきました。
わたくしは恐怖よりも、あまりの浅ましさに涙がこぼれました。人が鬼になったというよりも、鬼だったものが人の皮をかぶっていたのではないでしょうか。
「あの、水辺あたりをさまよっているのは食水鬼。川をわたる人の足のしずくや墓の水を飲んで命をつなぐ鬼。あの女はね、気をうしなったおねえさんが流れてきたとき、美しい衣に目がくらんではぎとったため、その夜から鬼となってこうやってさまよっているの。ここに来るまえは普通の娘だったのに、この霊場の風に当てられているうちに心に邪なものを寄せつけてしまい、鬼となりはててしまったの。あっちのは、主にささげる果物をこっそり盗み食いしたために針口鬼となったの」
お腹のあたりは異様にふくらんでいるのに、顔は骸骨のようにちぢこまっている女房装束の女が、猿のように腰をかがめた獣じみたかっこうで、こそこそと廊下をさまよっております。千手の声には哀れみがこもりました
「ああなってしまうと、もうまともに考える力もないのよ。もうすぐ夜が明けるわ。夜が明けたらまた見た目は人の形にもどるけれども、油断してはだめ。すぐここを出るのよ」
平和な眠りをむさぼっている女房や従者たちもいるのでしょうが、この夜明けまえのいちばん暗い時間、お邸は完全に餓鬼たちに支配される地獄となってしまったようです。
「こ、ここは、いったいなんなの?」
千手がくりかえす「ここ」という言葉に、ちがう意味がこめられているのが感じられ、わたくしは、目はおぞましい鬼たちを追いかけながら、問いました。
「まだ気づかない? ここは、三途の川」
「お待ち! 待てというのに!」
背後からせまってくる山吹の声がおぞましくてなりません。
「こっち、ここへ!」
北の御殿につくや、小さな格子戸をあけると、千手は塗籠のなかへわたくしをそこへひっぱりこむようにしてかくまってくれました。
「ここなら大丈夫。あいつには見えないから」
どうして千手がそのようなことを言えるのか、わたくしは疑問に感ずる暇もなく、唐櫃や厨子などお道具のならべてあるはざまにうずくまると、こらえていた啜り泣きをこぼさずにはおれませんでした。
なんということでしょう。山吹がわたくしを生んだ母で、自分の利の為にわたくしを平気で犠牲にしようとしているのでございます。祖母となる尼君はそれを止めることもできず、ただなすすべなく山吹のしたいようにさせているのでございますから、わたくしはいっそ記憶をなくして、なにも知らぬままに山吹の手によって寝首でもかかれていた方が救われた気がいたします。けれど、そんなわたくしの小さな慟哭をおさえこむように、おねえさん、しずかにして、と千手がつぶやきました。
「千早、千早、どこにいる?」
ふだん走ることなどない山吹は疲れたように息をきらせながら、それでも長い廊下をわたってわたくしたちのこもっている塗籠の近くまでせまってまいります。
言われて、格子のはざまから恐る恐る目をこらしますと、不気味なことに、こちらへ歩いてくる山吹の全身が、蛍のようにほのかに光っているのでございます。
光っているといっても、それは月星や宝珠のような美々しく麗しい光りかたではございません。なにやら不気味な、例えていうならば、浅瀬に浮かぶ魚の死骸が腐敗して燐光をはなっているような、どろっとした鈍い光りようなのでございます。
(あっ!)
わたくしは内心、声をあげてしまいました。
「小娘が……、待てというのに」
はぁ、はぁと息をはく山吹のすがたが、吊り灯篭の明かりに照らされた瞬間、そこに小さな地獄絵巻がひもとかれたのでございます。
そこに見えたのは、ひからびて乾ききった土色の肌に、今にも髪がごっそり抜け落ちそうな骸骨を着物のうえに乗せている、醜悪な生き物でございました。それは山吹であって、山吹ではございません。わたくしは目の錯覚かと幾度となく我が目をこすってみました。
「あれは、今は山吹ではなく『ふ望鬼』という鬼なのよ。あの向こうにいる尼だったものもそうよ」
千手が指さすところには、やはり月光に照らされた不気味な生物がおり、よろめきながら、這うようにしてこちらへ向かってまいります。着ているものから、わたくしはそれが尼君であったものだとさとりました。やはり全身が骨と皮ばかりに乾ききり、くぼんだ眼窩からはぎょろっとした目がかすかに、あんな変わり果てた姿になっても命がまだあることをしめしています。
恐怖よりも驚きに力を得て、わたくしはなんとか気を失わずにおられましたが、身動きひとつできません。
「あの二人は、ここにいるあいだに「ふ望鬼」という鬼になってしまったのよ。自分の生んだ子どもを食べる鬼。気づいていた? ここにいると、ああなってしまうの」
二人、というか二匹の鬼はわたくしたちをさがしてきょろきょろ首をふっておりますが、気づかぬまま廊下を行ったり来たりしております。
さすがにすぐ前をとおったときは、失神しそうになりましたが、鬼たちはすぐそばにいるわたくしたちの気配を感じることなく、獰猛な獣のような動きで去っていきました。
わたくしは恐怖よりも、あまりの浅ましさに涙がこぼれました。人が鬼になったというよりも、鬼だったものが人の皮をかぶっていたのではないでしょうか。
「あの、水辺あたりをさまよっているのは食水鬼。川をわたる人の足のしずくや墓の水を飲んで命をつなぐ鬼。あの女はね、気をうしなったおねえさんが流れてきたとき、美しい衣に目がくらんではぎとったため、その夜から鬼となってこうやってさまよっているの。ここに来るまえは普通の娘だったのに、この霊場の風に当てられているうちに心に邪なものを寄せつけてしまい、鬼となりはててしまったの。あっちのは、主にささげる果物をこっそり盗み食いしたために針口鬼となったの」
お腹のあたりは異様にふくらんでいるのに、顔は骸骨のようにちぢこまっている女房装束の女が、猿のように腰をかがめた獣じみたかっこうで、こそこそと廊下をさまよっております。千手の声には哀れみがこもりました
「ああなってしまうと、もうまともに考える力もないのよ。もうすぐ夜が明けるわ。夜が明けたらまた見た目は人の形にもどるけれども、油断してはだめ。すぐここを出るのよ」
平和な眠りをむさぼっている女房や従者たちもいるのでしょうが、この夜明けまえのいちばん暗い時間、お邸は完全に餓鬼たちに支配される地獄となってしまったようです。
「こ、ここは、いったいなんなの?」
千手がくりかえす「ここ」という言葉に、ちがう意味がこめられているのが感じられ、わたくしは、目はおぞましい鬼たちを追いかけながら、問いました。
「まだ気づかない? ここは、三途の川」
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