三日月幻話

平坂 静音

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「私? 私は……**からよ」
 よく聞き取れませんでしたが、どこかの通りの名前に似ています。
「この街のなかよね?」
「そうね。……来る?」
 アニエスはわたしの右手首をにぎりました。
 反対する間もなく、わたしはアニエスの向かう方向へと飛んでいました。わたしたちはまるで魔女のように三日月夜の空を飛んでいました。いいえ、もしかしたら、わたしたちみたいなことが出来る人間――特に、女を、昔の人は魔女と呼んだのかもしれません。
(おまえの死んだ母親は、魔女だよ。うちの跡取り息子をたぶらかしたんだからね)
 そうやって憎々し気につぶやくお祖母様こそは、わたしから見たら恐ろしい人食い鬼のようでしたが、勿論そんなことは口には出せませんでした。
 ああ……、でも、わたしは本当に魔女なのかもしれません。
 魔女の血をひくからこそ、こんな不思議なことが出来るのかもしれません。わたしたちは手をつなぎ、飛びつづけました。
 どれぐらい飛んだでしょうか。
「ほら、あそこよ」
 地上が近づくと、どこかの通りが見えてきました。小さな店が幾つも連なっています。夜に開いて、明け方近くになって閉店するたぐいの店が集まっているようです。勿論、わたしのような子どもは出入りできませんが。
 わたしたちは地面に着きました。けれど、通りを行き交う人たちは、誰もわたしたちに注意を払いません。恐らく、わたしたちの姿は見えないのでしょう。歩いているのは、ほとんどは酔っぱらった男の人たちばかり。
 そんな男の人の腕に、派手なかっこうの女性たちがしなだれかかっています。わざとらしい笑い声や、陽気な歌声が響き、煙草の煙、お酒や香水の匂い、それに外国の人が好む香辛料の匂いが辺りに漂っています。夜はまだまだ終わりません。
「こっちよ」
 アニエスがわたしの手を引っ張ります。わたしは手をひかれるままに一軒のお店に入っていきました。誰もわたしたちに注意を払いません。誰にもわたしたちは見えないのです。
 
 奥から低い歌声が聞こえてきました。そこは小さなミュージックホールのようです。舞台では褐色の肌の女性が肌もあらわなドレスをまとって歌をうたっています。
 肌の色のちがう女性を見たのは、実を言うと初めてでした。わたしは少し興奮しましたが、アニエスに幼稚だと思われるのが嫌で、何でもないという顔をしていました。
 観客席では酔客すいきゃくたちが面白そうに目をほそめて歌を聞いているようですが、どちらかといえば、目当ては歌より歌手の大きな胸のようです。わたしは大人の世界を覗き見しているようで、ますます興奮してきました。
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