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夜会に鳴く深紅の鳥
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その日はとても暑く、もう夕方だというのに、昼に鳴く虫の声がいつにも増して大きく聞こえていた。
日暮れの藍色に変わり始めた空が、ちょうど大窓の向こうに見える。ああ……今日も一日が終わるのだと、思わずにはいられない夕陽だった。
「父が……私に婚姻をと申してまいりましたわ、ディアス」
アンジャハティは小さくため息をつきながら、寝台にひとり、裸のまま寛いでいる第四皇子ディルージャ・アスを振り返る。
頭の下に腕を組み、彼はどこか遠くを見つめていた。名を呼ぶ声にその黒い瞳は、わずかに細まりこちらに向けられる。
「その様子だと、俺が相手ではないらしいな」
あの出会いの夜から早ひと月。二人の関係が熟するのに、さほど時間はかからなかった。
ずっと宮にこもり、退屈な毎日を暮らしていた〝良家の令嬢〟にとって、彼の存在は新鮮すぎた。
まるで風のようにさっと吹き、あっという間に心も身体も攫っていってしまったのだ。
けれど突然に言い渡された婚約の知らせは、肩を落とさずにいられない相手だった。
もう十八を迎えた娘にしては、婚姻が遅れているのはわかっていた。宰相である父の政治上の理由から、こんなにも先延ばしにされてきたのだ。
ずっと知らぬふりを続けてきたけれど、十四を過ぎた辺りからは、自分が嫁ぐだろう人の名前ぐらい悟ってしまったのも事実。
アンジャハティはため息ながら言葉をつないだ。
「ラジル皇子殿下は、私たちのことは?」
「知らない、と信じたいものだが……まあ無理な話だろうな。この手の噂は、侍女や小姓には恰好の餌になる」
すなわち、広まりやすいということ。城中を頻繁に行き来する「彼ら」は、いわば歩く看板に等しい。ひとたび情報を書き込めば、次の日には多くの者が知るところとなる。
「ならあなたは、お兄様の婚約者に手をお出しになっているということになりますわね」
侍女たちの看板効果は、今回のことも同じ。ディアスと関係を持ったことなど、あっという間に城中に知れ渡る。
「そうだな……だが知ったなら、あの独占欲の塊は黙ってないはずだ」
渋々といった様子で呟くディアスに、アンジャハティは頷いた。
「ラジル皇子殿下はなんというか……」
「気が短い?」
ふ、と笑ってディアスが付け足す。
「…え、ええ、けれど、……そう軽々しく言うものでは」
心中の感想を言い当てられ、口ごもる。いくら本人がいないからと、皇子の欠点などそう口にしていいものではない。
アンジャハティの焦りようを見て、ディアスは楽しげに笑った。
「兄上の取り柄といえばその〝決断力〟ぐらいだ。貴女を奪った俺がどうなるか、お楽しみだな」
冗談を言うように軽い口調で、ディアスは寝台から立ち上がった。寝台のそばの卓に掛けられていた上衣を簡単に羽織り、窓際に立つアンジャハティの隣へと移り来る。
「どうなるかだなんて、」
並んだ視界にしなやかな褐色の胸元が写り込み、アンジャハティは自らの顔が熱くなるのを感じた。
さきほどまでこの広くたくましい胸板の上に、頬を寄せていたのだと考えるとなおのこと。
「わかっていたことではないですか、あの夜だって」
ラジル皇子の祝いの宴に出席しなかったことが、結果裏目に出てしまった。
空いた席の主を尋ねたラジル皇子は、「私の前に出たがらぬとは、大胆な女だ」と笑った。
そばに居た第四皇子を呼び寄せて、直々に連れくるよう命じたところまでは、ほんの遊びのつもりだったらしい。だが、その第四皇子は〝深紅の美〟と噂されるアンジャハティ姫の元から宴の席へと戻ることはなかった。
翌日には広まっていた第四皇子と美姫の恋歌に、気の短さで知れ渡るラジル皇子が憤慨したのは言うまでもないこと。
「俺は後悔していない」
言いながら抱き寄せられて、額に彼の唇を感じる。女のくせに、すくすくと育ちおってと父に嘆かれたこの長身も、彼の前では背伸びしても並べない。その鋭利な顎筋に指を添わせて、アンジャハティは微笑んだ。
宰相である父の命令は、すなわち皇帝の命令にも代わる。
ラジル皇子と婚姻しろと言われれば、逆らいようがないのが現実。それに父にしても、第四皇子に娘が貰われていくより、第一皇子であるラジルの申し出を受けた方が得と見越したのだろう。
第四皇子ディルージャ・アスは、剣技にも秀で軍師の舌すら巻かせるほどの戦才の持ち主だった。けれど、所詮は第四皇子。兄三人が突然死でもしないかぎり、彼の未来に玉座は無い。
「アンジャハティ」
ディアスの濡れた唇が、ゆっくりと額から首元へ降りくる。心地よさに目を閉じて、彼の頭に腕を絡めた。
一緒に居させてください――……そのたった一言の言葉が、許されない。
言えば彼は頷くだろう。けれどそれは、場合によってはディアスに「陛下を裏切ってくれ」と頼むことにもなってしまう。
平民の母親から生まれた第四皇子は、いつの間にか他の皇子たちを凌ぐほどの戦才を見せ始めていた。ただでさえ足元は危ういというのに、この期に及んで宰相の娘であり、皇帝を輩出したこともあるトスカルナ家の姫を妃に迎えるなどと。
余計に命を危険にさらしてしまうことになるだろうに、そんなことを言い出せるはずがない。
「ディアス、」
この名を呼ぶのは、あと何回あるのだろうか。そんなことを頭の隅で考えながら、それでもアンジャハティは淀みなくささやいた。
「――陛下と、父の御命令に従います」
父から言い渡された婚姻の日取りまで、もうふた月も無かった。
日暮れの藍色に変わり始めた空が、ちょうど大窓の向こうに見える。ああ……今日も一日が終わるのだと、思わずにはいられない夕陽だった。
「父が……私に婚姻をと申してまいりましたわ、ディアス」
アンジャハティは小さくため息をつきながら、寝台にひとり、裸のまま寛いでいる第四皇子ディルージャ・アスを振り返る。
頭の下に腕を組み、彼はどこか遠くを見つめていた。名を呼ぶ声にその黒い瞳は、わずかに細まりこちらに向けられる。
「その様子だと、俺が相手ではないらしいな」
あの出会いの夜から早ひと月。二人の関係が熟するのに、さほど時間はかからなかった。
ずっと宮にこもり、退屈な毎日を暮らしていた〝良家の令嬢〟にとって、彼の存在は新鮮すぎた。
まるで風のようにさっと吹き、あっという間に心も身体も攫っていってしまったのだ。
けれど突然に言い渡された婚約の知らせは、肩を落とさずにいられない相手だった。
もう十八を迎えた娘にしては、婚姻が遅れているのはわかっていた。宰相である父の政治上の理由から、こんなにも先延ばしにされてきたのだ。
ずっと知らぬふりを続けてきたけれど、十四を過ぎた辺りからは、自分が嫁ぐだろう人の名前ぐらい悟ってしまったのも事実。
アンジャハティはため息ながら言葉をつないだ。
「ラジル皇子殿下は、私たちのことは?」
「知らない、と信じたいものだが……まあ無理な話だろうな。この手の噂は、侍女や小姓には恰好の餌になる」
すなわち、広まりやすいということ。城中を頻繁に行き来する「彼ら」は、いわば歩く看板に等しい。ひとたび情報を書き込めば、次の日には多くの者が知るところとなる。
「ならあなたは、お兄様の婚約者に手をお出しになっているということになりますわね」
侍女たちの看板効果は、今回のことも同じ。ディアスと関係を持ったことなど、あっという間に城中に知れ渡る。
「そうだな……だが知ったなら、あの独占欲の塊は黙ってないはずだ」
渋々といった様子で呟くディアスに、アンジャハティは頷いた。
「ラジル皇子殿下はなんというか……」
「気が短い?」
ふ、と笑ってディアスが付け足す。
「…え、ええ、けれど、……そう軽々しく言うものでは」
心中の感想を言い当てられ、口ごもる。いくら本人がいないからと、皇子の欠点などそう口にしていいものではない。
アンジャハティの焦りようを見て、ディアスは楽しげに笑った。
「兄上の取り柄といえばその〝決断力〟ぐらいだ。貴女を奪った俺がどうなるか、お楽しみだな」
冗談を言うように軽い口調で、ディアスは寝台から立ち上がった。寝台のそばの卓に掛けられていた上衣を簡単に羽織り、窓際に立つアンジャハティの隣へと移り来る。
「どうなるかだなんて、」
並んだ視界にしなやかな褐色の胸元が写り込み、アンジャハティは自らの顔が熱くなるのを感じた。
さきほどまでこの広くたくましい胸板の上に、頬を寄せていたのだと考えるとなおのこと。
「わかっていたことではないですか、あの夜だって」
ラジル皇子の祝いの宴に出席しなかったことが、結果裏目に出てしまった。
空いた席の主を尋ねたラジル皇子は、「私の前に出たがらぬとは、大胆な女だ」と笑った。
そばに居た第四皇子を呼び寄せて、直々に連れくるよう命じたところまでは、ほんの遊びのつもりだったらしい。だが、その第四皇子は〝深紅の美〟と噂されるアンジャハティ姫の元から宴の席へと戻ることはなかった。
翌日には広まっていた第四皇子と美姫の恋歌に、気の短さで知れ渡るラジル皇子が憤慨したのは言うまでもないこと。
「俺は後悔していない」
言いながら抱き寄せられて、額に彼の唇を感じる。女のくせに、すくすくと育ちおってと父に嘆かれたこの長身も、彼の前では背伸びしても並べない。その鋭利な顎筋に指を添わせて、アンジャハティは微笑んだ。
宰相である父の命令は、すなわち皇帝の命令にも代わる。
ラジル皇子と婚姻しろと言われれば、逆らいようがないのが現実。それに父にしても、第四皇子に娘が貰われていくより、第一皇子であるラジルの申し出を受けた方が得と見越したのだろう。
第四皇子ディルージャ・アスは、剣技にも秀で軍師の舌すら巻かせるほどの戦才の持ち主だった。けれど、所詮は第四皇子。兄三人が突然死でもしないかぎり、彼の未来に玉座は無い。
「アンジャハティ」
ディアスの濡れた唇が、ゆっくりと額から首元へ降りくる。心地よさに目を閉じて、彼の頭に腕を絡めた。
一緒に居させてください――……そのたった一言の言葉が、許されない。
言えば彼は頷くだろう。けれどそれは、場合によってはディアスに「陛下を裏切ってくれ」と頼むことにもなってしまう。
平民の母親から生まれた第四皇子は、いつの間にか他の皇子たちを凌ぐほどの戦才を見せ始めていた。ただでさえ足元は危ういというのに、この期に及んで宰相の娘であり、皇帝を輩出したこともあるトスカルナ家の姫を妃に迎えるなどと。
余計に命を危険にさらしてしまうことになるだろうに、そんなことを言い出せるはずがない。
「ディアス、」
この名を呼ぶのは、あと何回あるのだろうか。そんなことを頭の隅で考えながら、それでもアンジャハティは淀みなくささやいた。
「――陛下と、父の御命令に従います」
父から言い渡された婚姻の日取りまで、もうふた月も無かった。
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