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9巻
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今は朝なのか昼なのか夕方なのか、時間の感覚がまったくわからないな。曇天に走る稲光をぼんやりと眺めつつ、こんな不毛の大地に住んでいる魔族がどこにいるのか考える。
生活のほぼすべてを魔力頼りにしているということは、魔素の薄いこの土地でどうやって生活しているのだろうか。水があればなんとか生きられると思うが、そもそも魔族という種族がどういう生態なのかわからない。
例えばオグル族。
彼らは真水でなくても、うっすらとした泥が漂った水でも平気で飲む。外見と同じく内臓も頑丈。毒に対する耐性も強く、液体であればなんでも消化できるそうだ。
小人族と共に暮らすようになり、綺麗な川の水を初めて飲み、それが「美味しい」という感覚なのだと知ったらしい。
逆にエルフ族は真水を苦手としている。ほんの少しでも魔素を帯びていない水は、飲めなくはないが「不味い」という。ブロライトは長く旅をしていたので、真水を飲むことに抵抗はない。俺が鞄から取り出すボルさんの出汁――もとい、魔素水は濃厚な果実水のような甘さを感じるらしい。
クレイたちリザードマン族は海水を飲料水としている。真水も飲めるが、海水も日常的に飲むことができる。
マデウスに住む種族は数えきれないほど多種多様。しかし、そのすべての種族において共通していることは、「水分を摂取しなければ死ぬ」ということ。
例外は神様や精霊などかな。
プニさんが食べ物や飲み物を摂取するのは、完全に娯楽。
精霊リベルアリナは、霊体であるため液体や固形物を摂取できない。
そう考えると、魔法を得意とし魔力に頼る魔族は、エルフ族に近いのかもしれないな。
エルフ族の隠れ里みたいに、美男美女がたくさんいるのだろうか。いや、意外とオグル族のような屈強な身体の種族なのかもしれない。もしかしてタコみたいなエイリアン的な容姿だったらどうするよ。写真撮りたい。
それはともかく水を探そう。山の近くには湖があると思う。火山活動で陥没した地に雨などが溜まるとカルデラ湖となる、はず。その湖の水が飲み水ではなくても、清潔の魔法でなんとかしちゃる。全身倦怠感に包まれて死ぬような羽目になるかもしれないが、飲み水は確保しよう。死ななければなんとかなる。
俺の常識がマデウスで通じるか不安ではあるが、行ってみないとはじまらない。
まずは何よりも、生きなければ。
トロブロ……トロブなんとか火山と言ったか。
近くで見ると、山の大きさがよくわかる。遠くから眺めても頂上が雲に隠れて見えなかったくらいだ。俺の感覚で言えば、きっと富士山よりも高い。エベレストやK2のような、やたらと高い山なのだろう。
「なんもねぇな。せっかく外に出たってぇのに、岩と砂ばっかりじゃねぇか」
俺の頭上でうねうねと蠢く鋼鉄イモムシは、つまらなそうにぼやく。
数百年ぶりに地下墳墓から外に出て、大冒険が待っていると思いきやの乾いた大地だからな。ヘスタスの気持ちはわからなくもない。
俺としては新天地に来た緊張よりも喜びや興奮のほうが大きくて。
山の麓には、黒い木が生えていた。幹も枝も、真っ黒け。燃えたあとなのかと近づいて見てみれば、もともとが真っ黒なのだとわかる。枯れているように見えて、木肌に触れたらしっとりとしていた。
オゼリフ半島の王様の森ほどではないが、そこそこの太さのある黒い大木があちらこちらに。
葉が茂っていれば、空を隠すほどの立派な森だったに違いない。この木は初めから黒だったのか、何かがあって黒くなったのかはわからない。
調査先生に聞けばいいが、魔力が全身からごっそりとなくなる、死ぬほどの思いはなるべくしたくない。完全な無防備になるからな。魔法を使うにしても、まずは飲み水を作らないと。
灰色の曇天に走る稲光。赤茶色の大地とごつごつの溶岩。そこに真っ黒の木とくれば、ますます魔界っぽいな。蝙蝠翼の悪魔が出てきたら叫ぶぞ。
「これ、食えねえの?」
黒い木の枝に飛び移ったヘスタスは、枝の上で跳ねながら木の感触を楽しむ。
「さすがに木は食えないと思うんだけど」
「お前、木の根っこは食ってたろ? だったらこいつも食ってみろよ」
「木の根っこって、あれはゴボウっぽい山菜の一種だって。ベルカイムで売られているのを見た時は、なんで木の根っこ売っているのかと思ったけど」
「ほかに食えそうなもんあるか? そこの岩はどうだ」
「岩を食えってか? お前な、さすがの俺でも岩を食ったら腹壊すわ」
「虫いるぞ、虫。足が四十八本」
「絶対に嫌だ」
木の幹をカサコソと這う虫を見て、空腹も限界を超えたら食虫することになるのかと考え……いやいやいやいや、それはほんとに、絶体絶命の最終手段で、もう俺の思考が停止してからにしよう。原形を留めないくらいすり潰して団子状にしたら、いけなくもないかもしれない。うええ。
「ほかにお前が食えそうなもんあるか? 頼むぜ? お前がブッ倒れでもしやがったら、俺も共倒れなんだからな」
「はいはい」
鋼鉄イモムシであるヘスタスは、俺の身体から微かに漏れる魔力を吸収している。すかしっ屁ほどの魔力でも動けるように改造したので、ヘスタスは半永久的に動いていられる。
乾いた大地で何もないこの場所でも、わずかな魔素はあるのだろう。漂う魔素は湿気のように感じることはできないが、時々感じる生暖かい風。あれに魔素が混じっているような気がする。
ヘスタスがそれを吸収せずに俺の魔力を取り込んでいるのは、そっちのほうが効率が良いからだ。
風は火山の裾野から吹いていた。
「ヘスタス、もう少し歩くぞ」
木の枝の上で飛び跳ねていた鋼鉄イモムシをわし掴み、重い足を動かす。
全身汗まみれ。筋肉痛は酷くなり、妙な眠気もある。できることならこの場で休んで、ひと眠りしたい。
だけどこんな見晴らしのいい、スッカスカの森の中で眠りこける馬鹿はいないだろう。と、クレイやブロライトに叱られそうな気がする。
魔法を使えない俺なんて、トルミ村の雑貨屋ジェロムのおっさんより貧弱だ。もしかしたら、村の子供たちより体力がないかもしれない。
魔力がないと俺の身体能力は激減するだろう。実際、今がまさにそうだ。
「青年」にもらった数々の恩恵という名の異能。それが使えないとなると、俺自身で生き延びないとならない。
マデウスに来てからの経験。クレイやブロライト、今まで出会った有能な冒険者の教え。トルミ村やベルカイムの奥様たちの豆知識。酒飲みたちのふとした愚痴。
それらすべてが俺を助ける力となる。
くだらない、つまらない、しょうもない知識が役に立つことだってあるんだ。
そんな数々の知識や経験を無駄にせず、自身の力として発揮する。それが営業職。
きっと、なんとかなる。
俺がこう思う時は、なんとかなってきた。
「お? タケルよ、鳥が飛んでるぜ。あれ撃ち落とせねぇの?」
胃袋をガッツリガッシリ掴まれたチーム蒼黒の団が、俺を放置したまま見捨てるなんてことは絶対にしない。
「おいおい、鳥なら食えるじゃねぇか。なあなあ、聞いてんのかよ」
プニさんがいれば転移門を使わずどこにでも行けるかもしれないが、醤油の実を使った未公開料理はまだあるんだ。それを食うまで、あの食いしん坊たちは俺が必要なはず。
というか、頼むから俺のことを捜してくれ!
「おいっ! 聞けやタケル!」
「ほっふ!」
耳元で叫ばれ、現実に引き戻される。
俺の肩でがちゃがちゃと跳ねるヘスタスは、空を見上げろと叫んだ。
「……鳥か? あれ」
「鳥だろ? 空を飛ぶのは鳥か飛竜だろ?」
はるか天空を旋回する、大きな鳥? 鳥にしてはひょろっとしている。
「飛竜では……ないな。飛竜より小さい」
「どっちでもいいから、早く撃ち落とせ。逃げちまう」
「おいこら、魔法が使えない俺にどうやってあいつを撃ち落とせと?」
「岩を投げるとかしろよ」
「岩を投げてあれを撃ち落とせるのは、オグル族くらいだろう」
「使えねぇなあ!」
「うるさいなあ!」
魔法を使えない俺を使えない呼ばわりするな! そりゃ使えないけど、常識的にあんな空高くを飛んでいる鳥を撃ち落とすなんて真似……
「おっ? 降りてくるぞ。撃ち落とせ」
鳥は旋回を続けると、突然ピタリと上空で停止。しばらくそのままでいたと思ったら、まっすぐに降りてきた。
俺たちのほうへ向かって。
「え。何か獰猛な鳥だったりしたらどうするよ。どうするよ!」
「知らねぇ。俺は逃げる」
「卑怯だぞヘスタス!」
「なんだとの野郎! リザードマンの英雄、勇者、綺羅星と謳われたこの俺様に向かって、卑怯だと!」
「痛ぁっ! デコはやめろデコは!」
岩より硬い鋼鉄イモムシは、俺のデコを攻撃。全身を使ってデコで跳ね飛ぶ跳ね飛ぶ。
俺たちがくだらない喧嘩を続けている間に、鳥はどんどん近づいてきて。
「そうだヘスタス! お前を投げる!」
「やーめろ馬鹿ー‼ ふざけんなヌケカス! 眠気顔!」
ヘスタスをわし掴み、ピッチャー振りかぶって鋼鉄イモムシ球を……
「おお? はぐれ民か?」
投げようとしたら、鳥が喋った。
いや、それは鳥ではなかった。
ヘスタスを握りしめたまま恐る恐る目を開けると、中空で停止したまま飛ぶ白いもの。
白い、もじゃもじゃした、何か。
「ずいぶんと集落から離れたな。どこへ行こうとしたんだ」
白い藁のような、もずくのような、もじゃもじゃした何かが喋っている。
黒い蝙蝠に似た翼をはためかせて。
なにこれ。
え。
なにこれ。
「え、あ、う、お」
白いもじゃもじゃの何かが、蝙蝠の翼で空を飛んでいるという状況が信じられなくて。
俺は口をぱくぱくとするだけで。
「日も暮れる。家に戻れ」
「い、あ、え、ほ」
「お前、ヴルカを被っていないから乾いたのだろう。何やっているんだ」
なかなか返答をしない俺をいぶかしむこともなく、白いもじゃもじゃは心配そうな声をして大地に降り立った。
そして、白いもじゃもじゃは両手を出して――
ああこれ、白いもじゃもじゃした何かは白い蓑のような、ナマハゲが着ているケデのようなものを被っていただけなんだ。
「せめて頭だけでも隠すといい。呼吸が楽になる」
そう言って白いもじゃもじゃは頭部のもじゃもじゃを取り外し。
出てきたのは、白い肌に赤い目。
頬の一部がひび割れ、今にも剥がれ落ちそう。
エルフ族に負けず劣らずの超、美形。
「どの集落から来たんだ? 俺はハヴェルマのゼングム。お前は?」
へ。
おや?
ゼングム。
ゼングム?
どこかで聞いたことのあるような、ないような?
「おれ、お、おおお、俺」
「しっかりしろよ」
「おふっ、俺は、タケル、と、言います」
俺の握りしめた手からいつの間にか逃げたのか、ヘスタスが俺のうなじあたりでぽつりと呟く。
「油断すんなよ。もしかしたら、こいつが魔族なのかもしれねぇ」
渇いた喉に微かな唾を押し流す。
ヘスタスの言うことが本当ならば、この不健康そうな白い肌をした青年が、魔族。
いやに美形ではあるが、目の下は黒いクマがあるし、陥没もしている。ひび割れた頬はこけて、飢えているように見えた。
「タケルな。しばらくこれでも被っておけ」
「ふお!」
有無を言わさず被らされた白いもじゃもじゃ。
それはわずかに視界が確保されていた。ちくちくとした藁っぽい何かが肌を刺すが、次第に呼吸をするのが楽になった。
「タケル、これ、この白いやつ、魔素が出ている」
うなじから髪の毛の中に移動したヘスタスは、感心したように喜んだ。
魔素が出ているというより、この白いもじゃもじゃ自体に魔力を感じる。なんらかの魔法で作られたのか、それとも自然界にこんな白い藁のようなものが存在するのか。
ともかく、今ならばできる。
調査先生、必要最低限でいいので教えてください。
【フィカス・ゼングム 百七十六歳】
魔力を巧みに操る一族の末裔。種族は魔族と略されるが、古代カルフェ語で英知を意味する「ユグル」と呼ばれることを好む。
鋼鉄都市ヴォズラオリーフにて、ギルディアス・クレイストンに恐れをなして逃げ出したと言われています。
忘れてた?
あ。
あ。
あーーーーーーー!
そうだそうだった!
調査先生、さすがです!
ゼングム! 確か、そうだった! 聞いたことあった!
ドワーフの国、ヴォズラオを襲ったかなんだかしてクレイに追い払われただかなんだかした、悪魔!
「おいタケル、なんだかこの白いの、黒くなっている気がしねぇ? おい? おいタケル?」
ヘスタスが何かを言っている。
だけど調査先生が教えてくれた情報に、俺は興奮を隠せなくて。
「ヴルカが黒く……そんなに魔力を失っていたのか! おい! しっかりしろ!」
「うおおおい! こんなところでブチ倒れんな! タケル! 起きろ! 俺をつぶすな!」
そうだよゼングム。アンタだったのか。
ドワーフの国を襲うような恐ろしい悪魔には見えないじゃないか。
ドワーフ族は話を誇張する癖があるからな。
もしかしたらゼングムに対する風評被害とか……
あれ?
あたまいたい。
そこで、俺の意識は途絶えた。
4 あいの風、渇きを潤す、魔法かな
当たり前のことだが、マデウスにはテレビがない。
新聞のような情報誌は存在するのだが、アルツェリオ王国の王都エクサルで発行された情報誌――通称「王都新聞」が辺境都市ベルカイムに届くには、早くて三か月。更なる辺境村トルミに届く頃には、王都での最新情報は半年前のものと化している。
急を要する情報など、例えばダレソレの重鎮さんが病気で倒れたとか、重鎮さんが倒れたことによって周囲に及ぼす影響その他、国の根幹に関わるような重要案件はギルドを通して情報伝達がなされる。伝書鳩的なものとか、通信石などを使うのだろう。
そういったわけで、他大陸の他種族のことをはじめ、同大陸内の情報すら簡単には得られないのが実情。
俺には有能で優秀な探査先生と調査先生がついている。知りたいと思った情報は、即座に知ることができる。
だがしかし、先生方がご活躍されるには、糧となる魔力が必要なのだ。
今までは何も考えずホイホイとスマホ感覚で使用してきたが、今となっては命を削る思いをしなければならない。
魔素や魔力は当たり前にあるもので、それがなくなることは考えなかった。
地球でたとえるならば、心構えも準備も何もしていない状態でエベレスト頂上に立つようなものだ。
ちょっと違うか。
それにしても。
「腹……減ったぁ……」
オグル族と小人族が住む合同村で昼飯を食った直後に拉致され、砂漠を彷徨って数時間。今が何時なのかはわからないが、俺の腹は夕飯はまだかと叫んでいる。
勝手についてきた鋼鉄イモムシであるヘスタスは、俺から放たれる微々たる魔力を吸っていた。それがどのくらいの量かはわからないが、長時間ともなれば俺の腹が怒りだすのにも納得がいく。
食わねば、体力も魔力も維持できない。魔素を得て魔力に変えるのもまた、体力が必要なのだとプニさんが言っていたっけ。
さてさて、鞄の中にある熱々の肉巻きジュペでも。
「あ」
鞄がないんだった。
それよりも、俺は今何をしているんだ。
「お? タケル、気がついたか」
左耳から聞こえてくるヘスタスの声。
「勝手に魔法を使うんじゃねぇよ。なんの魔法を使ったか知らねぇが、無詠唱だなんて無駄すぎらあ」
なに言ってんのこの子。
「お前がブチ倒れて、ゼングムが慌てまくってここまで運んでくれたんだからな。アイツに礼を言えよ」
はあ、それはそれは……
「おーいゼングム、この馬鹿起きたぜー」
鋼鉄イモムシはそう言って、ぴょんこぴょんこ跳ねながら遠ざかる。
まだ少しだけ頭が痛いかな。だけど、耐えられないわけじゃない。身体の節々は痛くないし、ただ腹が空いているだけ。
両手足、動かせる。目、開けられる。
「ふおっ」
思わず口からこぼれ出た変な声。
いや、変な声も出るって。
俺が今見ている光景。数回瞬きをしても変化しないということは、これは現実。
ゆっくりと上体を起こし、天井を眺める。
巨大な洞窟。
天井が丸みを帯びたアーチ状になっており、一部は開けていて空が見えている。空といっても相変わらずの曇天だけど。
黒々とした岩肌にはごつごつとした特徴的な形。
「柱状節理?」
あれに似ているというか、そのものだ。
火山からあふれ出たマグマが冷えて固まった時、柱のような形になることから柱状節理と言われている。
確か伊豆天城の七滝を見に行った時に初めて知り、自然って面白いなと感心したのだ。何がどうなってその形になるのか、今でも理解ができない。専門家に細かく説明されたところで、だからどうしてそうなるのだと考えてしまうだろう。
それが目の前にある。
壁が柱状の岩で、天井は鍾乳石が垂れ下がっている。
つらら状に下がる鍾乳石の先端からは、ぽたぽたと水が落ち。
水。
「水!」
洞窟の半分は巨大な泉になっていた。しかも、綺麗な翡翠色の透明な水。底が恐ろしく深そうだ。
翡翠色の水なんて飲めるのか? だけど水が飲みたい。
「その水は飲めないよ」
今すぐにも顔面を押しつけて心行くまで水を飲みたい衝動と、飲んだらおなか壊しちゃうかもしれないどうしようという理性が戦うなか、かけられた言葉。
「とても苦いんだ」
泉の側で這いつくばる俺の隣りに、灰色の肌をした子供。
大きな赤い目に、紫色のくるくるとした髪。黒く艶めく鋭い角が、額の中央から生えている。
魔族の子供かな。
「どうして飲めない、の、ですかね?」
奇妙な言葉遣いになりながらも、水を飲みたい衝動を抑え子供に問う。
子供はしばらく天井を眺め考えると、頭をこてりと傾けた。
「神様の水だから、僕たちは飲めないんじゃないかな」
「神様の水?」
「そう。ここは神様の棲処だった聖域。今はいないけど、きっと帰ってくる」
神様というのがどの神様のことを言っているのか。
神様に心当たりがある俺としては、水くらい好きに飲ませろと言いたくなる。
たとえ苦かろうとも、毒ではないのなら喉を潤したい。トクホのお茶とどっちが苦いか試してやろうか。それともセンブリ茶。
「タケル、起きたか」
手を器の形にしたまま考えていると、背後からゼングムが木のカップを持って現れた。
ゼングムの肩には、ヘスタスがいた。
「その水は神水だ。飲めないことはないが、口には合わないと思うぞ」
苦く笑いながらゼングムが空のカップを差し出す。
何も入っていないけど、これで泉の水を汲めばいいのかな。なんて思っていると。
「我望む、渇きを潤す命の輝き――水球」
マイクを使っていないのに響くゼングムの声と、カップの上にしゅるしゅると集まる水の粒。
これ魔法だ。
小人族が使う生活魔法とは形も唱える言葉も違うが、魔法。
水はあっという間に球状の集合体となり、それがカップにするりと落ちる。
カップの中はたっぷりの水で満たされた。
「まずは飲め。渇いているのだろう?」
そりゃもうカラカラです。
ゼングムに手渡されたカップを手にし、無色透明の波打つ水をじっと見る。
魔法で出した水か。
今までさんざん見てきた魔法だけど、水を飲むために魔法を使ったことはない。
鞄の中には飲料水を溜めた樽が山のように入っていたから、水を飲む時はそれを利用していた。トルミ村の井戸水は美味いし。
生活魔法として水を利用している種族もいたが、飲むための水は当たり前にあるもので、わざわざ魔法を使って出す真似はしない。手元に美味しい水があるのに、自販機の水を買うような真似はしないだろう。そんな感覚。
「いただきます」
口に含んで飲み込んで。
たった一口なのに、全身の隅々までを潤すような感覚。
なんの変哲もない、水。それがこんなに美味しいなんて。
真夏の炎天下で四時間移動したあとのキンキンに冷えた生ビールといい勝負かもしれない。
あっという間に水を飲み干した俺に驚いたのか、ゼングムは苦く笑いながらも二杯目の水を魔法で出してくれた。
できれば氷も少し、という気分ではあったがそこまで図々しくはない。まずは何よりも、喉を潤すこと。
「生き返った……」
五杯目の水を飲み干し、やっと一呼吸。
魔法で作り出した水だからか、身体の不調がすべて治っていた。頭は痛くない、腹も気持ち悪くない。水はまだまだ飲める。むしろ泳ぎたい。頭から沈みたい。
「よほど渇いていたんだな。助かって良かった」
ゼングムの背後から近づいてきたのは、杖をついた爺さん。
「黒の林で何をやっていたんだい。ゼングムが見つけていなかったら、アンタ死んでいたよ?」
今度は痩せた男性。男性が胸に抱えるのは小さな子供。
気づけば俺の周りには何十人もの魔族らしき人たちがいた。ゼングムのように肌が白だったり、青紫や灰色の肌の人がいる。皆それぞれ頭部に角が生えていて、誰も彼もが異常に痩せていた。
巨大な洞窟らしきこの場には、茅葺と呼ぶには戸惑うような、藁で編まれた簡素な家がいくつもあった。皆この洞窟で寝泊まりしているのだろう。そこかしこに囲炉裏がある。
生活のほぼすべてを魔力頼りにしているということは、魔素の薄いこの土地でどうやって生活しているのだろうか。水があればなんとか生きられると思うが、そもそも魔族という種族がどういう生態なのかわからない。
例えばオグル族。
彼らは真水でなくても、うっすらとした泥が漂った水でも平気で飲む。外見と同じく内臓も頑丈。毒に対する耐性も強く、液体であればなんでも消化できるそうだ。
小人族と共に暮らすようになり、綺麗な川の水を初めて飲み、それが「美味しい」という感覚なのだと知ったらしい。
逆にエルフ族は真水を苦手としている。ほんの少しでも魔素を帯びていない水は、飲めなくはないが「不味い」という。ブロライトは長く旅をしていたので、真水を飲むことに抵抗はない。俺が鞄から取り出すボルさんの出汁――もとい、魔素水は濃厚な果実水のような甘さを感じるらしい。
クレイたちリザードマン族は海水を飲料水としている。真水も飲めるが、海水も日常的に飲むことができる。
マデウスに住む種族は数えきれないほど多種多様。しかし、そのすべての種族において共通していることは、「水分を摂取しなければ死ぬ」ということ。
例外は神様や精霊などかな。
プニさんが食べ物や飲み物を摂取するのは、完全に娯楽。
精霊リベルアリナは、霊体であるため液体や固形物を摂取できない。
そう考えると、魔法を得意とし魔力に頼る魔族は、エルフ族に近いのかもしれないな。
エルフ族の隠れ里みたいに、美男美女がたくさんいるのだろうか。いや、意外とオグル族のような屈強な身体の種族なのかもしれない。もしかしてタコみたいなエイリアン的な容姿だったらどうするよ。写真撮りたい。
それはともかく水を探そう。山の近くには湖があると思う。火山活動で陥没した地に雨などが溜まるとカルデラ湖となる、はず。その湖の水が飲み水ではなくても、清潔の魔法でなんとかしちゃる。全身倦怠感に包まれて死ぬような羽目になるかもしれないが、飲み水は確保しよう。死ななければなんとかなる。
俺の常識がマデウスで通じるか不安ではあるが、行ってみないとはじまらない。
まずは何よりも、生きなければ。
トロブロ……トロブなんとか火山と言ったか。
近くで見ると、山の大きさがよくわかる。遠くから眺めても頂上が雲に隠れて見えなかったくらいだ。俺の感覚で言えば、きっと富士山よりも高い。エベレストやK2のような、やたらと高い山なのだろう。
「なんもねぇな。せっかく外に出たってぇのに、岩と砂ばっかりじゃねぇか」
俺の頭上でうねうねと蠢く鋼鉄イモムシは、つまらなそうにぼやく。
数百年ぶりに地下墳墓から外に出て、大冒険が待っていると思いきやの乾いた大地だからな。ヘスタスの気持ちはわからなくもない。
俺としては新天地に来た緊張よりも喜びや興奮のほうが大きくて。
山の麓には、黒い木が生えていた。幹も枝も、真っ黒け。燃えたあとなのかと近づいて見てみれば、もともとが真っ黒なのだとわかる。枯れているように見えて、木肌に触れたらしっとりとしていた。
オゼリフ半島の王様の森ほどではないが、そこそこの太さのある黒い大木があちらこちらに。
葉が茂っていれば、空を隠すほどの立派な森だったに違いない。この木は初めから黒だったのか、何かがあって黒くなったのかはわからない。
調査先生に聞けばいいが、魔力が全身からごっそりとなくなる、死ぬほどの思いはなるべくしたくない。完全な無防備になるからな。魔法を使うにしても、まずは飲み水を作らないと。
灰色の曇天に走る稲光。赤茶色の大地とごつごつの溶岩。そこに真っ黒の木とくれば、ますます魔界っぽいな。蝙蝠翼の悪魔が出てきたら叫ぶぞ。
「これ、食えねえの?」
黒い木の枝に飛び移ったヘスタスは、枝の上で跳ねながら木の感触を楽しむ。
「さすがに木は食えないと思うんだけど」
「お前、木の根っこは食ってたろ? だったらこいつも食ってみろよ」
「木の根っこって、あれはゴボウっぽい山菜の一種だって。ベルカイムで売られているのを見た時は、なんで木の根っこ売っているのかと思ったけど」
「ほかに食えそうなもんあるか? そこの岩はどうだ」
「岩を食えってか? お前な、さすがの俺でも岩を食ったら腹壊すわ」
「虫いるぞ、虫。足が四十八本」
「絶対に嫌だ」
木の幹をカサコソと這う虫を見て、空腹も限界を超えたら食虫することになるのかと考え……いやいやいやいや、それはほんとに、絶体絶命の最終手段で、もう俺の思考が停止してからにしよう。原形を留めないくらいすり潰して団子状にしたら、いけなくもないかもしれない。うええ。
「ほかにお前が食えそうなもんあるか? 頼むぜ? お前がブッ倒れでもしやがったら、俺も共倒れなんだからな」
「はいはい」
鋼鉄イモムシであるヘスタスは、俺の身体から微かに漏れる魔力を吸収している。すかしっ屁ほどの魔力でも動けるように改造したので、ヘスタスは半永久的に動いていられる。
乾いた大地で何もないこの場所でも、わずかな魔素はあるのだろう。漂う魔素は湿気のように感じることはできないが、時々感じる生暖かい風。あれに魔素が混じっているような気がする。
ヘスタスがそれを吸収せずに俺の魔力を取り込んでいるのは、そっちのほうが効率が良いからだ。
風は火山の裾野から吹いていた。
「ヘスタス、もう少し歩くぞ」
木の枝の上で飛び跳ねていた鋼鉄イモムシをわし掴み、重い足を動かす。
全身汗まみれ。筋肉痛は酷くなり、妙な眠気もある。できることならこの場で休んで、ひと眠りしたい。
だけどこんな見晴らしのいい、スッカスカの森の中で眠りこける馬鹿はいないだろう。と、クレイやブロライトに叱られそうな気がする。
魔法を使えない俺なんて、トルミ村の雑貨屋ジェロムのおっさんより貧弱だ。もしかしたら、村の子供たちより体力がないかもしれない。
魔力がないと俺の身体能力は激減するだろう。実際、今がまさにそうだ。
「青年」にもらった数々の恩恵という名の異能。それが使えないとなると、俺自身で生き延びないとならない。
マデウスに来てからの経験。クレイやブロライト、今まで出会った有能な冒険者の教え。トルミ村やベルカイムの奥様たちの豆知識。酒飲みたちのふとした愚痴。
それらすべてが俺を助ける力となる。
くだらない、つまらない、しょうもない知識が役に立つことだってあるんだ。
そんな数々の知識や経験を無駄にせず、自身の力として発揮する。それが営業職。
きっと、なんとかなる。
俺がこう思う時は、なんとかなってきた。
「お? タケルよ、鳥が飛んでるぜ。あれ撃ち落とせねぇの?」
胃袋をガッツリガッシリ掴まれたチーム蒼黒の団が、俺を放置したまま見捨てるなんてことは絶対にしない。
「おいおい、鳥なら食えるじゃねぇか。なあなあ、聞いてんのかよ」
プニさんがいれば転移門を使わずどこにでも行けるかもしれないが、醤油の実を使った未公開料理はまだあるんだ。それを食うまで、あの食いしん坊たちは俺が必要なはず。
というか、頼むから俺のことを捜してくれ!
「おいっ! 聞けやタケル!」
「ほっふ!」
耳元で叫ばれ、現実に引き戻される。
俺の肩でがちゃがちゃと跳ねるヘスタスは、空を見上げろと叫んだ。
「……鳥か? あれ」
「鳥だろ? 空を飛ぶのは鳥か飛竜だろ?」
はるか天空を旋回する、大きな鳥? 鳥にしてはひょろっとしている。
「飛竜では……ないな。飛竜より小さい」
「どっちでもいいから、早く撃ち落とせ。逃げちまう」
「おいこら、魔法が使えない俺にどうやってあいつを撃ち落とせと?」
「岩を投げるとかしろよ」
「岩を投げてあれを撃ち落とせるのは、オグル族くらいだろう」
「使えねぇなあ!」
「うるさいなあ!」
魔法を使えない俺を使えない呼ばわりするな! そりゃ使えないけど、常識的にあんな空高くを飛んでいる鳥を撃ち落とすなんて真似……
「おっ? 降りてくるぞ。撃ち落とせ」
鳥は旋回を続けると、突然ピタリと上空で停止。しばらくそのままでいたと思ったら、まっすぐに降りてきた。
俺たちのほうへ向かって。
「え。何か獰猛な鳥だったりしたらどうするよ。どうするよ!」
「知らねぇ。俺は逃げる」
「卑怯だぞヘスタス!」
「なんだとの野郎! リザードマンの英雄、勇者、綺羅星と謳われたこの俺様に向かって、卑怯だと!」
「痛ぁっ! デコはやめろデコは!」
岩より硬い鋼鉄イモムシは、俺のデコを攻撃。全身を使ってデコで跳ね飛ぶ跳ね飛ぶ。
俺たちがくだらない喧嘩を続けている間に、鳥はどんどん近づいてきて。
「そうだヘスタス! お前を投げる!」
「やーめろ馬鹿ー‼ ふざけんなヌケカス! 眠気顔!」
ヘスタスをわし掴み、ピッチャー振りかぶって鋼鉄イモムシ球を……
「おお? はぐれ民か?」
投げようとしたら、鳥が喋った。
いや、それは鳥ではなかった。
ヘスタスを握りしめたまま恐る恐る目を開けると、中空で停止したまま飛ぶ白いもの。
白い、もじゃもじゃした、何か。
「ずいぶんと集落から離れたな。どこへ行こうとしたんだ」
白い藁のような、もずくのような、もじゃもじゃした何かが喋っている。
黒い蝙蝠に似た翼をはためかせて。
なにこれ。
え。
なにこれ。
「え、あ、う、お」
白いもじゃもじゃの何かが、蝙蝠の翼で空を飛んでいるという状況が信じられなくて。
俺は口をぱくぱくとするだけで。
「日も暮れる。家に戻れ」
「い、あ、え、ほ」
「お前、ヴルカを被っていないから乾いたのだろう。何やっているんだ」
なかなか返答をしない俺をいぶかしむこともなく、白いもじゃもじゃは心配そうな声をして大地に降り立った。
そして、白いもじゃもじゃは両手を出して――
ああこれ、白いもじゃもじゃした何かは白い蓑のような、ナマハゲが着ているケデのようなものを被っていただけなんだ。
「せめて頭だけでも隠すといい。呼吸が楽になる」
そう言って白いもじゃもじゃは頭部のもじゃもじゃを取り外し。
出てきたのは、白い肌に赤い目。
頬の一部がひび割れ、今にも剥がれ落ちそう。
エルフ族に負けず劣らずの超、美形。
「どの集落から来たんだ? 俺はハヴェルマのゼングム。お前は?」
へ。
おや?
ゼングム。
ゼングム?
どこかで聞いたことのあるような、ないような?
「おれ、お、おおお、俺」
「しっかりしろよ」
「おふっ、俺は、タケル、と、言います」
俺の握りしめた手からいつの間にか逃げたのか、ヘスタスが俺のうなじあたりでぽつりと呟く。
「油断すんなよ。もしかしたら、こいつが魔族なのかもしれねぇ」
渇いた喉に微かな唾を押し流す。
ヘスタスの言うことが本当ならば、この不健康そうな白い肌をした青年が、魔族。
いやに美形ではあるが、目の下は黒いクマがあるし、陥没もしている。ひび割れた頬はこけて、飢えているように見えた。
「タケルな。しばらくこれでも被っておけ」
「ふお!」
有無を言わさず被らされた白いもじゃもじゃ。
それはわずかに視界が確保されていた。ちくちくとした藁っぽい何かが肌を刺すが、次第に呼吸をするのが楽になった。
「タケル、これ、この白いやつ、魔素が出ている」
うなじから髪の毛の中に移動したヘスタスは、感心したように喜んだ。
魔素が出ているというより、この白いもじゃもじゃ自体に魔力を感じる。なんらかの魔法で作られたのか、それとも自然界にこんな白い藁のようなものが存在するのか。
ともかく、今ならばできる。
調査先生、必要最低限でいいので教えてください。
【フィカス・ゼングム 百七十六歳】
魔力を巧みに操る一族の末裔。種族は魔族と略されるが、古代カルフェ語で英知を意味する「ユグル」と呼ばれることを好む。
鋼鉄都市ヴォズラオリーフにて、ギルディアス・クレイストンに恐れをなして逃げ出したと言われています。
忘れてた?
あ。
あ。
あーーーーーーー!
そうだそうだった!
調査先生、さすがです!
ゼングム! 確か、そうだった! 聞いたことあった!
ドワーフの国、ヴォズラオを襲ったかなんだかしてクレイに追い払われただかなんだかした、悪魔!
「おいタケル、なんだかこの白いの、黒くなっている気がしねぇ? おい? おいタケル?」
ヘスタスが何かを言っている。
だけど調査先生が教えてくれた情報に、俺は興奮を隠せなくて。
「ヴルカが黒く……そんなに魔力を失っていたのか! おい! しっかりしろ!」
「うおおおい! こんなところでブチ倒れんな! タケル! 起きろ! 俺をつぶすな!」
そうだよゼングム。アンタだったのか。
ドワーフの国を襲うような恐ろしい悪魔には見えないじゃないか。
ドワーフ族は話を誇張する癖があるからな。
もしかしたらゼングムに対する風評被害とか……
あれ?
あたまいたい。
そこで、俺の意識は途絶えた。
4 あいの風、渇きを潤す、魔法かな
当たり前のことだが、マデウスにはテレビがない。
新聞のような情報誌は存在するのだが、アルツェリオ王国の王都エクサルで発行された情報誌――通称「王都新聞」が辺境都市ベルカイムに届くには、早くて三か月。更なる辺境村トルミに届く頃には、王都での最新情報は半年前のものと化している。
急を要する情報など、例えばダレソレの重鎮さんが病気で倒れたとか、重鎮さんが倒れたことによって周囲に及ぼす影響その他、国の根幹に関わるような重要案件はギルドを通して情報伝達がなされる。伝書鳩的なものとか、通信石などを使うのだろう。
そういったわけで、他大陸の他種族のことをはじめ、同大陸内の情報すら簡単には得られないのが実情。
俺には有能で優秀な探査先生と調査先生がついている。知りたいと思った情報は、即座に知ることができる。
だがしかし、先生方がご活躍されるには、糧となる魔力が必要なのだ。
今までは何も考えずホイホイとスマホ感覚で使用してきたが、今となっては命を削る思いをしなければならない。
魔素や魔力は当たり前にあるもので、それがなくなることは考えなかった。
地球でたとえるならば、心構えも準備も何もしていない状態でエベレスト頂上に立つようなものだ。
ちょっと違うか。
それにしても。
「腹……減ったぁ……」
オグル族と小人族が住む合同村で昼飯を食った直後に拉致され、砂漠を彷徨って数時間。今が何時なのかはわからないが、俺の腹は夕飯はまだかと叫んでいる。
勝手についてきた鋼鉄イモムシであるヘスタスは、俺から放たれる微々たる魔力を吸っていた。それがどのくらいの量かはわからないが、長時間ともなれば俺の腹が怒りだすのにも納得がいく。
食わねば、体力も魔力も維持できない。魔素を得て魔力に変えるのもまた、体力が必要なのだとプニさんが言っていたっけ。
さてさて、鞄の中にある熱々の肉巻きジュペでも。
「あ」
鞄がないんだった。
それよりも、俺は今何をしているんだ。
「お? タケル、気がついたか」
左耳から聞こえてくるヘスタスの声。
「勝手に魔法を使うんじゃねぇよ。なんの魔法を使ったか知らねぇが、無詠唱だなんて無駄すぎらあ」
なに言ってんのこの子。
「お前がブチ倒れて、ゼングムが慌てまくってここまで運んでくれたんだからな。アイツに礼を言えよ」
はあ、それはそれは……
「おーいゼングム、この馬鹿起きたぜー」
鋼鉄イモムシはそう言って、ぴょんこぴょんこ跳ねながら遠ざかる。
まだ少しだけ頭が痛いかな。だけど、耐えられないわけじゃない。身体の節々は痛くないし、ただ腹が空いているだけ。
両手足、動かせる。目、開けられる。
「ふおっ」
思わず口からこぼれ出た変な声。
いや、変な声も出るって。
俺が今見ている光景。数回瞬きをしても変化しないということは、これは現実。
ゆっくりと上体を起こし、天井を眺める。
巨大な洞窟。
天井が丸みを帯びたアーチ状になっており、一部は開けていて空が見えている。空といっても相変わらずの曇天だけど。
黒々とした岩肌にはごつごつとした特徴的な形。
「柱状節理?」
あれに似ているというか、そのものだ。
火山からあふれ出たマグマが冷えて固まった時、柱のような形になることから柱状節理と言われている。
確か伊豆天城の七滝を見に行った時に初めて知り、自然って面白いなと感心したのだ。何がどうなってその形になるのか、今でも理解ができない。専門家に細かく説明されたところで、だからどうしてそうなるのだと考えてしまうだろう。
それが目の前にある。
壁が柱状の岩で、天井は鍾乳石が垂れ下がっている。
つらら状に下がる鍾乳石の先端からは、ぽたぽたと水が落ち。
水。
「水!」
洞窟の半分は巨大な泉になっていた。しかも、綺麗な翡翠色の透明な水。底が恐ろしく深そうだ。
翡翠色の水なんて飲めるのか? だけど水が飲みたい。
「その水は飲めないよ」
今すぐにも顔面を押しつけて心行くまで水を飲みたい衝動と、飲んだらおなか壊しちゃうかもしれないどうしようという理性が戦うなか、かけられた言葉。
「とても苦いんだ」
泉の側で這いつくばる俺の隣りに、灰色の肌をした子供。
大きな赤い目に、紫色のくるくるとした髪。黒く艶めく鋭い角が、額の中央から生えている。
魔族の子供かな。
「どうして飲めない、の、ですかね?」
奇妙な言葉遣いになりながらも、水を飲みたい衝動を抑え子供に問う。
子供はしばらく天井を眺め考えると、頭をこてりと傾けた。
「神様の水だから、僕たちは飲めないんじゃないかな」
「神様の水?」
「そう。ここは神様の棲処だった聖域。今はいないけど、きっと帰ってくる」
神様というのがどの神様のことを言っているのか。
神様に心当たりがある俺としては、水くらい好きに飲ませろと言いたくなる。
たとえ苦かろうとも、毒ではないのなら喉を潤したい。トクホのお茶とどっちが苦いか試してやろうか。それともセンブリ茶。
「タケル、起きたか」
手を器の形にしたまま考えていると、背後からゼングムが木のカップを持って現れた。
ゼングムの肩には、ヘスタスがいた。
「その水は神水だ。飲めないことはないが、口には合わないと思うぞ」
苦く笑いながらゼングムが空のカップを差し出す。
何も入っていないけど、これで泉の水を汲めばいいのかな。なんて思っていると。
「我望む、渇きを潤す命の輝き――水球」
マイクを使っていないのに響くゼングムの声と、カップの上にしゅるしゅると集まる水の粒。
これ魔法だ。
小人族が使う生活魔法とは形も唱える言葉も違うが、魔法。
水はあっという間に球状の集合体となり、それがカップにするりと落ちる。
カップの中はたっぷりの水で満たされた。
「まずは飲め。渇いているのだろう?」
そりゃもうカラカラです。
ゼングムに手渡されたカップを手にし、無色透明の波打つ水をじっと見る。
魔法で出した水か。
今までさんざん見てきた魔法だけど、水を飲むために魔法を使ったことはない。
鞄の中には飲料水を溜めた樽が山のように入っていたから、水を飲む時はそれを利用していた。トルミ村の井戸水は美味いし。
生活魔法として水を利用している種族もいたが、飲むための水は当たり前にあるもので、わざわざ魔法を使って出す真似はしない。手元に美味しい水があるのに、自販機の水を買うような真似はしないだろう。そんな感覚。
「いただきます」
口に含んで飲み込んで。
たった一口なのに、全身の隅々までを潤すような感覚。
なんの変哲もない、水。それがこんなに美味しいなんて。
真夏の炎天下で四時間移動したあとのキンキンに冷えた生ビールといい勝負かもしれない。
あっという間に水を飲み干した俺に驚いたのか、ゼングムは苦く笑いながらも二杯目の水を魔法で出してくれた。
できれば氷も少し、という気分ではあったがそこまで図々しくはない。まずは何よりも、喉を潤すこと。
「生き返った……」
五杯目の水を飲み干し、やっと一呼吸。
魔法で作り出した水だからか、身体の不調がすべて治っていた。頭は痛くない、腹も気持ち悪くない。水はまだまだ飲める。むしろ泳ぎたい。頭から沈みたい。
「よほど渇いていたんだな。助かって良かった」
ゼングムの背後から近づいてきたのは、杖をついた爺さん。
「黒の林で何をやっていたんだい。ゼングムが見つけていなかったら、アンタ死んでいたよ?」
今度は痩せた男性。男性が胸に抱えるのは小さな子供。
気づけば俺の周りには何十人もの魔族らしき人たちがいた。ゼングムのように肌が白だったり、青紫や灰色の肌の人がいる。皆それぞれ頭部に角が生えていて、誰も彼もが異常に痩せていた。
巨大な洞窟らしきこの場には、茅葺と呼ぶには戸惑うような、藁で編まれた簡素な家がいくつもあった。皆この洞窟で寝泊まりしているのだろう。そこかしこに囲炉裏がある。
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