2 / 17
1巻
1-2
しおりを挟む
僕はメモを手にし、書かれている名前を指でなぞった。
「ツマ子さん、この……ひいこさんって誰、どなた、ですか?」
「わたくしが説明するまでもありません。実際にお会いして、貴方自身で確かめなさい」
いつも質問したことに対して的確な返答をする祖母にしては、珍しく言葉を濁した。
+++
祖母の座右の銘は、有言実行。
思ったことや言ったことは即実行、即行動。誰よりも自らの言葉に責任を持つ人だから、反論もできない。
言ったことには責任を持ちなさい、と言わんばかりに、祖母が帰宅した数分後には電車の乗換案内画像がスマホに届き、その数分後には郵便ポストに数万円分チャージ済みの電子マネーカードが投函された。誰がどうして、なんて疑問にも思わない。こんな珍事はよくあること。
たとえ相手が全力で拒否をしようとも、あーあー知りませーんと聞く耳を持たず。むしろそれ以上拒否できないよう、じりじりと追い詰めていく。
つまりは絶対に言うことを聞きやがれ、言うことを聞かないとてめぇどうなるかわかっていやがんのか、ということだろう。
祖母は、何でもかんでも自分の思い通りにしないと気が済まないのだ。強情で頑固なところは僕とそっくり。でも僕はあそこまで偏屈じゃない。
この数日間は、買ったばかりのアニメ円盤を堪能しようと思ったのに、見ず知らずの人に会わなければならなくなった。しかも、都心へ赴かなくてはいけない。やだなあ。
「白線の内側へお下がりください」
久しぶりの電車。
ホームに女性の合成音声が響き、流線型の青い電車がするりと停車する。
ほんの数か月前までは、この電車に毎日乗っていた。
朝のラッシュ時、座れたことはない。周りからは『気が弱くて騙されそうな顔をしている』と評判の僕なので、痴漢に間違われないよう、いつも両手でつり革を持っていた。おかげで下車するときは指先が冷たくなっていたっけ。
ラッシュのピークを過ぎたのか、電車内には空席が目立った。
僕の家の最寄りは、長距離電車の始発から三つ目の駅。あまり賑やかではないけれど、この閑散とした空気感が大好きだ。
午前中なのにすでにくたびれた格好をしているスーツのサラリーマンを眺め、ああ自分も彼の仲間だったはずなのにと、妙な疎外感に襲われる。
疲れる日々だったけれど、今や寂しさを覚えているんだから不思議。
仕事はきついこともあったし、行きたくない日もたくさんあった。それでも続けられたのは、事務やパートのテレアポさんたちのおかげ。僕よりも若いパートさんが頑張っているのだから、正社員の自分が負けてなるものかと頑張れた。
貯金はほとんどなくて、頼りたい両親は海外在住。最強の祖母に頼ろうものなら、どんな仕打ちが待ち受けているのかわからない。
本当は、今月いっぱいぐたぐたしていていいのかと不安だった。
そんな時に降って湧いた祖母からの無理難題。面倒くさいが、数万円分の臨時収入は正直ありがたい。長距離電車での移動は辛いけれど、これもお金のため。
ペンギンのイラストが描かれたカードを触りながら、昼飯に何を食べるか考える前に祖母からのミッションを再度確認する。両隣が空いている席に座り、祖母のメモをパーカーのポケットから取り出した。
何度見ても、書いてあるのは住所と、名前だけ。
遊行ひいこ
東京都新宿区西新宿二丁目八 ‐ 九十九 ‐ 三
有名な人なのかと思い、インターネットで検索してみた。だけど、かすりもしない。どこかの寺の名前は出てきたが、関係はなさそうだ。
それよりも気になったのは、地図を確認しようと住所で検索してみたら、それも一切引っかからなかったこと。この情報化社会ではありえない。
SNSをやらない僕みたいな場合、確かに名前で検索しても情報は何もわからないが、アパートの住所を検索すれば画像付きで建物が出てくるのに。
実は犯罪者とか……?
あの秘密主義な祖母のことだ。国際指名手配犯と茶飲み友達になっていたとしても驚かないぞ。
とはいえ、そもそもひ弱な僕と犯罪者を引き合わせようなんてしないだろう。賢いFBI捜査官じゃあるまいし、僕にどうこうできるとは思えない。だから、それはないとして。
祖母は、一族が守ってきた、って言った。初耳なんだけど。大海原ってボディーガードでもやってきたのか? いや、父は僕と同じくひ弱。腕相撲は母のほうが強い。
「単純に、ばあちゃんの友達。その友達を守っている……?」
ぽつりと口にしてみて、ストンと納得。
庭に現れた凶暴な猪すら、祖母にかかれば謎の迫力によって大人しいペットになってしまう。これは冗談でも盛っているわけでもない。実際に祖母の家では、猛犬ならぬ猛猪が縁側で日向ぼっこをしているのだ。体重九十キロ強の巨大猪が、ポメラニアンのポテトちゃんと同居という珍事が起こっている。
「次は横浜、横浜」
車内アナウンスが乗り換えの駅名を告げる。
インターネットで探せなかった住所。謎の女性の名前。紹介者は、ばあちゃん。
やっぱり帰る、なんて今さら言えない。そんなことをしたら、この手に持っている電子マネーカードを没収される。調子こいて朝から雑誌やお菓子をたくさん買い込んだこともバレる。
せめて、この消費額ぶんは働かないと。
腹を括った僕は車窓の外を流れる景色を眺めながら、ついでに週刊誌を買ってしまおうと決めた。
+++
日麩本国首都、東京都。
数千年の歴史を持つこの国は、大海原にぽつんと浮かぶ小さな島国だ。
世界の大国に比べれば国土は狭いが、希少な鉱石や化石燃料などの天然資源が豊富に採れる、富裕先進国である。
世界大戦に幾度となく巻き込まれそうになるたびに、島国特権である鎖国発令をし、戦争やめなければ希少鉱石や燃料を輸出してやんないもんね、と全国民が一丸となって引きこもる性質がある、世界に類を見ない変な国だ。
そう考えると、祖母の考えってこの国の政治と似ているんだよな。普段は穏やかなのに、時として思い通りにならないと牙を剥く。
祖母の場合はマシンガントークだが、この国の場合引きこもり。日麩本産の鉱石や燃料がなければ、滅んでしまう国や企業が世界にたくさんあるのだ。
その豊富な資源をうまく利用して世界有数の先進国となった日麩本は、今なお発展を続ける理想国家。まるで神様のご加護があるかのごとく、これまで何度も他国からの侵略を乗り越えてきた。
大都会ながらも四方を数千メートル級の山々に囲まれた盆地にあるのが、首都東京。この周りにある馬鹿でかい山々の全てが、燃やせば長時間熱を放ち続ける天然の燃料の宝庫なのだ。あと数万年、数百万年は、暖かく暮らしていけるだけの資源が眠っているらしい。
その首都にある高層ビル群が立ち並ぶ区画を、新宿区と呼ぶ。国の重要な機関が集まる中枢、心臓部だ。高い山々に負けじと高層ビル群が天高く聳え、そのビルの合間を最新の飛行車が飛び交う。
「都会だなあ」
駅を出てから数十分、徒歩で移動。バスを使えば早いのだが、歩けば着くのだからバス代をケチッた。
天まで聳え立つ巨大庁舎を見上げながら、眩く輝く太陽に目を細める。
高層ビルには巨大な空気清浄機を設置する義務があるため、大都会といえども空気は汚れていない。数年前に就任した日麩本国大統領の発令で、自然環境を大切にしましょうキャンペーンを絶賛実施中。空気を汚すガソリン車が全面廃止されたのは、数年前のことだった。
祖母のメモに書かれている住所は、ここらへんのはず。どこもかしこも高層ビルに囲まれていて、とても個人の住居があるとは思えない。
「二丁目八の九十九の三ってどこだ?」
そもそも住所のインターネット検索ができないのが悪い。地図アプリを起動すれば道に迷うことなんてないのに、このご時世、住所登録されていないなんて。
「うーん……」
誰かに聞こうにも、今は午前十時半。
サラリーマンやOLは就業中だろうし、こんなオフィス街でうろうろしているのは観光客くらい。観光客に道を聞いてもな。
さて、どうするか。
一応、ここまでやってきたのだから、探してみたけど該当する住所を見つけられませんでした、と報告するのもありだ。だって検索できないんだから。生まれた時からインターネットが当たり前にある僕の世代にとって、『検索エンジンが使えませんごめんなさい』は正直死活問題だ。
よし、言い訳はできた。
二丁目の七番地まで来たけれど、八番地は見つからなかったと言えばいい。嘘ではないから、祖母も許してくれるはずだ。
そうと決まれば、電子マネーカードを返せと言われる前に、腹が壊れる寸前まで飲み食いしよう。
さて回れ右をして、と。
「にゃーん」
駅で回転寿司を探すつもりで歩き出した足は、一匹の猫の鳴き声で止まった。
「……猫」
「にゃん」
「……なんでこんなオフィス街に?」
猫と呼ぶにはあまりにも太く、タヌキと呼ぶには愛らしい鳴き声。
「にゃーんにゃにゃにゃ、にゃーにゃーにゃんにゃん」
茶虎のデブ猫は、腹毛を地面にこすりながらのしりのしりと僕に近寄ってきた。顔面を強打したようにまっ平らな特徴のある顔をしているが、鳴き声はとても可愛い。これなんていう種類だっけ。エキゾチックショートヘア?
猫は好きだ。住んでいるアパートでは飼えないけれど、いつか飼いたいと思っている。
祖母の家で飼ってくれないかなと思っていた矢先に、巨大猪が居座ることになった。同居のポメラニアンとはうまくやっているらしいが、猫はどうだろう。
「お前、迷子なのか? ここらへんで……誰かに飼われているのか?」
「にゃーん」
野良猫にしては毛ヅヤがとてもいい。片耳に切り込みはないから、避妊去勢手術はされていない。いや、もしかしたらされているのかもしれないけど、そもそもオスメスどっち?
それにしても、だいぶ肥えているな。見境なしに餌を与えているせいだろう。これはこれでたまらなく可愛いが、健康面が心配だ。
「にゃんにゃにゃーにゃ」
野良猫には、触らせてくれる個体もいる。たいていは全力疾走で逃げられてしまうが、この肥えた猫はよく喋るし、逃げるそぶりも見せない。
ゆっくりと手のひらを近づけ、驚かさないよう背を撫でる。つやつやでしなやかな毛。きちんと洗われ、ブラシを通された毛だ。
オフィス街の、国の中枢のど真ん中で、お洒落なビルの目の前で、道端にしゃがみ込んで茶虎のデブ猫をひたすら撫でる。ああ可愛い。
猫は気持ちよさそうにごろごろと喉を鳴らすと、もっと撫でろと身体を僕の足にこすりつけてきた。
なんだよこいつ、超可愛いじゃんか。
「お前の飼い主はどこなんだ? あっちにあった大通り公園が縄張り?」
「にゃんにゃー」
「そうだよなー、わからないよなー」
猫相手に会話してしまうのは、猫好きの性質。
たとえ言葉が通じずとも、何かを訴えてくるのならば、それに応えなければならないのだ。
茶虎模様のふくよかな猫は、黄金色の瞳をぱちぱちと瞬かせ――
「いつまで撫でているんだい」
おっさん声で語りかけてきた。
先が鉤状になっている長い尻尾を左右にゆっくりと揺らめかせ、猫は僕の足元でやれやれと座った。手足が短い種なのかと思いきや、腹の肉が出っ張りすぎて、短く見えるだけのようだ。
「あー、ちいっと耳の横っちょをこりこりしてくれや」
虎猫は前足をちょいちょいと耳に触れ、そこをかけと促す。
いや、そりゃまあ、触らせてくれるっていうのなら喜んでこりこりしてやるけどさ。さっきから何だろう。どこからか、おっさんの声が聞こえてくる。
背後を振り向いても、空を見上げても、左右前方を確認しても、人はおろかスピーカーのようなものさえ見当たらない。おかしいな。
「おうっ、おうおうっ……そこそこそこそこっ……」
虎猫の耳の後ろから首回り、たふんとした肉がついた顎までもを指で小刻みにかいてやると、猫は目を糸のように細めて舌をダラリとだらしなく垂らした。これはそうとう気持ちが良さそうだ。喉も激しくごろごろと鳴っている。
このたるんだ肉と、ふわふわの冬毛がたまりませんな。野良猫だと毛がオイリーな感じがするのだが、この猫はやはり飼い猫のようだ。毛がふわふわでさらさら。友人の家で飼っている愛猫を撫でた時の感触に似ている。ちなみに、その友人の猫には腕を噛まれたという、よいおもいで。
「なんだい兄ちゃん、猫の泣きどころをよく知っているじゃねぇか。猫の匂いがちいっともしねぇから、油断しちまったぜ」
現実逃避をしまくっている場合ではなかった。
さっきから聞こえてくるこの声。まるで目の前のこのデブい茶虎猫が喋っているように思えるんだが、そんなまさか……まさかねえ。やめよう白昼夢。ヤバいクスリ、ダメ、絶対。
「もっと耳をこりこりしてもらいてぇんだが、往来で呑気にくっちゃべっている暇はねぇ」
いやー。
どう考えても、目の前の猫が喋っているようにしか思えない。自分でも何を考えているんだって何度も否定するたび、猫は饒舌に語る。
この猫、実はネコボットとかいう最新のロボ的な何かなんじゃないかな。ほら、最先端科学がどうのこうのって、夕方のニュースで美人キャスターがキャッキャとリポートしているようなやつ。
会社を辞めてから働いている人をあまり見たくなかったので、テレビもほとんどつけてなかったからなあ。すごいなあ。科学って日進月歩。
「ほれ、とっととおいらのことを抱っこしてくんな。最近は地面が腹をこすりやがって、うまく歩けやしねえ」
猫は尻尾をふりふり、短くはないが短く見える手で僕の膝をぺしぺしと猫パンチ。
やっべぇ可愛い。可愛いがしかし、何だかこの猫がおっさんに思えてきた。
最新のネコボット(仮名)は凄いなー。どこの企業が作ったんだろう。こんな往来のど真ん中に出てきて、うんこ座りをしている怪しげな青年(僕)に猫パンチしているんだけど、回収お願いしまーす。
「ほれほれ、ぼさっとしているんじゃねぇよ。わけぇやつはとっとと歩け、歩け!」
さあさあ抱っこしなさいと、にょろりと二本足で立った猫は、ずいぶんと放漫な身体で偉そうに胸を張り、短く見える両手を腰にあてて怒鳴った。
+++
「ツマ子さん、この……ひいこさんって誰、どなた、ですか?」
「わたくしが説明するまでもありません。実際にお会いして、貴方自身で確かめなさい」
いつも質問したことに対して的確な返答をする祖母にしては、珍しく言葉を濁した。
+++
祖母の座右の銘は、有言実行。
思ったことや言ったことは即実行、即行動。誰よりも自らの言葉に責任を持つ人だから、反論もできない。
言ったことには責任を持ちなさい、と言わんばかりに、祖母が帰宅した数分後には電車の乗換案内画像がスマホに届き、その数分後には郵便ポストに数万円分チャージ済みの電子マネーカードが投函された。誰がどうして、なんて疑問にも思わない。こんな珍事はよくあること。
たとえ相手が全力で拒否をしようとも、あーあー知りませーんと聞く耳を持たず。むしろそれ以上拒否できないよう、じりじりと追い詰めていく。
つまりは絶対に言うことを聞きやがれ、言うことを聞かないとてめぇどうなるかわかっていやがんのか、ということだろう。
祖母は、何でもかんでも自分の思い通りにしないと気が済まないのだ。強情で頑固なところは僕とそっくり。でも僕はあそこまで偏屈じゃない。
この数日間は、買ったばかりのアニメ円盤を堪能しようと思ったのに、見ず知らずの人に会わなければならなくなった。しかも、都心へ赴かなくてはいけない。やだなあ。
「白線の内側へお下がりください」
久しぶりの電車。
ホームに女性の合成音声が響き、流線型の青い電車がするりと停車する。
ほんの数か月前までは、この電車に毎日乗っていた。
朝のラッシュ時、座れたことはない。周りからは『気が弱くて騙されそうな顔をしている』と評判の僕なので、痴漢に間違われないよう、いつも両手でつり革を持っていた。おかげで下車するときは指先が冷たくなっていたっけ。
ラッシュのピークを過ぎたのか、電車内には空席が目立った。
僕の家の最寄りは、長距離電車の始発から三つ目の駅。あまり賑やかではないけれど、この閑散とした空気感が大好きだ。
午前中なのにすでにくたびれた格好をしているスーツのサラリーマンを眺め、ああ自分も彼の仲間だったはずなのにと、妙な疎外感に襲われる。
疲れる日々だったけれど、今や寂しさを覚えているんだから不思議。
仕事はきついこともあったし、行きたくない日もたくさんあった。それでも続けられたのは、事務やパートのテレアポさんたちのおかげ。僕よりも若いパートさんが頑張っているのだから、正社員の自分が負けてなるものかと頑張れた。
貯金はほとんどなくて、頼りたい両親は海外在住。最強の祖母に頼ろうものなら、どんな仕打ちが待ち受けているのかわからない。
本当は、今月いっぱいぐたぐたしていていいのかと不安だった。
そんな時に降って湧いた祖母からの無理難題。面倒くさいが、数万円分の臨時収入は正直ありがたい。長距離電車での移動は辛いけれど、これもお金のため。
ペンギンのイラストが描かれたカードを触りながら、昼飯に何を食べるか考える前に祖母からのミッションを再度確認する。両隣が空いている席に座り、祖母のメモをパーカーのポケットから取り出した。
何度見ても、書いてあるのは住所と、名前だけ。
遊行ひいこ
東京都新宿区西新宿二丁目八 ‐ 九十九 ‐ 三
有名な人なのかと思い、インターネットで検索してみた。だけど、かすりもしない。どこかの寺の名前は出てきたが、関係はなさそうだ。
それよりも気になったのは、地図を確認しようと住所で検索してみたら、それも一切引っかからなかったこと。この情報化社会ではありえない。
SNSをやらない僕みたいな場合、確かに名前で検索しても情報は何もわからないが、アパートの住所を検索すれば画像付きで建物が出てくるのに。
実は犯罪者とか……?
あの秘密主義な祖母のことだ。国際指名手配犯と茶飲み友達になっていたとしても驚かないぞ。
とはいえ、そもそもひ弱な僕と犯罪者を引き合わせようなんてしないだろう。賢いFBI捜査官じゃあるまいし、僕にどうこうできるとは思えない。だから、それはないとして。
祖母は、一族が守ってきた、って言った。初耳なんだけど。大海原ってボディーガードでもやってきたのか? いや、父は僕と同じくひ弱。腕相撲は母のほうが強い。
「単純に、ばあちゃんの友達。その友達を守っている……?」
ぽつりと口にしてみて、ストンと納得。
庭に現れた凶暴な猪すら、祖母にかかれば謎の迫力によって大人しいペットになってしまう。これは冗談でも盛っているわけでもない。実際に祖母の家では、猛犬ならぬ猛猪が縁側で日向ぼっこをしているのだ。体重九十キロ強の巨大猪が、ポメラニアンのポテトちゃんと同居という珍事が起こっている。
「次は横浜、横浜」
車内アナウンスが乗り換えの駅名を告げる。
インターネットで探せなかった住所。謎の女性の名前。紹介者は、ばあちゃん。
やっぱり帰る、なんて今さら言えない。そんなことをしたら、この手に持っている電子マネーカードを没収される。調子こいて朝から雑誌やお菓子をたくさん買い込んだこともバレる。
せめて、この消費額ぶんは働かないと。
腹を括った僕は車窓の外を流れる景色を眺めながら、ついでに週刊誌を買ってしまおうと決めた。
+++
日麩本国首都、東京都。
数千年の歴史を持つこの国は、大海原にぽつんと浮かぶ小さな島国だ。
世界の大国に比べれば国土は狭いが、希少な鉱石や化石燃料などの天然資源が豊富に採れる、富裕先進国である。
世界大戦に幾度となく巻き込まれそうになるたびに、島国特権である鎖国発令をし、戦争やめなければ希少鉱石や燃料を輸出してやんないもんね、と全国民が一丸となって引きこもる性質がある、世界に類を見ない変な国だ。
そう考えると、祖母の考えってこの国の政治と似ているんだよな。普段は穏やかなのに、時として思い通りにならないと牙を剥く。
祖母の場合はマシンガントークだが、この国の場合引きこもり。日麩本産の鉱石や燃料がなければ、滅んでしまう国や企業が世界にたくさんあるのだ。
その豊富な資源をうまく利用して世界有数の先進国となった日麩本は、今なお発展を続ける理想国家。まるで神様のご加護があるかのごとく、これまで何度も他国からの侵略を乗り越えてきた。
大都会ながらも四方を数千メートル級の山々に囲まれた盆地にあるのが、首都東京。この周りにある馬鹿でかい山々の全てが、燃やせば長時間熱を放ち続ける天然の燃料の宝庫なのだ。あと数万年、数百万年は、暖かく暮らしていけるだけの資源が眠っているらしい。
その首都にある高層ビル群が立ち並ぶ区画を、新宿区と呼ぶ。国の重要な機関が集まる中枢、心臓部だ。高い山々に負けじと高層ビル群が天高く聳え、そのビルの合間を最新の飛行車が飛び交う。
「都会だなあ」
駅を出てから数十分、徒歩で移動。バスを使えば早いのだが、歩けば着くのだからバス代をケチッた。
天まで聳え立つ巨大庁舎を見上げながら、眩く輝く太陽に目を細める。
高層ビルには巨大な空気清浄機を設置する義務があるため、大都会といえども空気は汚れていない。数年前に就任した日麩本国大統領の発令で、自然環境を大切にしましょうキャンペーンを絶賛実施中。空気を汚すガソリン車が全面廃止されたのは、数年前のことだった。
祖母のメモに書かれている住所は、ここらへんのはず。どこもかしこも高層ビルに囲まれていて、とても個人の住居があるとは思えない。
「二丁目八の九十九の三ってどこだ?」
そもそも住所のインターネット検索ができないのが悪い。地図アプリを起動すれば道に迷うことなんてないのに、このご時世、住所登録されていないなんて。
「うーん……」
誰かに聞こうにも、今は午前十時半。
サラリーマンやOLは就業中だろうし、こんなオフィス街でうろうろしているのは観光客くらい。観光客に道を聞いてもな。
さて、どうするか。
一応、ここまでやってきたのだから、探してみたけど該当する住所を見つけられませんでした、と報告するのもありだ。だって検索できないんだから。生まれた時からインターネットが当たり前にある僕の世代にとって、『検索エンジンが使えませんごめんなさい』は正直死活問題だ。
よし、言い訳はできた。
二丁目の七番地まで来たけれど、八番地は見つからなかったと言えばいい。嘘ではないから、祖母も許してくれるはずだ。
そうと決まれば、電子マネーカードを返せと言われる前に、腹が壊れる寸前まで飲み食いしよう。
さて回れ右をして、と。
「にゃーん」
駅で回転寿司を探すつもりで歩き出した足は、一匹の猫の鳴き声で止まった。
「……猫」
「にゃん」
「……なんでこんなオフィス街に?」
猫と呼ぶにはあまりにも太く、タヌキと呼ぶには愛らしい鳴き声。
「にゃーんにゃにゃにゃ、にゃーにゃーにゃんにゃん」
茶虎のデブ猫は、腹毛を地面にこすりながらのしりのしりと僕に近寄ってきた。顔面を強打したようにまっ平らな特徴のある顔をしているが、鳴き声はとても可愛い。これなんていう種類だっけ。エキゾチックショートヘア?
猫は好きだ。住んでいるアパートでは飼えないけれど、いつか飼いたいと思っている。
祖母の家で飼ってくれないかなと思っていた矢先に、巨大猪が居座ることになった。同居のポメラニアンとはうまくやっているらしいが、猫はどうだろう。
「お前、迷子なのか? ここらへんで……誰かに飼われているのか?」
「にゃーん」
野良猫にしては毛ヅヤがとてもいい。片耳に切り込みはないから、避妊去勢手術はされていない。いや、もしかしたらされているのかもしれないけど、そもそもオスメスどっち?
それにしても、だいぶ肥えているな。見境なしに餌を与えているせいだろう。これはこれでたまらなく可愛いが、健康面が心配だ。
「にゃんにゃにゃーにゃ」
野良猫には、触らせてくれる個体もいる。たいていは全力疾走で逃げられてしまうが、この肥えた猫はよく喋るし、逃げるそぶりも見せない。
ゆっくりと手のひらを近づけ、驚かさないよう背を撫でる。つやつやでしなやかな毛。きちんと洗われ、ブラシを通された毛だ。
オフィス街の、国の中枢のど真ん中で、お洒落なビルの目の前で、道端にしゃがみ込んで茶虎のデブ猫をひたすら撫でる。ああ可愛い。
猫は気持ちよさそうにごろごろと喉を鳴らすと、もっと撫でろと身体を僕の足にこすりつけてきた。
なんだよこいつ、超可愛いじゃんか。
「お前の飼い主はどこなんだ? あっちにあった大通り公園が縄張り?」
「にゃんにゃー」
「そうだよなー、わからないよなー」
猫相手に会話してしまうのは、猫好きの性質。
たとえ言葉が通じずとも、何かを訴えてくるのならば、それに応えなければならないのだ。
茶虎模様のふくよかな猫は、黄金色の瞳をぱちぱちと瞬かせ――
「いつまで撫でているんだい」
おっさん声で語りかけてきた。
先が鉤状になっている長い尻尾を左右にゆっくりと揺らめかせ、猫は僕の足元でやれやれと座った。手足が短い種なのかと思いきや、腹の肉が出っ張りすぎて、短く見えるだけのようだ。
「あー、ちいっと耳の横っちょをこりこりしてくれや」
虎猫は前足をちょいちょいと耳に触れ、そこをかけと促す。
いや、そりゃまあ、触らせてくれるっていうのなら喜んでこりこりしてやるけどさ。さっきから何だろう。どこからか、おっさんの声が聞こえてくる。
背後を振り向いても、空を見上げても、左右前方を確認しても、人はおろかスピーカーのようなものさえ見当たらない。おかしいな。
「おうっ、おうおうっ……そこそこそこそこっ……」
虎猫の耳の後ろから首回り、たふんとした肉がついた顎までもを指で小刻みにかいてやると、猫は目を糸のように細めて舌をダラリとだらしなく垂らした。これはそうとう気持ちが良さそうだ。喉も激しくごろごろと鳴っている。
このたるんだ肉と、ふわふわの冬毛がたまりませんな。野良猫だと毛がオイリーな感じがするのだが、この猫はやはり飼い猫のようだ。毛がふわふわでさらさら。友人の家で飼っている愛猫を撫でた時の感触に似ている。ちなみに、その友人の猫には腕を噛まれたという、よいおもいで。
「なんだい兄ちゃん、猫の泣きどころをよく知っているじゃねぇか。猫の匂いがちいっともしねぇから、油断しちまったぜ」
現実逃避をしまくっている場合ではなかった。
さっきから聞こえてくるこの声。まるで目の前のこのデブい茶虎猫が喋っているように思えるんだが、そんなまさか……まさかねえ。やめよう白昼夢。ヤバいクスリ、ダメ、絶対。
「もっと耳をこりこりしてもらいてぇんだが、往来で呑気にくっちゃべっている暇はねぇ」
いやー。
どう考えても、目の前の猫が喋っているようにしか思えない。自分でも何を考えているんだって何度も否定するたび、猫は饒舌に語る。
この猫、実はネコボットとかいう最新のロボ的な何かなんじゃないかな。ほら、最先端科学がどうのこうのって、夕方のニュースで美人キャスターがキャッキャとリポートしているようなやつ。
会社を辞めてから働いている人をあまり見たくなかったので、テレビもほとんどつけてなかったからなあ。すごいなあ。科学って日進月歩。
「ほれ、とっととおいらのことを抱っこしてくんな。最近は地面が腹をこすりやがって、うまく歩けやしねえ」
猫は尻尾をふりふり、短くはないが短く見える手で僕の膝をぺしぺしと猫パンチ。
やっべぇ可愛い。可愛いがしかし、何だかこの猫がおっさんに思えてきた。
最新のネコボット(仮名)は凄いなー。どこの企業が作ったんだろう。こんな往来のど真ん中に出てきて、うんこ座りをしている怪しげな青年(僕)に猫パンチしているんだけど、回収お願いしまーす。
「ほれほれ、ぼさっとしているんじゃねぇよ。わけぇやつはとっとと歩け、歩け!」
さあさあ抱っこしなさいと、にょろりと二本足で立った猫は、ずいぶんと放漫な身体で偉そうに胸を張り、短く見える両手を腰にあてて怒鳴った。
+++
0
お気に入りに追加
444
あなたにおすすめの小説
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。



冷遇妻に家を売り払われていた男の裁判
七辻ゆゆ
ファンタジー
婚姻後すぐに妻を放置した男が二年ぶりに帰ると、家はなくなっていた。
「では開廷いたします」
家には10億の価値があったと主張し、妻に離縁と損害賠償を求める男。妻の口からは二年の事実が語られていく。

婚約破棄の後始末 ~息子よ、貴様何をしてくれってんだ!
タヌキ汁
ファンタジー
国一番の権勢を誇る公爵家の令嬢と政略結婚が決められていた王子。だが政略結婚を嫌がり、自分の好き相手と結婚する為に取り巻き達と共に、公爵令嬢に冤罪をかけ婚約破棄をしてしまう、それが国を揺るがすことになるとも思わずに。
これは馬鹿なことをやらかした息子を持つ父親達の嘆きの物語である。

魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。
十三回目の人生でようやく自分が悪役令嬢ポジと気づいたので、もう殿下の邪魔はしませんから構わないで下さい!
翠玉 結
恋愛
公爵令嬢である私、エリーザは挙式前夜の式典で命を落とした。
「貴様とは、婚約破棄する」と残酷な事を突きつける婚約者、王太子殿下クラウド様の手によって。
そしてそれが一度ではなく、何度も繰り返していることに気が付いたのは〖十三回目〗の人生。
死んだ理由…それは、毎回悪役令嬢というポジションで立ち振る舞い、殿下の恋路を邪魔していたいたからだった。
どう頑張ろうと、殿下からの愛を受け取ることなく死ぬ。
その結末をが分かっているならもう二度と同じ過ちは繰り返さない!
そして死なない!!
そう思って殿下と関わらないようにしていたのに、
何故か前の記憶とは違って、まさかのご執心で溺愛ルートまっしぐらで?!
「殿下!私、死にたくありません!」
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
※他サイトより転載した作品です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。