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しおりを挟むふわふわで柔らかそうなブラウンの髪と、蜂蜜を溶かしたような色の瞳。身体は結構がっしりとしているのに纏う雰囲気は柔らかくて、なんだか可愛い感じの人だなと思った。
それなのに、どうしてこんなに逃げ出したくなるんだろう。
「汐見凪(しおみなぎ)っていうんだ」
「え……」
「僕の名前。覚えてない?」
腕を掴まれたまま会話を続けられ、警戒しながらも耳を傾ける。
聞いたことのある名前を告げられると思わず顔を上げてしまい、そこで初めて、由莉は目の前の人物と視線を合わせた。
「……凪くん?」
「うん」
「えっと、凪くんって小学生の時に近所に住んでた、あの……?」
「うん、そう。よかった、覚えててくれて嬉しいな」
嬉しそうにふわりと笑う凪に、由莉の警戒が少しだけ緩む。
もう何年も会っていなかったけれど、汐見凪という男の子は、由莉が小学生の頃に近所に住んでいた一つ年上の友人だった。
グループで遊ぶこともあれば、二人だけで遊びに行ったこともあって、親の転勤で凪が引っ越すまでは毎日のように一緒にいた記憶がある。
凪が引っ越したのは、由莉が小学五年生の時だっただろうか。十年以上会っていなかったから、誰なのか全然分からなかった。
当たり前だが随分と成長していて、記憶の中の凪とは全然違う。だけど確かに、あの頃の面影が残っている。
「……すごい、偶然だね。誰か分からなかったから、ちょっとびっくりしちゃった」
「偶然じゃないよ。僕はずっと由莉ちゃんのこと探してたもん」
「へ……」
「少し前にこっちに戻ってきて、由莉ちゃんが変わらずここに住んでるっていうからまた会いたいなって思って……直ぐに見つけたんだけどね。いっつも近くにいる奴がいて、ソイツが邪魔で話し掛けられなかった」
「邪魔……?」
「今日はいないんだね。よかった」
にこにこした表情は柔らかくて、話し方も優しい。それなのに、どうしてこんなにも安心できないと思うんだろう。
掴まれた腕は未だにそのままで、なんだか囚われている気分になる。
懐かしい友人と再会しただけなのに、不穏な空気が纏わりついてる気がして堪らない。
「……あの、凪くん私もう」
「あの頃は子供で、自分達のバース性なんてまだ全然知らなかったけど……良かった。今こうやって会えて嬉しいな」
「えっと……」
「由莉ちゃんオメガなんだよね? しかもまだ誰とも番ってない。僕はアルファだし、やっぱり運命なんだよ」
嬉しそうにそう告げられ、本当に意味が分からなかった。
凪がアルファであることは感じていたし、由莉がオメガだということも同じように分かるのだろう。だけど、運命だと感じる事はなにもなかった。
アルファと顔を合わせた事は何度かあるけれど、会った瞬間に運命だと感じたのは東条だけだ。
「あの……確かにアルファとオメガって珍しいけど、運命とは違うと思う。私は他に運命の番がいて……」
「まだ誰とも番ってないのに? 変なこと言うね」
「それは……」
それは、の後、一体なにを言うつもりだったんだろう。
自分が東条に選ばれていないことは事実で、説明できるような事情なんて何も無い。
運命だとお互いに感じたから婚約者という形で一緒にいる。だけどまだ番になんてしてもらえず、泣いて縋ってようやくキスをしてもらえただけの関係だ。
二年間費やしてキス止まりの現状を、どう説明したら第三者に分かってもらえるのだろうか。
由莉自身、どうしていいのか分からないのに。
「運命の番に出会える可能性って凄く低いって知ってる? だからほとんどのアルファは運命とか関係なく自分が気に入ったオメガを番にしてるし、オメガの方もそうだよ。自分で選んだアルファと番になる」
「わた、私は……ちゃんと好きで」
「相手がそうじゃないなら意味ないよ。ヒートでつらい思いするのは由莉ちゃんの方なんだから、不毛な関係なら早くやめちゃえば?」
不毛だと、初めて分かりやすい言葉にされた気がする。
婚約者だけど付き合ってなくて、ヒートに付き合ってくれるけどセックスはしてなくて、運命のはずなのに番にしてもらえない。
ああ、なるほど。不毛っていうのか、これ。
自分でも薄々思っていただけにつらくて、改めて理解させられた関係に泣きそうになった。
不毛な関係じゃないって否定したいのに、うまく言葉が出てこない。反論できないのは、事実だからなんだろうか。
「で、も……私は、本当に好きで……」
「そっか。じゃあ諦めてよ」
「え……」
返事をしたのと同時に由莉の顔に霧状の液体がかかり、仄かに甘い香りが周囲に広がった。
いつの間に取り出したのだろうか。凪の手には小さなスプレーボトルが握られていて、その中の液体が再び由莉に向かって噴き放たれる。
「っう……」
何をかけられたのか分からない。だけど思い切り吸い込んでしまったし、確実に体内に入ってしまった。
これは液体の効果なのだろうか。目の前が僅かにぐらりと揺れて、呼吸が少しずつ荒いものに変わっていく。
立っているのがつらくてしゃがみ込もうとすると、二の腕を掴まれてその動きさえ制されてしまった。
「な、凪くん……?」
「ずっと好きだった子がオメガで、誰とも番にならずに待っててくれてたんだよ。運命が選んだアルファなんかより、僕の方がずっと君の運命でしょ」
「な、に……これ、凪く……」
「ヒートの誘発剤。ごめん、少しかけすぎちゃった?」
「は……」
「症状が酷くなる前に移動しようか。こっちに車停めてあるから」
「っや、さ、触らないで……!」
引かれそうになった腕を振り払って逃げようとしたが力が入らない。
振り払う力も走る気力もなく、抵抗らしい抵抗もできないまま簡単に捕まってしまう。
「ねぇ、大人しくして? こんな状態で逃げたり出来ないでしょ」
「いや、だめなの……。いま、っこんな、触られたらほんと……っ」
「そんなこと言ってても仕方ないでしょ。逃げ出してフェロモン撒き散らしたら、色んな人巻き込んじゃうよ?」
いいの? と首を傾げられ泣きそうになる。
泣きそうというか、溢れそう。苦しくて熱くて視界が滲んで、もう涙が溢れる寸前だった。
「……っ、よく、ない……!」
「うん。やっぱり由莉ちゃんって、優しくて良い子だね。他の奴巻き込まないように二人でどうにかしようよ」
「……っ」
それが良くない事なのは分かっている。
だけどこの人に着いていく以外に行ける場所もなくて、こんな状態で一人で大通りを歩く事も出来ない。
少しでも自分のフェロモンが外に流れないようにしたくて、意味もなく息を潜める。こんなの、なんの意味もないのだろうけど。
「大丈夫? 抱っこしようか?」
「やだ、触るのやめて……」
「ああ、そっか」
「あっ! もっ……やめ、ほんと……」
「アルファに近付かれるだけでこんなになっちゃうんだ? 可愛いけど危ないよ」
誰のせいだと叫びたいけどそんな気力もない。
腰に手を回されると更に力が抜けて、そのまま凪の身体に寄りかかってしまう。
「や、ほんと……」
「このまま一緒に行こうか。おいで」
「……ふっ、あ」
アルファの匂いが近い。頭がクラクラする。
離れなきゃ駄目なのに、全然身体がいうことを聞いてくれない。
そのまま簡単に車の前まで連れてこられてしまったが、誰も助けてくれる素振りはなかった。
まあ、当然だ。周りに何人か人はいるけど、これが無理矢理車に乗せられている現場だとは思ってもらえないだろう。
だって、抵抗らしい抵抗なんて出来ていない。
「安心して。絶対に外にフェロモン漏れないところ連れて行くから」
「……や、だぁ」
「じゃあ出発するね」
凪が由莉の話を聞いてくれるはずもなく、エンジンがかけられて車が動き出す。
走り出した車がどこに行くのか知らされないまま、由莉は涙目でぼんやりと窓の外を眺めた。
フェロモンを外に撒かないで済む場所ならどこでもいい。あんな状態で外に居るわけにはいかないから、無事に帰れるなら手段なんて選んでいられない。
嫌な予感しかしないけれど、対抗する力もなければ逃げる術もなくて、彼がただの親切な青年である可能性にかけた。
そもそも親切な人間が、ヒートの誘発剤なんてものをかけてくるはずがないのだけど。
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