上 下
17 / 53

16

しおりを挟む

 ふわふわで柔らかそうなブラウンの髪と、蜂蜜を溶かしたような色の瞳。身体は結構がっしりとしているのに纏う雰囲気は柔らかくて、なんだか可愛い感じの人だなと思った。
 それなのに、どうしてこんなに逃げ出したくなるんだろう。

「汐見凪(しおみなぎ)っていうんだ」
「え……」
「僕の名前。覚えてない?」

 腕を掴まれたまま会話を続けられ、警戒しながらも耳を傾ける。
 聞いたことのある名前を告げられると思わず顔を上げてしまい、そこで初めて、由莉は目の前の人物と視線を合わせた。

「……凪くん?」
「うん」
「えっと、凪くんって小学生の時に近所に住んでた、あの……?」
「うん、そう。よかった、覚えててくれて嬉しいな」

 嬉しそうにふわりと笑う凪に、由莉の警戒が少しだけ緩む。
 もう何年も会っていなかったけれど、汐見凪という男の子は、由莉が小学生の頃に近所に住んでいた一つ年上の友人だった。
 グループで遊ぶこともあれば、二人だけで遊びに行ったこともあって、親の転勤で凪が引っ越すまでは毎日のように一緒にいた記憶がある。
 凪が引っ越したのは、由莉が小学五年生の時だっただろうか。十年以上会っていなかったから、誰なのか全然分からなかった。
 当たり前だが随分と成長していて、記憶の中の凪とは全然違う。だけど確かに、あの頃の面影が残っている。

「……すごい、偶然だね。誰か分からなかったから、ちょっとびっくりしちゃった」
「偶然じゃないよ。僕はずっと由莉ちゃんのこと探してたもん」
「へ……」
「少し前にこっちに戻ってきて、由莉ちゃんが変わらずここに住んでるっていうからまた会いたいなって思って……直ぐに見つけたんだけどね。いっつも近くにいる奴がいて、ソイツが邪魔で話し掛けられなかった」
「邪魔……?」
「今日はいないんだね。よかった」

 にこにこした表情は柔らかくて、話し方も優しい。それなのに、どうしてこんなにも安心できないと思うんだろう。
 掴まれた腕は未だにそのままで、なんだか囚われている気分になる。
 懐かしい友人と再会しただけなのに、不穏な空気が纏わりついてる気がして堪らない。

「……あの、凪くん私もう」
「あの頃は子供で、自分達のバース性なんてまだ全然知らなかったけど……良かった。今こうやって会えて嬉しいな」
「えっと……」
「由莉ちゃんオメガなんだよね? しかもまだ誰とも番ってない。僕はアルファだし、やっぱり運命なんだよ」

 嬉しそうにそう告げられ、本当に意味が分からなかった。
 凪がアルファであることは感じていたし、由莉がオメガだということも同じように分かるのだろう。だけど、運命だと感じる事はなにもなかった。
 アルファと顔を合わせた事は何度かあるけれど、会った瞬間に運命だと感じたのは東条だけだ。

「あの……確かにアルファとオメガって珍しいけど、運命とは違うと思う。私は他に運命の番がいて……」
「まだ誰とも番ってないのに? 変なこと言うね」
「それは……」

 それは、の後、一体なにを言うつもりだったんだろう。
 自分が東条に選ばれていないことは事実で、説明できるような事情なんて何も無い。
 運命だとお互いに感じたから婚約者という形で一緒にいる。だけどまだ番になんてしてもらえず、泣いて縋ってようやくキスをしてもらえただけの関係だ。
 二年間費やしてキス止まりの現状を、どう説明したら第三者に分かってもらえるのだろうか。
 由莉自身、どうしていいのか分からないのに。

「運命の番に出会える可能性って凄く低いって知ってる? だからほとんどのアルファは運命とか関係なく自分が気に入ったオメガを番にしてるし、オメガの方もそうだよ。自分で選んだアルファと番になる」
「わた、私は……ちゃんと好きで」
「相手がそうじゃないなら意味ないよ。ヒートでつらい思いするのは由莉ちゃんの方なんだから、不毛な関係なら早くやめちゃえば?」

 不毛だと、初めて分かりやすい言葉にされた気がする。
 婚約者だけど付き合ってなくて、ヒートに付き合ってくれるけどセックスはしてなくて、運命のはずなのに番にしてもらえない。

 ああ、なるほど。不毛っていうのか、これ。
 自分でも薄々思っていただけにつらくて、改めて理解させられた関係に泣きそうになった。
 不毛な関係じゃないって否定したいのに、うまく言葉が出てこない。反論できないのは、事実だからなんだろうか。

「で、も……私は、本当に好きで……」
「そっか。じゃあ諦めてよ」
「え……」

 返事をしたのと同時に由莉の顔に霧状の液体がかかり、仄かに甘い香りが周囲に広がった。
 いつの間に取り出したのだろうか。凪の手には小さなスプレーボトルが握られていて、その中の液体が再び由莉に向かって噴き放たれる。

「っう……」

 何をかけられたのか分からない。だけど思い切り吸い込んでしまったし、確実に体内に入ってしまった。
 これは液体の効果なのだろうか。目の前が僅かにぐらりと揺れて、呼吸が少しずつ荒いものに変わっていく。
 立っているのがつらくてしゃがみ込もうとすると、二の腕を掴まれてその動きさえ制されてしまった。

「な、凪くん……?」
「ずっと好きだった子がオメガで、誰とも番にならずに待っててくれてたんだよ。運命が選んだアルファなんかより、僕の方がずっと君の運命でしょ」
「な、に……これ、凪く……」
「ヒートの誘発剤。ごめん、少しかけすぎちゃった?」
「は……」
「症状が酷くなる前に移動しようか。こっちに車停めてあるから」
「っや、さ、触らないで……!」

 引かれそうになった腕を振り払って逃げようとしたが力が入らない。
 振り払う力も走る気力もなく、抵抗らしい抵抗もできないまま簡単に捕まってしまう。

「ねぇ、大人しくして? こんな状態で逃げたり出来ないでしょ」
「いや、だめなの……。いま、っこんな、触られたらほんと……っ」
「そんなこと言ってても仕方ないでしょ。逃げ出してフェロモン撒き散らしたら、色んな人巻き込んじゃうよ?」

 いいの? と首を傾げられ泣きそうになる。
 泣きそうというか、溢れそう。苦しくて熱くて視界が滲んで、もう涙が溢れる寸前だった。

「……っ、よく、ない……!」
「うん。やっぱり由莉ちゃんって、優しくて良い子だね。他の奴巻き込まないように二人でどうにかしようよ」
「……っ」

 それが良くない事なのは分かっている。
 だけどこの人に着いていく以外に行ける場所もなくて、こんな状態で一人で大通りを歩く事も出来ない。
 少しでも自分のフェロモンが外に流れないようにしたくて、意味もなく息を潜める。こんなの、なんの意味もないのだろうけど。

「大丈夫? 抱っこしようか?」
「やだ、触るのやめて……」
「ああ、そっか」
「あっ! もっ……やめ、ほんと……」
「アルファに近付かれるだけでこんなになっちゃうんだ? 可愛いけど危ないよ」

 誰のせいだと叫びたいけどそんな気力もない。
 腰に手を回されると更に力が抜けて、そのまま凪の身体に寄りかかってしまう。

「や、ほんと……」
「このまま一緒に行こうか。おいで」
「……ふっ、あ」

 アルファの匂いが近い。頭がクラクラする。
 離れなきゃ駄目なのに、全然身体がいうことを聞いてくれない。

 そのまま簡単に車の前まで連れてこられてしまったが、誰も助けてくれる素振りはなかった。
 まあ、当然だ。周りに何人か人はいるけど、これが無理矢理車に乗せられている現場だとは思ってもらえないだろう。
 だって、抵抗らしい抵抗なんて出来ていない。

「安心して。絶対に外にフェロモン漏れないところ連れて行くから」
「……や、だぁ」
「じゃあ出発するね」

 凪が由莉の話を聞いてくれるはずもなく、エンジンがかけられて車が動き出す。
 走り出した車がどこに行くのか知らされないまま、由莉は涙目でぼんやりと窓の外を眺めた。

 フェロモンを外に撒かないで済む場所ならどこでもいい。あんな状態で外に居るわけにはいかないから、無事に帰れるなら手段なんて選んでいられない。
 嫌な予感しかしないけれど、対抗する力もなければ逃げる術もなくて、彼がただの親切な青年である可能性にかけた。

 そもそも親切な人間が、ヒートの誘発剤なんてものをかけてくるはずがないのだけど。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

『別れても好きな人』 

設樂理沙
ライト文芸
 大好きな夫から好きな女性ができたから別れて欲しいと言われ、離婚した。  夫の想い人はとても美しく、自分など到底敵わないと思ったから。  ほんとうは別れたくなどなかった。  この先もずっと夫と一緒にいたかった……だけど世の中には  どうしようもないことがあるのだ。  自分で選択できないことがある。  悲しいけれど……。   ―――――――――――――――――――――――――――――――――  登場人物紹介 戸田貴理子   40才 戸田正義    44才 青木誠二    28才 嘉島優子    33才  小田聖也    35才 2024.4.11 ―― プロット作成日 💛イラストはAI生成自作画像

一夜の過ちで懐妊したら、溺愛が始まりました。

青花美来
恋愛
あの日、バーで出会ったのは勤務先の会社の副社長だった。 その肩書きに恐れをなして逃げた朝。 もう関わらない。そう決めたのに。 それから一ヶ月後。 「鮎原さん、ですよね?」 「……鮎原さん。お腹の赤ちゃん、産んでくれませんか」 「僕と、結婚してくれませんか」 あの一夜から、溺愛が始まりました。

私を溺愛してくれたのは同期の御曹司でした

日下奈緒
恋愛
課長としてキャリアを積む恭香。 若い恋人とラブラブだったが、その恋人に捨てられた。 40歳までには結婚したい! 婚活を決意した恭香を口説き始めたのは、同期で仲のいい柊真だった。 今更あいつに口説かれても……

副社長氏の一途な恋~執心が結んだ授かり婚~

真木
恋愛
相原麻衣子は、冷たく見えて情に厚い。彼女がいつも衝突ばかりしている、同期の「副社長氏」反田晃を想っているのは秘密だ。麻衣子はある日、晃と一夜を過ごした後、姿をくらます。数年後、晃はミス・アイハラという女性が小さな男の子の手を引いて暮らしているのを知って……。

勘違いで別れを告げた日から豹変した婚約者が毎晩迫ってきて困っています

Adria
恋愛
詩音は怪我をして実家の病院に診察に行った時に、婚約者のある噂を耳にした。その噂を聞いて、今まで彼が自分に触れなかった理由に気づく。 意を決して彼を解放してあげるつもりで別れを告げると、その日から穏やかだった彼はいなくなり、執着を剥き出しにしたSな彼になってしまった。 戸惑う反面、毎日激愛を注がれ次第に溺れていく―― イラスト:らぎ様

冷徹上司の、甘い秘密。

青花美来
恋愛
うちの冷徹上司は、何故か私にだけ甘い。 「頼む。……この事は誰にも言わないでくれ」 「別に誰も気にしませんよ?」 「いや俺が気にする」 ひょんなことから、課長の秘密を知ってしまいました。 ※同作品の全年齢対象のものを他サイト様にて公開、完結しております。

10のベッドシーン【R18】

日下奈緒
恋愛
男女の数だけベッドシーンがある。 この短編集は、ベッドシーンだけ切り取ったラブストーリーです。

契約書は婚姻届

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「契約続行はお嬢さんと私の結婚が、条件です」 突然、降って湧いた結婚の話。 しかも、父親の工場と引き替えに。 「この条件がのめない場合は当初の予定通り、契約は打ち切りということで」 突きつけられる契約書という名の婚姻届。 父親の工場を救えるのは自分ひとり。 「わかりました。 あなたと結婚します」 はじまった契約結婚生活があまー……いはずがない!? 若園朋香、26歳 ごくごく普通の、町工場の社長の娘 × 押部尚一郎、36歳 日本屈指の医療グループ、オシベの御曹司 さらに 自分もグループ会社のひとつの社長 さらに ドイツ人ハーフの金髪碧眼銀縁眼鏡 そして 極度の溺愛体質?? ****** 表紙は瀬木尚史@相沢蒼依さん(Twitter@tonaoto4)から。

処理中です...