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弁償

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 私の日常が一気に不穏なものに変わったのは、本当につい数分前の出来事である。
 いつも通りに仕事を終えた金曜日。友人に美味しいよと教えてもらったパン屋に寄った帰り道で、この男に突然声を掛けられた瞬間から私の平穏は終わった。
 人気のない場所で、道を塞ぐようにして停められた車から降りてきた男性に感じる恐怖は凄まじく、こんなに不安になった経験は今まで一度もない。
 急にひりついた異様な空気に、ただ呼吸の仕方が分からなくなった。

「あは、見つかってよかったぁ」

 ゆるいパーマのかかった黒髪から覗く切れ長の二重が、私を嘲笑するようにすうっと細くなる。
 一見微笑んでいるように見えるのに、全然安心できないのはどうしてなんだろうか。
 一歩ずつ男がこちらに近付いてくる度に、私の心臓も恐怖で動きを早くしていく。

「そうやって引き攣った顔するのって、心当たりがあるからだよね?」

 ゆっくりと落とされる言葉が怖くて、きゅっと喉が詰まる。
 心当たりなんてありませんと返事をするべきなのに、脳がうまく働かなくて一言も漏らす事ができない。
 ただ目の前の人物をじっと見つめながら、いつでも逃げ出せるようにと足をゆっくり後ろに引いた。

「ああ、もしかして逃げようとしてる? 逃がさないけど」
「……っ」
「俺の車に悪戯したよね? 小さい子供じゃないんだからさ、悪い事したならちゃんと償ってくれないと」
「え……?」
「ほら、これ君でしょ? ちゃんと残ってるよ」

 男が手にしていたタブレットの画面を私の方に向け、監視カメラの録画映像のようなものが流される。
 薄いグレーのブラウスと紺色のフレアスカートという装いの女性が、コインのようなもので高級そうな車に傷をつける一部始終が収められた映像だ。ガリガリという嫌な音と共に、真っ黒な車の助手席の扉に、一本の白い線が傷として残されていく。
 事故などではなく、完全に悪意を持って行われた行動だ。
 この一連の行為の犯人である女性は、偶然にも今の私と同じ服装、同じ髪型をした女性である。
 全く覚えのない映像ではあるけれど、声を掛けられた理由を嫌でも理解してしまった。

「……わ、私じゃないです、本当……」
「とぼけるつもりなら無理矢理連れて行くよ。幸い、ここは全然人気がないし」
「この動画だと、顔……ちゃんと映ってないし、同じ服装してるだけで違います。私じゃない……」

 これだけきっちりとした映像を出されているのに、この説明を信じてくれる人なんているのだろうか。
 でも本当に心当たりなんてないし、やってないことを認めたくはない。

「同じ服装してるだけ? これだけ綺麗に証拠出されてるのに凄いこと言うね」
「ほ、本当に違います……! 逃げた方向のカメラ追ってもらったら、この人の顔が映った動画とか残ってると思うしちゃんと調べ直して、」
「あー……うん。わかった。その辺のことも合わせて話し合いたいからさ、とりあえず座れるところ移動しようか?」
「は……」

 一気に詰められた距離に、咄嗟に反応することが出来なかった。
 腕を引かれて体勢を崩し、そのまま担がれて車の中に押し入れられて扉が閉まる。
 私を見張るように隣に座った男が「出して」と言うと、運転席から「はい」と低い声が返ってきて、車が動き始めると同時に簡単に逃げられないことを悟った。

 あの映像で傷を付けられていた車は、今乗っているこの車なのだろうか。
 車種も値段も分からないけれど、なんとなく高級そうな車だということだけは分かる。大切な車を傷付けた落とし前をつけろと、これから脅されたらどうすればいいんだろう。本当になんの関係もないのに。
 車内で何度か説得を試みたけれど、「うん。だからそういう話は着いてからね」と言われるばかりで話が進まない。
 どこに連れて行かれるかも教えてもらえないまま、どんどん知らない景色になっていく窓の外を見て、不安と恐怖で押し潰されそうになった。

 永遠のようにも感じた時間だったけれど、車から降ろされて時計を確認すると、移動していた時間は20分程度だったらしい。
 車から降りて連れていかれた建物はどこかのビルで、エレベーターという狭い箱の中に閉じ込められてからは生きた心地がしなかった。
 五階に到着したところでエレベーターが止まり、降りるように促される。
 エレベーターから出て真っ先に視界に飛び込んできたのは、広々としたエントランスだった。
 白い大理石調の床の先には受付用のカウンターがあり、丁寧に手入れされた観葉植物がいくつか並んでいる。
 夜だから大きな窓から日光が入ってくることもないし、受付に人もいない。それでも灯りがついたままのエントランスは明るく、綺麗な会社だなと素直に思った。
 薄暗い倉庫のような場所に連れていかれると思っていたから、普通のオフィスの入口のような場所に通されてびっくりしてしまう。
 正直に言うと、私を連れてきた人達に対して悪いイメージしか持っていなかったのだ。話し掛けてきた男性も運転手の人もなんだか仄暗い雰囲気で、普通の社会人ではないと思い込んでいた。
 真っ暗な路地で見たから、そういう印象を植え付けられただけなのかもしれない。明るい場所で改めて見てみると、少しだけ印象が変わる。
 見た目や話し方がダウナー系というだけの、綺麗な顔をしたスタイルの良いお兄さんだ。

「さっきの映像、別人だって主張してたよね? 一度座って明るい場所で映像見直すからこっち来て。奥に談話室あるから、そっちで話そう」
「あ……っはい。よろしくお願いします」

 ちゃんと話を聞いてくれそうな人物であることに少しだけ安心して、言われた通りに奥の部屋まで着いて行く。
 奥まった場所にある重厚な扉が開かれると、そこは六畳程の洋室だった。
 部屋の奥に三人掛けのソファがあり、ガラスのテーブルを挟んで一人用のソファが二つと、同じ素材のスツールが置かれている。
 私より先に室内に入った男が奥のソファに座り、私も彼に向かい合う形で一人掛けのソファに腰を落とした。
 私が逃げないように警戒しているのか、運転手の男性は入室したあと扉の前で足を止め、こちらを見張るように立ったまま待機している。
 私の後ろに控えている男性と違い、目の前に座るこの人はただマイペースなだけという印象を受けた。

「あ、あの……」
「ああ、いきなり連れてきてごめんね? あんな場所で長話するより、こっちの方が落ち着いて話せていいかなぁと思って」
「……怖かったですけど、ちゃんと話を聞いてくれて誤解が解けるなら大丈夫です」
「そう? 俺はまだ君のこと疑ってるけど……まあ、罪のない子に責任を押し付けるようなことはしないから安心してよ」

 そう言いながら男が卓上にタブレットを置き、さっき見たものと同じ映像を再生する。
 車に傷をつける女性は最初から最後まで後ろ姿しか分からず、上から下まで私と同じ服装だ。それでもどうにか自分じゃないという証明をしたくて食い入るように画面を見つめ、一つだけ、自分との僅かな違いに気付く。

「……あ、今の……時計」
「うん?」
「袖のところから一瞬チラッと時計が見えて、ベルトの色とか全然違うなって……」
「へぇ。どれ?」

 少しだけ動画を戻し、その一瞬のところで停止させる。
 私が着けている白い皮のベルトとは違う、分かりやすいシルバーが彼女の手首で光っていた。

「ど、どうですか……?」
「んー……確かに時計は違うみたいだけど、それだけじゃ少し弱いかな?」

 そう言ってまた動画の再生が開始され、泣きそうになるのを堪えてぐっと画面を見つめる。
 後ろ姿しか分からないのに、細かい服飾の違い以外でどうやって無実を証明すればいいのだろう。せめて一瞬でも顔が映っていればいいのにと願うような気持ちで、画面を見続けることしか私には出来ない。
 二周目を見終わったところでもう一度チャンスをくれるつもりなのか、また冒頭に映像が戻される。

「あ! あの、今の……」
「うん? なに?」

 少し戻しすぎたのか、女性が車を傷付ける少し前の場面から動画が流れ始める。
 相変わらず顔を判別できるような映像ではなかったけれど、残された可能性に気付いて大袈裟に声をあげてしまった。

「えっと……この女の人、多分このコンビニから出てきたばっかりだと思うんですけど、このお店の監視カメラとか見せてもらったら顔まで分かりませんか?」

 退店する音声と、カメラで捉えた影の動き方。
 このコンビニから出てきたばかりなのは恐らく間違いないはずで、それなら店内の監視カメラに何か残っているかもしれない。防犯の目的で設置してあるカメラを見せてもらえば、顔まで見る事ができるだろう。

「ああ、本当だ。ん-……店内の監視カメラをチェックするなら、俺が頼むだけじゃ無理かもしれないなぁ。まあそうなったら警察にもお願いして調べてもらえばいいか」
「じゃあ、あの……」
「本人だったら店のカメラ調べてなんて言わないだろうし、もしかして本当にこの女と君って無関係?」
「は、はい! 本当に無関係だし別人なんです……!」
「ふふっ、必死だね。ま……いいか。嘘ついてる感じじゃないし、とりあえず家まで送るよ。疑って会社まで連れてきちゃってごめんね?」

 どうにか解決に向かいそうなことに胸を撫でおろし、ほっと小さく息を吐いた。
 そんな私の目の前に、「じゃあ一応名前だけもらおうかな」と男が一枚の紙を取り出す。

「え……?」
「ちゃんと調べた結果、君が犯人だった時は弁償してもらうからサインして? 後になって逃げられたら困るし、また一から捜すの面倒だから」
「え……? え……?」
「今はそこまで疑ってるわけじゃないけど、一応ね。こういうのを交わしておくのって大事なんだ」

 口約束に意味はないし、ビジネスの場で正式な書類は大切だ。
 この時間に社内をこんな自由に使用しているのだから、きっとこの人は会社の上役なのだろう。若くしてバリバリ仕事が出来る人なら尚の事、契約や約束は見える形で残しておきたいと思うのかもしれない。
 出された書類を受け取り、変なことが書かれていないか順番に文字を追う。
 私が破損させたことが確定した場合、その料金を支払う旨の記された誓約書だ。
 上から下までしっかりと目を通すが、真っ当なことしか書かれていないように思う。
 犯人の特定が出来なくても、私がしたという絶対的な証拠がない場合は請求はしないという事柄も記されている。
 これだけしっかりと明記されているのだから、ここでサインをしないと逆に私の方が怪しい。これにサインをするとまずいですと自白しているようなものだ。帰りたいなら書くしかない。
 この件に関して本当に私は無関係だし、サインしても問題ないだろう。
 手渡されたペンで住所と名前を記し、その横に判を押す。
 紙を受け取った男は申し訳なさそうに微笑みながら、「ごめんね、ありがとう」と口にした。

「何もなければ連絡することもしないし、その時はこの誓約書も破棄するよ。とりあえず今日は送っていく」
「あ、ありがとうございます」

 きっと連絡がくることはないだろうし、あとはもう帰るだけだ。ようやく気を緩めることができ、緊張感から解放されたばかりで表情も緩む。
 目の前の男性に続いてソファから立ち上がり、そのまま退室しようと扉の方へ足を進める。
 見張り代わりに扉の前に立っていた男性は、いつの間にか部屋からいなくなっていた。

「車を回すように連絡してくるから、先に駐車場向かってくれる? 場所は分かるかな?」
「あ、はい。来た道を戻るだけですから大丈夫です。じゃあ、先に行ってますね」

 緊張しながら歩いた道だけれど、逃走経路になるかもしれないと思い必死で景色を頭にいれていた。そんなに難しい順路でもないし大丈夫だ。
 軽い会釈をしてから扉を開き、部屋から出るための一歩目を踏み出す。その瞬間、部屋から出て直ぐの場所にある台のようなものにぶつかってしまい、次いでそこから落下した陶器の割れる音が盛大に響いた。

「え……?」

 まるでスローモーションのように、目の前でゆっくりと地面に叩きつけられたものが、今は破片になって私の足元に散らばっている。
 目の前でなにが起こったのかを理解するのに、数秒の時間を要した。

「あー……割っちゃった? 破片危ないね。怪我してない?」
「あ、ご……ごめんなさ……」
「別にいいよ。君が壊したんだから、ちゃんと弁償してくれると思うし。ちょうどサインしてもらったところだもんね?」
「へ……?」
「君が今割ったその花器ね、二千万くらいするの」
「え……に、にせん……?」
「うん。つい先日購入したばっかりの、鑑定書付きの骨董品。君が粉々にしちゃったね?」
「は……?」

 今、なにが起きているのか。あまりにも急な展開で、まだちゃんと理解ができていない。
 ただ私の隣に立つ男が、楽しそうに目を細めながら内ポケットからカードケースを取り出した。

「ああ、少し遅くなっちゃったけど俺も自己紹介しておくね。どうぞ」

 手渡された名刺には「黒咲昌(くろさきあきら)」という名前と、彼の肩書が記されていた。
 少しずつ状況を理解しだした脳が、カンカンと危険信号を送っている。今更危険を感じたところで、もう色々と手遅れな気がするけれど。

「金融業がメインだけど副業として色々やってるし、取り引きしてるところも多いから力になれると思うよ」
「あ……え……?」
「すぐに支払いは難しいと思うから貸してあげる。今のお仕事だけじゃ利息の方が高くなっちゃうと思うし、割のいいお仕事も紹介するよ。返済頑張ろうね?」

 薄く笑いながら言われた言葉の意味を、理解したくないと脳が拒む。
 だって、本当に意味が分からない。
 つい数時間前までは、こういう世界とは無縁の場所にいたはずなのだ。普通に毎日が幸せで楽しくて満足していて、大きな不安や心配なんて何もなかった。
 私は一体、何に巻き込まれているのだろう。

「とりあえず今日が初出勤日でいい? 一日でも早く手を付けていかないと、利息だけがどんどん膨らんじゃうし」
「待って、なに……? あ、え……なんで……」
「別に待ってあげてもいいけど、あと数時間で二千万揃えて持ってこれる?」

 さっきサインした誓約書に、当日中の支払いを約束すると、そんな文章があった気がする。
 書類に判を押す時は慎重にするべきなのに、ちゃんと内容を確認したから大丈夫だと思い込んでしまった。車に傷をつけた犯人は私じゃないし、サインしても構わないと思ったのだ。そんな軽率な行いが、自分の首を絞めていく。

「は、初出勤って……なんの……?」

 なんとなく分かっているのに、聞かずにはいられない。
 
「んー……とりあえず、ベッドがあるお部屋に移動しようか?」

 そう言いながら腕を掴まれ、ひゅっと喉から息が漏れた。ちゃんとした答えが返ってきたわけではないのに、その一言で全てを察してしまう。

「や……無理です。待って、あの……待ってください……」

 恐怖と焦りで頭の中がぐちゃぐちゃで、何を話せばいいのかも考えられない。
 ただ力で敵わないことだけは明白で、ここでどれだけ嫌がっても意味がないことだけは分かった。
 腕を掴まれたらもう振り解けない。半ば引き摺られる形で外まで連れていかれてしまい、ここに来た時と同じように無理矢理車の中に押し込まれた。
 このまま車で移動して、ベッドがあるお部屋に連れていかれるのかと思うと泣きそうになる。隣に座る黒咲さんはがっちりと私の手首を押さえつけたままで、これを振り払って逃げる方法なんて全く思い付かなかった。
 連れて行かれた場所で、いきなり仕事開始になるのだろうか。右も左も分からないのに何をすればいいんだろう。
 何もしたくない。嫌だ。怖い。

「……は、働かせるなら、就業の契約書? とか、給与形態の説明とか色々……なにか、必要だと思うんです、けど……」
「うん、そうだね。お部屋に入ってからちゃんと説明してあげる」
「い、今話せば別に……」
「どうせ逃げようがないんだし、話すタイミングは俺の好きな時でいいよね? 悪いようにはしないから、今は大人しくしててくれる?」

 ぐっと顔を近付けられ、至近距離で落とされた言葉に心臓が止まりそうになった。
 言葉遣いは優しいのに、逆らったら駄目だと思わせるような見えない迫力が凄い。こんなの、もう何も言えなくなってしまう。
 細く息を吐きながら、身を縮こまらせて下を向く。視界に入る自分の指先は小さく震えていた。
 本当に、これからどうなるんだろう。
 自分の意思で名前を書いたとはいえ、あんな紙切れ一枚にどのくらい法的な効果があるのだろうか。普通に考えたら、あんなもので人を命令通りに動かそうとするの、何かしらの法に引っかかると思うけど。
 ──なんて、私の甘い考えは、こういう世界では通用しないのかもしれない。
 何か違法なやり方だとしても、この場から逃げる手段がないことに変わりはないのだ。どう考えても詰んでいる。
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