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繋がり②
しおりを挟むそこからはより一層に恭弥くんの態度が目に見えて柔らかくなり、それは一度べこべこにへこんだ私が、再び期待してしまうほどに分かりやすい言動だった。
大切にされている気がして、浮かれて、自惚れた。恭弥くんへ向ける私の気持ちは、今まで以上にダダ漏れになっていただろう。
高校を卒業して大学進学後、そろそろ次に進んでも大丈夫ではないかと思い、私の方から誘ったことがある。
迫ったら「そういうのは結婚してから」と言われてしまったけれど、キスだけは深いものをしてくれるようになった。
嬉しくて、期待して、もっと募らせて拗らせた。
最初の頃の気持ちとは比べものにならないほどに膨らんだ好きという気持ちは、少しの衝撃で呆気なく弾けてしまう。
膨らみすぎて限界を迎えた風船は、ほんの少しの亀裂で割れてしまうのだ。私の心も、そんな状態だったのだろう。
私が大学を卒業してすぐに結婚式の日取りを決め、一年間で式の準備を進めていくことになった。
結婚式の打ち合わせは恭弥くんと二人で行ったし、二人で考えてプランを組んだ。しかし、招待状や席札、プチギフトなどの細々した用意は私一人で進めなくてはならず、手作業でかなりの数を用意するのに結構な時間を要した。
加賀家に嫁入りが決まっていた私は就職をしていなかったし、忙しい恭弥くんと違って使える時間も多い。
この頃には「もう花嫁修行は必要ないし、僕がお願いしたこと進めておいてくれる?」と恭弥くんに言われていて、私が加賀家に行く回数はめっきり減っていた。
そんな中、結婚式まであと一ヶ月となったある日。
急用があるからと昼前に恭弥くんのお母さんに呼び出された私は、加賀家の本邸に訪れていた。
本邸に行く用事がある時は恭弥くんと一緒に行くことばかりで、一人で来るのは随分と久しぶりな気がする。
着いたのは指定された時間の五分前で、いつも通りに裏門を通ろうとした。それと同じタイミングで、嬉しそうな顔をしながら裏口から出てきた女性を見かけ、思わず私の足が止まる。
知り合いではないけれど、知っている顔だ。すっかり忘れていた記憶が、顔を見た瞬間に簡単に蘇る。
私の見間違えでなければ、恭弥くんとデートをしていた女の人であろう。大人になってさらに美しくなった彼女が、私の方にチラリと視線を向けた。
「ああ、あなた……」
私の存在に向こうも気がついたらしい。何を言われるのかを想像してつい身構えてしまう。
正式な婚約者は私のはずなのに、どうしてこんなにも怖いのだろう。
しかし、彼女がこの場所にいる意味を考えると、穏やかな気持ちではいられなかった。
正面の玄関ではなく裏から出てきた彼女は、私と同じでお客様ではないのだ。
加賀家の誰かが、身内同然に中に引き入れたということになる。そして、そんなことをする人なんて、私は一人しか思い浮かばない。
「ねぇ、恭弥の婚約者の子……だよね?」
親しげな呼び方をする女性に、ぐっと喉が詰まった。
私に向けられた「婚約者の子」という呼び方にも、薄っすらと棘を感じてしまう。恋人でも彼女でもないのだと、突きつけられているみたいだ。
「恭弥って、結婚はあなたとするんだね」
「え……」
「あなたが婚約者って立場にしがみついてなければ、私にもチャンスあったのにな」
咄嗟の事で言い返すこともできない私にそれだけ言い残し、彼女は堂々とした歩き方で去っていった。
時間にすれば、ほんの数十秒間。少し話してすぐにいなくなり、もう彼女の後ろ姿も見えない。
殴られたわけでも酷い暴言をぶつけられたわけでもないのに、どうしてだろうか。全身から力が抜けてしまったようで、不思議と足が動かせない。
まだ恭弥くんと関係が続いているような言い方だった。いや、実際に続いていて、ここで会うことが許される関係なのだろう。考えると指先が冷たくなる。
いつから嘘をつかれていたのだろうという戸惑いと、まだ恭弥くんから直接なにかを言われたわけじゃないからと言い訳する自分が、ぐるぐると頭の中で混ざる。
「若菜?」
一歩も動けずその場で俯いていると、ふと声をかけられ顔を上げる。
黒い着物に鼠色の羽織を身につけた恭弥くんが立っていて、わずかに眉を寄せ私の方を見つめていた。
「あ……」
「どうしてこんな所にいるの? 何してた?」
お義母さんに呼ばれてきたと、それだけのことだ。質問に答えなくてはいけないのに、たったそれだけを説明することができない。
頭の中がぐちゃぐちゃで一つのことしか考えられず、まともな返事ができる状態ではなかった。
「あ……の、恭弥くんって、他の人と結婚したい、の?」
震える声で紡いだ、意味の分からない不躾な質問。
返事が返されるまでに挟まれた一瞬の表情に、ひどく、嫌な予感がした。
「……あー……なんだ。誰かに何か聞いた?」
面倒臭そうに言われた瞬間、あの人が恭弥くんの本命なのだと私は嫌でも理解してしまった。
質問の返事なんて、もう聞かなくても分かってしまう。
「し、式までもう……一ヶ月しかない、けど……」
「うん、だから何? 僕は若菜以外と結婚なんて出来ないけど、君は辞めたいの?」
彼女は、恭弥くんの高校の同級生だったと聞いている。
それ以外の情報は特になく、要するにそれは、どこかのご令嬢ではないということなのだろう。一般家庭で育った彼女を、加賀家の人達は恭弥くんの結婚相手として認めなかったのだ。
もっと昔からそういう話が持ち上がっていれば、私が習ったように家事の作法や相応しい所作を彼女にも叩き込んだのだろう。しかし、年齢的な問題もあるのか、そうはならなかった。
本命と結婚なんて出来ない恭弥くんは、表向きはそのまま私との婚約を続けて結婚し、裏で本命の彼女と付き合っていくつもりなのだ。
デートをしてもらった思い出も、結婚式のプランを熱心に考えてくれたことも、優しく話してくれた声も、真実を知ってしまった瞬間に全部が弾ける。
恭弥くんは私にキスだけはしてくれた。しかしそれは、ただ私を上手に操って、都合のいい縁談を円滑に進めるための手段だったのかもしれない。
だって私は、簡単に恭弥くんの言葉を信じ込んで言う通りに動いた。実家に籠もってせかせかと結婚式の準備を進め、恭弥くんが日中誰と合っているのかなんて知りもしなかったのだ。
今日こうやって加賀家の本邸に来て彼女と鉢合わせてしまったけれど、お義母さんに呼ばれていなければ、ずっと気付かずにいた可能性がある。
最近は加賀家にも加賀庵にも、私一人で行くことがなかった。訪れる用事がある時は絶対に恭弥くんも一緒にいたけれど、ただ見張られていただけなのだろう。
彼女が頻繁に恭弥くんに呼ばれて来ているのなら、ご家族や従業員も彼女の存在を知っていたはずだ。そのことを私に隠すために、他の人から私の耳に入れないように、恭弥くんは私を加賀家から遠ざけようとしていたのではないだろうか。
どれだけ迫っても、キス以上のことをしてもらえなかった。それ以上の行為は結婚してからだと躱されていたけれど、本当のところは私相手にそこまでしたくないだけなのだろう。
何か事態が変わった時に、余計な責任を取りたくないのかもしれない。
嫌なことばかり気付いてしまい、浮かれていた自分がまた恥ずかしい存在に思えてくる。
「辞めたいの?」と恭弥くんに問われた瞬間に、「もう辞めたい」と思った。
私が恭弥くんを好きなのは本気の恋で、結婚はそれに対する返事だと思っていたのだ。
でも、違う。恭弥くんの気持ちが私に向けられることはない。
私の本音は「辞めたい」一択だ。恋愛感情に振り回されて傷つくことが目に見えているのだから、恭弥くんと距離を置きたい。
でも、式の準備はもうほとんど終わっている。今さらキャンセルになったら、一体どれだけの人に迷惑をかけることになるのか。考えると声が出ない。
式のことだけでなく、私は十年もの間、加賀家で花嫁修行と称して様々なことを習ったのだ。
外部から先生を呼んでもらうこともあった。私の教育に、手間もお金も掛かっている。
「……辞めないよ」
今さら辞められない。そんなの、恭弥くんだって分かっていることだろう。
「そう、安心した。よろしくね」
本当に安堵の滲んだ声でそう言われ、完全に心が砕けた。
彼女の存在を知った上で、私は結婚すると言ってしまったのだ。愛人がいても黙認すると言ったのと同義であろう。
言ってしまった言葉を消すことも出来ず、ここからは政略結婚だと割り切ることに全力を費やそうと思った。
恋の成就など願ってはいけない。幸せな新婚生活を期待するだけ虚しくなる。
失恋の傷は時間が解決してくれるものだと言うが、今後も顔を合わせる人が失恋の相手の場合はどれだけ時間がかかるのだろう。
私の覚悟は結婚式当日までに固まるのだろうか。
結婚式までの一ヶ月。心を閉ざして浮かれる自分を殺すことに、私はその期間の全てを使ったのだ。
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