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繋がり①
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◇ ◇ ◇
私が恭弥くんの婚約者に選ばれたのは十三歳、中学生の時である。
私にとって恭弥くんとの婚約は、初恋の相手との結婚の約束だった。
そのため、婚約が決まった瞬間から、私は恭弥くん以外の男の人と恋愛する可能性がゼロになったのだ。
しかし、恭弥くんにとって私は、親が勝手に決めた将来の結婚相手の候補である。
特別だと言って恭弥くんに選ばれたわけではないし、恋人になれたわけでもない。自分より年下の子供の相手を恭弥くんがする義務もなく、ずっと私の片思いだったのだ。
結婚前にどんな恋愛をして、恭弥くんが誰を好きになるのか。それらの許可を恭弥くんが私に取る必要などないし、そもそも気持ちはコントロール出来るものでもない。
恭弥くんが誰と付き合っていても私に口を出す権利などなく、すべて恭弥くんの自由であった。
――肩書きは婚約者だけど、別に僕が選んだ恋人じゃないよ
――結婚なんてまだ数年は先の話なのに、今から縛られるなんて迷惑
そんなことを言って、学生時代の恭弥くんは何人かの女性と関係を持っていたらしい。らしいとしか言えないのは、実際に私が見たことがあるのは一人だけだからだ。
私が婚約者だということへの苦言も恭弥くんから直接言われたわけではなく、恭弥くんがお友達と話しているのを聞いただけ。私にわざわざ嫌味を言ってくるほどの興味を、恭弥くんは私に対して持っていなかった。
告白されてそれを受ける時に「婚約者いるみたいだけどいいの?」と相手に聞かれる際、恭弥くんが答えていた発言が「僕が選んだ恋人じゃないから」らしい。尤もな言い分だと思った。
私は恭弥くんが好きで、婚約破棄など絶対にされたくないという理由がある。
しかし恭弥くんとしては、私との婚約がなくなろうがどうでもいいのだ。むしろ、結婚したらいろいろと出来なくなってしまうからこそ、若いうちに遊んでいたのだろう。
知識だけで何の経験もない私と違い、恭弥くんは経験豊富である。そのことは初夜の様子からも十分に察することができた。
どんな人と、どのくらいの期間付き合って、何をして、今まで何人と経験があるのか。詳しいことを私は知らないし、聞く権利もないと思っている。
それでも、恭弥くんと関係を持った人が一人や二人ではないのだろうということは、なんとなく知っていた。
容姿、雰囲気、話し方……少し関わっただけでも、恭弥くんの魅力は相手にすぐ伝わってしまう。
幼い私が一目惚れをするような人なのだ。加賀家の跡取りという肩書きがなかったとしても、当然のように恭弥くんはモテていただろう。
そんな人を恋人でもない私が独占しようとするなんて烏滸がましいのだと、昔から自分に言い聞かせてきた。
それでも、加賀家に通って花嫁修行に励む過程で少しずつ認めてもらえていると思っていたし、何よりも、たまに話をしてもらえるだけで私は嬉しかったのだ。
週に二回のペースで私は加賀家に通っていたが、毎回恭弥くんに会えるわけではない。しかし何年も続けて恭弥くんのお家に行っていたのだから、合計すれば相当な回数になる。
本当に一言挨拶をするだけで終わる日もあったし、出してくれたお菓子を同じテーブルで食べる時もあった。
楽しく会話をするような仲ではなかったし、幼いながらに恭弥くんから一線を引かれていることを私も察してはいたのだ。それでも無視をされるわけではないからと無邪気に話しかけて、そんな関係のままにずるずると何年も経ってしまった。
年月をかければ恭弥くんもさすがに少しは私に慣れてくれたようで、多少は打ち解けられていたと思う。たまにふと笑ってくれるのが嬉しくて、褒めてもらえたら頑張れて、会話が続くとその日はずっと幸せでいられた。
ありふれた表現ではあるけれど、恋のパワーとはすごいものである。自分にとって都合のいいものだけを見て、期待だけを積み上げて年を重ねてしまった。
同級生や同じ学校の先輩と、恭弥くんは色々しているらしい。そんなことをウワサ程度に聞いていたけれど、私にとっては目の前の恭弥くんが全てだ。そんなのは今だけの関係だろうと自分に言い聞かせ、将来は私と結婚してくれるのだからと気にしないフリに徹していた。
想って、くすぶって、募らせて、自分でも自覚しないほどに気持ちが大きくなっていたのだろう。
それは私が高校二年生、恭弥くんが大学二年生の秋のことだ。
駅の近くのカフェで、綺麗な女性とデート中の恭弥くんに、私はばったり鉢合わせてしまったのである。
彼女がいるとか、私以外の女の人とエッチなことをしているとか、ちゃんと知っていたつもりだった。
それでも実際に目の当たりにしてしまうと思っていたよりショックで、心臓が嫌な音を立てて動きを早くする。
衝撃で一歩も動けなくなるという体験は初めてのことだった。
フラペチーノを持つ指先が凍ったように冷たくなり、並んで座る二人から目が離せない。
私が変なところで立ち尽くしてしまったせいで後ろからやってきた人とぶつかってしまい、一口も飲んでいないフラペチーノが音を立てて床に落ちた。
「あ、ご……ごめんなさ……」
「うわ、最悪。あっちの席行こ」
私が謝罪の言葉を最後まで口にするより先、ぶつかった男性は眉間に皺を寄せながら私に背を向ける。
大きな音を立ててしまったせいで、その瞬間に恭弥くんも私の存在に気付いたようだった。
恭弥くんと、その隣にいる女の人。二人分の視線が、フラペーチノを床にぶち撒けた私に向けられている。
恥ずかしくて仕方なくて、二人から顔を逸らしながらそそくさとナプキンで床を拭いた。すぐにモップを持って店員さんが駆けてきてくれたが、これ以上店にいるのは耐えられなかった。
新しいものを用意しますと言ってくれた店員さんに頭を下げ、本当にいいですごめんなさいごめんなさいと何度も謝り逃げるように店を出た。早くその場から離れたい一心で足を動かし、駅に着いたところで大きく息を吐いて呼吸を整える。
恥ずかしくて惨めで、今すぐに人目のないところに隠れて泣きたい。これまで私は何をしていたのだろうと自問する。
私なんかといる時より、恭弥くんはずっと自然だった。というより、私といると不自然に見えてしまうものなのだろう。歳が離れていると、それだけでどうしても違和感がある。
恋人にはなれなくても婚約者として認めてもらえているだなんて、どうして今までそんな風に思えていたのだろうか。恭弥くんの交友関係なんて、私はほとんど知らないのに。
思い上がっていた恥ずかしさにじくじくと心臓が痛む。
たった一人を見ただけなのに、それだけでこんなにも苦しい。恭弥くんの歴代彼女を全員見せられたりしたら、私の心臓は痛くて止まってしまうかもしれないと、そんなことを思って小さく息を吐いた。
――相手の女の人は、私のことを知っているのだろうか。
もし知り合いだとバレたら、恭弥くんは私のことをなんと説明するのだろう。
考えると頭が痛くなる。鼻の奥がつんとして、下を向いたら泣いてしまいそうだ。
涙を戻すためにゆっくりと顔を上げ、意味もなく電光掲示板を睨みつける。そんな私の視界に、ここにいるはずのない人物が顔を出した。
「っ、きょ……」
「もう帰るの?」
「……え、え? 恭弥くん、なんで……」
「とりあえず家まで送るよ。そんな顔で一人で歩くの危ないし」
自分がどんな顔をしているのかなんて知らないが、そんなことはどうでもいい。
なんでどうしてという疑問が消えず、先ほどの光景を思い出してまた涙腺が緩くなる。
女性の方から伸ばされた手を、恭弥くんは拒むこともせず受け入れていた。その触れ方が常であるように自然と腕を組み、寄せられた身体に寄り添って、顔が触れそうなほど近い距離での会話を交わしたあと、その目は店で騒ぎを起こした私に向いたのである。
いま目の前にいるのは、私が相当にみっともない姿を見せてしまった相手なのだ。隣にいた女の人と比べられたくもない。
何を思って恭弥くんが来てくれたのかは分からないけれど、今はまともに恭弥くんの顔を見ることすら私には難しいのだ。
こんな状態で優しくされるのは本当に無理だと、視線を逸らすために俯きながら口を開く。
「い、いい、ほんと……一人で帰ることくらいできるよ。それに恭弥くんは、その……デート中だった、よね……」
もしかしたら否定をしてくれるんじゃないかという希望は、「まあ、そうだけど」という一言に打ち砕かれた。
少しは私という婚約者に対して申し訳ない気持ちがあるのか、「別に付き合ってるわけでもないし」と謎のフォローを入れてくれる。
別に付き合っているわけでもない女の人と恭弥くんはデートして、それが私以上にお似合いで、一方で婚約者の私はデートにも行ったことがなく、二人の目の前で情けない姿を晒して逃げてきた。
思い出しただけで嫌になる。
「……ほんと、追いかけてきて欲しかったわけじゃないし、恭弥くんはもう戻っていい、から」
「若菜のこと放っておいてまで付き合いたい相手でもないよ」
これ以上に恥を晒したくないのに、恭弥くんに名前を呼ばれた瞬間に涙腺が崩壊する。
ぼろぼろと落ちる涙を止めることが出来ず、人目のある場所で思いっきり泣き出した私を前に、恭弥くんは一瞬驚いたように目を見開いた。
少し膝を曲げ、恭弥くんが私に目線を合わせてくれる。伸ばされた手が私の頬に触れ、親指で目尻を拭われた。私はどこまで恭弥くんに子供扱いされるのだろう。
「……ごめん。知ってて何も言わないのかと思ってたけど、知らなかった?」
「もっ……違う、ごめん。あの、知ってたし、泣くつもりじゃなくて……恥ずかしくて、なんか……ごめんなさ……」
「何がごめん? 若菜は今なにが嫌で泣いてるの?」
デート中の彼女を置いて、恭弥くんは私を追いかけてきてくれたのだ。それだけで特別扱いされているような気もするが、ここまで気を遣わせていることが申し訳なくなってしまう。
きっと、先ほど一緒にいた女の人なら、走って逃げて泣くような真似はしないのだろう。もしかしたら「追いかけてあげなよ」と恭弥くんの背中を押してくれたのかもしれない。もしそうだったら惨めすぎる。
昔より成長したからと思い上がっていたことが恥ずかしくて、花嫁修行を頑張っていれば認めてもらえると思っていた自分が情けない。
釣り合わないことは分かっていたはずなのに、今まで以上にどうすれば恭弥くんに並べるのか分からなくなった。
それを上手く言語化できず、その代わりにみっともなく泣いているのだ。本当に子供と同じで、こんな私が恭弥くんに女性扱いしてもらえるとは思えない。
なにが嫌で泣いているのか。自分の中で答えなんて出ていないのに、恭弥くんからの問いに答えようと無理に口を開く。
「……わ、私も」
恭弥くんのことが好きなのにと言いかけて、さすがに気が咎めた。
泣くことでしか相手の気を引けないような子供なのに、告白なんてしてどうするつもりなのだろう。
好きなんて言っても、恭弥くんを困らせるだけになる。
「私も?」
「あ……その、えっと、私も恭弥くんと、出かけたりしてみたいなって……」
そんなことで泣いているのかと思われそうな発言になってしまったが、好きだと伝えるよりはマシだろう。
何かを考えるようにしばし間を置いて、恭弥くんが口を開く。
「そう、分かった。また今度ね。連絡する」
その場で私を泣き止ませるための嘘でも全然構わなかったけれど、後日本当に、恭弥くんはちゃんとしたデートプランを組んでくれた。
恭弥くんが変わったきっかけがあるとすれば、恐らくその日になるのだろう。
また泣かれたら面倒だとでも思われたのか、恭弥くんは定期的に私との時間を作ってくれるようになったのだ。
他の人と遊びに行っているという類の話さえピタリと聞かなくなり、私は本当に恋人になれたかのような錯覚に陥ってしまった。
加賀家で花嫁修行をする際も、顔を合わせれば今まで以上に話をしてくれる。
どうしても気になって、「もう他の人と遊んだりしないの」と、一度恭弥くんに訊いてしまったことがあった。
私がデートの現場を目撃してから、半年ほど経った頃だ。
特に何をするわけでもないのに同じ空間にいることを許されるようになり、私は少しだけ気が緩んでしまったのだろう。読んでいた本から私の方に視線を移した恭弥くんは、「どうして?」と静かに聞き返してきた。
「その、最近いっぱい一緒にいてくれるから」
まるで私にだけ時間をくれているみたいだ、とは、最後まで口にすることはできなかった。
それでも私の質問の真意は汲み取ってくれたのだろう。「ああ、そうか」と独り言のように溢した恭弥くんは、再び手元の本に視線を戻した。
ページを捲る音が響き、それと同時に恭弥くんの返事が私の耳に届く。
「君としか会ってないからね」
「……前の女の人とか、どうなったの」
「もう会ってない。今後も会わない」
「それは……えっと、私と結婚するから?」
しつこく質問を重ねた私の前で、恭弥くんがゆっくりと本を閉じる。
真っ直ぐに見つめられ、私の心臓は大袈裟に跳ねた。
「そうだね。若菜と結婚するし、そういうのもうやめたから」
言わせてしまっただけかもしれないし、私以外の人と出かけているところを見てショックを受けた私を、ただ慰めるための言葉だったのかもしれない。
しかし、嘘か本当かを見抜く力など私にはなく、恭弥くんのその一言に私は分かりやすく舞い上がってしまった。
好きだと言われたわけでもないのに、勝手に頭の中で恭弥くんの言葉を補完して、少しだけ調子に乗ってしまったのだ。
嬉しくて、今なら少しくらい我が儘を言ってもいいんじゃないかと気が大きくなった。
「それなら、そのうち私にもキスとかしてくれるの……?」なんてことを口走った私に、恭弥くんは一瞬、驚いたように目を見開く。
出来る出来ないを、言葉で返してはくれなかった。しかし不意に距離が詰められ、恭弥くんの薄い唇が私の口元に寄せられる。
あ、と声を出す間に初めてのキスは終わっていて、何が起こったのかを理解するのに数秒を要した。
キスをしたと言っても、味や匂いが分かるような深いものではない。口と口を触れ合わせただけのもので、一度触れたらすぐに離れてしまった。
しかし私にはそれだけで十分で、夢のようで、この瞬間に私は、完全に恭弥くんに落とされたのだ。
私が恭弥くんの婚約者に選ばれたのは十三歳、中学生の時である。
私にとって恭弥くんとの婚約は、初恋の相手との結婚の約束だった。
そのため、婚約が決まった瞬間から、私は恭弥くん以外の男の人と恋愛する可能性がゼロになったのだ。
しかし、恭弥くんにとって私は、親が勝手に決めた将来の結婚相手の候補である。
特別だと言って恭弥くんに選ばれたわけではないし、恋人になれたわけでもない。自分より年下の子供の相手を恭弥くんがする義務もなく、ずっと私の片思いだったのだ。
結婚前にどんな恋愛をして、恭弥くんが誰を好きになるのか。それらの許可を恭弥くんが私に取る必要などないし、そもそも気持ちはコントロール出来るものでもない。
恭弥くんが誰と付き合っていても私に口を出す権利などなく、すべて恭弥くんの自由であった。
――肩書きは婚約者だけど、別に僕が選んだ恋人じゃないよ
――結婚なんてまだ数年は先の話なのに、今から縛られるなんて迷惑
そんなことを言って、学生時代の恭弥くんは何人かの女性と関係を持っていたらしい。らしいとしか言えないのは、実際に私が見たことがあるのは一人だけだからだ。
私が婚約者だということへの苦言も恭弥くんから直接言われたわけではなく、恭弥くんがお友達と話しているのを聞いただけ。私にわざわざ嫌味を言ってくるほどの興味を、恭弥くんは私に対して持っていなかった。
告白されてそれを受ける時に「婚約者いるみたいだけどいいの?」と相手に聞かれる際、恭弥くんが答えていた発言が「僕が選んだ恋人じゃないから」らしい。尤もな言い分だと思った。
私は恭弥くんが好きで、婚約破棄など絶対にされたくないという理由がある。
しかし恭弥くんとしては、私との婚約がなくなろうがどうでもいいのだ。むしろ、結婚したらいろいろと出来なくなってしまうからこそ、若いうちに遊んでいたのだろう。
知識だけで何の経験もない私と違い、恭弥くんは経験豊富である。そのことは初夜の様子からも十分に察することができた。
どんな人と、どのくらいの期間付き合って、何をして、今まで何人と経験があるのか。詳しいことを私は知らないし、聞く権利もないと思っている。
それでも、恭弥くんと関係を持った人が一人や二人ではないのだろうということは、なんとなく知っていた。
容姿、雰囲気、話し方……少し関わっただけでも、恭弥くんの魅力は相手にすぐ伝わってしまう。
幼い私が一目惚れをするような人なのだ。加賀家の跡取りという肩書きがなかったとしても、当然のように恭弥くんはモテていただろう。
そんな人を恋人でもない私が独占しようとするなんて烏滸がましいのだと、昔から自分に言い聞かせてきた。
それでも、加賀家に通って花嫁修行に励む過程で少しずつ認めてもらえていると思っていたし、何よりも、たまに話をしてもらえるだけで私は嬉しかったのだ。
週に二回のペースで私は加賀家に通っていたが、毎回恭弥くんに会えるわけではない。しかし何年も続けて恭弥くんのお家に行っていたのだから、合計すれば相当な回数になる。
本当に一言挨拶をするだけで終わる日もあったし、出してくれたお菓子を同じテーブルで食べる時もあった。
楽しく会話をするような仲ではなかったし、幼いながらに恭弥くんから一線を引かれていることを私も察してはいたのだ。それでも無視をされるわけではないからと無邪気に話しかけて、そんな関係のままにずるずると何年も経ってしまった。
年月をかければ恭弥くんもさすがに少しは私に慣れてくれたようで、多少は打ち解けられていたと思う。たまにふと笑ってくれるのが嬉しくて、褒めてもらえたら頑張れて、会話が続くとその日はずっと幸せでいられた。
ありふれた表現ではあるけれど、恋のパワーとはすごいものである。自分にとって都合のいいものだけを見て、期待だけを積み上げて年を重ねてしまった。
同級生や同じ学校の先輩と、恭弥くんは色々しているらしい。そんなことをウワサ程度に聞いていたけれど、私にとっては目の前の恭弥くんが全てだ。そんなのは今だけの関係だろうと自分に言い聞かせ、将来は私と結婚してくれるのだからと気にしないフリに徹していた。
想って、くすぶって、募らせて、自分でも自覚しないほどに気持ちが大きくなっていたのだろう。
それは私が高校二年生、恭弥くんが大学二年生の秋のことだ。
駅の近くのカフェで、綺麗な女性とデート中の恭弥くんに、私はばったり鉢合わせてしまったのである。
彼女がいるとか、私以外の女の人とエッチなことをしているとか、ちゃんと知っていたつもりだった。
それでも実際に目の当たりにしてしまうと思っていたよりショックで、心臓が嫌な音を立てて動きを早くする。
衝撃で一歩も動けなくなるという体験は初めてのことだった。
フラペチーノを持つ指先が凍ったように冷たくなり、並んで座る二人から目が離せない。
私が変なところで立ち尽くしてしまったせいで後ろからやってきた人とぶつかってしまい、一口も飲んでいないフラペチーノが音を立てて床に落ちた。
「あ、ご……ごめんなさ……」
「うわ、最悪。あっちの席行こ」
私が謝罪の言葉を最後まで口にするより先、ぶつかった男性は眉間に皺を寄せながら私に背を向ける。
大きな音を立ててしまったせいで、その瞬間に恭弥くんも私の存在に気付いたようだった。
恭弥くんと、その隣にいる女の人。二人分の視線が、フラペーチノを床にぶち撒けた私に向けられている。
恥ずかしくて仕方なくて、二人から顔を逸らしながらそそくさとナプキンで床を拭いた。すぐにモップを持って店員さんが駆けてきてくれたが、これ以上店にいるのは耐えられなかった。
新しいものを用意しますと言ってくれた店員さんに頭を下げ、本当にいいですごめんなさいごめんなさいと何度も謝り逃げるように店を出た。早くその場から離れたい一心で足を動かし、駅に着いたところで大きく息を吐いて呼吸を整える。
恥ずかしくて惨めで、今すぐに人目のないところに隠れて泣きたい。これまで私は何をしていたのだろうと自問する。
私なんかといる時より、恭弥くんはずっと自然だった。というより、私といると不自然に見えてしまうものなのだろう。歳が離れていると、それだけでどうしても違和感がある。
恋人にはなれなくても婚約者として認めてもらえているだなんて、どうして今までそんな風に思えていたのだろうか。恭弥くんの交友関係なんて、私はほとんど知らないのに。
思い上がっていた恥ずかしさにじくじくと心臓が痛む。
たった一人を見ただけなのに、それだけでこんなにも苦しい。恭弥くんの歴代彼女を全員見せられたりしたら、私の心臓は痛くて止まってしまうかもしれないと、そんなことを思って小さく息を吐いた。
――相手の女の人は、私のことを知っているのだろうか。
もし知り合いだとバレたら、恭弥くんは私のことをなんと説明するのだろう。
考えると頭が痛くなる。鼻の奥がつんとして、下を向いたら泣いてしまいそうだ。
涙を戻すためにゆっくりと顔を上げ、意味もなく電光掲示板を睨みつける。そんな私の視界に、ここにいるはずのない人物が顔を出した。
「っ、きょ……」
「もう帰るの?」
「……え、え? 恭弥くん、なんで……」
「とりあえず家まで送るよ。そんな顔で一人で歩くの危ないし」
自分がどんな顔をしているのかなんて知らないが、そんなことはどうでもいい。
なんでどうしてという疑問が消えず、先ほどの光景を思い出してまた涙腺が緩くなる。
女性の方から伸ばされた手を、恭弥くんは拒むこともせず受け入れていた。その触れ方が常であるように自然と腕を組み、寄せられた身体に寄り添って、顔が触れそうなほど近い距離での会話を交わしたあと、その目は店で騒ぎを起こした私に向いたのである。
いま目の前にいるのは、私が相当にみっともない姿を見せてしまった相手なのだ。隣にいた女の人と比べられたくもない。
何を思って恭弥くんが来てくれたのかは分からないけれど、今はまともに恭弥くんの顔を見ることすら私には難しいのだ。
こんな状態で優しくされるのは本当に無理だと、視線を逸らすために俯きながら口を開く。
「い、いい、ほんと……一人で帰ることくらいできるよ。それに恭弥くんは、その……デート中だった、よね……」
もしかしたら否定をしてくれるんじゃないかという希望は、「まあ、そうだけど」という一言に打ち砕かれた。
少しは私という婚約者に対して申し訳ない気持ちがあるのか、「別に付き合ってるわけでもないし」と謎のフォローを入れてくれる。
別に付き合っているわけでもない女の人と恭弥くんはデートして、それが私以上にお似合いで、一方で婚約者の私はデートにも行ったことがなく、二人の目の前で情けない姿を晒して逃げてきた。
思い出しただけで嫌になる。
「……ほんと、追いかけてきて欲しかったわけじゃないし、恭弥くんはもう戻っていい、から」
「若菜のこと放っておいてまで付き合いたい相手でもないよ」
これ以上に恥を晒したくないのに、恭弥くんに名前を呼ばれた瞬間に涙腺が崩壊する。
ぼろぼろと落ちる涙を止めることが出来ず、人目のある場所で思いっきり泣き出した私を前に、恭弥くんは一瞬驚いたように目を見開いた。
少し膝を曲げ、恭弥くんが私に目線を合わせてくれる。伸ばされた手が私の頬に触れ、親指で目尻を拭われた。私はどこまで恭弥くんに子供扱いされるのだろう。
「……ごめん。知ってて何も言わないのかと思ってたけど、知らなかった?」
「もっ……違う、ごめん。あの、知ってたし、泣くつもりじゃなくて……恥ずかしくて、なんか……ごめんなさ……」
「何がごめん? 若菜は今なにが嫌で泣いてるの?」
デート中の彼女を置いて、恭弥くんは私を追いかけてきてくれたのだ。それだけで特別扱いされているような気もするが、ここまで気を遣わせていることが申し訳なくなってしまう。
きっと、先ほど一緒にいた女の人なら、走って逃げて泣くような真似はしないのだろう。もしかしたら「追いかけてあげなよ」と恭弥くんの背中を押してくれたのかもしれない。もしそうだったら惨めすぎる。
昔より成長したからと思い上がっていたことが恥ずかしくて、花嫁修行を頑張っていれば認めてもらえると思っていた自分が情けない。
釣り合わないことは分かっていたはずなのに、今まで以上にどうすれば恭弥くんに並べるのか分からなくなった。
それを上手く言語化できず、その代わりにみっともなく泣いているのだ。本当に子供と同じで、こんな私が恭弥くんに女性扱いしてもらえるとは思えない。
なにが嫌で泣いているのか。自分の中で答えなんて出ていないのに、恭弥くんからの問いに答えようと無理に口を開く。
「……わ、私も」
恭弥くんのことが好きなのにと言いかけて、さすがに気が咎めた。
泣くことでしか相手の気を引けないような子供なのに、告白なんてしてどうするつもりなのだろう。
好きなんて言っても、恭弥くんを困らせるだけになる。
「私も?」
「あ……その、えっと、私も恭弥くんと、出かけたりしてみたいなって……」
そんなことで泣いているのかと思われそうな発言になってしまったが、好きだと伝えるよりはマシだろう。
何かを考えるようにしばし間を置いて、恭弥くんが口を開く。
「そう、分かった。また今度ね。連絡する」
その場で私を泣き止ませるための嘘でも全然構わなかったけれど、後日本当に、恭弥くんはちゃんとしたデートプランを組んでくれた。
恭弥くんが変わったきっかけがあるとすれば、恐らくその日になるのだろう。
また泣かれたら面倒だとでも思われたのか、恭弥くんは定期的に私との時間を作ってくれるようになったのだ。
他の人と遊びに行っているという類の話さえピタリと聞かなくなり、私は本当に恋人になれたかのような錯覚に陥ってしまった。
加賀家で花嫁修行をする際も、顔を合わせれば今まで以上に話をしてくれる。
どうしても気になって、「もう他の人と遊んだりしないの」と、一度恭弥くんに訊いてしまったことがあった。
私がデートの現場を目撃してから、半年ほど経った頃だ。
特に何をするわけでもないのに同じ空間にいることを許されるようになり、私は少しだけ気が緩んでしまったのだろう。読んでいた本から私の方に視線を移した恭弥くんは、「どうして?」と静かに聞き返してきた。
「その、最近いっぱい一緒にいてくれるから」
まるで私にだけ時間をくれているみたいだ、とは、最後まで口にすることはできなかった。
それでも私の質問の真意は汲み取ってくれたのだろう。「ああ、そうか」と独り言のように溢した恭弥くんは、再び手元の本に視線を戻した。
ページを捲る音が響き、それと同時に恭弥くんの返事が私の耳に届く。
「君としか会ってないからね」
「……前の女の人とか、どうなったの」
「もう会ってない。今後も会わない」
「それは……えっと、私と結婚するから?」
しつこく質問を重ねた私の前で、恭弥くんがゆっくりと本を閉じる。
真っ直ぐに見つめられ、私の心臓は大袈裟に跳ねた。
「そうだね。若菜と結婚するし、そういうのもうやめたから」
言わせてしまっただけかもしれないし、私以外の人と出かけているところを見てショックを受けた私を、ただ慰めるための言葉だったのかもしれない。
しかし、嘘か本当かを見抜く力など私にはなく、恭弥くんのその一言に私は分かりやすく舞い上がってしまった。
好きだと言われたわけでもないのに、勝手に頭の中で恭弥くんの言葉を補完して、少しだけ調子に乗ってしまったのだ。
嬉しくて、今なら少しくらい我が儘を言ってもいいんじゃないかと気が大きくなった。
「それなら、そのうち私にもキスとかしてくれるの……?」なんてことを口走った私に、恭弥くんは一瞬、驚いたように目を見開く。
出来る出来ないを、言葉で返してはくれなかった。しかし不意に距離が詰められ、恭弥くんの薄い唇が私の口元に寄せられる。
あ、と声を出す間に初めてのキスは終わっていて、何が起こったのかを理解するのに数秒を要した。
キスをしたと言っても、味や匂いが分かるような深いものではない。口と口を触れ合わせただけのもので、一度触れたらすぐに離れてしまった。
しかし私にはそれだけで十分で、夢のようで、この瞬間に私は、完全に恭弥くんに落とされたのだ。
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