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初夜①

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「あ……えっと、恭弥くんのお部屋って」
「家ならリビングで過ごすことの方が多いし、あんまり必要性を感じてないから作ってない」

 そう言い切られてしまうと、私の方からはもう何も言えない。
 しかしこれはどうなんだろうかと、ちらりとベッドの方に視線を戻す。
 一緒のベッドで眠るのはやっぱり受け入れ難いし、まともに眠れる気がしない。
 普通なら、こういう接触は避けるものだと思っていたのだ。距離を取られても悲しんだりしないようにと、そればかりを覚悟してきた。
 こういう扱いをされると、身の振り方が分からなくなる。

「恭弥くん、あの……私は自分の部屋で寝た方がいい、よね?」
「どうして?」

 どうしてと言われても、普通は嫌じゃないだろうか。恋人でもない人間が横で寝ているなんて、普通に考えれば落ち着かないだろう。
 誰の目もないのだから、夫婦の寝室を一緒にする意味なんてない。

「そういうのって、ほら、落ち着かないから……」
「そのくらい、しばらくすれば慣れるでしょ」

 馬鹿だねとでも言いたげな溜め息混じりの言葉に、足元がぐらぐらと揺れているような錯覚を起こす。
 慣れるから一緒に寝るぞと言われても、現状が上手に把握できない。

「あ……あの、でも」
「結婚したらそういうこともするよって、言ってあったと思うけど?」
「は……」
「へぇ、困った顔するんだね。でも逃げちゃ駄目だよ。絶対に今日抱くから」

 先ほどよりも直接的な表現になり、一瞬呼吸の仕方を忘れた。
 相変わらず恭弥くんは無表情に近く、何を考えているのか分からない。ただ淡々とした話し方は、ありのままを事実として伝える。
 これは会話ではないのだ。決定事項の報告で、宣言。そこに私の意思は関係ない。
 抱くというのは冗談ではなく本当のことなのだと、それだけが、嫌なくらいに分かってしまう。

「シャワーどうする?」
「は……はい、る」
「そう。じゃあ行ってきな」

 ただの作業行程の確認のようなやり取りを、どうして私はこんなにも緊張しておこなっているのだろう。
 逃げるように寝室から出た足は重く、脱衣場で足を止めるとそのまま床の上にへたり込んだ。
 恭弥くんの中では、そこまでするのが義務なのだろうか。
 そこまで、の部分を具体的に想像して、ぐちゃぐちゃに頭の中を塗り潰した。
 本来なら子供を成すための行為ではあるが、現代ではそれ以外の目的でおこなわれることも多いだろう。
 ただ触れたいから、愛情を確かめたいから、性欲の処理、興味本位。目的なんて、考えればいくらでも出てくる行為だ。
 私と恭弥くんがする場合は、完全に子供を作るというのが目的になるのだろう。
 気持ちはどうであれ、私は加賀家に嫁入りした身だ。
 遠くないうちに、「跡取りになるような子供を」と言われる日だってくるだろうし、そうなったらセックスという行為が必要になってくるのだと、ちゃんと理解はしているつもりだった。
 それでも、初日からこんなことをする必要はないと思ってしまう。

「……どうしよう」

 絶対に別々に寝るものだと思っていた。
 最悪の想定では、家の中では会話さえないかもしれないとまで考えていたのだ。
 恭弥くんに触られる覚悟も、心の準備もしていない。
 こんなにも早く恭弥くんとの初夜がくるなんて、思ってもいなかったのだ。
 そもそも私は、シャワーを浴びてどんな準備をすればよいのだろう。
 ふらふらと立ち上がり、見慣れない脱衣所の籠に脱いだ服を順番に落とす。誰かに見られているわけでもないのに、初めて入る場所で裸になるのはなんだか少し緊張した。

 ――いや、違う。
 初めて入る場所だからではなく、これからのことを想像して私は緊張しているのだ。
 この格好で恭弥くんの前に立つのだと気付いて、意味もなく泣きそうになっている。
 細く息を吐いてからバスルームに足を踏み入れ、真新しいシャワーを手に持った。どんな準備をするのが正解なのか分からないまま、無駄に長い時間をかけて髪を洗ってしまう。
 見たことのないボトルのボディソープを泡立て、いつもより念入りに身体を清めて脱衣所に戻った。
 まだ必要最低限のものしか置いてないと恭弥くんは言っていたけれど、その必要最低限がしっかり揃っているあたり、恭弥くんらしいなと思ってしまう。
 バスルームの中には、私が普段使っているのと同じメーカーのシャンプーとコンディショナーが並べられていた。
 脱衣所の中も無駄がなく、バスマットの上から手が届くところに、売り物のように綺麗な状態でバスタオルが積まれている。
 その中の一枚を手に取って、ふわふわのバスタオルで自分の身体を拭いていく。
 身体の水滴が拭われていくのに比例して、指先が冷えていくような感じがした。
 ふと顔をあげると、鏡越しに自分の顔が目に入る。緊張と不安が分かりやすく張り付いた表情をしていて、すぐに鏡から視線を逸らした。
 まだ何もしていないのに我ながら情けない。始まる前からこんな状態なのに、問題なく本番を乗り切ることなんてできるのだろうか。
 どんな顔で恭弥くんに向かい合えばいいのかさえ分からないのに。

 持参の荷物から取り出した新しい下着を身につけ、恭弥くんが用意してくれていたパジャマをその上に着る。
 私の分が白で、その隣には同じデザインのグレーのパジャマが畳んで置いてあった。色違いのお揃いを用意するなんて恭弥くんらしくないし、誰かからのプレゼントだろうか。
 変に浮かれた新婚夫婦のようで、自分に似合っているとも思えない。
 この格好で寝室に戻ることを考えると、また心臓の辺りがずしりと重くなった。
 しかし、いつまでも脱衣所に留まり続けるわけにもいかず、一度深く息を吐いてから扉を開ける。
 重たい足をゆっくりと動かしながら寝室に戻ると、「おかえり」と恭弥くんに声をかけられ心臓が跳ねた。

「った、ただいま……?」

 たった一言なのに、引き攣ったような声になってしまった。
 あまりにも挙動不審で、私が意識をしまくっていることなんて、恭弥くんは手に取るように分かるのだろう。
 はぁと落とされた溜め息が怖くて、大袈裟なほどに肩が震える。

「僕もシャワーしてくるから、その間に君は髪乾かしておきな」

 私と入れ違いで寝室を出ていく恭弥くんの顔を、まともに見ることすらできなかった。
 何に対しての溜め息なのか分からず、きゅっと唇を引き結ぶ。部屋を出ていく直前の恭弥くんの言葉は、数秒遅れて私の脳に届いた。

 ああ、そうか。髪は先に乾かさなくてはいけないのかと、少し考えれば分かりそうなことに今さら気がつく。
 変なことばかり考えてしまって、当たり前のことにさえ気を回せない。
 恭弥くんに言われた通り行動するため、私はまたふらふらと寝室を出る。自分の行動すべてが空回っているようで、もう既に逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
 シャワーが空いたことを先に報告した方がいいかと思い、脱衣所を出てそのまま寝室へと来てしまった。
 ドライヤーの場所は事前に聞いていたのに、濡れた髪のまま寝室に戻った私に恭弥くんは呆れているのだろうか。それとも、これからのことを想像してまともに返事もできなかったことに対する溜め息だったのだろうか。なんて、考えても仕方ないことばかり考えて、ドライヤーを持つ自分の手が震えていることに気付く。
 このまま一緒に寝て、私はどうなるのだろう。
 ガチガチになった自分が失敗することばかりを想像してしまって、何をすれば恭弥くんに幻滅されずに終われるのか分からない。
 どうせ上手にできないのだから、恭弥くんとセックスなんてしたくない。想像の中ですら、私は何もスムーズに出来ないのだ。
 ドライヤーの電源を切りコンセントを抜く。目の前の鏡に向き直り、情けない顔をしている自分と目を合わせた。
 もうこのまま自室に籠ってもいいだろうか。ブランケットにくるまって寝たふりをしてやり過ごしたいと、そんな馬鹿なことを考えているうちに、恭弥くんが脱衣所の扉を開けた音が響いた。
 そのまま真っ直ぐと洗面台までやってきた恭弥くんに、「終わった?」と短く問われる。上手く声が出せず、頷くことで返事とした。

「そう。じゃあ寝室で待ってて。僕もすぐ戻るから」

 どんどん逃げ場がなくなっていくようで、焦りと不安だけが心に積もる。
 ドライヤーを手に持った恭弥くんに再度、「寝室」と端的に言われ、私は洗面所に留まることができなくなってしまった。
 行きたくない部屋に向かい、ゆっくりゆっくりと床に張り付くほど重たい足を動かす。
 部屋に戻ると、私の視界に入るのは大きなベッドだ。その場所に近付きたくなくて、それ以上は先に進めなかった。
 どんな顔をして恭弥くんを待てばいいのだろう。ベッドで横になることも腰掛けることも出来ず、閉じたばかりの扉の前でただ立ち尽くした。
 考え事をしていると、時間の進みは残酷なほどに早い。

「あれ、何してるの?」

 扉の開く音と、すぐ後ろから聞こえた恭弥くんの声。
 寝室に戻ってきた恭弥くんは、部屋の入り口付近に立っている私を見て僅かに眉間を寄せた。
 こんなところにいられては確かに邪魔だろう。当然の反応に、またきゅっと喉が締まった。

「なんで部屋の中で突っ立ってるの? 先に入ってていいのに」

 ベッドを指しながらそう言われるが、隣に立った恭弥くんの方を見ていられない。俯きながら腹の前でぎゅっと両手を組むと、分かりやすい溜め息がふたたび隣から落とされた。
 数歩だけ前に進み、そのまま恭弥くんが私の方を振り返る。
「おいで」と溢された声色がいつもより優しくて、ベッドの中での彼の話し方を生々しく想像をしてしまった。
 手のひらにじわりと汗が滲み、ベッドの前に立つ恭弥くんを見てしまうと目頭が熱くなる。
 想像だけでおかしくなりそうで、本当に耐えられる気がしない。許されるなら今すぐ逃げたい。

「ほら、若菜」

 名前を呼ばれ、ゆっくりと顔を上げた。
 シンプルな格好をしていると、恭弥くんのスタイルの良さが際立つ。私と同じデザインのグレーのパジャマは、少しだけ丈が足りていない。
 そんな長い足を少しだけ折り、恭弥くんは私と向き合い視線を合わせる。

「……はぁ、泣きそうな顔」

 あからさまな溜め息は、もう何回目になるのだろう。
 強く結んでいた私の両の手を解かれ、右手が恭弥くんに取られた。
 そのまま引かれると、私もさすがに足を動かしてしまう。当然、たどり着くのはベッドの上だ。
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