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1 迷い犬

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 そこは、小さな公園だった。
 片隅のベンチに、少年と少女が2人。
 手を繋いで仲良く座っていた。

 少年——戸塚夕翔とつかゆうとは頬を赤く染め、真剣な眼差しを少女に向ける。

「——僕のお嫁さんになってくれる?」
「うん! ゆうちゃんのお嫁さんになる!」

 夕翔は少女の返事を聞くと、満面の笑みを浮かべた。

「大好きだよ」
「私も大好き!」

 2人は自然と顔を近づけ、唇を合わせた。
 それは、2人にとって初めてのキス。
 これからも一緒にいよう、と誓い合ったのだが……。


***


 18年後。

 ヨウ星。
 地球とは別時空にある星で、妖術が存在する。
 体内保有妖力量が多いほど高度な妖術を発動でき、そのような人種は犬神国いぬがみこくという小さな国で多数誕生していた。
 その中で最も妖術に長けた犬神家が長年、犬神国を治めている。


 犬神国、犬神家の館。
 その館は日本でいう寝殿造の建築物と似ていた。

「——父上、お呼びでしょうか?」

 館の主人——犬神将聖いぬがみしょうせいは、執務室に娘の花奈はなを呼び出していた。
 2人の服装は和服と似ている。

「明日、お前の婚約の儀を執り行うことになった」
「父上! なぜ、前日になってそのようなことを! 私は聞いていません! 私には心に決めた人が——」
「——意見は許さぬ!」

 花奈は父親の鋭い口調と視線に口ごもる。

犬壱いぬい家との縁談はすでに決まっていた。今さら覆らないことは、お前もよくわかっているはずだ。犬神家の神子みこに選ばれた以上、お前の夫となる人物は妖力に優れた人物だと決まっている」
「では、犬壱嗣斗いぬいつぐとよりも妖力が強い人物を見つけてくればいいのですね?」
「馬鹿げたことを……。なぜ、わしの言っていることがわからぬ?」

 花奈は視線を下げた。

「私は……母上が亡くなってから、あなたのことがわからない。もう父親とすら思っておりません……」

 花奈の言葉に父親は言葉を詰まらせた。

「失礼いたします」

 寂しさと怒りに体を震わせながら、花奈は部屋から出て行った……。





 その半年後。

 日本、戌佐和市じゅつさわし

 スーツの上着1枚だけでは肌寒く感じる秋の夜。
 仕事を終えて帰宅途中だった夕翔は、駅の改札を出て肩を落とした。

 ——今日に限って……。

 電車に乗っている間は晴れていたが、今は強い雨が降っていた。
 夕翔は家に傘を忘れた自分を責める。

「はぁ……」

 夕翔は仕方なく、徒歩で約10分の家まで走ることにした。


 数分後……。

「……はー、はー、はー……うっ、はー、はー」

 道のりの半分に満たないところで、夕翔は吐き気を感じていた。
 まだ23歳とはいえ、運動習慣のない夕翔にとってこの軽いランニングは拷問に等しい。

「はー、はー……うっ」

 もう走れない夕翔は、諦めて足を止める。
 どうせ走ってもスーツはびしょ濡れだったので、今さら気にしても意味はない。

 ——雨の日は嫌なことばかりだな……。

 そんな負の感情を抱きながら、夕翔は重い足を動かし始めた。


 しばらく雨に打たれ、ようやく自宅が視界に入った。
 ホッとする反面、暗い自宅に心が沈む。
 近隣の家々には温かい明かりがついていたのでなおさらだった。

 ——一軒家に1人暮らしは、やっぱり寂しいもんだな。こんな雨の日は特に……。

 夕翔は濡れたカバンのサイドポケットに手を入れ、鍵を探しながら玄関へ向かう。

「ん……?」

 鍵を開けようとした時、夕翔は薄暗い足元に目を止める。
 そこには、汚れた茶色い小型犬が体を丸めて座っていた。
 体はびしょ濡れで震えている。
 迷い込んだのだろうか、と夕翔はその場にしゃがむ。

 ——やせすぎ……。成犬のダックスフンドだよな……? 捨てられたのか……?

 昔飼っていた犬種がダックスフンドだったこともあり、夕翔は見過ごせなかった。

「家の中に入るか?」

 犬は顔をわずかに上げ、夕翔をじっと見つめる。
 弱っているせいで立ち上がれないようだ。
 夕翔はゆっくり手を近づけてみた。
 すると、犬は怖がることなく夕翔の指先を舐める。
 犬好きの夕翔は、その反応に笑みをこぼした。

「おいで」

 夕翔は袖を捲り上げた右手で犬を持ち上げ、玄関の扉を開けた。


 ——汚れてるからな……。

 そう思った夕翔はまっすぐ浴室へ向かう。

「ごめん、ちょっと待ってて」

 夕翔は浴室に犬を置いて扉を閉め、急いでキッチンへ。
 リビング横にあるカウンターキッチンで、犬に食べさせていいものを探す。

 ——これでいいか……。

 夕翔はカウンターに置かれた1本のバナナへ手を伸ばした。
 手を洗ってからそれを小さく手でちぎり、皿に乗せる。
 小皿を食器棚からもう1枚出して水を入れ、それらを両手に持って浴室へ戻った。

「とりあえず、これ食べながら待ってて」

 腹をすかせていた犬は、慌ててバナナにかぶりつく。

 ——食べてくれてよかった。

 夕翔はホッとしながら浴室の扉を閉め、脱衣所で濡れたスーツや下着を脱ぐ。
 数枚のタオルを棚に置き、裸で浴室に入った。

 犬は夕翔が入ってくるなり体をビクつかせ、慌てて下を向く。

「もう食べ終わったのか。あとでもう少しご飯用意するよ。先に体を洗わせて」

 夕翔は空になった2枚の皿を浴室の外に出し、シャワーのお湯の温度を手で確かめる。

「お湯かけるなー。大丈夫、怖くないよー」

 夕翔は慣れた手つきで犬の長い胴体からゆっくりシャワーをかけた。
 犬は尻尾を丸め、目を瞑ってじっとしている。
 その表情や仕草が可愛くて、夕翔は目尻を下げる。

「いい子だな~」

 お湯で汚れを落とした後、夕翔は洗面器にお湯を張ってその中に犬を浸からせた。
 犬は大人しくそこから出ず、気持ちよさそうにしている。

「少しだけ、そこで待っててくれるか?」

 夕翔はそう言うと、急いでシャワーを浴びた。


 先に着替え終わった夕翔は、タオルに包んだ犬を脱衣所の床に置いた。
 そのタオルで毛の水分を取りながらドライヤーで乾かす。
 乾いた長めの毛はふわふわで、手触りが最高だ。

「お前さえ良ければ、俺の家に住むか?」

 犬は言葉を理解したかように、夕翔の手をぺろぺろ舐める。

「OKってことだよな? じゃあ、今日から俺たちは家族だな」

 夕翔は乾いた犬を優しく撫で回した。

「さて……」

 さっそく、夕翔は犬の居住スペースを整えることに。

 ——確か犬用品はここにあったはず……。

 夕翔は犬を抱えたまま、廊下の押入れの扉を開けた。
 すぐに折り畳まれたゲージセットを奥で見つけ、リビングへ運び込む。

「ちょっと待ってて」

 夕翔は犬を足元に置き、組み立て始める。
 折りたたまれたフェンスを広げ、大きなトレーの上にそれを設置。
 さらに、新聞紙をトレー全面に敷き詰め、最後にその半面に数枚のタオルを置いた。

「よーし、ここがお前の部屋だぞー」

 夕翔は大人しく座っていた犬を持ち上げ、ゲージのタオルスペースに座らせた。
 犬はちょこんと座り、つぶらな瞳で夕翔を見つめる。
 あまりの可愛さに、夕翔は笑みをこぼす。
 
「ご飯持ってくるよ」

 夕翔は水とちぎったパンが入った2枚の皿を用意し、ゲージ内の新聞紙の上に置いた。
 犬はまだ腹をすかせていたようで、急いでパンを食べ、あっという間に平らげてしまう。

 ——足りないのかもな……。

「ちょっと出かけていいか? ドッグフードとか買ってくるから」

 犬は寂しそうな瞳で夕翔を見つめる。

「大丈夫。すぐ帰ってくるから」

 夕翔は犬を軽く撫でた後、近くの店へ出かけた。



 30分後。

 夕翔が帰ってきた時には、犬はタオルの中に潜り込み、丸くなって眠っていた。

「ふっ」

 タオルから鼻先だけが出ている状態が可愛くて、夕翔は吹き出す。

 ——起こさない方がいいな……。

 そう思った夕翔は、静かにキッチンへ向かう。
 新しい皿にドッグフードを入れて犬のそばに置き、明かりを消して2階の寝室へ移動した。


***


 翌朝。

 雨はすっかり止み、カーテンの隙間から光が少しさしていた。
 休日だったが、夕翔はいつもより早く目を覚ました。
 犬のことが気になっていたことも理由の1つだが、他に要因があった。

 ——背中に生温いものが当たる……?

 横向きに寝ていた夕翔は、反対側に寝返りを打つと……。

 人の頭らしきものが目に入った。

 夕翔は固まる。

 恐怖のあまり、声が出ない。

 慌てて枕元の携帯を握りしめ、足の方からベッドを抜け出した。
 混乱状態の夕翔は、落ち着け、と自分に言い聞かせながら息を整える。
 そして、恐る恐るその人影に近づき、枕元の布団を少しだけめくった。

 間違いなく、人だった。
 それも少女。
 茶色の長い髪、白い肌。
 すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てている。

「誰だっ!?」

 夕翔は威勢良く声を張り上げたものの、怖くてすぐに距離をとる。
 いくら少女でも、格闘戦に持ち込まれると勝てる気がしなかった。

「ふぁ~」

 夕翔の声で目を覚ました少女は、大きなあくびをした。
 悠長に布団の中で全身を伸ばしながら……。

「ふぁ~」

 少女は再びあくびをし、ゆっくりと布団を捲り上げた。
 驚いた夕翔は、俊敏に後ずさりする。
 少女は目をこすりながらゆっくり起き上がり、ベッドの上に座った。
 その服装に少し違和感が……。
 華奢な体には不釣り合いのぶかぶか黒色Tシャツとグレーのスウェット。

「おはよ、ゆうちゃん」

 夕翔は震え上がった。

 ——なぜ、俺の名前をあだ名で呼ぶ……?

「私のことわかる? 結婚を約束した花奈はなだよ」
「は?」

 夕翔は少女の意味不明な発言に顔をしかめた。
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