赤い糸むすんだ

野良にゃお

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第二幕)山下宏典と笹原由奈

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 笹原由奈。僕よりたしか六歳年下の二十七歳。性別は女性。A型。蟹座。未だ第二次性徴期を経験していないのではないかという失礼な感想を抱いてしまうくらいに華奢で小柄な体躯。幼少期に心に多大な傷を持ってしまうと、ホルモンバランスの影響なのか何なのか成長が止まってしまうという話しを聞いた事があるので、もしかしたらそれが原因でもあるのかもしれないと思ってしまうくらいに所謂ところの幼児体型だったりする。勿論の事、何から何までそうだというワケではないのだろうけれど………それは兎も角として。肌は全体的に色白。アイプチ要らずの二重瞼。くりくりの眼。眉は太め。小さな耳と小さな鼻。その鼻に少しだけかかった細くて丸っこい声。そしてそれにシンクロするかのような薄紅色の小さな口。それらがバランス良く卵型の顔に配置されており、肩にかかる程度の長さに統一されていた黒髪を後ろで一つに纏めた所謂ところのポニーテールという髪型がスタンダードだった女性。事ここに至る以前の僕が知る由奈は、そのような容姿だった。
 性格は………極度の人見知りかな。二人っきりの時はよく笑うしすぐ泣くし、気の弱い小動物のような人懐っこさを持ち合わせているのだけれど、一歩でも外に出ると無愛想とはいかないまでも極端ではあるくらいに心を閉ざし、途端に表情が暗く重く固くなる。これもまた、人格形成に多大な影響を与える事になったのだろう家族との鬱な関係がそのような立ち位置を選ぶに至る動機となったほぼ全てを説明可能としているのかもしれない。二人きりの時に見せる甘える素振りなどもそうだ。そんな時の由奈は必ずと言っても大袈裟ではないくらいに途端に言葉遣いが幼くなる。が、しかし。自身で自分を抑制するという由奈なりの処世術はやはり由奈にとって多大なストレスなのだろう、抑えようにも抑えられない類いの三大欲求のうちの一つであるところのあの行為の際は特に、由奈はその容姿や体つきからでは到底想像不可なくらいに激しく乱れ、そして求めてくる。きっと由奈にとってその行為は、開放しきれて更に発散しきれる大きな機会なのだろうけれど、それは知れば知る程に、覚えれば覚える程に、更に更にとそちら側へとあからさまに豹変していった………ま、僕が体感した限りに於いてではあるのだけれど。
 兎にも角にも。由奈が自身ではどうする事も出来ないくらいに否応なく歩んできたこれまでの人生は、やはりそれだけに決して笑顔で語れる類いのモノではなく、決して思い出して微笑みを浮かべながら懐かしむ類いのモノでもなく、苦労という言葉だけでは到底カバー出来ないくらいの深い深い傷となって特に由奈の精神を蝕んでおり、それは一度は精神科の病棟で生活しなくてはならなくなる程だった。因みにそれは今こうして入院しているこの病院で、担当医もずっと同じその人で、つまるところそれは朋美さんで、その期間はなんと二年弱にも及ぶ事だったりする。
 由奈本人から聞いた話しによると、此処を退院してからは週一で通院しつつ薬を処方してもらうという生活を営んでいたらしいのだけれど、少なくとも付き合うようになってからの由奈は月に一度行くかどうかくらいなペースだったと記憶している。薬を服用している姿も見た事はない。勿論の事と言うべきか、自暴自棄に陥ってしまってがらりと豹変した際にたぶん用量を守らず服用したであろう姿は何度か見た事があるのだけれど。
 由奈との、えっと………馴れ初め? と、言えば。由奈が臨時職員として僕が勤めている介護施設で働くようになったのが始まり。極度の人見知りではあったものの真面目で働き者だった由奈は、即戦力という枠組みの中に入るくらいの短期間さで仕事を覚えていった。それと元々がお祖母ちゃん子だったらしく、たぶんそれ故になのだろう利用者さんに際しての人見知りは発動しなかったようだし、仕事の都合上もあって勤めて笑顔でいようと頑張っていた事もあり、利用者さんからの人気は頗る高かった。僕達が勤めていた介護施設に限らない事ではあるのだけれど、その日その日の勤務者が数名ずつに分かれてその日の業務を担うのが通常で、由奈は何故なのか僕とコンビを組む機会が多かった。なので、そういう努力を知る機会も増える事となり、たぶんだからなのだろう由奈と僕が打ち解けるまでに要した時間も僅かだった。由奈を知るにつれてどんどん惹かれていった僕は、由奈が勤めるようになって三ヶ月くらい過ぎた頃に由奈に起きたとある出来事をキッカケにして、由奈と僕は深く付き合う仲へと発展していく。
 しかしながら、それは………つまるところ成り行きだった。少なくとも僕からしてみればそうだった。とある事によって精神的な鬱症状が強く発動してパニック状態に陥った由奈が助けを求めたのが僕で、その僕が勢いで由奈を抱きたくなってしまい、そんな僕を由奈は拒む事なく受け入れてくれたので、その後もそういう関係を何度か持つようになったというのが二人の始まり。すると、一緒に居るという時間がプライベートの時間の殆どを埋め尽くすようになっていき、そのまま付き合うという間柄に落ち着いた若しくは収まった。と、そんな感じだった。しかし、性的な関係に於いては由奈は僕が初めてだったようなので、貪るように求めてくるようになるのはまだ少し先の事になる。そう………驚いた事に、由奈は何もかもが未経験だったようなんです。それを知ったのは、インサートして数秒後の事。かなり狭いなと感じながらも痛がるような素振りは見えなかったので、まだ経験が浅いのかなと激しい動きは控えて反応を確めつつ、流れで体位を変えてみたその矢先の事、初めての証しとなる事象を偶然なのだけれど見るに至った。なので、まさかとは思いつつも由奈に確認してみると、戸惑いなのか恥じらいなのか少しの時間を要した後に、ぽつり。と、それを肯定する旨を告げられた。狭いと感じたのは由奈が小柄で更には華奢だからという理由もあるのだろうけれど、経験が浅いどころか未経験だったとは。そういうのって、反応やら何やらからでは判らないものですね。
 由奈が未経験だったと知った僕は、性欲を処理するという事を優先順位第一位からあっさりと降格させ、由奈からなるべくゆっくりと身体を離した。溢れようとする淫らな声を押し殺していたのではなく、痛がっていたのだという事が判ったからだ。
 すると由奈は、そんな僕の行動が予想外だったのか途端に動揺し、最後まで続けてくださいと力任せにしがみついてきた。それに対して僕は、相手を痛がらせておいて自分だけというのはやっぱり抵抗があったので、それ以前のつい先程まで見せていたモノとは違う類いの激しい動揺を見せる由奈をどうにかこうにか落ち着かせてからその旨を告げた。そして、更に暫くしてから二人でシャワーを浴び、ゴメンなさいと何度も謝る由奈に大丈夫だからと笑顔を見せ、朝になるまで寄り添ってすごした。
 ぶっちゃけ、それなりに経験してきているつもりです。欲望のみを優先させたら後々かなり面倒な事になるし、中断してがっかりするような年齢でもありません。ただしそれでも、そこに至ってもまだ、意外だという違和感に似た感情は消えていませんでした。反応とかも含めたアレやコレやから経験はそれなりに持ち合わせているのだろうと推測していたし、なので経験が浅いのかなという考えに止まったのだし、何よりも由奈は当時もう二十代の半ばを何年間か過ぎて大人の三十路へと駆け上がっている年齢だったワケで、だから、その………うん。まさかだよね。
 勿論の事、そういう女性が皆無だとは思っていないし、当然そういう女性は沢山いらっしゃるものです。なのでそれは特殊でもないし稀有でもないのだろうけれど、僕をその相手としてしかもあの状況であの流れで抵抗なく受け入れたという事は『まさかの出来事』でした。少なくとも僕からしたら、ね。だって、てっきり経験人数という枠組みの中の一人になるだけとしか見ていないと思っていたから。多少の戸惑いや不信感を抱きつつも、それでも流れに逆らう程の嫌悪感ではないと判断してくれたのかな、と。
 正直に言えば、惹かれていたとはいえ少なくとも僕は付き合うという間柄について体裁ですら考えてはいませんでした。ただの遊びのつもりで楽しもうとしただけと断言する程に軽い気持ちではなかったのだけれど、決してそうではなかったのだけれど、脈ありと予感する何らかの兆候や自信があったワケでもないし、だから………うん。セフレ的な関係性が暫く続くかもしれないと、つまるところそのつもりでした。

 だって、さ。

 好きですと告白して、それで付き合う事になって、そして………という手順を何一つ踏まず、仕事の事でパニクった由奈に呼び出されて抱きついてきたからついキスしてしまったら拒まなかったからついついそのまま事に及ぶ………と、いう流れだったから。嫌がる素振りを全く見せなかったから、もしかしたら由奈の方もそのつもりなのかなと、このままそうなってもイイかなと、そう思ってくれた。と、思うよね? 遊びというか、ノリというか、さ。言い訳じみた釈明だと受け取られるかもしれないし、軽薄さ極まりない逃げの詭弁だと非難されるかもしれないのだけれど、そういうワケで何はともあれそれが始まりで、何はともあれそれで終わり。だから未遂でそのまま終了だと、そう思っていた。

 の、だけれど。

 由奈にとってはそうではありませんでした。僕を初めての人だと完全にカウントしていました。って、それはそうだよね。充分に存分にとまではいかなかったものの、それでもインサートしちゃっているのだし、その前のそれに至るまでの過程と言うかそのつまりアレやコレやを含めて諸々、それはもう僕に抱かれましたと思われても何一つ間違ってはいないのだから。それについては弁解はありません。

 が、しかし。

 そのように想像していた未来が現在という形を迎えた時、その現実は事実は行く末は思わぬ形となっていたという事です。その夜が明けて朝。由奈は決断した旨を僕に告げる。『ヒロさんも私でイク事がデキるようにならないと申し訳ないです』と。『私に気を遣わずにヒロさんがイケるようになりたいです』と。『でも、他の人で慣れてから再びヒロさんとっていうのは絶対にイヤですし、私がそうなるまでヒロさんは私以外の人とっていうのはもっとイヤです。だから、こんな私なんかとじゃ楽しくないでしょうけど教えてください。言うとおりに頑張りますからお願いです』と。こんな展開を予想出来る人が存在するとすれば、それはこんな顛末を経験した事があるという人くらいだろう。少なくとも、僕はそういう捉え方をする人は初めてだったので、そういう意味で言えば由奈は僕の初めての人だと、そう言えなくもないのだけれど………たぶん、由奈は変なトコに律儀なのかな。それとも、そこらあたり女性のプライドみたいな事なのかな。頑張らなくてもイイ事なのにね。

 ま、兎にも角にも。

 かなり恥ずかしがりながらも強い意志で、大袈裟ではなく不退転の勢いで、何故だか由奈は僕にそんな提案………じゃなくて、決断を示してしてきました。それもあってか、プライベートを二人きりで過ごす時間がどんどん増えていった。それと、僕が由奈の怖い一面を知るようになったのもその始まりの夜から数えて決して遠くはない先の事なのだけれど、その機会は長く時間を共にする事で遭遇する確率を増し、幾度も身体を重ねる事でその全容を晒す頻度が増え、いつしか躊躇する事なく全開で僕に解き放つようになっていました。

 それは、嫉妬心。
 若しくは執着心。
 或いは、独占欲。

 主にそれらによって生まれる激情の先に芽吹いた不安感それらは、どれもこれもがあからさまですらあった。正直に吐露してしまえば、身に覚えがない事ばかりではなかったのだけれど。下心なき優しさばかりではないのだから。なので、信用されていないからそうなるんだよと言われれば反論の余地は僅かほどもないのだけれど。が、しかし。由奈の場合は度を激しく逸脱していた。決して自己保身の言い訳や棚上げなんかではなく、由奈がその一面を全面に晒す様は恐怖ですらあった。
 例えば、由奈が見ている所で僕が由奈以外の女性と少しでも笑顔で話していようものなら。たったそれだけの事でさえ、豹変して自殺を仄めかすくらいの騒ぎを起こす。そして、その女性に敵意を向ける。敵意を向けるどころではなく、牙を剥くという表現の方が適当な時だって何度かあった。
 例えば、メールの返信をしないままでいようものなら。着信履歴が物凄い事になるくらいのコールの嵐が待っている。それがただ単にメールに気づかなかったという理由であったとしても、だ。それが本当にそうであったのかどうかは由奈からしてみれば預かり知らずな事なのだから、そんな事は知った事ではないのだろうけれど、それだけの事であっても着信履歴はとんでもない有り様となる。
 そして何より。由奈が明に暗に仄めかす自殺はいつだって、狂気ようなものが見えたという事。仄めかすといった感じで弱々しくその旨を伝えておきながら実のところ、ポーズでも何でもなく完全に本気モード全開となって事に及ぼうとしていたのではないかと、もしかしたらそうだったのではないのかと、そんなふうに後になって不安に駆られるという事がしばしばあった。が、しかし。そういう由奈にも見慣れてくるうちに………と、表現するとなんだかそれはそれで由奈に失礼な気がしないでもないのだけれど、兎にも角にも見慣れてくると、面倒さが勝ってこの程度であれば本当のところは大丈夫だろうと半ば投げ出すかのような僕が垣間見えるようにもなり、またかよ。と、いう感情が大きく膨らんでいたのも正直なところで………うん、疲れた。それが一番しっくりくる表現なのかもしれない。またかよと思いながらも、その狂気には内心ではずっと怯えていたから。
 で、あるならば。何度も見てきたのならば。何らかの攻略法を見出だす術はなかったのか。と、冷静に自身を振り返ってみても。残念ながら、何処にスイッチがあるのか全くと表現したいくらいに読めなかったというのが偽らざる心境。故に気づけない。故に判らない。故に対処が出来なかった。少なくとも、僕はそうだった。

 あ、一つ思い出した。

 小学校や中学校の卒業アルバムが本棚に置いてあるという理由それだけで初恋やら当時の彼女やらの想い出をうんたらかんたらと決めつけ、それだけの事で絶望というフィールドに率先して飛び込み、そして自殺騒ぎを起こした事があるという事を。因みに現在、なので現在、僕の部屋には今も………って、わざわざそう言わなくても『今も』なのは当たり前の事なのだけれど、僕が一人で若しくは家族や親戚と写っている写真以外はただの一枚すらも現存していない。パソコンやスマートフォンにファイルとして保存していた画像も含めて、そういう現状となっている。
 そんな由奈なのだけれど、どうやらそれら激情という名の欲望は僕に対してのみ発動するらしく、金銭や物や出世や権力や名誉などといった俗物的な事に対しては、全くと言い切っても間違いではないくらいに欲を見せない人だった。言いかえるとすれば、そんなモノには全く興味ありませんというくらいに、である。とは言っても、僕という個体を所有物と捉えれば所謂ところの色恋は立派に俗物なのだけれど。

 それはそれとして。

 僕をコントロール下に置いておく事を理想としていたのかどうかまでは判然としないのだけれど、由奈は少なくとも僕というたかだか人が一人な石ころと変わらないくらい凡庸な存在を、それなのにどうしてなのか肌身離さず所持していないとどこか不安で不安で仕方がないという傾向にあるようだった。何故か唯一無二なくらい重要な人間だと仮定し、何度も依存度を確変させて増強させて大きくさせて遂には、絶対という言葉を用いる程に必要な人間だと定義してしまったのは間違いないように思う。が、しかし。そこまで惚れてもらえるなんて男冥利につきますねなんて自惚れる程に自信過剰で不遜な人間には僕はなれないし、何よりそれを経験したらそんな視点で感想を抱く余裕や優越感なんかどこにもない状態になる。だってそうだろう、僕のみを特別視するという考え方をどうやって理解しろというのだ。なるほどそれならそうなりますよね、なんて納得するに至る説明があるワケでもないのだから。だって、僕は僕を知っているのだし。
 なので、そういった狂気の場面に出会う毎に怖くて怖くて仕方がなくなっていく僕が生まれた。『そんなの当たり前ですよ』と。『ヒロさん、何を言っているんですか?』と。そんな表情で事も無げに僕への想いを宣言してしまう由奈に、僕は大袈裟ではなく戦慄していった。僕にとってみれば宣言と言うより妄言、いいや………それは宣告だった。真面目で働き者、加えて家庭的。無風状態の時は思いやりが強く慎み深い。可愛くて健気で頑張り屋さん。よく笑うのだけれど泣き虫で、故に涙もろい感激屋さん。そういった良い面はとてつもないくらいに素敵度指数お高めな女性なのに。
 やっぱり思うに、この極端な性質は幼児期から少女期においての家庭環境が原因なのだろう。端的に言うと、由奈はかなり酷い虐待を受けていた。それが要因の一つとして強くあるのではと思う。加えて、心を閉ざす事によってなのか学校では尚更に酷い苛め被害にあっていたという。言ってみれば、そう。四面楚歌の状況だ。小学生時代あたりの行動範囲なんて、自宅と学校の往復圏内のみくらいだったりする。何処かで遊ぶとなったところで、その中にある何処かで遊んだりといった程度だろう。極度の人見知りになってしまったくらいなのだから、詳しくは聞いていないのだけれどもしかしたら、中学生時代や高校生時代だって行動範囲はそうであったかもしれない。
 だとすれば、由奈にとっては四面楚歌どころか八方塞がりだったのかもしれない。心が休まる場所を見つけられなければ、精神は崩壊への道をまっしぐらに駆けていくだろう。しかも、決して大袈裟ではないくらいのスピードとペースで、だ。明るい未来を夢想する事さえ諦めてしまう心境に陥ったとしても、それは無理もない事だと思えるし、それが由奈の場合はその最大の限界が高校二年の夏に来たのだろう。遂に、大爆発してしまった。と、言うよりも。暴発してしまったと表現した方が正しいのかもしれないのだけれど、その結果として由奈は精神科病棟へと隔離された。正常なる再起動は絶望的と診断されるような完全なるサイコパスは免れたようなのだけれど、暴発してしまう程の状態に陥ったのは事実だ。故に行き着く先にあったのは、学生生活途中でのドロップアウトである。リハビリという名目の強制入院生活をどうにかクリアしても、その先には学生生活よりも更に難易度が高い社会人生活というミッションが待っており、しかもそれはクリア条件がある意味に於いてシビアで、少しだけプラス傾向なハッピーエンドを迎える事ですら長い長い時間を要する、端的に言ってみれば無理ゲーに近い類いのモノだったりする。偏見に満ちた視線による困難な人生が由奈に容赦なく襲いかかり、四方八方から激しく攻め立てられ、力の限り苦しめられたのは、由奈の回想話しから想像するに難くないし、由奈に癒やしや喜びといったライフアップなイベントが起こったとしても、その効果や効能や効用を遺憾なく発揮してくれたとしても、それを根刮ぎいいやほんの少しでも取り込めたのかどうかも怪しいような精神状態の方が多かったのではないだろうか。敢えて例えるならば、回復が追いつかない。と、いう毎日。事実、由奈は相当な度合いで虐げられてきたらしいし。由奈自身そのあたりの苦労について僕の情という部分を刺激して僕を繋ぎ止めるという手段として徐々に匂わしてくるようにはなっていったものの、そうかと言って詳細に順序立てて語りはしなかったので、これもまた想像力を働かせる事になるのだけれど。何はともあれ、由奈は僕を繋ぎ止める事を目的として自身のそういった鬱なる感情を匂わす事は有効と判断したのだろう、最終的には匂わすという手段を頻繁に使うようにまでなっていた。ただし、それもまた僕が恐怖を増幅させる理由の一つとなっていた事には気づかないままで。
 結局のところ、由奈との恋愛関係期間は二年という月日にも満たないくらいに短かった。春に出会い、夏が来て始まり、月日は流れて新しい春や夏はどうにか越えたものの、その後に続く秋や冬は迎えずじまいで終わったのだから。そして、現在の由奈が忘却している約半年という歳月を経て今に至っている。つまるところ由奈は今、時間軸で言うなれば僕が由奈に別れ話を切り出した直後あたりに立っているのと同じといった感じらしい。消えてしまった記憶を補完するのが目的なのか、それとも消えてしまった記憶を無かった事にしようとしているのか、兎にも角にも由奈の脳は由奈をそのように仕向ける事で由奈という本体の存続と安定を目指しているようで、身体中至る箇所を包帯で覆わなくてはならないくらいの大怪我と向き合う為の処方箋として、僕との恋愛関係がどうにかこうにかまだ終わってはいないと認識させているのだろう。それはまるで、サイコパスという症状に繋がる問題を根刮ぎ刈り取ってしまう事で生きる希望を失わないように帳尻合わせしているかの如く。と、いった感じだ。絶望を誘発する可能性が高い記憶の上に新たな記憶を上書きする事により、記憶を改竄してしまおうと目論んでいる………の、だろう。

 由奈が、ではなくて。
 由奈の脳が、である。

 これがもしもそのとおりそのまま事実だとするならば、人間の脳だけではないのかもしれないのだけれど少なくとも、人間の脳というのは時として信じられないくらいに摩訶不思議な能力を発揮するという事になる。凄いと讃えるべき事なのか、恐ろしいと畏怖するべき事なのか、何にせよ僕のような専門外の素人には計り知れない機能を持っていると認めざるを得ないのかもしれない。事実、由奈は今のところ平常な精神状態の中にいるのだから。少なくとも、逸脱した状態が顔を覗かせる事は皆無に近くなったのだから。

 あ、そう言えば。

 最初に覚えた由奈への違和感は、職場での初対面の際に早くも起きたんだった。仕事の際の由奈の作業着は橙色の甚平がスタンダードで、それが初違和感だった。これって実のところかなり特異な部類だと思う。思えば、そう。思い出してみれば、そうだ。思い返してみれば、うん。そうだった。由奈って初対面から違和感ありありだったんだよなぁ………。

 あ、また思い出した。

 それは出会ったばかりの頃。所謂ところの体育座りといった格好で独り、ぽつん。と、俯いて座っていた由奈を偶然にも発見した昼休憩の最中。その姿を見るに至った僕は、落ち込んでいるのかなとか悩み事でもあるのかなという考えが脳裏を過ったので、近寄って声をかけてみる事にした。『どうした?』すると。『この水溜まりが、太陽の光で少しずつ少しずつ小さくなっていく様子をこうして観察してるんです♪』と、僕を見上げるや否や楽しそうに告げる由奈がそこにいた。つまるところ僕の完全なる勘違いというヤツだった。思いもよらないその答えは視線の先にある視界からの情報とは激しく逸脱していて、飛び込んできたそれに対して我が耳を疑ってしまうほどの違和感を誘発されたのだけれど、絶句しつつも不思議な事にその満面の笑みは僕の心を決して軽くはない程度に射抜いていた。たぶん、今にして思えば。なのだけれど。

 あ、もう一つ。

 これも出会ったばかりの頃だったのだけれど、直立不動で立ち尽くしていた事もあった。既に学習していた僕は、決して少なくはない好奇心でその理由を訊いてみた。するとその時は、『太陽の下で影が移動する様子をこうして観察してるんです♪』との事だった。そして、水溜まりの時もこの時もどちらの時も軽い熱射病に陥るというオチが待っていたりする。それはそうだ。春とはいえ直射日光の下に長時間なのだから。百歩ほど譲って水溜まりの件は仕方がないとしても、影の移動は日陰で待機しつつ日向になるのを観察しても良かったのでは? と、余計なお世話かなと思いつつも話してみると。『なんと! その手がありましたね』と、真顔で返されたっけ………。

 兎にも角にも。

 何はともあれ、介護畑という場所はその箱の規模によっては予め指定されているユニフォームを着用するというパターンも少なくなくはないものの、往々にして自由と言うか、動きやすい恰好が好まれる。例えば上はTシャツで下はジャージ、その上にお好みでエプロンというスタイルといった感じに。つまるところ、職員はTシャツ&ジャージ下に+エプロンという恰好がスタンダードモデルな職種であり、そういった環境でもあるという事実をふまえて言えばやはり、その出で立ちはかなり珍しい類いのファッション及びセンスだった。そこらあたりの事について由奈は『あ、コレですか? コレはですね、見た瞬間にずばばぁーんと一目惚れしちゃったんですよぉー!』と、朗らかに言いきったので違和感と共に天然の不思議さんタイプかなという印象を覚えた記憶がある。
 そんな由奈の口癖の一つに『場合によっては~』というのがあり、真剣に考えている最中に思いついた何かしらを発言する際によく用いていたとこちらもまた記憶している。あとは………話し相手との距離、関係性の事ではなくてそのままの意味で相手との距離が近くなると、途端に視線を合わせなくなる。合わさないようにする。と、いうのもある。その理由は照れなどではなく、たぶんきっと怯え。若しくは防御。この事については由奈とそれなりに深く付き合うようになってから知った事で、知ってから判ったと言うべきかそれとも知ったから判ったと言うべきか。由奈は終始、にこにこ。と、していて笑う時には元気いっぱいで、テンションが上がると更に元気山盛りになる人だったのだけれど、背中を向けている時は悲しい瞳をしていて、いつだって表情が消えていて………いいや、少し違うかな。顔を見せている時の方こそをその時と表現するべきなのかもしれない。それはどちらも由奈の意志であり、例え無意識であっても嘘ではないのだけれど、どちらも本当ではないとも言えた。これも、由奈との距離が縮まるにつれて不意に気づいた事なのだけれど、どうしてそれに気づいたのかと言えば、顔つきがなんとなく違うと感じる事が何度もあったからで、しかもその頃はまだほんの数ヶ月程度の柄だったからだ。数ヶ月程度の期間で変わるなんてそうそう見られない事なのだけれど、それはもう別人とまでは形容しないにしてもかなり強い違和感を誘発させるには充分な差異と言いきれてしまう程ではあった。
 少なくともそれらは、どの程度の信頼を寄せて良いのか判然としない程度でしかない僕の観察眼に頼ればそうだったという感想ではあるのだけれど、頬の膨らみや顎のライン、目元や鼻、そういったポイントがどこかしら違うとか何かしら違うとかいったクエスチョンとなって心を刺激し、脳に理論的な回答を求めさせようとする事が何度もあった。髪型やその色を変化させたワケでもないし、お化粧で化けるという事でもなく、たぶん整形の類いによってという事でもなく、向き合う仕草や声や態度にも多少の変化すら何一つ見られないのだけれど………それでもやっぱり、なんだかちょっと違うという感覚。こういった事はそれこそただの違和感と表現すべき事なのかもしれないのだけれど、ただの違和感として収めようとすると途端に心になんらかのモヤモヤが出現し、他の表現をどうにか探そうとしている自分自身に直面してしまう。普段からそんなに注目して観察しているワケではないので、だから気のせいかもしれないという答えで受け流しても良かったのかもしれないのだけれど、なまじ介護福祉士としての経験や勉強をそれなりに蓄えていた僕は、それがどうしても気になってしまい、いつだったか出来るだけさらっと確認してみるに至った。

 すると、
 答えはビンゴだった。

 由奈が自己防衛や人間不信によって嘘をついていなければ………ではあるのだけれど。最初は寝不足なんですとだけ言っていた。が、しかし。ある出来事を境にして自傷、過食、嘔吐、薬の過剰摂取、それ等の繰り返しだと判明した。そして、そのある出来事によって急速に、更には一足飛びに距離が縮まった事で、由奈は心の傷を告白してくれるようになった。正直に言うと、やっぱりな………と、思った。

 実のところ。も、何も僕は。
 似ている女性を知っている。

 だからこそ気になったのだし、それが最大にして重大な理由の一つでもあったのだけれど、それはこの仕事をしていると結構な確率で見かける事でもあったりする。それは、職員であったり利用者であったり、利用者の家族の誰かであったり。なので、似ている女性を知っているという表現では些か説明不足なのだけれど、介護福祉士は精神や心理の面の勉強もする。医学も入り口あたりの一般的な事までは勉強するし、理学や作業や言語といった所謂ところの療法も習う。栄養についても習うし、手話や点字も習う。専門的に使いこなすワケではないので、あくまでも広く浅くといった程度ではあるのだけれど、なので専門的な部分になれば個々で勉強していないかぎり当然の事としてちんぷんかんぷんなのだけれど、それでも日常という空間に存在する様々で色々な何かしらをサポートする仕事であるが故に、その知識を活用する機会はかなり頻繁に巡ってくる。なので、いかに由奈がどんなに頑張ろうとして明るく元気に笑っているイメージを増やそうと試みても、そうしていたとしても、僕は違和感を覚えたのだろうと思う。そして、あくまでも結果論としてそうだったのだろうけれど、その違和感は図らずもビンゴであったワケで、たぶんきっと由奈は精神的にタフなんだと思う。そうである源泉が例え、かなり後ろ向きな感情であったとしても。なので僕は、不安に苛まれる事が多々あった。由奈は一体、自身の事をどのように思われたいと願っているのだろうか、と。自身の本質を一から十まであからさまに晒したい人間なんていない筈だ。が、しかし。判ってはもらいたいだろうし、受け止めてもほしいだろうし、裸の自分でいたいとかありのままの自分でいたいという願望はきっと、多くの人が持っているだろう。しかしながら、それでもこれは知られたくはないという何かなんて幾らでもあり、それがつまるところ一から十まであからさまに~というヤツだ。それは身勝手なのかもしれないし、突き詰めてしまえば相手の事より自分の事という都合の良い考え方なのだけれど………結局のところ、それが人間の本質である。誰しもがその飽くなき欲望と向き合い、それに忠実となるかそれを抑制しようとするかのどちらかだ。

 アレとコレには忠実に。
 アレやコレには抑制を。

 そういった思考を繰り返し、時には修正し、所々をリニューアルする。そして、そうする事で表面化してくる差異によって優しいだとか真面目だとか勇気があるだとか冷たいだとか卑怯だとか情けないだとかというプラスやマイナスの印象が出来上がり、それを他の誰かから勝手気ままに贈呈される。無粋な身勝手さで進呈される。人間なんてみんなそんな程度の輩だ。そういった意味で言うと、人間ってヤツは全知全能に限りなく近い生物なのかもしれない。だって、全能を全知しているという事はつまるところ良い事も悪い事も全て経験しているって事なのだから。事態の大小に関係なく、多少にこだわりなく、ね。これまでの全ての人間の経験をずらりと並べていったとしたら、案外と100%に近い経験値を弾き出せるんじゃないかなと思うくらいに………ま、だからといって神様にはなれないし、その境地にも遠く及ばないのだろうけれど。100%に近づくにつれ本来なら同じ1%である筈の1ポイントがその程度とは思えなくなるのは、はたしてどうしてなのだろうか? それって、物事の事象みたいなモノを同カテゴリーに収納させ、尚且つそこで評価するのは残念ながら不可能な事であると、そういう事なのかな。だとすると、そういう面のジャッジを正しく出来るか残念ながら出来ないというのが神との違いだ………と、言えなくもない。

 全知全能、恐るべしだ。
 って、僕は何様なんだ。

 何者になるのか興味はあるのだけれど、何様にはなりたくないな。うん、話しが大きく逸脱している。もしかしたら誰かがわざわざ貴重な時間を割いて僕の脳内独り言を読み取ってくれているかもしれないので、どこからかは忘れたのだけれど閑話休題のような脱線はここまでにしよう………って、誰も読み取りはしないか。
 由奈本人から途切れ途切れに耳にするに至った由奈のこれまでの人生は、他人事で表現するとすればドラマチックな顛末の連続で、ソープオペラのような悲しくて苦しくて切ない悲劇だらけの物語だった。それを淡々と話す方の由奈には一見してみただけでは悲壮感を覚えたりしないのだけれど、それによって出現した傷はそっちの方の由奈であろうと由奈なのだから心にも身体にも大小様々あり、しかも痣となって全て残るという形で継続している。結局のところ、悲壮感を覚えるだけでなく痛々しいと思わずにはいられないまでに酷な事だと受け止めてきた。由奈自身がそういった自分の境遇をどう感じているのかは、本音や本心のところまで根掘り葉掘り確認していないから判らないのだけれど、由奈を知るにつれて僕は、一応は外履きを脱いだ上で、由奈のプライベートな領域へと踏み込んでいった。そして、知れば知る程そんな由奈が、知っている女性と重なっていった。
 勿論の事、由奈はその女性ではないので、その女性は当然の事ながら由奈ではない。容姿も年齢も名前も一致しないし、たぶんでもきっとでもなく生まれ変わりではないだろう。それは判っている。そんな事は充分に承知しているのだけれど………由奈を見ているとその女性が選んだ結末が脳裏を独占してしまい、思考を誘導していき、僕を大いに不安にさせる。由奈がその女性と同じ道を選びそうで、僕を強く怯えさせる。由奈の事を実のところただの遊びと設定していたくらいなのだから、この気持ちはただの僕のエゴでしかない事なのかもしれないのだけれど、あのような結末を見るなんてもう二度と経験したくないというただの身勝手なのかもしれないのだけれど、由奈の幸せを望むよりも願うよりも祈るよりもそちらの方が強いのかもしれないのだけれど、それでも由奈の事が気になって心配という感情に偽りはなく、激しく面倒だと思うようになりつつもそれでも、密に関わるうちにやっぱり僕は………由奈に惚れていたのだろう。
 僕の挙動を誘発するのは、大切な人だと感じていたあの女性との忘れられない記憶で、僕の行動を誘発するのは由奈への想い。どちらが重く、深いのかは僕自身にも判らない。比べようがない。

 けれど、判っている事はある。
 時間は戻せないという事です。

 あの時点に戻る事なんて出来ない。不可能を不可能とする根拠を未来永劫保ち続ける事は不可能なのかもしれないのだけれど、少なくとも今の僕には過去と形容される時間をどうこうする事は不可能だ。今の僕に出来る事………それは、未来の僕に笑顔を体感させる為に現在を生きる事。僕が笑顔になる為に、由奈の笑顔を守る。由奈の笑顔が僕の笑顔。それこそただのエゴなのだけれど、キッカケはどちらでも良い筈。キッカケはもう過ぎてしまった過去にあるのだからどうする事も出来ないし、なのでもうどうにもならない。だから今を大切にする………全ての過去をそんな風に思えたら、人間は誰しも後悔なんてしなくてもよくなるのかな。立ち止まったまま後ろを振り返り、どうしようもなくただ悔やみ続けるのではなく、前を向いて反省しながら歩み進み続ける。

 自身の欲で、他者を傷つけない。
 ただそれだけでイイのに………。

 由奈が本気を晒そうとする度に。
 僕は、僕は、由奈に………うん。

 由奈はいつ変わったのだろうか。
 いつから僕をあんなにも………。

 ………。

 ………。


 こんこん、こん。


 と、軽くノックして入るつもりだったのだけれど。それなのになんとびっくり、ドアが開いていましたとさ………いいや、違うな。びっくりというのは大袈裟だったかもしれない。が、しかし。逡巡してしまったのはたしかだ。室内に立ち入る前に、ワンクッションくらいは欲しかったというのが正直な気持ちなのだから。つまるところ、当たり前みたいな顔して入室するにはまだまだ勇気が足りない僕なのです。なのでうじうじと迷いながら、きょろきょろ。と、中の様子を覗き見してみる。少しでもイイからと窺ってみる。『誰でもウェルカムです♪ と、見せかけておいてトラップ発動だ! とか、あるかもしれないぞ? おのれ諸葛孔明め、油断ならぬ男だよアンタというヤツは!』なんて、くだらない事を考えてみたりしながら。結局のところ、気の迷いと言うか躊躇と言うかそういった弱気をなるべく抑えたくて、ムリヤリにでも一呼吸する間を自身に与えたかっただけなのだけれど、ね。長々と考え込んでしまったし、気持ちを切り替えないとね。笑顔を見せなければ、由奈はきっとまた………うん。スタート直後の一面で、早くもクリア出来る気が全くしない。それならそれで、だったらそれなら、此処に来なければイイのに………と、いう元も子もないツッコミも無きにしも非ずなところなのだけれど、それはそれで激しく違うワケで。つまるところ、矛盾ともとれるような様々で色々な思考を巡らせながら生きているのですよ、人間は。だからなのだろう、たまに疲れます。どうしてこうも面倒な回路を身につけたまま現在に至るのだろうか………。

 もしかして、
 進化に失敗してんじゃね?

 義務感とか偽善とかなんかではなく、少なからずな程度で残っていたらしい想いでこうする事を選んだクセに、たかだかノックするしないくらいでどうしてこうも足が重くなるのかねぇ………とは言うものの。此処は個室ではなくて四人部屋なのだから、ノックしたら中の人達が困るかもしれないという危惧もなかったワケではない。『私かな? 私なのかな? でも、でも、どうぞぉーなんて言って私ではなかったら恥ずかしいし、お返事とかしなかったらしなかったで、お留守かしらとか思われちゃうかもだしなぁーあたふた。あぁーん、どうしましょー!』とかなんとか、悪戯に焦燥させてしまう事態を招くかもしれないのだから、結論→やはりドアは、就寝時間として設定されている時間帯のみ閉じているのが双方にとって都合が良いのかもしれない。一呼吸くらい欲しいと思っただけなのに、ここまで膨らませるとは………うむむ。恐るべしかなはドアのノックだよあははん! って、ついでに診てもらおうかな。ワリとマジで。ドアの前でぴくりともせずぴんとなって立っている制服警官の女性も、実のところドン引きして目を合わせないようにしているだけなのかもしれません。

「………ん」
 あ、目が合っちゃっいました。なんやかんやで結局は足踏み状態な僕が部屋の前でおたおたしているから不審に思ったのか、ばっちりと。中の人の内の約一名と。僕の訪ね人と。つまるところ由奈と、目が合う。すると由奈、途端に慌てている様子。静粛と表現しても間違いではないくらいに静かだった空間に、ばたばたとかあたふたとかわさわさとかいった効果音が激しく似合うような、そんな挙動が加わってしまったみたいです。どうやら僕、ノックするしないに関係なく焦燥させてしまったようですね。恐るべしかな、ドアのノック!

 それはもう兎も角として。

 なんか、緊張するわぁー。
 先程まで考えていたから。

 由奈と僕の今までを、ね。

「あわわあううあうヒヒヒヒロたん来てくれたでしゅかぁー!」
 あらヤダ由奈たん、そんなに驚かなくてもイイのでは………が、しかし。どうやら歓迎してくれているみたいではある。なんだか凄い笑顔になってきたし。緩む顔をなんとか正そうとする仕草、ちょっと可愛いかも。そして、とても懐かしい感じがして、途端に気持ちが軽くなる気配が満載です。って、包帯で見えませんけどね。見えないのだけれど判るって凄いな。付き合った月日は長くないのだけれど、中身は濃かった。だからこそ、というヤツなのかもしれません。

 正直、
 かなり助かりました。

 成り行きとは言え、ブロージョブしてもらってるんだもん………いやはや、だよ。あれから今日まで会わないまま、つまり面会しないまま一週間。どんな表情したら良いのか、実のところ僕はかなり戸惑っていました。いくら由奈がまだ、付き合っていると記憶違いをしていても、僕はそうではないのだから。

 が、しかし。

「よっす!」
 助かりましたというくらいなのだから、由奈のその仕草に自然と笑みが導き出されていく。零れてくる。流石は由奈だ。やはり通常であれば和み系なだけの事はある。完全に緊張の糸が解れちゃいましたよ。さんきゅ。と、言っておこう。

 心の中だけでね。
 さんきゅ、由奈。

「元気してるか?」
 この病棟で見かけた由奈担当の看護師が言うには、『木下さんが来てくれる以前までは笹原さん、手がつけられないくらい大変だったんですよ』との事で。僕が此処に来た時は無気力な感じでベッドに横たわっていたから意外だったのだけれど、思えば由奈は僕を視認した瞬間からこんな感じにがらりと変化………いいや、豹変した。と、言うか戻った? の、かな。どうやら役に立ててはいるようです。良い事なのか悪い事なのかは僕には判らないのだけれど、何やら僕は由奈のキーパーソンってヤツなんだとか。こんな僕でも。こんな、僕が。

 たかだか僕なんかが、
 由奈のキーパーソン。

「こんにちは、ヒロくん」
 と、朋美さん。僕を由奈のキーパーソンと称した担当医師の朋美さんが努めて穏やかに、けれど含みを込めた口調と顔つきで僕を捉えた。紐で結ばれたカーテンの厚みで微妙に隠れていたので見えなかったのだけれど、由奈が使用しているベッドの横にある丸椅子に姿勢正しく腰かけているようだ。

「こ、こんにちは」
 気まずい心情を気取られないよう努めながら、僕は挨拶を返した………つもりだ。

「じゃあ、アタシは戻ろうかな。お邪魔てしょうし。なんてね」
 さてこれからどうしようかと、どうするべきかと、この先の表情や声質や声色や会話の内容やつまるところ色々で様々な受け取られ方加減について考えようとした矢先、朋美さんはそそくさと席を立って廊下へと歩き始めた。

「邪魔だなんて、そんな」
 と、言いかけて。僕は言葉に詰まる。朋美さんが由奈からは見えないように視線と表情を向けていたからだ。今度は明確に。あからさまに。凍てつくような表情を、ね。

「しゃあ、由奈ちゃん。またね」
 そして朋美さんは、由奈に向き直ると再び穏やかな声と微笑みでそう接し、つかつか。と、歩みを速めていく。

「………」
 それを見た僕は、凍てつくだけに表情と言うよりも氷上だな。なんていう下手すぎる駄洒落を思いつくくらいに、ほっとしていた。正直な感想です。とりあえず後回しという状況であっても、後回しであれば考える時間というターンがあるのだから。

「あ、そうだ。ヒロ?」
「えっ、あ、はははい」
 が、しかし。このまま足早に退室するのだろうと、油断? していた僕に。さて後でどうしたものかと考え始めていた僕に。朋美さんが思いがけず呼びかけてきた。想定外だった僕は、声が裏返った。かも、しれない。

「後で来てくれるかな」
「えっ、と………はい」
 その声色がいくら穏やかであろうとも、その笑顔が作り笑顔だという事を知っている僕はこの時、朋美さんのミスに気づかなかった。気づけなかった。

「………」
 そして、その時の由奈にも。僕が朋美さんの方に振り返っていたその時の、つまるところ僕の後ろに位置する状況にいた由奈が何に気づいたかを。

「………」
 僕はこの時、取り敢えずの安堵感とこの後の不安感の狭間にいた。ただただ、それだけだった。それしか余裕がなかったし、そうなるのは当然と言えば当然の事だった。

 正直に言えば、
 安堵感の方が勝っていた。

「ふうー」
 僕はつくづくダメな男だ。と、あらためて思う事はあっても。その時その時その間際に自戒したり自重する事は殆どない。この時もそうだった。

「あああの………」
 背中を見せたままでいる僕に、由奈が話しかけてくる。だから由奈たん意識しすぎだってばさ。そんなあからさまな態度で判りやすく伝えるが如くもじもじされちゃったら、解れたばかりの緊張が違う形でぶり返してくるじゃんかよぉー。と、気持ちがすっかり余所見を決め込もうとしていた。

「一週間ぶりの再登場です御無沙汰しておりました。で、ちゃんとメシは食ってるか?」
 なので、戻ってくる緊張をなんとか追い返しつつ。そう言いながら眼前まで残り僅かといったあたりへと移動し、そしてにっこり。更に、ぽんぽん。僕は由奈の頭を優しく優しく撫でてから、丸椅子にどっかりと着席する。どっこいしょ。って、おっさんかよはいそうですが何か問題でも?

「はう、う………はははい。だってヒロさんと、約束したですから」
 と、ぽつり。けれど、はっきりとした意志を主張する由奈。頭をぽんぽんされてから俯いたままなのは、照れているからなのか? それとも、その意思表示に対する僕の反応を見るのが怖いからなのか? どちらにしてもその態度、あからさまだよ………ちくり。罪悪感が刺激される。

「それは十全です。リハビリはどうなの? キツくないか?」
 元々が華奢で小柄だったとはいえ、この僅か半年あまりの期間でマイナスの方へと際立ってしまった身体つき。更に痩せたというよりも、見る影もなくと表現したくなるくらいに窶れたといった感じだ。包帯まみれであっても、かなり大きめのサイズの衣類に隠れていても、決して浅くはないいいやそれなりに深かった間柄なだけに尚更、そして前回の感触の記憶からも、現在の由奈についてすぐにそう感じた。

「今はまだ直ぐに息切れしちゃうですけど、でも少しずっ、あ、ううっ………」
 僕が何を思ったのかを、表情やら視線やらから見てとったのだろう。さっ、ささっ。と、袖口を伸ばす。隠したのは、両の腕の手首だ。僕が来るようになる以前の由奈を想像するに容易い痕跡。トモさんから聞いた話しに違わない痕跡。担当看護師から聞いた話しを思い浮かばせるなの足る痕跡。たぶんきっと拘束か薬かで強制的に止めなければならないような挙動を繰り返していたのかなと推測するには充分すぎる、痛々しい傷痕。そして痣。何度となく見た裸の由奈が、脳内で映像化される。今は勿論の事、自傷行為による傷痕よりも火傷の痕がその大部分を占めているのだろうけれど。

「そっか………あ、えっと、無理せずに、頑張りすぎずに、だぞ?」
 虐待。監禁。その全てが、血を分けた家族による酷い仕打ち。まだ出会ってもいない頃の事なので僕には想像するしかないのだけれど、由奈本人から聞いた話しを時系列に並べてみれば、学校での虐めやらなんやらでただでさえ壊れかけていた時期で、既にもう壊れる寸前だったのに、それが数年………よく耐えたものだと思う。と、更に過去の事にまで思いが過る。

「はい。あの、ヒロさん………」
 想像出来る範囲を簡単に超えちゃうくらいの絶望感を味わっていたんだろう、きっと。だからこそのあの表情。感情を殺してしまわないと、耐えられなかったのだろう。

「………」
 耐えたその理由はたぶん、生きる事への執着だったのだろう。と、朋美さんは推察していた。耐える為に脳が作り出した希望という名の幻影を、心のどこかで未来に見ていたのだろう、と。

「あの、ヒ、ヒロ、さん?」
 そしてそれは、現実となる。それにより、体感してしまった希望に未練という感情を誘発し、執着し、そして膨らんだ。
「ヒロさん、あの………」
 味わってしまった幸福感への未練。それを与えてくれた人への未練。つまるところそれが………恋情。

「………」
 その記憶がなければ流石に、生きるという事を簡単にヤメていただろう。と、朋美さんは僕にそう言っていた。
「………」
 脳だけでなく心や身体にもしっかり刻まれていたからこそ、由奈はその簡単と表現してしまえる程の絶望感に抗ってこれたのだろう。と、朋美さんは続けていた。
「………」
 傷は隠したい事実。そしてその理由は、僕と約束したから。止めるように僕が言ったから。が、しかし。その痩せ細った身体は………アピールの道具にする、か。僕が別れを告げてからの約半年間の記憶の殆どを失っているという事なので、窶れるに至ったその理由をどう消化して繋げているのかまでは判らないのだけれど………ん?

 由奈が見つめていた。

「ヒロさん………」
 どうやら、話しかけられていたらしい。
「ヒロさん面倒をかけてしまってゴメンなさいホントにゴメンなさい………」
 えっ、どういう事? なんかヤバいかもしれない。いいや、ヤバいぞ。自分の意識に気をとられすぎていた。

「ユナ、あのさ」
 そんな表情しないでくれよ。

「ヒロさんゴメンなさいでも、でも私、私は、ヒロさん聞いてください私は………」
 何を思った? 何を感じた?

「ユナ、その不安は捨てちゃって構わないから。だからそんな顔しないで、な?」
 違うよ。違うから。

「でも………」
 ヤバい、泣きそうになっている。このままだとまた壊れる。由奈が壊れてしまう。薫子のようになってしまう。

「捨てろ。違うから捨てろ。な?」
 これ以上、せめて由奈は傷つけたくない。ホントだよ。だから、さ。

 だから、泣かないで。

「ゴメンな、ユナ。実はさ。さっき新規の担当利用者さんについてのメールが来てて、勿論それは仕事の話しなんだけどさ。何かさ、うん。それをさ、それを不意に思い出しちゃって。だから、その、ゴメン。話そうとしてた事、教えて?」
 おもいっきりウソなのだけれど、けれどそれでもそれらしい言い訳。だって、僕が抱いている一番の感情はたぶん、いいや………正直に言えば由奈への恋情だけではないのだから。だからこそ、正直に告げるワケにはいかない。

「………」
 由奈は何も言わず、その代わりに涙が両の目を更に更に覆っていく。ううっ………仕方ない、か。

「ユナ………んっ」
 僕は由奈にキスをする。こういう類いの誘導の仕方は、っていうか………操作は、凄くズルい事だというのは判っている。充分に承知している。存分に心得ているのだけれど、だからこそ僕にはこれしか思い浮かばなかった。ゴメンな、由奈。こんなヤツで。

「ん、んんっ………」
 びくん。と、由奈が震えた。そして、小さな手が直ぐに僕を捕まえにくる。ぎゅっ。と、僕の腕を掴む事で。
「………ん」
 いつだってそうだった。こうやってうやむやにしてきた。それをまたこうやって………けれどこれで、由奈は必ず安心する。おまじないのようなモノ。僕からしたら、ではあるのだけれど。だって、由奈にとってみればこれは間違いなく………。
「んく、んっ、ん、はう、う、あう……ヒロさぁん。もっとぉー」
 ほら、ね。こうするだけで、とろん。と、なっているでしょ?

「ユナ、教えて?」
 で、すかさず話しを促す。戻す。やり直す。これにて、一面クリアです。裏技使用により、カウントはされないけれどね。

「はははい………あああの、えっと、えっ、と、あうう、う、が、がが! ががが!」
 えっ………と。もしかして、レディー○ガさんの話しがしたかったとか?

「まずは落ち着こうか、深呼吸してみよう」
 んなワケないよね。なので、クールダウンを促してみる。

「はははい………」
 すぅー、はぁー。と、言われたとおりの事をする由奈。言われたとおりにするという事が恋情を表す事の一つだと思っているらしく、由奈は時に従順すぎるくらい従順すぎるところがある。なので、重いと言うか怖いと言うか、言動には配慮しなければ大変な事になるかもしれないと感じる時が多々あったなという過去の数々を、今更ながら思い出す。そのワリに、手っ取り早いからという理由で安易に乱用したりしてもいたのだけれど。って、今もそうか。

「落ち着いた?」
 なんで僕なんかにそこまで執着するのだろう? 僕に何があるというのだろう? どうして僕しか見ないでいられるのか、僕にはそれが見当もつかない。

「………はい」
 抑制している為に生まれたストレスを、後腐れない性行為によって大いに発散する。実のところはそれが目的なのだろうとばかり思っていたのに。

「それともさっきの続きとか、さ………今からしちゃう?」
 たまたま僕がその相手になっちゃいました的な流れで、けれど性欲というワードがタイトルでは流石に羞恥心があるから、だから愛情表現という形を………つまるところ、戯れ言遊びの恋愛ごっこをしてみたいのではないかと、そう思い込む事で僕自身が罪悪感の軽減化を目論んでいるだけ、なのかな。

「はうっ! そそそれはその………」
 って、ちらちらと周りを窺う様子が全面に出まくっておりますけど由奈さん、もしかして………続きとなるアレやコレやが実際のところこの状況でこの条件下で体感可能かどうかを考えているのか?

「どうする?」
 いるような気が………する。

「もっとシテくだ」
「退院してからな」
 おいコラ由奈さん却下一択いいや択一でしょここはマジで。此処は病院の四人部屋ですよつまり二人きりじゃないんだぞぉー。しかも、だ。ひそひそとした声による会話にすらしていないのに、その言いかけた思いの丈は確実に、同室の方々にも聞こえていると僕は思いまぁーす。

 って、一週間前は。
 うん………スルー。

「なんと! あうう………」
「なんと、じゃねぇーだろ」
 先程とは違う類いで瞳がうるうると潤んでいる理由もあえて触れません。これもスルーします。って、その方向へのスイッチの切り換え早すぎじゃね?

「あぐ、あう………」
「じゃあ、教えて?」
 さて、と。話しを戻しましょう。

「えっ? あ、と………その、私、外出許可を早く貰えるように頑張ってるです」
 え、あっ………。

「………」
 そう言えば。

「だってヒロさんが約束してくれたですから、それが励みなんです」
 そうだった。

「外出、か………うん。此処に缶詰めじゃ、息苦しくなっちゃうよな」
 失敗したようです。しかも、こんな返しじゃ避けれないのは経験済みだし。話しを戻さなくても同じだったかもしれない。

「と、言うよりも。一緒に居られますもん、ヒロさんとずっとずっと………ずっと、ヒロさんと。それに今だってヒロさん、退院してからな………って、言ってくれたですし。だから私、早く此処を出たいです」
 で、ですよね………自爆しちまったか。今の由奈なら………と、言うよりも。戯れ言を本気にして更には期待までしている様子の由奈であれば、それも含めてそういう事だと思うよね。

「そっか………うん。でも無理せず、だぞ?」
 僕が来たという事はそういう事で、つまるところ僕という存在との未来を生き甲斐と設定してそれに向けて頑張るのは、今の由奈からしてみなくても当たり前の事だろう。しかも、その期待値はたぶんMAX。肯定とも躊躇ともとれる言い回しを敢えて使用してみてはいるのだけれど、どっち寄りなのかは僕からしてみれば定かだったりしても、それが由奈にきちんと伝わるかどうかは別の………いいや、伝わるワケがありませんよね。

「はい。ヒロさんの言う事をしっかり守ってバリバリ頑張ります」
 僕の言う事を、かぁ………いつからだろう、今もまだマジで従順な立ち位置なんだね。もう事ここに至っては、軽はずみな言動は控えないととんでもない事になりそうだよなんて次元ではないな。

「オレの、じゃなくてさ。トモさんの言う事に耳を傾けようよ」
 けれど、それはそれでイイかなとも思う自身が存在しているんだよなぁー。と、思った矢先に朋美さんが脳裏に………怖い。

「あの人の言う事を聞いてたら、退院がいつになるやらです」
 朋美さんの件は今は兎も角として結局のところ、従順さをさりげなく醸し出してはいるものの、かと言って都合の良い女ってのとは違うんだよねって感じ、かな。

「聞かないといつになるやらだよ」
 何て言うか………アピール的な?

「あう、う………」
 責任とってください的な、さ………ヤバい、表情に出そうになっちゃったよ。

「じゃあ、さ。間をとって聞いてるフリをしようか。題して、実をいうと私は素直な良い子さんなのですよ大作戦………な?」
 楽しそうにそう言って、にこっと微笑んで、勘ぐられるのをかわそうと試みる。

「はう、う………あ、ははははい」
 ん? 何故か照れてる。こういう仕草も可愛いんだよなぁー。

「どうしてもストレスが溜まっちまった際は、オレに遠慮なく愚痴ればイイから」
 で、ついついこんな事を言ってしまう僕。更に更にヤラかしております。

「ホントに甘えても……イイですか?」
 そんな期待の眼差しを向けられると、年に一回くらいだったらイイけど………なんて軽口すら叩けない。

「勿論、承ります」
 はい、また一機死亡しました。

「では、良い子さん大作戦を実施します!」
 年に一回になら、かぁ………それもまた年に一回という事は年という年月を何年も共にしようという意味でそれはつまりえへへ。みたいなコースを辿る可能性が大で、つまるところそれもまた一機死亡だな。程度の差はあるのだけれど、僕もまだ自殺願望があるのかもしれません。

 それにしても、
 たまに判らなくなる事がある。

「成功を祈っております」
「遂行してみせますぞ!」
 守ってあげなくては………と、思ってしまう程に弱いのだろうか? と。なんとなく、深みに連れ込まれそうな怖さを感じるんだよね、ワリと強く。

「うん。あ、じゃあ………そろそろ仕事に向かうとするね」
 だからなのかどうなのか、危険察知能力みたいな寒気に襲われてしまい………うん。今日もこうしてはぐらかそうとしてしまう。もう手遅れな感は否めないのに、それでも。って言うか、こうして此処に来ている時点で無駄な足掻きなのかもしれないのだけれど。

「えっ、もうですっ、あ………はい。良い子で待ってます」
 たぶん僕は、由奈の意図を理解しているようでいて本当のところは全くと言っても間違いないではないくらいに理解していないのかもしれない。

「うん。明日は明けになるから早く来るよ」
 それが核となる結果の方なのか、幹である経過の方なのかは、皆目判らないのだけれど。

「必ず来てくれますか? 明日は長く居てくれるんですか?」
 何より僕自身に、どうしてそんなにも僕しか見ようとしないのだろう? と、いう疑問が添付しているかぎり、答えはその時になってみないと判らないのかもしれない。

「う~ん、善処するよ」
 未来という妄想絵巻に僕を組み込んで描いているのか。

「………」
 それとも、当てはめてみているだけなのか。

「……?」
 はたして、由奈は本当に僕に依存しているのだろうか? 実のところ、僕に何らかの設定をはめ込んでいるだけなのでは。

「今度来てくれた時は、ですね。そ、その………清拭シテほしいです」

「ん?」
 あ、ヤバい。聞いていなかった。

「お願いします」
「うん。判った」
 えっと、たしか………正式に?

「じゃあ、じゃあ、チュウを、あ、ん」

 あ、なるほど。

「んぐ、んっ、ん、んんっ………」
 キスでしたか。早くも挨拶くらい身近な行為になってきたような気がするよ。誰かに見られるかもなんて躊躇すら、もう既に全くな感じでしなくなったかもしれません………って、先程から小学校高学年生くらいの女の子がたぶん自身のベッドの上なのだろうあそこでガン見しているのだけれど。アイツ等、バカップルだぁー。とか、そんな事を思われて尚且つ呆れられているんだろうなぁー。何せ、カーテン全開だからね。向こうも此方も。とは言え、
小学生でもナメてはいけません。誰かに無邪気に話されて回り回って到達してしまっては、冗談ではなく僕の命にかかわります。
「ん、ん、んんっ、んぐ、んっ………」
 あっ、由奈がしがみついてきた………マジでお構いなしか。って、それよりも何よりもこの展開はマズいんじゃないかな、って、えっと………由奈さんマジでそこまでするつもりか?!

 由奈の吐息があからさまに荒くなる。
 と、由奈の小さな両手が登り始める。

 行き先は僕の両の耳あたり。
 軽く抑えつけて引きつける。

 けれど、逃がさない程度に。
 逃げられない程度に、軽く。
 
「ん…はぁ、はぁ、じゅる…れろ。はむ、んぐ、じゅるる、はぁ、はぁ…れろっ」
 で、その後はこうして………僕の顔を舐め回してくる。僕にとっては最早これは、お決まりと言っても言い過ぎではないパターンだ。舌の通過を見計らって、ちらり。と、窺ってみる。と、目を真ん丸にしてフリーズしていた。勿論の事、由奈てはなく女の子が。

 べちょ、
 ねちゃ、

「ん、んぐ…ひうっ、ひ、りょ、ひゃん…はう、う」
 円椅子に腰掛けている僕の顔は、ベッド上で両膝立ちとなっている由奈の胸あたり。由奈は僕に密着しつつ顔を上げさせ、真上から貪るかのような一心不乱さで、顔中に舌を這わせてくる。

 ねちょ、
 べちゃ、

「………」
 それは勿論と言えば勿論の事、由奈は下を向いてそうしているだけに、由奈の唾液が僕を濡らす率は他のどの姿勢よりも高いワケで、僕の顔は瞬く間に由奈の唾液まみれとなるのだけれど………由奈によるそれにもうすっかり慣れてしまっている僕は、抗う事なく終わるのを待っているワケで。つまるところ、イヤだと思ってはいない僕がたしかに存在しているんだよね。

 にちゅ、
 くちゅ、 
 
「じゅる、んぐ、んんっ…はむっ」
 危険察知なんてやっぱり、もう既に遅いのかもしれない。やっぱり手遅れなのかもしれない。つまるところ、もう手詰まり。ここまでお構いなしに晒すつもりならば、なるべく早急に個室に替えてもらわないといけないかもしれない。それと、女の子の買収も………ケーキとかで内緒にしてもらえるだろうか?

 べろっ、
 ちゅっ。

「れろ…んぐ。はう、う……大好き」
 けれど、でも。それもこれも自分自身のせいによってなのは間違いない。身から出た錆が、ウソから出たマコトとなっていく。口は災いの元。と、いう程に軽はずみではなかったのだけれど、もしかしたらハナからウソなんかではなく、僕はもうずっと以前から由奈に本気だったのかもしれない。

 そうならば僕は一体、
 どうしたいのだろう?

「んっ。じゃあ、また………」
 本当に同情なのか、それとも実は愛情なのか、恋情なのか。勝っているのはどれなのだろうか? 僕は二つの意味で表情から気取られないよう足早になろうとする自身を制しながら、そして一週間前のように僕の下腹部へと下りていく由奈を優しく制して退室しようとした。カーテン全開だからという理由からではなくて、流石に今日はそんな気にはなれない。

「はう、う、ヒロさぁん………」
 すると………。
「私、誰…も渡……い、から、ね……」
 と、ぽつり。

「………っ?!」
 自分自身でも声になっている事には気づいていないだろうくらいの大きさで、由奈がそう呟いた。聞こえないフリをしたのだけれど、だから振り向きも振り返りもせずただただそのまま病室を出たのだけれど、その時たしかに僕は戦慄に近い動揺を誘発されていた。由奈と僕の光景にきっといいや絶対にドン引きしているであろう少女やその他の住人に対しての何らかの繕いなんて、一瞬にして吹き飛んで更には忘れてしまっていた。そして、気のせいだと思おうというたぶん最善の対処方法が浮かぶまでに、かなり時間を要してしまうほどだった。だって、さ………。


 私、誰にも渡さないからね。


 その声は、決して。
 そう………決して。


 甘ったるい類のそれではなかったから。


 ………。

 ………。


 由奈から僕へのコール。
 それが、再びの始まり。

 あれは、うん。そうだな。突然と言えば間違いなく突然の事だったし、唐突と言えば紛う事なく唐突な事だったのだけれど、当然と言えば当然の事でもあったように思う。帰宅の途につくべく僕の愛機であるところのスマートフォンを完全マナーモードから解放しようと手にした際、たぶんきっとそれは漸くといった感じなのだろう着信アリを告げるランプに気づいた。そして………驚いた。

 着信件数は13件です。

 驚きつつもディスプレイを操作する。その日の午前からその日の午後である夕刻まで、つまるところその時までずっと完全マナーモードにしており、その間にあった昼休憩や小休憩の時もそのままで尚且つ一度も手にしないままだった。それにしても、その約半日の間にそんな数の着信を受けるなんていう事は、うん。過去と比べれば断然少ないのだけれど………まさか。

 と、一人の女性の顔が浮かぶ。
 パブロフの犬のように………。

 が、しかし。それは、
 間違いではなかった。

 その全てがその時から遡って僅か数十分前からその時に至る直前までの間の履歴で、その全てが同じ人物からのコールで、その同じ人物とは勿論の事………由奈だった。由奈による今頃で今更なそのコールの数々に決して少なくはない恐怖を感じてしまい、その結果として愕然となってしまったものの、けれどそれはその方向からのみによって誘発されたものではなく、違う意味合いを持った恐怖感………いいや、この場合に於いて言えば不安感が、有り体に言えばなんだかとてつもなくイヤな予感が、兎にも角にもそういった感覚が僕を支配した。そしてそれは、悪寒が走るくらいの事だった。

 さてどうしよう?
 どうしたらイイ?
 どうするべきだ?

 無意識に。と、言うべきか。頭の中が真っ白で、善後策が何一つ思い浮かばないといった状態だったのだけれど、気がつくと僕は由奈のモバイルフォンにアクセスしていた。
 
 1コール。鼓動が速くなる。
 2コール。息苦しくなる。
 3コール。イヤな予感が増幅する。
 4コール。脳内で映像化される。

 5、6、7と、コールは続く。
 が、しかし。切り替わらない。
 
 何コールまで待ったのかは記憶していないのだけれど、結局のところ繋がらなかった。出なかったのか、それとも出られなかったのか。兎にも角にもイヤな予感しか浮かばかった。心配しての事なのか、気になっての事だったのか、何はともあれ由奈の様子が知りたかった。知りたくてたまらなかった。が、しかし。どうする事も出来ない。完全マナーモードを解除しつつ悩んでいると、僕の愛機がもう決して鳴る事などないであろう筈だった着信音を響かせた。当たり前と言えば疑いようなく当たり前の事だったのだけれど僕は最初、自身の耳を訝しむに至った。その着信音は由奈からのコールとメールに対してのみのモノで、他の人には誰一人として設定していなかったからだ。それをそのままずっと消去する事なく、変更する事もなくそのままずっとそのままにしてあったというだけの事で、その理由はただ単に忘れていたからというそれだけの事だったのだけれど、それ故に僕は我が耳を激しく疑うに至った。僕が別れ話を切り出したその後、由奈が力無くこくりと頷いたその後、僕が由奈の部屋を去ってからその後、それからずっと。その時に至るまでただの一度すら………いいや。僕の誕生日に届いたバースデーメールの内の一通を除いてただの一度すらも由奈からコールなりメールなりが通知された事はなかったので、なので僕は後腐れなく手間なく上手く都合良く別れる事が出来たようだと思っていた。安心していた。安堵していた。ホッとしていた。正直に言うならば、由奈の事は何から何までとは言わないけれど過去の記憶となっていた………コールやメールのナンバーを消去する事さえ忘れるくらいには。わざわざ贈ってくれたバースデーメールに返信する事すら考えなかったし。なので。と、言うべきなのか兎にも角にも。そのくらいだったので、それでなのだろう反射的に訝しがってしまった。
 何故、今になって僕に何の用事があるというのだろう? しかも立て続けといったペースで何回も。と、思ってみる。正直に言ってしまえば………シカトしようかなとも思案しながら。コールの理由が気になって此方からコールしたにも関わらず、コールがあったらあったで躊躇してしまう自身がそこにはいた。が、しかし。一旦はそう思ったのだけれど、かなり強くそう思ったのだけれど、その僅か後に自暴自棄に陥った際の由奈が再び脳裏を掠めた。そしてその直後、イヤな予感の映像が再び僕を襲ってきた。僕なんかよりもイイ人なんてこの世に沢山いるのだから、その人達の内の誰かを早く捕まえて幸せになってねと思ってはいても、もう面倒だから死んでくれたらイイのになぁーなんて思った事は一度もない。それはただ単に簡単に別れる事が出来たと思っていたからなのかもしれないのだけれど、それでもそこまであからさまに嫌いになったワケではなかったし、何よりも由奈のこれまでを聞かされていたという事もあったので、幸せになってほしいという思いは決して少なくはない程度で思ってはいた。本当にそう願ってはいた。ただし、その相手は僕以外でお願いしますと思っていただけで。僕には無理だと感じていただけで。

「はい………もしもし」結局のところ、僕はそのコールに応対した。その判断を決定付けたのは勿論の事、幾ばくかの罪悪感とイヤな予感。この二つだった。

『………』
 が、しかし。向こうにいる筈の由奈は、向こうで聞いている筈なのに何も言わない。

「………ユナ?」それだけで鼓動が強く、そして早くなるのが判った。

『さよなら、です。ヒロさん………』
 声を聴いた瞬間、所謂ところの経験則というヤツなのかヤバいと直感した。勿論の事、発したその言葉自体も含めて。

「え、ユナ、どうした?! 何があった?! おいユナ、どうした?」それらが、自暴自棄に陥った際の声色だったからだ。

『私ね………ヒロさんにさよならを言おうと思いました。だから電話したんです。今までゴメンなさい』
 目の前が真っ暗になっていくのが判った。身体が震え、顔が青ざめていくのをたしかに感じた。

「ユナ、よく聞いて。まずは落ち着こう。今、何処に居るの? ユナ、教えて?」先程は早口で問い詰めるような訊き方をしてしまったので、努めて穏やかに、そして優しく、ゆっくりゆっくりと話しかけた。ユナがこうなった時の対応を思い出しながら。脳で検索をかけながら。落ち着けと自身にも念じながら。

『………私とヒロさんのお部屋です』
 と、ぽつり。由奈が答える。と、同時に。対応策なんてただの一つとして見つけられてはいなかったという事実を思い出す。

「え、あ、そ、そっか。オレさ、今、研修で出張中なんだ。だから、そ」私とヒロさんのお部屋という事は今、由奈は由奈自身の部屋に居るという事だ。それがもしも僕の部屋だった場合なら、ヒロさんと私のお部屋になる。由奈独特の言い回しだ。

『それが終わったら………来てくれるですか?』
 由奈が訊く。それにしても、何か雑音のような耳障りがする。由奈の声の狭間に聴こえてくるこの音は、何の音なのだろう?

「え、あ………う、うん。そ、そ、そうだな。そうしようか」何はともあれ。よし、これで取り敢えずは大丈夫。と、僕は安堵した。僕が覚えているかぎらにおいて、僕が行く事で、そう約束する事で、由奈はいつも最後の一線を越える事を思い留まる。対策という事ではなく、攻略という事でもなく、これはいつものパターンだった。

 の、だけれど。

『でも、でももう私の事なんか愛してはくれないですよね? そうなんでしょ?』
 終わりにはならなかった。雑音がどんどん大きなそれになっている。気が散るくらいに。イライラしてしまうくらいに。きっと、思いどおりに進まないからなのだろう。

「えっ………」記憶に残っていたいつもの展開とは違う様相に、激しく動揺してしまう。

『私の事、棄てるつもりなんですよね?』
 由奈の声色が、ヤバさを増す。

「と………」続ける言葉を持ち合わせていないので用意しておらず、簡単にフリーズしかけてしまう。

『私ね、生きている理由がなくなりました。でも、でもこれは、私のせいなんですよね? うん。私がイケナイんです………ヒロさん、今までありがとうございました。ヒロさん………さよなら、ヒロさん………っ』
 そして、ぷつり。

 そう告げて、ぷつり、と。
 由奈から通話が途絶えた。

「えっ、ユナ? ユナ?! ユナ!」既に通話は途絶えているのだから、何度呼びかけてみても同じ事。それなのにそうする事しか思い浮かばず、僕は何度も呼びかける。
「ユナ! ユ………っ!!」それは何度目の呼びかけになる頃だったのだろうか、僕は漸く次の対応を思い浮かべ、それにとりかかる。
「………っ、早く!」愛機に登録してある連絡帳から一人を選んでコールする。それだけの事なのに、動揺から焦燥にクラスチェンジしていた僕は僕を上手く使いこなせない。
「あっ、トモさん! ヒロですっ! 実は今、ユナから!」僕が連絡したのは、由奈の担当ドクターでもある朋美さんだった。そして、事情を話した上で由奈の保護をお願いした。僕は研修中だったので、超高速鉄道を使用するくらいに離れた場所に出張していたからだ。
「ユナ………」丁度この時、僕は滞りなく研修を終えて帰宅の準備に取り掛かっていた頃だった。なので、大慌ての大急ぎで駅に向かった。

 それから暫くして。

『あ、ヒロ? 今、イイかな。あのね………』
 愛機から僕の耳へと届いた声は、僕が待ち構えていたそれではなかった。一致していたのは女性の声だという事くらいだ。つまるところ、その声に望んでいた色は全くと言ってもイイくらい入っていなかった。

「はい………っ」僕はおもわず息を飲む。電話は朋美さんからだった。イヤな予感しかなかった。それは勿論の事、色が………朋美さんの声色に神妙な重さを感じたからだ。医師なので、その声色や表情から読まれないように態度を作るのが上手な女性ではあるのだけれど、それでもその声は沈んでいた。

『あの子って、さ。まだ、携帯電話にヒロ以外のナンバーは登録されてないみたい。だから一応は、ヒロには伝えるべきかなって………』
 体温が奪われていくような寒気を感じた。

「ユナは大丈夫なの?」居ても立ってもいられず、僕は続きを促す。

『あの子は今、ICUに運ばれてる。でね………たしかに自殺を図った痕らしき傷もあるにはあるんだけどさ、でもね、何らかの事件に巻き込まれた可能性もあるみたいなのよ』
 因みになのだけれど、朋美さんが僕の事を名前で呼称するようになったのは、由奈の携帯電話にヒロさんと登録されている事を知ってからの事。それから朋美さんは僕をヒロくんと呼び、二人でいる時はヒロと呼んでいるのだけれど、僕をヒロと呼ぶのはまだ誰も知らない筈で、それは何故かというと理由は簡単。まだ公然の仲という提示を避けているからだ。

 芹澤 朋美、せりざわ・ともみ。
 それが、彼女の本名だ。

「えっ………と」何はともあれ。ある意味では予感的中。が、しかし。的中しても全く嬉しくない類いの事だった。しかも、ただでさえ自殺を図ったという状況だというのに、何かの事件に巻き込まれたという話しだ。再び目の前が真っ暗になる。

『あの子は現在、意識不明の重体。それと面会謝絶。でも、意識が回復してもヒロは行かな、あっ………ゴメンなさい。決断するのはヒロだし、ヒロの自由なんだけど、でもアタシは………ううん。この先は帰ってきてからにするよ。中途半端でゴメンね。取り敢えず今、アタシが話せるのはここまで。変化があったらその時は、ちゃんと伝えるから』
 たぶんきっと、かなり言い難い事だったのだろう。頼んだ僕も僕なのだけれど、事件に巻き込まれたという事だったから、捜査の都合上として警察から口止めされている部分もあったのかもしれない。

「うん………判りました」そう返すしかないという感じだった。兎にも角にも僕はこの時、変化があったらという朋美さんの言い回しを聞いてパニックに陥りそうになった。自殺を図った痕らしき傷があって、けれど事件に巻き込まれた可能性もあって、それで由奈はかなり危険な状態で、集中治療室で………つまるところ、どういう事? 由奈が意識不明なのは、自殺の為の自傷の他にも理由があるの? 事件とはそれを意味しているの? 与えられた情報が乏しすぎて、頭の中を整理出来なかった。

『うん………じゃあ、またね』
「え、あ、うん。また………」

 ………。

「………」
 結局のところ兎にも角にも、その時に判った事といえば由奈が意識不明で治療中だという事のみで、詳細は後日という事になり、話しの先は暗闇のまま見えないまま終了した。僕は暫しその場から動けず、ただただ立ち尽くしていた。そして、それから数日して朋美さんか漸く重い声で教えてくれた事は、現在のところ由奈は集中治療室ではなく精神科の病棟に入院しているという事だけだった。この時点ではまだ状況説明を正しく受け止める余裕なんて僕の中に存在してはいなかったので、なんだかどこかがオカシイかもしれないしあまり覚えてもいないのだけれど、精神科の病棟は少し離れているものの同じ敷地内に併設されており、由奈は治療の経過を診察してもらう為にリハビリを兼ねてその病棟から通っているらしいとかなんとかという話しをされたと記憶している。なので、リハビリを兼ねるくらいには回復しているのだろう事が判って安堵はした。兎にも角にも朋美さんが漸くといったあたりで教えてくれた時には、既に由奈は朋美さんが医師のうちの一人を勤める精神科病棟に移った後の頃だった。

 ………。

 ………。

 何はともあれ。そのような経緯でそれから更に暫くして由奈と再会する事になり………と、言うよりも朋美さんを渋々納得させて面会に行けるようになり、面会に行く度に恋愛関係だった頃に戻ったかのような事を続けているのだけれど、実のところ僕は未だに事件についての詳細を教えてもらっていない。それ故に、身体中至る箇所を包帯で覆っている事についての理由を知らない。どうやら火傷らしいとは判ったのだけれど、どうしてこんなにも大怪我するに至ってしまったのかは知らない。朋美さんは何故かしらまだ口が重いし、由奈本人に訊くのは気が引けるので、警察関係者にでも訊いてみるつもりだ。

 そして、それともう一つ。

 自分自身で答えを見つけなければならない事があるのだけれど………これについては難解すぎてかなり気が重い。どういう事についてか。それは………僕はこの先、由奈とどのような距離感を目指すべきなのだろう?

 と、いう事だ。

 今更かも、だけど。

 ………。

 ………。


             第二幕)おわり
             第三幕につづく
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