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第1幕)青天の霹靂
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折原奈美・おりはらなみ。そして、折原優矢・おりはらゆうや。この二人が踏み入った先は、険しい荊が永遠に続く道であった。進めば進む程に傷を受け、傷を増やし、更にまた傷つき、増えていき、二人の傷口はどんどんと広がっていく。しかし、奈美はそれでもその歩みを止めようとは思わなかった。そして、考えもしなかった。何よりも奈美は、その傷を苦痛だなんて少しも感じていなかった。それよりも大切な事だったから。そんな事よりもかけがえのない存在だったから。けれど、でも。優矢はその歩みを止めようと思った。そして、試みた。奈美が傷ついていると感じたから。奈美が傷つく姿を見たくなかったから。
奈美は優矢を深く愛していた。だからこそ、深く愛していたからこそ優矢を諦めようとは思わなかった。そして、諦めるつもりのないままに運命の日を迎える。
優矢は奈美を強く愛していた。だからこそ、強く愛していたからこそ奈美を諦めなければならないと苦しんだ。しかし、諦められないままに運命の日を迎える。
奈美は優矢を諦めるつもりがないのに離れたままでいるという矛盾を抱え、優矢は奈美を諦めようと離れたのに諦められないままでいるという矛盾を抱え、僅かさえも止まる事のない時間をそれぞれに生きてきた。本心を伝え合わなかった二人は、伝え合えなかったが故にすれ違い、すれ違い続けている。
運命の日はそんな二人に、
分け隔てなく訪れた。
………。
……。
…。
ぷるるる、
ぷるるる、
「ん………んっ」
つい先程まで徹夜で仕事を続けていた優矢は、明け方になって漸くその仕事に一段落をつける事に成功し、疲れ果てた脳を収納している頭部を含めた大柄な身体をベッドに深く沈め、ぐったり。と、なってただただ眠っているところであった。
ぷるるる、
ぷるるる、
が、しかし。いつからだろう、規則的に鳴り続いている機械的なその音が自分を呼ぶ電話機のベル音だと、ぼんやりしている脳でやんわりと気づく。
ぷるるる、
ぷるるる、
そして、まだ殆ど働いていない思考回路を行き来して導き出した一先ずの答えは、目を開けて起きて立って歩いてその電話機の一部であるところの受話器を掴むという行為ではなく、現在時刻を確認しなさいという命令を身体に発令する事だった。
ぷるるる、
ぷるるる、
なので優矢は包っていた白いシーツから緩慢に右腕を抜き出し、その右腕を手を指を手探りさせながら枕元に置いてあった目覚まし時計を掴み、それを自身の顔へと引き寄せ、刻々と刻まれているのであろう時計の針を、つまるところ現在時刻を虚ろな視力で確認した。
ぷるるる、
ぷるるる、
それによって得た事は、やはり目覚まし時計のベル音ではなく電話機のそれなのだなと、完全無欠に、けれど溜息交じりに、全身全霊で感じるに至った事。そして、心地良い眠りを一身に満喫できていたのはまだ、僅か小一時間程度の事であると認識したという事だった。
ぷるるる、
ぷるるる、
「ん、ん~っ」
優矢は再び溜息をつく。そして音の主であるところの電話機を、ちらり。と、恨めしそうに見やった。そもそも、インターネットブロードバンドなる文明の技術を使用及び利用する為に電話回線を引いていたので、電話機にとっては例え今のこの状況が、『ご主人様、ご主人様、どちら様かは判りませんが、何やら御用があるようです。至急此方の方に御足労願えますでしょうか?』と、ご主人様であるところの優矢に告げるという褒められるべきでもある働きぶりであろうとも、今この時の優矢にとっては今のこの状況では特に、激しく勘弁していただきたい程に無遠慮な実直ぶりであった。
ぷるるる、
ぷるるる、
しかし優矢は、その事を電話機が判るように説明する自信は欠片程もなかったし、電話機の方も理解する術を多分きっと持ち合わせていない。
ぷるるる、
ぷるるる、
ここで優矢は、ある事を思い出した。それはもう随分と前になるのだが、電話機のベルの音量をフルに設定していたという事と、それをそのままにしてあったという事。例えば、ヘッドホンで耳を塞いで大音量で音楽を聴いていたり、このように眠っていたりしても気づく事ができるように、と。
ぷるるる、
ぷるるる、
更に優矢は思い出した。それは良いアイデアだと自身を褒めていた自分を。そして、大切な用件を含めてその殆どをスマートフォンで済ませている為、電話機を電話として使用する機会なんて間違い電話や勧誘電話に出くわしてしまった時くらいだという現状も。
ぷるるる、
ぷるるる、
偶然にも真犯人をつきとめた名探偵その名も優矢は、多大な後悔を抱きつつもそれでもまだ決して電話に出ようとはせず、起きて立って歩いて掴んで応対するのと、留守番電話機能に切り替わるまでただただひたすらに耐え忍ぶのとでは、どちらの方がイライラが少なく済むだろうかと、睡眠を諦めきれない脳で考えていた。
ぷるるる、
ぷるるる、
しかし、幾つもの鋭利な棘で身体のあらゆる箇所を執拗にツンツンされているかのようなイライラがどうしようもなく膨らみ、遂には我慢というカテゴリーに収まりきらなくなってしまったので、偉大なる睡眠への旅路をとりあえず一旦は一先ず泣く泣く仕方なく仕様がなく成す術なく、残念ながら厭々ながら不本意ながら未練たらたら中断する事にして、つまるところ諦めて電話に出ようと一大決心をし、当然と言えば当然ではあるが非常に名残惜しく、ゆらゆら。と、その身体をベッドから離していった。
ぷるるる、
ぷるるる、
そして、眠気や気だるさやイライラや悲しみや自己批判や自己否定や自己嫌悪などと格闘しながら、我が身に叱咤激励の叱咤のみをぶつけながら、よろよろ。と、緩慢に立ち上がった。
ぷるる、かちゃ。
只今、留守にしております。
すると無情と言えば無情にもその時、ターゲットから規則的に鳴り続けていた電子音が、留守を丁寧に告げる機械的な声へと切り替わった。
「ですよ、ね」
世の中の仕組みなんてどうせこんなものだ。と、思いながら。優矢はベッドに、すとん。と、腰を下ろした。
ぴぃーっという発信音の後に、
メッセージをお願い致します。
「はぁ………」
深く長い溜め息を、一つ。どうせ何かの勧誘だろうとしか思っていなかった優矢は、留守番電話のメッセージに切り替わればすぐに、ぷつり。と、切れるだろうとタカをくくっていた。
ぴぃーっ。
何はともあれ、これで何事もなかったかのように再び眠れる森の住人に戻れると思った優矢は、もう偉大なる睡眠への旅路へと身も心も沈めてしまおうと目を閉じながら身体を、ゆらり。まだ温もりの残るベッドに預け始めた。
『あっ、あの、えと、ナミです』
「えっ?」
が、しかし。決して他の誰かとなんて聞き間違える筈がない少し鼻にかかった柔らかなその声が元ターゲットから聴こえてきた途端、優矢は慌てて起き上がり、まだ思うままには動いてくれない我が身を今度はもどかしく感じながら、もたもた。と、電話機へ向かった。
『あの、あああのね、そ、その、ケータイにも入れたんだけどね、あっ、そ、その前に何度も電話してて、だ、だから、着信履歴とか凄いかもしれないんだけどさ、えっと、えっとね、その、ほら、電源とかオフにしてるのかなとか思って、ユウヤが出てくれないから気づいてないのかなとか思って、で、それでね、その、それで、お部屋の電話にもかけてみようかなってさ思って、だからあああの、しつこくしてゴメンなさい。でもね、でも』
「アネキ………」
なんだかしどろもどろで早口な奈美のメッセージを聞きながら、この分だと用件を言う前に録音時間が終わってしまうだろうなと思った優矢は、早く電話に出なければという思いが更に強くなり、向かうペースも如実に速まった。なので、そのままであった場合を想像して比べてみて幾分だけ早くではあったが、ベッドから少しも遠くない距離にある電話機の受話器を漸く手に掴んだ。
『あああのね、あの』
かちゃっ。
「ゴメン、アネキ。オレです」
そして。この眠気と気だるさを決して声に出さないように努めなさいと自分に強く言い聞かせながら受話器を耳に当て、受話器の先に向けてこれもまた努めて優しく話しかけた。因みにイライラやその他の負の感情はどれもこれも全て、電話の向こうの存在が奈美だと判った瞬間に消えていた。勿論の事、自己否定も自己批判も。で、ある。
『あうっ、ユウヤ? あ、も、もしかして、忙しかったのかな………あ、えと、何度も電話してゴメンなさい! あああのさ、今、大丈夫なの、かな………あうう』
突然と言えば突然に優矢の声が聴けたので、奈美は驚きつつ、申し訳なく思いつつ、けれど嬉しさが込み上げてきていた。
「うん、大丈夫。だから気にしないで。オレの方こそなかなか出れなくて、ホントにゴメンなさい」
眠る前にベッドの脇に脱ぎ捨てたジーンズのポケットに入ったままの、今もまだマナーモードに設定しておいたままなのだろう自身のスマートフォンを思い出しながら、優矢は自分の非を詫びた。
『えっ、あ、ううん、イイの。アタシの方こそゴメンなさい。ホントにゴメンなさい。あのね、アタシさ、邪魔とかしてないかな。あっ………ねぇ、ユウヤ、そこに誰か居るの? ねぇ、そうなの? だから電話に出てくれなかったの? やっぱりそうなの? あっ、もしかして女の人なのかな。ねぇ、誰? 誰と居るの?』
奈美の声のトーンが途中から悲しくも厳しげなそれに急展開した。抑える事が出来なかった。と、言うよりも抑える事を忘れてしまったといった感じだ。
「いや、その、アネキ」
『誰と居るのよぉー!』
「いやその、あの」
『ユウヤぁ………』
実のところ奈美は大切な用件があって連絡を取ろうとしていたのだし、大切な用件を伝える為に電話していたのだが、優矢との会話で不意に発生した暗闇により、実際の用件を脳の前面に貼り出してはいられなくなっていた。更に遡って優矢が電話に出なかった事も、心に浮かんでしまったある感情が脳を心を少なからず刺激しており、もっと言えば何度も電話をかけ続けていたのもそれが原因であり、奈美の精神は不安定になっていた。
「ちょ、ちょっ、ま、待ってよアネキ、違うから! 違うから、だから落ち着いて、ね? ひ、独りだから。ずっと独り。えっと、えっとさ、あ、オレね、仕事してたの。うん、仕事。ホントに。さっきまでずっと仕事。もうさ、書類とにらめっこ。あ、ほら、そうそう、前にさ、パソコンが壊れちゃったって言ったでしょ? だから、激しく面倒なんだけど手書きでさ。でね、時間かかっちゃうかなって思ったからスマホはマナーにして、それで、うん、集中してたの。で、徹夜になっちゃったから、だから、その、気づかなくてさ。ホント、ゴメンね、アネキ」
奈美の様子に焦った優矢は、かなり慌てながらもそう説明した。弁明した。誤解を拭おうとした。そして、そんな焦燥と不安に襲われながら謝った。
『そっ、う、あう、そ、そうだったんだ。そっかぁー、良かっ、あっ、でも、でもさ、それならこの電話も迷惑だよね。ホントにゴメンなさい、ユウヤ。あう、う、ユウヤ、邪魔だなとかって思った? 何度も何度も電話しちゃったし、そう思ってるよ、ね………』
部屋の電話によって初めて気づいている優矢にとって、奈美が何度も何度も自分に電話をかけてきていたという事実も今、初めて知った事である。なので、邪魔なんてしていないし、そもそも奈美からであれば邪魔だとは絶対に思わないのだが、そうは思わない奈美のその声には悲しげなトーンだけが残っていった。そしてそれは、先程のそれとは違う理由の感情からくるモノだった。
「いや、それは」
このままではヤバい。と、優矢は更に焦る。
『やっぱり、思ってるよね………』
嫌われちゃったよ、どうしよう。と、奈美は勢い激しく沈んでいく。
「あのさ、アネキ、気にしないで。全然だよ、うん。平気だから。だってさ、ついさっき終わらせたところだったから、今はもう眠ってたんだもん。だからアネキは何も」
優矢はフォローを開始した。
『えっ? でもそれならアタシ、やっと眠れたのに起こしちゃったって事だよね………やっぱり邪魔してるね、アタシ。ゴメンなさい………」
しかし。言い終わらないうちに早くもフォロー失敗。しかも、自爆。
「いやあの、そうじゃなくて」
『ユウヤ、ホントにゴメンね』
「アネキ、だからその」
『ゴメンなさい………』
奈美の声が判り易いくらいにどんよりと沈んでしまったという事を否応なく感じ取った優矢は、なんとか挽回しようとしたのだが、その試みは三タコという形で呆気なく破綻してしまい、奈美は更に不安を強めていった。完全に嫌われたらどうしようという形で。
「いやあの、さ、えっと、えっと、あ、そうだ! 今日はこの書類を夕方までに持ってけば終了なんだよ。つ、つまり、ほら、後は何もなしの完全フリーなの。その、だからさ、帰ってきてから眠れば、じゃなくて、ファクシミリしちゃえばイイんだし、そしたらたくさん眠れるんだし、明日はお休みだから明日たくさん眠ってもイイし、だから、その、気にしないで。ホントに平気だから。ね? あ、それよりもアネキ、ずっと電話かけてきてたんでしょ? って事はさ、アネキの方こそ眠ってないんじゃない? 体調は平気? 大丈夫? オレのせいで無理させてゴメン。ホントに、ホント、ゴメンね」
自身による大失敗で眠気の殆どが吹き飛んでいくに至った優矢は、奈美の感情を陽に持っていくという事に全神経を集中させた。それは、どんな理由であれ奈美が傷つく事を極端に恐れていたからで、それが例えどんな些細な事であろうと、もう二度と、絶対に、奈美を傷つけたくなかったからであった。
『えっ、そ、そんな、ううん。ユウヤは悪くないよ。全然悪くない。でもその………ありがと』
優矢が気遣ってくれたので、奈美は途端に嬉しさを感じた。と、同時に不安が如実に小さくなり、その隙間に安堵が生まれた。
「アネキは今日、お休みなの?」まずは様子見から。
『うん。お休みだよ。あ、明日もお休みなの』
「そっか。それなら、さ」なるほど、アネキはお休みなのか。
『………?』
「まだまだこうして話ししてられるね」第二打席を始めよう。
『えっ、でも、ユウヤは』
「大丈夫だよ、全然です」よし、反応あり。
『ウソ………疲れてるでしょ?』
「アネキとなら何の問題もないよ」と、ここでフルスイング!
『………ホントにイイの?』
「うん。アネキとなら、全然」クリーンヒット、かな。
『アタシと、なら………えへへ』
「じゃあさ。何の話ししよっか?」よし、良かったぁー。
『じゃあ、じゃあ、えっとね』
「うん。何でもイイよアネキ」よくヤッたぞ、俺!
決して大袈裟ではなく、この時。優矢の脳内で盛大なるファンファーレが鳴り響くと共に、盛大に紙吹雪が舞っていた。花火も何発も上がった。豪華絢爛の装いである。
「何でもイイから、うん」
深く強く安堵した優矢は、受話器の向こうにいる奈美の様子から、今回もきっと何か大切な用件があっての電話ではないのだろうとぼんやり思った。
『あっ、そうだ! アタシ、大事なの忘れてたぁー!』
その時、大切な用件を思い出した奈美が大きな声を出した。
「うっ、う、うん………」
今回は何やら大切な何かがあっての電話だったのかと耳が、じぃーん。と、なりながら思い直した優矢はいつものように静かにその始まりを待つ事にした。
『えっ、と、ねぇー』
「うん、どうした?」
すると、つい先程深く深く安堵したからなのか、その反動なのか耳の、じぃーん。が、小さくなるにつれて消えて無くなった筈の眠気が、じわり。じわり。と、活動を再開し始めた。
『あのね、あのね、一昨日だったかな。アタシが電話した時にユウヤさ、宝クジ買ったんだけどパソコン壊れてて、だから見れなくて、それでそのまんま忘れてて、ケータイで調べるのとか判んないから、だから、だから調べておいてくれないかって、言ってたでしょ? だからアタシね、明日と明後日はお仕事お休みだし、ユウヤと沢山お話し出来たら嬉しいなとか思って、だからね、その、昨夜なんだけど調べてみたの』
「うん」
『ねぇ、ユウヤ?』
「ん?」
『そしたら、ね』
「うん」
早口で状況説明という前フリを済ませた奈美は、終わりに近づくにつれて徐にそのペースを緩め、そして遂には、ぴたり。と、沈黙した。
『そしたら、だよ?』
「………」
しかし、それはいつもの事であったので、そんな奈美を微笑ましく感じながら優矢は、引き続き気長に待つ事にした。そう、それもいつものように。
『………』
「………」
すると、眠気が更に活動の度合いを強めだし、それはもはや浸食ともいえる程の睡魔に急成長して、優矢自身に襲いかかってきた。
『………』
「………」
集中力がみるみる内に落ちていった優矢は、この受話器がコードレスならベッドに横になれるのになぁー。と、そんな思いつきに意識をワシ掴みされていった。
『ユウヤ、凄いんだよぉー!』
奈美が漸く話を再開する。
『なんと、一等賞だったのです!』
興奮した様子で。
『ねぇ! 凄いでしょ?』
内容もその手助けをしていたので、いつもより大きく。
『ご当選おめでとうございまぁーす!』
興奮するのも当然と言えば当然の事である。所謂ところのジャンボ宝クジという一攫千金の一等賞なのだから。
『ユウヤは偉い!』
そして、最後の決めゼリフだとばかりに、奈美は力強くそう告げた。
「そうなんだ、凄いねぇー」
が、優矢は聞いていなかった。
『えっ、と………あれ?』
思っていたのと違う。と、奈美は戸惑う。
「うん。それは凄い」
ベッドを見つめていた。
『ユウヤ? ユウヤ? えっと、もしもぉーし。おおぉーい。ん? あれ、んん? あっ、ああぁーっ! ユウヤ、聞いてないでしょ! 聞いてなかったでしょー!』
これが離れ離れの電話であっても、それでも間違いなく優矢と繋がっているという事実が嬉しくて仕方なかった奈美は、この時の優矢が徹夜で殆ど眠れていない状態だという事をすっかり忘れてしまっていたので、怒りではなく悲しみの気持ちで大きな声を上げた。
「………え? あっ。えっと、いやあの、きき、聞いてたよ、うん。聞いてた聞いてた。そ、そそその、アレだよね」
奈美の口調の起伏具合から奈美が怒っていると判断した優矢は、途端に焦りながらも懸命に賢明に思い出そうとしていたのだが、残念ながら聞いていなかったので全く思い出せず、それによる焦りのみが増幅していくだけだった。
『じゃあ、さ。言ってみてよ』
実のところ少しも怒っていない奈美なのだが、この後に控えてさせている思惑の為に、この展開を利用する事で少しでも精神的優位に立っておこうと目論み、敢えて拗ねた言い方をした。
「えっ、と。あの、ほら、アレだよね? うん、アレだよ」
『アレ。って何?』
「えっ、と………」
『えっと、何?』
「それは、その」
『その?』
「アレとは………」
『とは?』
「つまり………」
『つまり、何?』
「あぐ………っ」
『おぉーい、ユウヤぁー』
「ゴメンなさい。もう1度最初からお願いします」
奈美による圧力に負けた優矢は、ここで漸く全面的降伏をした。
『もおー、最初からそう言えばイイのに。じゃあさ、もう1回だけ言うよ? あのね、凄いんだからね。イイ? なんと、3億円当選しましたぁー!』
「おおぉー、それは凄………え?」
奈美がすぐに機嫌を直してくれたようので大袈裟ではなく心の底から安心した矢先、その隙を突くかのように第二弾ロケットが飛んできた。例えるとそんな感じだろうか。奈美の言葉を反復していた分だけ遅く体感した優矢は、当然といえば当然の如く言葉を失い、更には固まった。
『あれ、ユウヤ?』
「………」
『もしもぉーし』
「………」
『おおぉーい』
「マジ、ですか?」
『マジだぜぇー♪』
「ドッキリ、とかじゃなくて?」
『うん!』
「三億円?」
『凄いよねぇー!』
「宝クジって、さ。当たるんだね」
『そうみたい!』
「どうしよう?」
何とも場違いな発言ではあるものの、それが優矢の偽らざる気持ちだった。当たる前は、当たったらアレをしてコレをしてとかアレを買おうとかコレを買おうとか思い描いていたのに、いざ当たりましたよとなると何も思い浮かばず、焦燥にも似た驚愕の思いをただただ覚えるだけであった。
『あのさ、ユウヤ。それで、ね』
しかし、奈美は違った。
「ん?」
『パパとママに、ね。報告しに行きたいなぁーって、思うんだけど、さ』
当選という事実を優矢よりも先に知った分だけ早くその先の事を考えに考えるだけの冷静さを持つ事が出来たし、それで心踊らせる事も出来た。
「うん」
『だから、さ』
望みを叶える為に。
「うん」
『一緒に、行かない?』
精神を著しく刺激してしまう程に。
「えっ、と………」
奈美の提案を聞いた優矢は、途端に心が締め付けられ、途端に脳が戸惑った。
『あっ、ああああのさ』
優矢の空気が変わった事を受話器越しからでも敏感に感じ取れた奈美は、予想していた事とはいえそれでも焦燥感が芽生え、それがアッと言う間に成長して脳をさぐさま覆い尽くし、心が不安で埋め尽くされた。
「………」
『えっと、あ、だってさ、こんな事って滅多に起きない事なんだよ? でしょ? それならさ、こんな時くらいさ、2人っきりで会っても、アタシと会ってくれたってイイでしょ? ね?』
言いながら瞳は潤み、徐々に声が嗚咽を含む。
「………」
『ねぇ、ユウヤ………イイ、よね?』
「あのさ、アネキ、その、それはさ」
それを受話器越しに如実に感じ取った優矢は、焦燥感に襲われた。
『ユウ、ヤぁ………』
「でも、その………」
それは、恐怖といっても差し支えない程の感情。
『お願い、ユウヤ………』
「い、やっ、そっ………」
言い換えれば、それはトラウマ。
『お願い………ね?』
「………そう、だね」
奈美の提案を耳にした優矢がまず最初にその心に感じた事は、奈美に会えるという嬉しさだった。しかし、その後すぐに脳が戸惑いという形でそれ以上の増幅を抑えようとした。会えばどうなるかなんて判りきっている事だったからだ。そうならない為に、もうこれ以上はそうならない為に、こうして離れて暮らしているのだから。
『えっ、ユウヤ?』それって。
「一緒に行こうか」アネキと。
『ホントにイイの?』
「うん。そうしよう」
が、しかし。優矢は抑え込む事を放棄した。諦める為にこうしているのに諦めていない自分がいて、そんな自分自身に気づかないフリをしながらただただ時間をすごしているだけだったから。
『ホントにホントにイイの?』
優矢が受け入れてくれたので、奈美は声のトーンがあからさまに変化した。勿論、明るい方向にである。如実に胸が高鳴っていく。
「うん。一緒に行こう」
その声を聴いた途端、焦燥が消えて安堵した優矢は、努めて平静にそう繰り返した。どうする事も出来ず、なのでどうする事もせず、偶然とか奇跡とかなんとなくとか何でも良いから言い訳さえ見つける事が叶えば、素直な気持ちは胸の内に秘めたままで成就する事が出来る。そして今、その言い訳がこうして我が身に舞い降りたのだ。幸運にも舞い降りたのだ。自然と胸が高鳴っていく。
『じゃあ、じゃあ、じゃあさ、日にちと時間と場所はどうしようか?』
想像していたよりも早く優矢が受け入れてくれたので、奈美はそれを意外だとも感じていたのだが、それならそれで気が変わらない内に決めてしまおうと目論んだ。
「えっと、あっ、シフト表を持ってくるからチョットだけ待ってて」
優矢が答える。
『あっ、アタシも持ってくる!』
奈美もそうする。
アネキと、会えるんだ。
ユウヤに会えるんだね。
アネキに会えるんだ。
ユウヤ、ユウヤぁー。
「『………」』
アネキ………。
………ふふふ。
………。
………。
そして。
奈美と優矢は二人きりで会う日時と場所を決め、その後はいつものように奈美が一方的に話すのを優矢が聞くという時間を何時間もすごしてから電話を切った。シフトを比べて見てみると、やはり都合良く連休が揃っていたりなどしなかったので、宝クジがあるのだしいっそ退職してしまおうかという話しになり、その後に会おうという事で落ち着いたようだ。
「アネキ、と………」
優矢の眠気はもうすっかり吹き飛んでいた。しかしそれは、宝クジの一等が当選していたからではなく、奈美と会えるからだった。しかも、二人きりで。で、ある。優矢にとって奈美と二人きりで会うという事は、いいや。奈美という存在は、それ程までに心を熱くさせるような唯一無二であった。その想いを忘れる為に離れているのにも関わらず。
「………会えるんだ」
こういう事を青天の霹靂というのかどうか優矢には判らなかったが、ベランダに続く窓から見える空は、雲一つない晴天であった。
………。
………。
………。
第一話)青天の霹靂 完
奈美は優矢を深く愛していた。だからこそ、深く愛していたからこそ優矢を諦めようとは思わなかった。そして、諦めるつもりのないままに運命の日を迎える。
優矢は奈美を強く愛していた。だからこそ、強く愛していたからこそ奈美を諦めなければならないと苦しんだ。しかし、諦められないままに運命の日を迎える。
奈美は優矢を諦めるつもりがないのに離れたままでいるという矛盾を抱え、優矢は奈美を諦めようと離れたのに諦められないままでいるという矛盾を抱え、僅かさえも止まる事のない時間をそれぞれに生きてきた。本心を伝え合わなかった二人は、伝え合えなかったが故にすれ違い、すれ違い続けている。
運命の日はそんな二人に、
分け隔てなく訪れた。
………。
……。
…。
ぷるるる、
ぷるるる、
「ん………んっ」
つい先程まで徹夜で仕事を続けていた優矢は、明け方になって漸くその仕事に一段落をつける事に成功し、疲れ果てた脳を収納している頭部を含めた大柄な身体をベッドに深く沈め、ぐったり。と、なってただただ眠っているところであった。
ぷるるる、
ぷるるる、
が、しかし。いつからだろう、規則的に鳴り続いている機械的なその音が自分を呼ぶ電話機のベル音だと、ぼんやりしている脳でやんわりと気づく。
ぷるるる、
ぷるるる、
そして、まだ殆ど働いていない思考回路を行き来して導き出した一先ずの答えは、目を開けて起きて立って歩いてその電話機の一部であるところの受話器を掴むという行為ではなく、現在時刻を確認しなさいという命令を身体に発令する事だった。
ぷるるる、
ぷるるる、
なので優矢は包っていた白いシーツから緩慢に右腕を抜き出し、その右腕を手を指を手探りさせながら枕元に置いてあった目覚まし時計を掴み、それを自身の顔へと引き寄せ、刻々と刻まれているのであろう時計の針を、つまるところ現在時刻を虚ろな視力で確認した。
ぷるるる、
ぷるるる、
それによって得た事は、やはり目覚まし時計のベル音ではなく電話機のそれなのだなと、完全無欠に、けれど溜息交じりに、全身全霊で感じるに至った事。そして、心地良い眠りを一身に満喫できていたのはまだ、僅か小一時間程度の事であると認識したという事だった。
ぷるるる、
ぷるるる、
「ん、ん~っ」
優矢は再び溜息をつく。そして音の主であるところの電話機を、ちらり。と、恨めしそうに見やった。そもそも、インターネットブロードバンドなる文明の技術を使用及び利用する為に電話回線を引いていたので、電話機にとっては例え今のこの状況が、『ご主人様、ご主人様、どちら様かは判りませんが、何やら御用があるようです。至急此方の方に御足労願えますでしょうか?』と、ご主人様であるところの優矢に告げるという褒められるべきでもある働きぶりであろうとも、今この時の優矢にとっては今のこの状況では特に、激しく勘弁していただきたい程に無遠慮な実直ぶりであった。
ぷるるる、
ぷるるる、
しかし優矢は、その事を電話機が判るように説明する自信は欠片程もなかったし、電話機の方も理解する術を多分きっと持ち合わせていない。
ぷるるる、
ぷるるる、
ここで優矢は、ある事を思い出した。それはもう随分と前になるのだが、電話機のベルの音量をフルに設定していたという事と、それをそのままにしてあったという事。例えば、ヘッドホンで耳を塞いで大音量で音楽を聴いていたり、このように眠っていたりしても気づく事ができるように、と。
ぷるるる、
ぷるるる、
更に優矢は思い出した。それは良いアイデアだと自身を褒めていた自分を。そして、大切な用件を含めてその殆どをスマートフォンで済ませている為、電話機を電話として使用する機会なんて間違い電話や勧誘電話に出くわしてしまった時くらいだという現状も。
ぷるるる、
ぷるるる、
偶然にも真犯人をつきとめた名探偵その名も優矢は、多大な後悔を抱きつつもそれでもまだ決して電話に出ようとはせず、起きて立って歩いて掴んで応対するのと、留守番電話機能に切り替わるまでただただひたすらに耐え忍ぶのとでは、どちらの方がイライラが少なく済むだろうかと、睡眠を諦めきれない脳で考えていた。
ぷるるる、
ぷるるる、
しかし、幾つもの鋭利な棘で身体のあらゆる箇所を執拗にツンツンされているかのようなイライラがどうしようもなく膨らみ、遂には我慢というカテゴリーに収まりきらなくなってしまったので、偉大なる睡眠への旅路をとりあえず一旦は一先ず泣く泣く仕方なく仕様がなく成す術なく、残念ながら厭々ながら不本意ながら未練たらたら中断する事にして、つまるところ諦めて電話に出ようと一大決心をし、当然と言えば当然ではあるが非常に名残惜しく、ゆらゆら。と、その身体をベッドから離していった。
ぷるるる、
ぷるるる、
そして、眠気や気だるさやイライラや悲しみや自己批判や自己否定や自己嫌悪などと格闘しながら、我が身に叱咤激励の叱咤のみをぶつけながら、よろよろ。と、緩慢に立ち上がった。
ぷるる、かちゃ。
只今、留守にしております。
すると無情と言えば無情にもその時、ターゲットから規則的に鳴り続けていた電子音が、留守を丁寧に告げる機械的な声へと切り替わった。
「ですよ、ね」
世の中の仕組みなんてどうせこんなものだ。と、思いながら。優矢はベッドに、すとん。と、腰を下ろした。
ぴぃーっという発信音の後に、
メッセージをお願い致します。
「はぁ………」
深く長い溜め息を、一つ。どうせ何かの勧誘だろうとしか思っていなかった優矢は、留守番電話のメッセージに切り替わればすぐに、ぷつり。と、切れるだろうとタカをくくっていた。
ぴぃーっ。
何はともあれ、これで何事もなかったかのように再び眠れる森の住人に戻れると思った優矢は、もう偉大なる睡眠への旅路へと身も心も沈めてしまおうと目を閉じながら身体を、ゆらり。まだ温もりの残るベッドに預け始めた。
『あっ、あの、えと、ナミです』
「えっ?」
が、しかし。決して他の誰かとなんて聞き間違える筈がない少し鼻にかかった柔らかなその声が元ターゲットから聴こえてきた途端、優矢は慌てて起き上がり、まだ思うままには動いてくれない我が身を今度はもどかしく感じながら、もたもた。と、電話機へ向かった。
『あの、あああのね、そ、その、ケータイにも入れたんだけどね、あっ、そ、その前に何度も電話してて、だ、だから、着信履歴とか凄いかもしれないんだけどさ、えっと、えっとね、その、ほら、電源とかオフにしてるのかなとか思って、ユウヤが出てくれないから気づいてないのかなとか思って、で、それでね、その、それで、お部屋の電話にもかけてみようかなってさ思って、だからあああの、しつこくしてゴメンなさい。でもね、でも』
「アネキ………」
なんだかしどろもどろで早口な奈美のメッセージを聞きながら、この分だと用件を言う前に録音時間が終わってしまうだろうなと思った優矢は、早く電話に出なければという思いが更に強くなり、向かうペースも如実に速まった。なので、そのままであった場合を想像して比べてみて幾分だけ早くではあったが、ベッドから少しも遠くない距離にある電話機の受話器を漸く手に掴んだ。
『あああのね、あの』
かちゃっ。
「ゴメン、アネキ。オレです」
そして。この眠気と気だるさを決して声に出さないように努めなさいと自分に強く言い聞かせながら受話器を耳に当て、受話器の先に向けてこれもまた努めて優しく話しかけた。因みにイライラやその他の負の感情はどれもこれも全て、電話の向こうの存在が奈美だと判った瞬間に消えていた。勿論の事、自己否定も自己批判も。で、ある。
『あうっ、ユウヤ? あ、も、もしかして、忙しかったのかな………あ、えと、何度も電話してゴメンなさい! あああのさ、今、大丈夫なの、かな………あうう』
突然と言えば突然に優矢の声が聴けたので、奈美は驚きつつ、申し訳なく思いつつ、けれど嬉しさが込み上げてきていた。
「うん、大丈夫。だから気にしないで。オレの方こそなかなか出れなくて、ホントにゴメンなさい」
眠る前にベッドの脇に脱ぎ捨てたジーンズのポケットに入ったままの、今もまだマナーモードに設定しておいたままなのだろう自身のスマートフォンを思い出しながら、優矢は自分の非を詫びた。
『えっ、あ、ううん、イイの。アタシの方こそゴメンなさい。ホントにゴメンなさい。あのね、アタシさ、邪魔とかしてないかな。あっ………ねぇ、ユウヤ、そこに誰か居るの? ねぇ、そうなの? だから電話に出てくれなかったの? やっぱりそうなの? あっ、もしかして女の人なのかな。ねぇ、誰? 誰と居るの?』
奈美の声のトーンが途中から悲しくも厳しげなそれに急展開した。抑える事が出来なかった。と、言うよりも抑える事を忘れてしまったといった感じだ。
「いや、その、アネキ」
『誰と居るのよぉー!』
「いやその、あの」
『ユウヤぁ………』
実のところ奈美は大切な用件があって連絡を取ろうとしていたのだし、大切な用件を伝える為に電話していたのだが、優矢との会話で不意に発生した暗闇により、実際の用件を脳の前面に貼り出してはいられなくなっていた。更に遡って優矢が電話に出なかった事も、心に浮かんでしまったある感情が脳を心を少なからず刺激しており、もっと言えば何度も電話をかけ続けていたのもそれが原因であり、奈美の精神は不安定になっていた。
「ちょ、ちょっ、ま、待ってよアネキ、違うから! 違うから、だから落ち着いて、ね? ひ、独りだから。ずっと独り。えっと、えっとさ、あ、オレね、仕事してたの。うん、仕事。ホントに。さっきまでずっと仕事。もうさ、書類とにらめっこ。あ、ほら、そうそう、前にさ、パソコンが壊れちゃったって言ったでしょ? だから、激しく面倒なんだけど手書きでさ。でね、時間かかっちゃうかなって思ったからスマホはマナーにして、それで、うん、集中してたの。で、徹夜になっちゃったから、だから、その、気づかなくてさ。ホント、ゴメンね、アネキ」
奈美の様子に焦った優矢は、かなり慌てながらもそう説明した。弁明した。誤解を拭おうとした。そして、そんな焦燥と不安に襲われながら謝った。
『そっ、う、あう、そ、そうだったんだ。そっかぁー、良かっ、あっ、でも、でもさ、それならこの電話も迷惑だよね。ホントにゴメンなさい、ユウヤ。あう、う、ユウヤ、邪魔だなとかって思った? 何度も何度も電話しちゃったし、そう思ってるよ、ね………』
部屋の電話によって初めて気づいている優矢にとって、奈美が何度も何度も自分に電話をかけてきていたという事実も今、初めて知った事である。なので、邪魔なんてしていないし、そもそも奈美からであれば邪魔だとは絶対に思わないのだが、そうは思わない奈美のその声には悲しげなトーンだけが残っていった。そしてそれは、先程のそれとは違う理由の感情からくるモノだった。
「いや、それは」
このままではヤバい。と、優矢は更に焦る。
『やっぱり、思ってるよね………』
嫌われちゃったよ、どうしよう。と、奈美は勢い激しく沈んでいく。
「あのさ、アネキ、気にしないで。全然だよ、うん。平気だから。だってさ、ついさっき終わらせたところだったから、今はもう眠ってたんだもん。だからアネキは何も」
優矢はフォローを開始した。
『えっ? でもそれならアタシ、やっと眠れたのに起こしちゃったって事だよね………やっぱり邪魔してるね、アタシ。ゴメンなさい………」
しかし。言い終わらないうちに早くもフォロー失敗。しかも、自爆。
「いやあの、そうじゃなくて」
『ユウヤ、ホントにゴメンね』
「アネキ、だからその」
『ゴメンなさい………』
奈美の声が判り易いくらいにどんよりと沈んでしまったという事を否応なく感じ取った優矢は、なんとか挽回しようとしたのだが、その試みは三タコという形で呆気なく破綻してしまい、奈美は更に不安を強めていった。完全に嫌われたらどうしようという形で。
「いやあの、さ、えっと、えっと、あ、そうだ! 今日はこの書類を夕方までに持ってけば終了なんだよ。つ、つまり、ほら、後は何もなしの完全フリーなの。その、だからさ、帰ってきてから眠れば、じゃなくて、ファクシミリしちゃえばイイんだし、そしたらたくさん眠れるんだし、明日はお休みだから明日たくさん眠ってもイイし、だから、その、気にしないで。ホントに平気だから。ね? あ、それよりもアネキ、ずっと電話かけてきてたんでしょ? って事はさ、アネキの方こそ眠ってないんじゃない? 体調は平気? 大丈夫? オレのせいで無理させてゴメン。ホントに、ホント、ゴメンね」
自身による大失敗で眠気の殆どが吹き飛んでいくに至った優矢は、奈美の感情を陽に持っていくという事に全神経を集中させた。それは、どんな理由であれ奈美が傷つく事を極端に恐れていたからで、それが例えどんな些細な事であろうと、もう二度と、絶対に、奈美を傷つけたくなかったからであった。
『えっ、そ、そんな、ううん。ユウヤは悪くないよ。全然悪くない。でもその………ありがと』
優矢が気遣ってくれたので、奈美は途端に嬉しさを感じた。と、同時に不安が如実に小さくなり、その隙間に安堵が生まれた。
「アネキは今日、お休みなの?」まずは様子見から。
『うん。お休みだよ。あ、明日もお休みなの』
「そっか。それなら、さ」なるほど、アネキはお休みなのか。
『………?』
「まだまだこうして話ししてられるね」第二打席を始めよう。
『えっ、でも、ユウヤは』
「大丈夫だよ、全然です」よし、反応あり。
『ウソ………疲れてるでしょ?』
「アネキとなら何の問題もないよ」と、ここでフルスイング!
『………ホントにイイの?』
「うん。アネキとなら、全然」クリーンヒット、かな。
『アタシと、なら………えへへ』
「じゃあさ。何の話ししよっか?」よし、良かったぁー。
『じゃあ、じゃあ、えっとね』
「うん。何でもイイよアネキ」よくヤッたぞ、俺!
決して大袈裟ではなく、この時。優矢の脳内で盛大なるファンファーレが鳴り響くと共に、盛大に紙吹雪が舞っていた。花火も何発も上がった。豪華絢爛の装いである。
「何でもイイから、うん」
深く強く安堵した優矢は、受話器の向こうにいる奈美の様子から、今回もきっと何か大切な用件があっての電話ではないのだろうとぼんやり思った。
『あっ、そうだ! アタシ、大事なの忘れてたぁー!』
その時、大切な用件を思い出した奈美が大きな声を出した。
「うっ、う、うん………」
今回は何やら大切な何かがあっての電話だったのかと耳が、じぃーん。と、なりながら思い直した優矢はいつものように静かにその始まりを待つ事にした。
『えっ、と、ねぇー』
「うん、どうした?」
すると、つい先程深く深く安堵したからなのか、その反動なのか耳の、じぃーん。が、小さくなるにつれて消えて無くなった筈の眠気が、じわり。じわり。と、活動を再開し始めた。
『あのね、あのね、一昨日だったかな。アタシが電話した時にユウヤさ、宝クジ買ったんだけどパソコン壊れてて、だから見れなくて、それでそのまんま忘れてて、ケータイで調べるのとか判んないから、だから、だから調べておいてくれないかって、言ってたでしょ? だからアタシね、明日と明後日はお仕事お休みだし、ユウヤと沢山お話し出来たら嬉しいなとか思って、だからね、その、昨夜なんだけど調べてみたの』
「うん」
『ねぇ、ユウヤ?』
「ん?」
『そしたら、ね』
「うん」
早口で状況説明という前フリを済ませた奈美は、終わりに近づくにつれて徐にそのペースを緩め、そして遂には、ぴたり。と、沈黙した。
『そしたら、だよ?』
「………」
しかし、それはいつもの事であったので、そんな奈美を微笑ましく感じながら優矢は、引き続き気長に待つ事にした。そう、それもいつものように。
『………』
「………」
すると、眠気が更に活動の度合いを強めだし、それはもはや浸食ともいえる程の睡魔に急成長して、優矢自身に襲いかかってきた。
『………』
「………」
集中力がみるみる内に落ちていった優矢は、この受話器がコードレスならベッドに横になれるのになぁー。と、そんな思いつきに意識をワシ掴みされていった。
『ユウヤ、凄いんだよぉー!』
奈美が漸く話を再開する。
『なんと、一等賞だったのです!』
興奮した様子で。
『ねぇ! 凄いでしょ?』
内容もその手助けをしていたので、いつもより大きく。
『ご当選おめでとうございまぁーす!』
興奮するのも当然と言えば当然の事である。所謂ところのジャンボ宝クジという一攫千金の一等賞なのだから。
『ユウヤは偉い!』
そして、最後の決めゼリフだとばかりに、奈美は力強くそう告げた。
「そうなんだ、凄いねぇー」
が、優矢は聞いていなかった。
『えっ、と………あれ?』
思っていたのと違う。と、奈美は戸惑う。
「うん。それは凄い」
ベッドを見つめていた。
『ユウヤ? ユウヤ? えっと、もしもぉーし。おおぉーい。ん? あれ、んん? あっ、ああぁーっ! ユウヤ、聞いてないでしょ! 聞いてなかったでしょー!』
これが離れ離れの電話であっても、それでも間違いなく優矢と繋がっているという事実が嬉しくて仕方なかった奈美は、この時の優矢が徹夜で殆ど眠れていない状態だという事をすっかり忘れてしまっていたので、怒りではなく悲しみの気持ちで大きな声を上げた。
「………え? あっ。えっと、いやあの、きき、聞いてたよ、うん。聞いてた聞いてた。そ、そそその、アレだよね」
奈美の口調の起伏具合から奈美が怒っていると判断した優矢は、途端に焦りながらも懸命に賢明に思い出そうとしていたのだが、残念ながら聞いていなかったので全く思い出せず、それによる焦りのみが増幅していくだけだった。
『じゃあ、さ。言ってみてよ』
実のところ少しも怒っていない奈美なのだが、この後に控えてさせている思惑の為に、この展開を利用する事で少しでも精神的優位に立っておこうと目論み、敢えて拗ねた言い方をした。
「えっ、と。あの、ほら、アレだよね? うん、アレだよ」
『アレ。って何?』
「えっ、と………」
『えっと、何?』
「それは、その」
『その?』
「アレとは………」
『とは?』
「つまり………」
『つまり、何?』
「あぐ………っ」
『おぉーい、ユウヤぁー』
「ゴメンなさい。もう1度最初からお願いします」
奈美による圧力に負けた優矢は、ここで漸く全面的降伏をした。
『もおー、最初からそう言えばイイのに。じゃあさ、もう1回だけ言うよ? あのね、凄いんだからね。イイ? なんと、3億円当選しましたぁー!』
「おおぉー、それは凄………え?」
奈美がすぐに機嫌を直してくれたようので大袈裟ではなく心の底から安心した矢先、その隙を突くかのように第二弾ロケットが飛んできた。例えるとそんな感じだろうか。奈美の言葉を反復していた分だけ遅く体感した優矢は、当然といえば当然の如く言葉を失い、更には固まった。
『あれ、ユウヤ?』
「………」
『もしもぉーし』
「………」
『おおぉーい』
「マジ、ですか?」
『マジだぜぇー♪』
「ドッキリ、とかじゃなくて?」
『うん!』
「三億円?」
『凄いよねぇー!』
「宝クジって、さ。当たるんだね」
『そうみたい!』
「どうしよう?」
何とも場違いな発言ではあるものの、それが優矢の偽らざる気持ちだった。当たる前は、当たったらアレをしてコレをしてとかアレを買おうとかコレを買おうとか思い描いていたのに、いざ当たりましたよとなると何も思い浮かばず、焦燥にも似た驚愕の思いをただただ覚えるだけであった。
『あのさ、ユウヤ。それで、ね』
しかし、奈美は違った。
「ん?」
『パパとママに、ね。報告しに行きたいなぁーって、思うんだけど、さ』
当選という事実を優矢よりも先に知った分だけ早くその先の事を考えに考えるだけの冷静さを持つ事が出来たし、それで心踊らせる事も出来た。
「うん」
『だから、さ』
望みを叶える為に。
「うん」
『一緒に、行かない?』
精神を著しく刺激してしまう程に。
「えっ、と………」
奈美の提案を聞いた優矢は、途端に心が締め付けられ、途端に脳が戸惑った。
『あっ、ああああのさ』
優矢の空気が変わった事を受話器越しからでも敏感に感じ取れた奈美は、予想していた事とはいえそれでも焦燥感が芽生え、それがアッと言う間に成長して脳をさぐさま覆い尽くし、心が不安で埋め尽くされた。
「………」
『えっと、あ、だってさ、こんな事って滅多に起きない事なんだよ? でしょ? それならさ、こんな時くらいさ、2人っきりで会っても、アタシと会ってくれたってイイでしょ? ね?』
言いながら瞳は潤み、徐々に声が嗚咽を含む。
「………」
『ねぇ、ユウヤ………イイ、よね?』
「あのさ、アネキ、その、それはさ」
それを受話器越しに如実に感じ取った優矢は、焦燥感に襲われた。
『ユウ、ヤぁ………』
「でも、その………」
それは、恐怖といっても差し支えない程の感情。
『お願い、ユウヤ………』
「い、やっ、そっ………」
言い換えれば、それはトラウマ。
『お願い………ね?』
「………そう、だね」
奈美の提案を耳にした優矢がまず最初にその心に感じた事は、奈美に会えるという嬉しさだった。しかし、その後すぐに脳が戸惑いという形でそれ以上の増幅を抑えようとした。会えばどうなるかなんて判りきっている事だったからだ。そうならない為に、もうこれ以上はそうならない為に、こうして離れて暮らしているのだから。
『えっ、ユウヤ?』それって。
「一緒に行こうか」アネキと。
『ホントにイイの?』
「うん。そうしよう」
が、しかし。優矢は抑え込む事を放棄した。諦める為にこうしているのに諦めていない自分がいて、そんな自分自身に気づかないフリをしながらただただ時間をすごしているだけだったから。
『ホントにホントにイイの?』
優矢が受け入れてくれたので、奈美は声のトーンがあからさまに変化した。勿論、明るい方向にである。如実に胸が高鳴っていく。
「うん。一緒に行こう」
その声を聴いた途端、焦燥が消えて安堵した優矢は、努めて平静にそう繰り返した。どうする事も出来ず、なのでどうする事もせず、偶然とか奇跡とかなんとなくとか何でも良いから言い訳さえ見つける事が叶えば、素直な気持ちは胸の内に秘めたままで成就する事が出来る。そして今、その言い訳がこうして我が身に舞い降りたのだ。幸運にも舞い降りたのだ。自然と胸が高鳴っていく。
『じゃあ、じゃあ、じゃあさ、日にちと時間と場所はどうしようか?』
想像していたよりも早く優矢が受け入れてくれたので、奈美はそれを意外だとも感じていたのだが、それならそれで気が変わらない内に決めてしまおうと目論んだ。
「えっと、あっ、シフト表を持ってくるからチョットだけ待ってて」
優矢が答える。
『あっ、アタシも持ってくる!』
奈美もそうする。
アネキと、会えるんだ。
ユウヤに会えるんだね。
アネキに会えるんだ。
ユウヤ、ユウヤぁー。
「『………」』
アネキ………。
………ふふふ。
………。
………。
そして。
奈美と優矢は二人きりで会う日時と場所を決め、その後はいつものように奈美が一方的に話すのを優矢が聞くという時間を何時間もすごしてから電話を切った。シフトを比べて見てみると、やはり都合良く連休が揃っていたりなどしなかったので、宝クジがあるのだしいっそ退職してしまおうかという話しになり、その後に会おうという事で落ち着いたようだ。
「アネキ、と………」
優矢の眠気はもうすっかり吹き飛んでいた。しかしそれは、宝クジの一等が当選していたからではなく、奈美と会えるからだった。しかも、二人きりで。で、ある。優矢にとって奈美と二人きりで会うという事は、いいや。奈美という存在は、それ程までに心を熱くさせるような唯一無二であった。その想いを忘れる為に離れているのにも関わらず。
「………会えるんだ」
こういう事を青天の霹靂というのかどうか優矢には判らなかったが、ベランダに続く窓から見える空は、雲一つない晴天であった。
………。
………。
………。
第一話)青天の霹靂 完
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