この上ない恋人

あおなゆみ

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純粋すぎた二人の暮らし

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 二人だけが生きている・・・
そんな時は存在しない。
二人だけが起きている・・・
そんな夜も存在しない。
だけど、君と二人で過ごす家の中はまるで、二人だけが生きているような、そんな世界だった。


「どうして、山に家を建てたの?」

共に暮らし始めた十年前。
君は僕にそう聞いてきたね。

「程よく、離れていたいんだ。世間から、程よく・・・僕は臆病だから、大胆な行動は起こせないけれど、これが僕の精一杯だった。自分を守るための程よい努力」

君は僕がどんなに心許ない話し方をしても、いつでも微笑んでくれた。
君の前での僕は、真実を語ることを恐れずに、本当を話すことが出来る。
その本当を受け止める君の笑顔は、僕を癒し、僕に自信を与えてくれた。
だから、大したことを話していないのに、哲学者や詩人にでもなった気分で、僕の言葉を君に残そうとする。
二人だけが分かる、二人を繋ぐ幸せを作るために、二人の間を僕の言葉で埋め、その周りを君の笑顔が包み込んでいた。
そんな時には、僕らはいつまでも見つめ合うんだ。
 誰かと目を合わすのが恥ずかしがり屋の証拠で、そういう人こそ純粋なんだと前までは思っていたけれど、きっと違うんだ。
真っ直ぐに誰かを見つめられる人こそ、本当に純粋な人。
だから、君から目を逸らさずに見つめられる僕こそ、僕を見つめられる君こそ、本当に純粋な二人なんだ。


「ここで過ごす時間が一番好き。その中でも夜が一番好き」

バルコニーのベンチに並んで座り、君は僕に寄りかかってきた。
それは、ある冬の夜だった。
僕らにだけ届きそうな位置に星があった。

「どうして夜が一番なの?」

「だって、出掛けることを考えずに済むから。もちろん、明日の朝にはまた、仕事に行かなくちゃならないけれど、そんなのはどうでもいいの。今だけは自由なのが素敵だし、それに、明日の朝は来ないかもしれない。だから今は、この夜だけを生きる。一番心が安らぐ、二人の時間」

君も時々、哲学者や詩人になったかのように、僕の心を揺さぶった。

「それに私、夜のこの景色が好き。あなたがここに家を建てたのは、あれが理由ね」

君が愛らしい手で指差した先には、小さな光りが幾つも集まっていた。
そこは、遊園地だ。
僕らの家からは、少し遠くの遊園地が見下ろせる。
冬の夜にはライトアップされ、とても綺麗に輝いていた。

「夜のことまでは想像してなかったんだ。こんなに綺麗に見えるなんて、本当にラッキーだったよ」

君は信じていなかったけれど、僕はこの景色を想定するほどのロマンチストではなかった。
でも、ロマンチストになりたいとはいつも思っている。
 
 君の肩を抱き寄せ、

「くっついたら温かいね」

と言った。
君は、

「山の中だから夏でも夜になれば涼しいし・・・ここなら春夏秋冬ずっとくっついていられるね」

なんて素敵なことを、可愛く囁く。

「夜はどうしても、くっつきたくなるね」

僕も僕なりの可愛さを意識して言ってみた。
君は揶揄うように僕を見てから、

「可愛く思われたい気持ちが、きっと愛なのね。それは性別関係なく」

と、また僕の心を揺さぶった。

「僕なりの可愛さは、わざとらしかったかな?」

「ううん、そんなことない。可愛かったよ。ここであなたと二人、可愛く思われたいがためのアピールを互いにし合って過ごす冬の夜。それが一番好き」

「僕は今、幸せだよ」

「心配しないで。私も相当幸せだから」

こんな会話をする僕らは、二人きりの家が、この世の二人きりだと勘違いしているみたいだった。
でも、本当に幸せだった。


 ある夜に、君はある提案をする。
一緒に暮らし始めて五年経っていた。
その提案は、家で過ごす時間を何よりも好む君とは思えないものだった。
冬の訪れを感じる秋の夜。
その夜もバルコニーのベンチで、二人はくっついていた。

「遊園地に行ってみたい。今度、一緒に行かない?」

「えっ、珍しいね。どうしたの?」

仕事以外で外に出掛けたがらない君の、そんなお誘い。
どこにでもあるような、そんなお誘いなのに、僕は大袈裟に驚いてしまった。

「珍しいなんて言わないで、『分かった、行こう』って言って欲しかったな・・・まあ、気持ちは分かるよ。どうして急に出掛けたいって思ったのかが気になってるんでしょ?それは、ほら・・・倦怠期っていうの?」

君が、倦怠期なんて言葉を使うなんて、それも驚きだった。
倦怠期という時期のことを知らないみたいな君だったからだ。

「僕のこと、飽きてきたの?」

意気地のない、そんな僕の問いかけ。
君は少し目を大きくした後で、すぐに目を細めて笑った。

「違うの。ただ、“もしも”を考えていたの。私、あなたと離れている日中は、“もしも”とか“万が一”から抜け出せない人間だから。そんな時に考えていたの。もしも今後、倦怠期が来たらどうしようって。そうならないように、ちょっとだけ、日常に変化を・・・と思ったの。もちろん、あなたが嫌なら無理強いはしない」

 君に負けず劣らず、僕も君と離れている日中は、“もしも”塗れの人間だ。
“もしも”の化け物になってしまいそうなほどに。
 たとえば、もしも君にこのまま一生会えなくなったらどうしようとか。
もしも、家に泥棒が入っていたらどうしようとか。
ネガティブなものには参ってしまうけれど、ポジティブなものだってある。
たとえば、もしも君と僕に永遠が与えれたらとか。
もしも、明日から一ヶ月仕事が休みになったらとか。
特に好きでよく考えていたのは、もしもこの世界が本当に僕ら二人だけだったら・・・という想像だった。
そんな時には、二人の穏やかさだけでこの世界を満たせたら良いのに、と本気で思っていた。

「僕は、嫌じゃないけど。でも多分、あの遊園地はここから眺めてるのが一番良かったって、そんなオチになりそうな気がする。だって、遊園地は人が多いから」

遊園地に悪い記憶があるわけではなかった。
小さい頃に両親に連れて行ってもらった記憶だって、良い思い出だ。

「そうだね。遠くで憧れてる方がいいのかも。行かないままで生きる方が・・・」

君がそう言い、僕は疑問を抱いた。

「もしかして、遊園地自体に行ったことがないの?」

君は頷く。

「行ったことない。でも、だからって心から行きたいと思ってるわけでもないの」

「どうして?」

「私には似合わないと思うから。そういうのを楽しめるタイプの人間じゃないはず」

僕が君を、そんな風にさせてしまったのかもしれないと思った。
確かに君は元々、外出するのが好きなタイプではなかった。
でも、山に家を建てた僕が、仕事以外の時間をあまりにも家の中で過ごすものだから、君もそこに幸せを見出してしまったのではないか。
僕が連れ出すタイプの人間だったら・・・

「やっぱり、行ってみよう。行ったことがないなら話が変わってくるよ。僕が連れて行く」

「うん・・・」

君から行こうと言ったのに、どこか不安げに見えた。
不安を抱きながらも、もっと外に出てみたい気持ちが君にはあるのかもしれないと思った。
変化を・・・求めているのかもしれないとも思った。

 その後、ベッドで横になった僕ら。
僕は、君につい聞いてしまった。
君が隣にいるにも関わらず、酷い、“もしも”の化け物になってしまったのだ。
どうしてあの夜そうなってしまったのか、今でも分からない。

「もしも、君と遊園地に行って、その遊園地で・・・たとえば、そこで働いている人でもいいし、遊びに来た中の一人でもいい。その中に、僕よりも素敵な人がいたら、どうする?」

僕は仰向けで、天井を見つめていた。
君はそんな僕の横顔を見つめていた。

「そのたとえ話はあまり好きじゃないな・・・」

君はそう言った。

「でも、気になるんだ。これは、束縛とかそんなのじゃなくて・・・ただ、気になるんだ」

本当にどうかしていたと思う。
あの時のあの発言はまるで、外に出たいと言った君を、出来るだけ外に出したくないという束縛のようだった。
「束縛じゃない」なんて発言こそ、束縛だったのだ。
純粋な愛が、狂気の片鱗を見せた瞬間だった。
少し風が吹けば、僕らの純愛はひっくり返り、違う形の愛になってしまう・・・
そんな悲しい状況を、僕は自ら作り出した。
本当にどうかしていた。

「あなたよりも素敵な人がいたら・・・あなたよりも素敵なんだから、その人を好きになると思う」

僕はようやく君の方を見た。
君が僕と目を合わせたくて、わざと選んだ言葉だと思いたかった。

「でも、それはあなたも同じ。あなたも私よりも素敵な人に出会えば、私は二番目になる。ね?当たり前のことでしょ?」

いつもの微笑みで、酷いことを言う君。
そこで僕はようやく、“もしも”の化け物になってそんなことを聞いた自分の発言を悔いた。

「確かにそうだけど・・・君がはっきりと、そうやって言うとは思っていなかったな」

「私はあなたの前ではいつだって真実なの。名前を“真実”に変えたいくらい、それくらい本気よ・・・」

君は僕の頭を優しく撫でた。
あの瞬間こそ、本当に、二人だけが起きている、二人だけが生きている夜だと錯覚していた。
冷たさを感じさせた君の発言も、僕を撫でる君の手も、純粋さの証明である僕を見つめる目も、全てが息を呑むほどに美しかった。


「じゃあ、遊園地の前で待ってるね」

それから一週間ほど経った日の朝。
先に仕事に行く君が嬉しそうにそう言った。
僕らは、外で会うことにしたのだ。

「何回確認するの?子供じゃないんだから。多分、僕が先に着くから、待ってるよ」

「うん。待っててね」

一緒に暮らし始めてから、仕事終わりにどこかで待ち合わせをした記憶はない。
君が言った、

「もしも今後、倦怠期が来たら困るから」

という、その心配を解消するために、変化を求めに行くのだ。
夜の少し幻想的な空気の中でなら納得したものの、朝の現実的な空気の中でなら、もの凄く変な“もしも”だったということが分かる。

「じゃあ、行ってきます」

いつもの朝と同じように、君は慌てて支度してから、僕に手を振った。
慌てているのは君が、

「明日は来ないかもしれないから」

と、夜を満喫しているせいだった。

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

そんな君に慣れた僕も、いつも通りに手を振り返し、君を見送った。
 何も違いはなかった。
家に出る直前まで君は、僕と暮らすこの家での暮らしを楽しんでいるように見えた。
“真実”にしか思えなかった。
君は確かに、“真実”だった・・・


 仕事終わり、やはり先に着いたのは僕で、制服を着た学生や若者の多い遊園地の前で、ソワソワと君を待っていた。
嫌な気持ちまではいかなかったけれど、落ち着かないその空間に、またいつもの“もしも”を始めてしまった。
もしも、普段通りに真っ直ぐ家に帰っていたら。
そしたら、普段通りの安らぎの中、君とゆったり過ごせたのに・・・
そうやって、違うことを考えて気を紛らわせた。
とにかくまずは、君がここに来てくれたら。
そうすれば、僕の心は今より落ち着いて、遊園地を楽しもうという気分になるかもしれない。
そう思って、君を待ち続けた。
 それなのに・・・
いくら待っても君は来ない。
電話も繋がらないし、メールの返信もなかった。
待つこと以外の良い案が見つからず、迷子の場内アナウンスでも流してもらおうかという案が思い浮かんだ頃には、痺れを切らしたようにその場を離れた。
歩くのも耐えられず、僕は走ってバス停まで向かい、バスを降りてからも走って家に向かった。
その間も僕は再び、“もしも”の化け物になる。
それも、悪い方の想像ばかりだった。
もしも君が、突然具合悪くなっていたらどうしよう。
もしも君が、遊園地に向かう途中で誘拐されていたらどうしよう。
もしも君が、このままいなくなったら?
 悪い予感があった。
そんな予感は存在してなかったのかもしれないけれど、敢えて悪い予感を持とうとした。
自ら創造したのだ。
多分、創造した上で、悪い予感なんか無駄だったという、明るい未来を求めていたのだと思う。
化け物をやっつけたかったのだと思う。
“もしも”が、いかに無駄なことなのかを、ようやく分かりたかったのだと思う。


「ただいま!」

鍵を開け、ドアを開け、電気を点け、その一連の流れをしたということは、君が家にいないということの何よりの証拠だった。
静かな家で僕は、僕の中の化け物に、自らが食べられてしまいそうだった。
悪い想像ばかりが続く。

「あ・・・」

その時、目に入ったのは、食卓テーブルの上にある手紙だった。
その内容を確認する前に、僕は薄ら笑いを浮かべていた。
どうしたらいいのか、分からなかったのだろう。

「何でだよ・・・」

最初の文を読んですぐ、僕はそう呟いた。
間違えなく、君の筆跡。
もしも、君がこのメモを誰かに脅されながら書いたのなら・・・
そんな想像を一蹴してしまう、落ち着きと冷静さを感じさせる君の文字。


突然いなくなったことは、本当にごめんなさい。
突然を何より恐れるあなたなのに、本当にごめんなさい。
私は確かに、幸せだった。
二人だけの世界が、大好きだった。
でも、あの夜の、あなたの執着が怖かったの。
あの夜、ベッドの上での、あなたの横顔が悲しかった。
私が思っているよりも何倍も、二人だけの世界に固執していたあなたの横顔。
多分、あなた自身が想像するよりももっと、執着に塗れた横顔だった。
そして、あれほど見つめ合っていた私たちなのに、あの時に限って私の目を見つめてくれなかったあなた。
私たちにとって見つめないことは、純粋さを失った行為。
そんな風に思う私も、あなたへの執着の塊だと分かってる。
だから私は、あなたから離れたいと思ったの。
一方的な別れを許してください。
それでも、私たちのことは、私たちが一番分かってる。
そうだよね?
外で会わずに、閉じこもるこの愛は・・・
こんな暮らしを続けたら・・・分かるよね?
傷つくことから逃げ続けたら、私たち以外は誰も、いらないってことになっちゃうよね?
そんなのはやっぱり、悲しすぎる。
私は、二人の暮らしはもう、やめたいの。
でも、もしも・・・
あなたの、あの夜の、あの瞬間の横顔を・・・あまりにも、そのまま、記憶し続ける私がいたなら・・・
その時だけ。
そんなのはあり得ないと思うけれど、その時だけ。
もう一度、あなたと見つめ合いたい。
純粋に、真っ直ぐにあなたの目を見つめたい。
純粋に、真っ直ぐにあなたに見つめてもらいたい。
そう思ってる。
それが、私の最後の真実。
私は本当にずっと、あなただけを、愛していました。
あなたよりも素敵な人がいるなんて、想像したこともないほどに・・・


 そんな言葉を残して消えた君が、憎い。
それなのに、僕は君のことが理解出来た。
だって僕は、あの夜に君の目を見ずに見つめていた天井を覚えている。
あの瞬間、君を見つめたくなくて、敢えてそうしたから覚えているのだ。
隣で横になって僕を見つめていた君を、僕もすぐに見つめ返していたなら。
そんな天井の記憶は持たずに済み、その瞬間の君の表情を記憶出来たはずなのに。

 僕らは純粋だから。
純粋すぎるから、一つ間違えたら、そこでもう終わってしまう。
融通が利かず、どこか大袈裟で、その上に丁重さを必要とする、割れ物みたいだ。
だからこそ、扱い方の分かる二人だけの世界を好み、外には出ないで、余計な情報を極力遮断して、目を見つめることで、相手を信用した。
二人だけの、世間から程よく離れた山に建てた家で、ありもしない二人だけの夜を生き続けてしまった。

「僕より先に、疲れてしまったんだね・・・」

いない君に呟く僕はまだまだ、疲れていないのに。
訪れるかも分からない倦怠期を恐れた君は、消えてしまった。
本物の哲学者でも、詩人でも、ロマンチストでもない僕は、純粋さという最後の砦を失って、ただの愚かな男になった。
この山の中で、男とも呼べなくなってしまったかもしれない。
孤独な化け物になったのだ。
君への後悔を、“もしも”の想像でどうにか乗り越えようとする、そんな化け物。
君以外に理解者のいない、そんな化け物・・・


 時の流れと共に、記憶は薄れていった。
薄れているという自覚もあった。
僕でもこうなのだから、君もきっとそうなのだろう。
日記をつけておくべきだったと後悔した。
写真はただの記録だからと、隣にいた君という現実に頼りすぎたことも後悔した。
目に焼きつけることが純粋だと思っていたから、手元に残る君の表情は少なすぎた。
 二人だけの世界だなんて、そんなの存在しないのに。
そんな風に思えた過去の自分さえ信じられなくなった。
全てが変わってしまう。
記憶も都合よく塗り替えられる。
家は古くなり、家を囲む自然も変化を続け、僕は怠惰になることで変わっていった。
純粋さは、必要なくなった。
純粋さは、あまりにも悲しすぎる。
純粋だと誇れた時代は、もう二度と訪れない・・・

 僕は今でも君と過ごした家で暮らしている。
君を待っているわけではないから、安心して。
そんな希望はもう抱いてないから、安心して。
君はもう、あの夜の僕の横顔なんか、とっくに忘れているだろう。
全てが変わったはずだったから。
何もかもが変わったはずだったから。
それなのに・・・
君が変化を求めるために僕を誘った、僕がもう一生行かないであろう遊園地。
君と暮らしたこの家のバルコニーから、夏の夜に眺める遊園地という景色だけは・・・
変わってくれなかった。
遠くから眺めるそれは、永遠に僕を苦しめるかのように・・・
唯一の純粋という象徴になった。
変わらない、小さな光の幾つもの集まりが、過去の僕の執着を非難していた。

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