17 / 17
私の結末
しおりを挟む
彼が今住む街の本屋さんで、私が買った小説の始まりはこうだった。
僕らは違うから良かった
違う夢を持っているから良かった
少し離れた場所から目を合わすような、そんな喜びが良かった...
その物語の始まりを、彼と私に置き換えないわけにはいかない。
私は小説に共感を求めていた。
彼には共感を求めないくせに。
小説でも映画でもドラマでも、現実ではあり得ない設定のファンタジーより、リアリティーを大切にするような、感情移入できる作品が好みだった。
違う世界へ連れて行ってくれる映画より、何気ない日常を映画のように感じさせてくれる物語。
彼に私に似ない事を望むのなら、それはつまり、彼にファンタジー、幻想であってほしいと言っているようなものかもしれない。
単に、彼の世界を壊したくなかっただけなのか、もしくは私の世界を壊されたくないからなのか。
はたまた、共感を恐れているのかもしれないし、共感は終わりに近づく感覚があるからなのか。
彼の過去や、彼の優しさ、彼が私にさらけ出した本音や、流した涙。
全てが私を知らない世界に連れて行ってくれた。
「キスしてくれませんか?」
あの日の彼の声が今でも残っている。
現実から現実感を奪った瞬間だった。
あの日を私は、頭と心の中で繰り返す。
ここまで同じシーンを繰り返しながら生きている人はいるのだろうか。
本屋を出た私は再びそのシーンを思い返している最中だった。
後ろから彼の声がした途端、私の目に涙の予感が訪れる。
振り返り、確実に彼だと分かると自然に彼を抱きしめていた。
涙を見せてしまうとは思っていなかった。
彼に涙を見せる事は、彼に似ていく事を意味していたから。
もう私の事を好きじゃないかもしれないとか、様々な可能性を考える隙もなく、私は彼にすがってしまう。
「信じてもいいですか?」
彼はそう言った。
もしかすると、今の彼の瞳と私の瞳は似ているのかもしれない。
彼の瞳に涙は浮かんでいないものの、抑えてきた感情が表れていた。
私は彼とたった一度の冬を過ごしただけなのに、瞳を見るだけで気持ちの変化が分かってしまう。
彼の瞳はあまりにも素直だった。
もちろん全てを見透せるとは思わないし、私だから伝わってくるのかも分からない。
ただ彼は、一度弱さを見せた事で、堰を切ったように思いの表現を必要としたのかもしれない。
私は、私の言葉で、彼のそばにいたい事を伝えようと努力した。
彼を好きだという本音だけ。
私はそれだけを偽らない。
一番好きなものを言うのがいくら苦手な私でも、このタイミングだけは逃してはいけない。
彼を待ち焦がれた二年がある。
彼と過ごした、かけがえのないあの冬がある。
「何があったか聞いたりしないから。だから、もうどこにも行かないで」
私の声には抑揚があった。
抑揚のなさは、私の期待の現れ。
これまではそうだった。
抑揚をつけ、彼に想いを伝えようと必死になる私は、少し変わってしまったのかもしれない。
私の言葉を聞くと、安心した子供のように微笑んだ。
その表情を見て、私の胸は温かくなる反面、緊張に似た感覚もあった。
矛盾した二つの状態が心を半分ずつ埋め尽くし、私はまた余計な事を考えてしまう。
二つを星座のように結びつけるのはダメなのに。
それは夏也に別れを告げた時の感情。
夏也ともう二度と楽しい時間を過ごせない事への悲しみと、夏也との違いに苦しむ必要がなくなる事への解放感。
あの時も半分ずつ違う感情が私を占めていた。
じん。
私達が初めて出会った時。
彼の鋭い瞳に、幸せになるという提案。
私が彼に期待したのは、夏也を忘れさせてほしいという不純な願いだった。
その事実を私は見て見ぬふりをし、ここまで来た。
夏也を忘れられないという事実さえ、気付かないふりを通してきたから。
きっかけは確かに不純だった。
でも私は、私に似ない彼を愛してる。
春になっても私は彼のそばにいた。
彼と見る桜はこれまでの、どの春よりも良くて、冬と違い、大抵いつも温かい彼の手や唇は相変わらず私に、彼と初めてキスした日を思い出させた。
彼は私に一番好きな映画を教えてくれた。
私は知らない映画だった。
ファンタジー寄りのラブストーリー。
共感はできなかったけれど、私を知らない世界に連れて行ってくれる。
そんな物語だった。
夏あたりから、彼はお兄さんに会わなくなった。
自分を犠牲にしてまでお兄さんに尽くした彼の努力を、お兄さんは本当に理解できているのだろうか。
他の人には分からないような苦しみを、一気に突き落とされるようなものではなく、徐々に落とされていくような苦痛として感じていた彼に、申し訳ない気持ちをどれほど持っているのだろうか。
私はお兄さんに会いに行って、その事を聞いてみたくなった。
でも、彼は怖いと言った。
過去を思い出すのは嫌だと。
その本音を私は大切にする。
その本音を惜しまず抱きしめたいと思った。
秋も彼と過ごし、冬になった。
彼は沙友理さんから届いたという手紙を私に見せた。
とても綺麗な字で書かれていて、言葉や単語のチョイスが彼に似ていた。
彼のお兄さんは真面目に暮らしていて、過去の話をしたがらないらしい。
沙友理さんとしては、それは良い事だとも書かれていた。
この時ばかりは、彼の瞳を見ても彼の感情の変化を読み取れなかった。
動揺なのか、安堵なのか、喜びなのか。
だから私は微笑む事しかできなかった。
お兄さんが真面目に生きてくれている事に対して、良かったね、という意味を込めて。
彼の瞳が、この瞬間のように、本音を隠すのが上手になってしまったらどうしようという不安に襲われる。
そもそも彼は、お兄さんの前で自分を隠し続けてきたのだから、自分でそうしようと思えば簡単に全てを隠し通せるのかもしれない。
他の誰よりも巧みに、自然に。
傷だらけになっていた彼を見つけた日、私に弱音を見せた事で、堰を切ったようように感情表現を必要としただけで、その勢いは収まりつつある可能性だってある。
そうなれば、私と彼は似たもの同士に近づいていく。
私は不安になったけれど、彼は言った。
私に答えを求めるように。
「僕は兄貴の役に立てたって事だよね?」
本当にこれでお兄さんとの関係は終わるのだろうと私は悟る。
この話題が上がる事も今後ないだろうと。
彼の瞳、表情には達成感、満足感があった。
彼の気持ちが私に伝わる。
私はまだ、彼の感情を読み取れる。
「うん。じんがお兄さんを救ったんだよ」
彼は今までに見た中で一番幼い表情をした。
ほんの一瞬だった。
その表情こそ、本音と呼ぶべきものだろう。
私はその表情をもう一生見られないだろうと思い、頭と心で何度も繰り返し再現した。
再現するたびにその貴重さは失われ、しっかりと目で見た表情とは違うものになっていく。
それでも私は彼との大切な場面を繰り返さずにはいられない。
何度も。
幻想を欲するように。
再会した日から今でも、彼の瞳は私を求めているようにしか見えない。
彼の瞳は素直すぎるから。
それが私の錯覚だったとしても、彼を傷付けない程度なら、その錯覚の中にいたいと思った。
私の結末。
私の選択。
まだ終わりではないと分かっていても、これ以上の結末はないように思う。
だから、この結末を延長し、引き延ばし続けたい。
次の冬になっても。
ずっと。
二番目のキスも、ずっと、私は繰り返さずにはいられない。
僕らは違うから良かった
違う夢を持っているから良かった
少し離れた場所から目を合わすような、そんな喜びが良かった...
その物語の始まりを、彼と私に置き換えないわけにはいかない。
私は小説に共感を求めていた。
彼には共感を求めないくせに。
小説でも映画でもドラマでも、現実ではあり得ない設定のファンタジーより、リアリティーを大切にするような、感情移入できる作品が好みだった。
違う世界へ連れて行ってくれる映画より、何気ない日常を映画のように感じさせてくれる物語。
彼に私に似ない事を望むのなら、それはつまり、彼にファンタジー、幻想であってほしいと言っているようなものかもしれない。
単に、彼の世界を壊したくなかっただけなのか、もしくは私の世界を壊されたくないからなのか。
はたまた、共感を恐れているのかもしれないし、共感は終わりに近づく感覚があるからなのか。
彼の過去や、彼の優しさ、彼が私にさらけ出した本音や、流した涙。
全てが私を知らない世界に連れて行ってくれた。
「キスしてくれませんか?」
あの日の彼の声が今でも残っている。
現実から現実感を奪った瞬間だった。
あの日を私は、頭と心の中で繰り返す。
ここまで同じシーンを繰り返しながら生きている人はいるのだろうか。
本屋を出た私は再びそのシーンを思い返している最中だった。
後ろから彼の声がした途端、私の目に涙の予感が訪れる。
振り返り、確実に彼だと分かると自然に彼を抱きしめていた。
涙を見せてしまうとは思っていなかった。
彼に涙を見せる事は、彼に似ていく事を意味していたから。
もう私の事を好きじゃないかもしれないとか、様々な可能性を考える隙もなく、私は彼にすがってしまう。
「信じてもいいですか?」
彼はそう言った。
もしかすると、今の彼の瞳と私の瞳は似ているのかもしれない。
彼の瞳に涙は浮かんでいないものの、抑えてきた感情が表れていた。
私は彼とたった一度の冬を過ごしただけなのに、瞳を見るだけで気持ちの変化が分かってしまう。
彼の瞳はあまりにも素直だった。
もちろん全てを見透せるとは思わないし、私だから伝わってくるのかも分からない。
ただ彼は、一度弱さを見せた事で、堰を切ったように思いの表現を必要としたのかもしれない。
私は、私の言葉で、彼のそばにいたい事を伝えようと努力した。
彼を好きだという本音だけ。
私はそれだけを偽らない。
一番好きなものを言うのがいくら苦手な私でも、このタイミングだけは逃してはいけない。
彼を待ち焦がれた二年がある。
彼と過ごした、かけがえのないあの冬がある。
「何があったか聞いたりしないから。だから、もうどこにも行かないで」
私の声には抑揚があった。
抑揚のなさは、私の期待の現れ。
これまではそうだった。
抑揚をつけ、彼に想いを伝えようと必死になる私は、少し変わってしまったのかもしれない。
私の言葉を聞くと、安心した子供のように微笑んだ。
その表情を見て、私の胸は温かくなる反面、緊張に似た感覚もあった。
矛盾した二つの状態が心を半分ずつ埋め尽くし、私はまた余計な事を考えてしまう。
二つを星座のように結びつけるのはダメなのに。
それは夏也に別れを告げた時の感情。
夏也ともう二度と楽しい時間を過ごせない事への悲しみと、夏也との違いに苦しむ必要がなくなる事への解放感。
あの時も半分ずつ違う感情が私を占めていた。
じん。
私達が初めて出会った時。
彼の鋭い瞳に、幸せになるという提案。
私が彼に期待したのは、夏也を忘れさせてほしいという不純な願いだった。
その事実を私は見て見ぬふりをし、ここまで来た。
夏也を忘れられないという事実さえ、気付かないふりを通してきたから。
きっかけは確かに不純だった。
でも私は、私に似ない彼を愛してる。
春になっても私は彼のそばにいた。
彼と見る桜はこれまでの、どの春よりも良くて、冬と違い、大抵いつも温かい彼の手や唇は相変わらず私に、彼と初めてキスした日を思い出させた。
彼は私に一番好きな映画を教えてくれた。
私は知らない映画だった。
ファンタジー寄りのラブストーリー。
共感はできなかったけれど、私を知らない世界に連れて行ってくれる。
そんな物語だった。
夏あたりから、彼はお兄さんに会わなくなった。
自分を犠牲にしてまでお兄さんに尽くした彼の努力を、お兄さんは本当に理解できているのだろうか。
他の人には分からないような苦しみを、一気に突き落とされるようなものではなく、徐々に落とされていくような苦痛として感じていた彼に、申し訳ない気持ちをどれほど持っているのだろうか。
私はお兄さんに会いに行って、その事を聞いてみたくなった。
でも、彼は怖いと言った。
過去を思い出すのは嫌だと。
その本音を私は大切にする。
その本音を惜しまず抱きしめたいと思った。
秋も彼と過ごし、冬になった。
彼は沙友理さんから届いたという手紙を私に見せた。
とても綺麗な字で書かれていて、言葉や単語のチョイスが彼に似ていた。
彼のお兄さんは真面目に暮らしていて、過去の話をしたがらないらしい。
沙友理さんとしては、それは良い事だとも書かれていた。
この時ばかりは、彼の瞳を見ても彼の感情の変化を読み取れなかった。
動揺なのか、安堵なのか、喜びなのか。
だから私は微笑む事しかできなかった。
お兄さんが真面目に生きてくれている事に対して、良かったね、という意味を込めて。
彼の瞳が、この瞬間のように、本音を隠すのが上手になってしまったらどうしようという不安に襲われる。
そもそも彼は、お兄さんの前で自分を隠し続けてきたのだから、自分でそうしようと思えば簡単に全てを隠し通せるのかもしれない。
他の誰よりも巧みに、自然に。
傷だらけになっていた彼を見つけた日、私に弱音を見せた事で、堰を切ったようように感情表現を必要としただけで、その勢いは収まりつつある可能性だってある。
そうなれば、私と彼は似たもの同士に近づいていく。
私は不安になったけれど、彼は言った。
私に答えを求めるように。
「僕は兄貴の役に立てたって事だよね?」
本当にこれでお兄さんとの関係は終わるのだろうと私は悟る。
この話題が上がる事も今後ないだろうと。
彼の瞳、表情には達成感、満足感があった。
彼の気持ちが私に伝わる。
私はまだ、彼の感情を読み取れる。
「うん。じんがお兄さんを救ったんだよ」
彼は今までに見た中で一番幼い表情をした。
ほんの一瞬だった。
その表情こそ、本音と呼ぶべきものだろう。
私はその表情をもう一生見られないだろうと思い、頭と心で何度も繰り返し再現した。
再現するたびにその貴重さは失われ、しっかりと目で見た表情とは違うものになっていく。
それでも私は彼との大切な場面を繰り返さずにはいられない。
何度も。
幻想を欲するように。
再会した日から今でも、彼の瞳は私を求めているようにしか見えない。
彼の瞳は素直すぎるから。
それが私の錯覚だったとしても、彼を傷付けない程度なら、その錯覚の中にいたいと思った。
私の結末。
私の選択。
まだ終わりではないと分かっていても、これ以上の結末はないように思う。
だから、この結末を延長し、引き延ばし続けたい。
次の冬になっても。
ずっと。
二番目のキスも、ずっと、私は繰り返さずにはいられない。
0
お気に入りに追加
6
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説

皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。

【完結】巻き戻りを望みましたが、それでもあなたは遠い人
白雨 音
恋愛
14歳のリリアーヌは、淡い恋をしていた。相手は家同士付き合いのある、幼馴染みのレーニエ。
だが、その年、彼はリリアーヌを庇い酷い傷を負ってしまった。その所為で、二人の運命は狂い始める。
罪悪感に苛まれるリリアーヌは、時が戻れば良いと切に願うのだった。
そして、それは現実になったのだが…短編、全6話。
切ないですが、最後はハッピーエンドです☆《完結しました》

【完結】幼い頃から婚約を誓っていた伯爵に婚約破棄されましたが、数年後に驚くべき事実が発覚したので会いに行こうと思います
菊池 快晴
恋愛
令嬢メアリーは、幼い頃から将来を誓い合ったゼイン伯爵に婚約破棄される。
その隣には見知らぬ女性が立っていた。
二人は傍から見ても仲睦まじいカップルだった。
両家の挨拶を終えて、幸せな結婚前パーティで、その出来事は起こった。
メアリーは彼との出会いを思い返しながら打ちひしがれる。
数年後、心の傷がようやく癒えた頃、メアリーの前に、謎の女性が現れる。
彼女の口から発せられた言葉は、ゼインのとんでもない事実だった――。
※ハッピーエンド&純愛
他サイトでも掲載しております。
【完結】365日後の花言葉
Ringo
恋愛
許せなかった。
幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。
あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。
“ごめんなさい”
言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの?
※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。

五歳の時から、側にいた
田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。
それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。
グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。
前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。

【完結済】ラーレの初恋
こゆき
恋愛
元気なアラサーだった私は、大好きな中世ヨーロッパ風乙女ゲームの世界に転生していた!
死因のせいで顔に大きな火傷跡のような痣があるけど、推しが愛してくれるから問題なし!
けれど、待ちに待った誕生日のその日、なんだかみんなの様子がおかしくて──?
転生した少女、ラーレの初恋をめぐるストーリー。
他サイトにも掲載しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる