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僕らの結末
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沙友理さんと来た、暗いカフェの前を通った。
一人で入る勇気はない。
初めてここに来た時、僕は思った。
僕の苦手なこのカフェのような雰囲気も、やえさんが好きと言えば、僕にも良いように映るかもしれない、と。
つまりは、彼女が綺麗だと言えば僕も綺麗だと思ってしまうという事だ。
僕は彼女を考えない日がなかった。
初恋を忘れられないというのをよく聞くけれど、僕は初恋なんかよりも彼女を思い出す。
出会った日の彼女とのキス、彼女との会話、一緒に歩いていた時の事。
思い返せば、僕は本当に積極的だった。
いきなり”キス”という単語を放ってしまうなんて。
あっという間に彼女に恋をしてしまうなんて。
好きという言葉を素直に伝えるなんて。
兄貴の言葉が僕にとって呪いのようだったから。
「ファーストキスの相手と幸せになれる」
それを言った時の兄貴の表情。
僕の未来を決めつけるような言い方。
呪いを解いてくれたのは彼女だった。
彼女が僕の二番目の相手としてキスをしてくれた瞬間、呪いは解けた。
僕はどうしても、彼女に会いたい。
「聞きたい事があるんだけど」
兄貴の住むアパートに行った。
もう少しで沙友理さんが来ると、兄貴は言った。
「何?」
兄貴は僕に冷たいお茶を出し、テーブルを挟んで向かいに座った。
「詐欺してた事を、どうして沙友理さんとか僕に隠さなかったの?隠してなかったよね?」
兄貴は特に表情を変える事なく、何かを考えているようだった。
俯き気味で、僕の方は見ない。
「分からない」
最初は小さな声で言った。
「分からない。自分でも」
次はちゃんと聞こえる声で言った。
何かを考えているその表情は、よく見ると、凄く切ない表情にも見える。
他の人が見たら気付かないかもしれない。
僕がずっと兄貴の顔色を伺ってきたからだろうか。
兄貴に同情などした事がなかった。
でも今、この瞬間の兄貴にだけは同情してしまいそうだ。
こうなってしまった自分を後悔する姿に。
悪いのは本人なのに。
スポーツの試合で負けたチームの方にドラマを感じてしまうように、僕は悔しそうにしている兄貴の背景にあるものを想像する。
兄貴はこれまで、どんな思いで生きてきたのだろうか。
前はこんなに猫背じゃなかった気がする。
兄貴を小さく感じる。
「もう一つだけ聞きたいんだけど。どうして沙友理さんの事が好きなのに、僕に紹介なんかしたの?」
沙友理さんの名前が出ただけで、兄貴はさっきと違う表情になり、僕をしっかりと見た。
「二人が似てたから。沙友理はじんに対して、安心感を抱いてる気がしたから。俺には分からない感情みたいなのを二人は持ってる気がしたから」
「だからって...」
「そんな二人を近づけない方が辛かったし、それに...喜んでくれる沙友理が見たかった。一番の理由はそれだと思う」
理由を聞いても、僕には兄貴を理解できない。
でも、一つ思うところがあった。
兄貴が詐欺のことを沙友理さんと僕に隠さなかった理由。
それは単に、僕らを下に見ていたから。
信用などではない。
自分を裏切る事の出来ない人間だと思っていたから。
ただそれだけだと思った。
沙友理さんを僕に紹介したのだってもしかすると、逆らわない弱い2人に、さらに逆らえないような理由を作る為だったかもしれない。
沙友理さんは僕を紹介してくれた兄貴に逆らえず、僕は兄貴を慕う従順な弟だから。
もちろん真実は本人にしか、もしくは本人にも気付けない心の中にある可能性もある。
でも僕は、いくら今の兄貴の姿を見ても、心が傷み同情しても、兄貴を許せない。
結末はそこにある。
兄貴の事情を想像するという過程を越えた後は、再び憤りを感じるのだった。
そういう風になってしまっている。
兄貴の恋心を疑っている訳では決してない。
ただ、自分とは違う、似ていない相手を選ぶという事は、それほど難しいという事だ。
分からないから苦しくて、分からないままだから良い事もあって。
最初から理解しようとは思っていなくて、自分と違うから魅力を感じて。
自分勝手に解釈できて、一方は弱さを見せ、一方は弱さを隠す。
僕が弱さを見せる側なら、彼女は弱さや夢、過去を隠す側だ。
僕は彼女にすがる事で楽になっている。
反面、彼女の隠すものが知りたくもなる。
でも、彼女が隠している方が楽だというのなら僕は、それをそのままにしておくよりほかない。
それが、僕には似ない彼女に恋をするという事だろう。
兄貴も同じだ。
僕と沙友理さんだけに流れる感情のようなものを、羨ましく眺めていたのだろう。
それでも兄貴は、沙友理さんに恋し続けた。
今現在、僕も兄貴も、恋愛の面では同じような思いをしているのかもしれない。
新たに始めた仕事でも、その行き帰りの道でも、帰宅して夜ご飯を食べている時も、僕の意識の大部分は彼女に向いていた。
だからこそ僕の本音はこうだった。
僕が特に何も意識していない時、寝ぼけているようなタイミングで彼女に現れてほしい。
出会った日のようなタイミング。
彼女を意識していないタイミング。
そこで彼女を見つけたい。
そのタイミングでないと僕は、彼女にすぐに、すがりついてしまいそうだったから。
ほんの少しでも、彼女との再会について考える瞬間が必要だから。
そして、再会した時の彼女の表情を見逃さないようにしよう。
その表情で僕は全てを判断しよう。
その一瞬には嘘がないはずだ。
彼女も、そこまでは隠せないはず。
僕に会いたかったかどうかを判断したい。
彼女を意識しないタイミングは、寝ている時だけと言っても良いほどだった。
彼女は僕の夢に一度も現れてくれない。
だから。
彼女の姿を見つけた時は、もしかして夢の中にいるのではないかと思った。
ようやく、毎晩眠ろうとするたびに願っていた、彼女の夢を見たいという願いが叶ったのかと。
雪がさらさらと降る中。
本屋から出てくる彼女を見つけた。
その姿を見て、彼女が再び現れるタイミングは、何も意識していない時でも、彼女について考えている時だって、いつでも良かったんだと思った。
僕はすぐに声を掛けたくなるのを堪える。
明らかに緊張してる自分がいる。
彼女は僕に気付かず、背を向け、少しずつ遠ざかる。
罪悪感は永遠に消えないし、消すべきではない。
消さずにいる。
彼女に会いに行っても良いだろうか。
僕にそんな資格があるのだろうか。
彼女は僕を待っているのだろうか。
彼女の横顔が見えた。
角を曲がれば、すぐに見えなくなってしまう。
追いかけなければ、見失ってしまう。
僕の結末は、自分勝手な方にしか進められないのかもしれない。
誰も自分の望まない結末に仕向けるなんて、結局はできないのだ。
選択肢があるのなら。
僕には二つ与えられている。
彼女に甘え生きる人生と、彼女と離れる切なさを抱え続け生きる人生。
「やえさん」
僕は彼女に声を掛けた。
彼女が僕を見る。
その一瞬を見逃さないように。
「じん」
彼女の瞳に、あっという間に涙が溢れた。
「やえさん。僕...」
何から伝えようか迷った。
涙が彼女の頬を伝う。
僕より先に彼女は言った。
「会いたかった」
そして僕を抱きしめた。
「会いたかったよ、じん」
彼女の本音を見極めるその一瞬を、僕は逃してしまった。
瞳には僕が初めて見る、彼女の涙だけ。
でもその時、本音は全て言葉に含まれていた。
表情から読み取るのではなく、彼女は僕に言葉で伝えてくれた。
その言葉を僕は信じてもいいのだろうか。
自分についてあまり話したがらない、彼女の言葉を。
「信じてもいいですか?」
自分の口から出た言葉なのに、僕はその言葉に幻滅した。
彼女に何も言わずにいなくなった僕が、何を言っているのか。
彼女は体を離し、僕を真っ直ぐに見つめる。
僕は続けた。
「会いたかったっていう言葉、信じてもいいですか?もし...もし別れるなら、今しかないと思う」
彼女は僕から視線をそらさない。
「何があったか聞いたりしないから。だから、もうどこにも行かないで」
また彼女の頬に涙が伝う。
僕は手を伸ばし、その涙をそっと拭う。
彼女の頬も涙も、僕の手より冷たかった。
「やえさん。ニ年前、やえさんと過ごした冬は本当に幸せでした」
「じん?」
彼女に出会った次の日の、彼女の誕生日。
彼女が僕に沢山質問してきたのを思い出した。
年齢に、名前、いつから警備の仕事を始めたのか。
そして、なんでキスして欲しかったのか。
僕は全ての質問が嬉しかった。
僕を知ってもらいたかったから。
「何があったか、話してもいいですか?また弱い姿を見せる事になっても、再会した事を後悔しない?」
僕はこんな質問をしている時点で少し後悔もしていた。
彼女の立場を考えて。
また始まる。
彼女にすがり、幸せを求める日々が。
冬という季節だけではなく、春だって、夏だって、冬の気配のする秋だって。
「後悔しないよ」
微笑みながら答える彼女は、やはり僕に気を遣い過ぎているのかもしれない。
彼女は僕の瞳を真っ直ぐに見つめ続ける。
僕が恥ずかしくなり、逸らしてしまった。
彼女の夢は何だったのだろうと、そんなタイミングでも考えたりした。
僕は様々な言い訳を武器に、彼女と再び冬を過ごした。
春も迎えた。
彼女は僕を好きだと言う。
僕にはそれで十分だった。
伝えてくれるたびに、夢が叶った事を実感する。
夏には僕は、兄貴に会わなくなっていた。
自然に、だった。
僕の一方的なものではなく、兄貴の方もそれを望んでいたかのように。
その後兄貴がどのように過ごし、生きていたのか、僕は知ろうとしなかった。
だけど、彼女には正直に話した。
知るのが怖いと。
また振り出しに戻ったり、過去を思い出すのは嫌だと。
秋を越えて冬。
彼女と再会してから一年。
誰からのものかも、どこから送られてきたのかも分からない手紙が届く。
いわば、返事の書けない手紙だ。
内容を見て誰から送られたものなのかはすぐに分かったけれど、僕は気付かないふりをする事に決めた。
それが沙友理さんの希望でもあると思ったから。
兄貴の現状が書かれていて、手紙を書いた人物、沙友理さんの視点での思いも書かれていた。
とても綺麗な字だった。
僕は彼女に手紙を見せた。
彼女はそれを読んでも特に何も言わなかった。
ただ、優しい表情をした。
僕の結末は彼女の隣を選んだ事だった。
でも、僕らの結末は何なのだろう。
そんな事を考えるのは、彼女の思いを、過去をもっと知りたくなった時だけだ。
眠り、目が覚めれば。
知らなくてもいいという気持ちがまた僕の中に生まれる。
僕は、僕には決して分からない、隠されていて見えない彼女の気持ちを知れないからこそ、そばに居続けるのかもしれない。
ずっと。
二番目にキスしてくれた彼女のそばに。
次の冬になっても。
一人で入る勇気はない。
初めてここに来た時、僕は思った。
僕の苦手なこのカフェのような雰囲気も、やえさんが好きと言えば、僕にも良いように映るかもしれない、と。
つまりは、彼女が綺麗だと言えば僕も綺麗だと思ってしまうという事だ。
僕は彼女を考えない日がなかった。
初恋を忘れられないというのをよく聞くけれど、僕は初恋なんかよりも彼女を思い出す。
出会った日の彼女とのキス、彼女との会話、一緒に歩いていた時の事。
思い返せば、僕は本当に積極的だった。
いきなり”キス”という単語を放ってしまうなんて。
あっという間に彼女に恋をしてしまうなんて。
好きという言葉を素直に伝えるなんて。
兄貴の言葉が僕にとって呪いのようだったから。
「ファーストキスの相手と幸せになれる」
それを言った時の兄貴の表情。
僕の未来を決めつけるような言い方。
呪いを解いてくれたのは彼女だった。
彼女が僕の二番目の相手としてキスをしてくれた瞬間、呪いは解けた。
僕はどうしても、彼女に会いたい。
「聞きたい事があるんだけど」
兄貴の住むアパートに行った。
もう少しで沙友理さんが来ると、兄貴は言った。
「何?」
兄貴は僕に冷たいお茶を出し、テーブルを挟んで向かいに座った。
「詐欺してた事を、どうして沙友理さんとか僕に隠さなかったの?隠してなかったよね?」
兄貴は特に表情を変える事なく、何かを考えているようだった。
俯き気味で、僕の方は見ない。
「分からない」
最初は小さな声で言った。
「分からない。自分でも」
次はちゃんと聞こえる声で言った。
何かを考えているその表情は、よく見ると、凄く切ない表情にも見える。
他の人が見たら気付かないかもしれない。
僕がずっと兄貴の顔色を伺ってきたからだろうか。
兄貴に同情などした事がなかった。
でも今、この瞬間の兄貴にだけは同情してしまいそうだ。
こうなってしまった自分を後悔する姿に。
悪いのは本人なのに。
スポーツの試合で負けたチームの方にドラマを感じてしまうように、僕は悔しそうにしている兄貴の背景にあるものを想像する。
兄貴はこれまで、どんな思いで生きてきたのだろうか。
前はこんなに猫背じゃなかった気がする。
兄貴を小さく感じる。
「もう一つだけ聞きたいんだけど。どうして沙友理さんの事が好きなのに、僕に紹介なんかしたの?」
沙友理さんの名前が出ただけで、兄貴はさっきと違う表情になり、僕をしっかりと見た。
「二人が似てたから。沙友理はじんに対して、安心感を抱いてる気がしたから。俺には分からない感情みたいなのを二人は持ってる気がしたから」
「だからって...」
「そんな二人を近づけない方が辛かったし、それに...喜んでくれる沙友理が見たかった。一番の理由はそれだと思う」
理由を聞いても、僕には兄貴を理解できない。
でも、一つ思うところがあった。
兄貴が詐欺のことを沙友理さんと僕に隠さなかった理由。
それは単に、僕らを下に見ていたから。
信用などではない。
自分を裏切る事の出来ない人間だと思っていたから。
ただそれだけだと思った。
沙友理さんを僕に紹介したのだってもしかすると、逆らわない弱い2人に、さらに逆らえないような理由を作る為だったかもしれない。
沙友理さんは僕を紹介してくれた兄貴に逆らえず、僕は兄貴を慕う従順な弟だから。
もちろん真実は本人にしか、もしくは本人にも気付けない心の中にある可能性もある。
でも僕は、いくら今の兄貴の姿を見ても、心が傷み同情しても、兄貴を許せない。
結末はそこにある。
兄貴の事情を想像するという過程を越えた後は、再び憤りを感じるのだった。
そういう風になってしまっている。
兄貴の恋心を疑っている訳では決してない。
ただ、自分とは違う、似ていない相手を選ぶという事は、それほど難しいという事だ。
分からないから苦しくて、分からないままだから良い事もあって。
最初から理解しようとは思っていなくて、自分と違うから魅力を感じて。
自分勝手に解釈できて、一方は弱さを見せ、一方は弱さを隠す。
僕が弱さを見せる側なら、彼女は弱さや夢、過去を隠す側だ。
僕は彼女にすがる事で楽になっている。
反面、彼女の隠すものが知りたくもなる。
でも、彼女が隠している方が楽だというのなら僕は、それをそのままにしておくよりほかない。
それが、僕には似ない彼女に恋をするという事だろう。
兄貴も同じだ。
僕と沙友理さんだけに流れる感情のようなものを、羨ましく眺めていたのだろう。
それでも兄貴は、沙友理さんに恋し続けた。
今現在、僕も兄貴も、恋愛の面では同じような思いをしているのかもしれない。
新たに始めた仕事でも、その行き帰りの道でも、帰宅して夜ご飯を食べている時も、僕の意識の大部分は彼女に向いていた。
だからこそ僕の本音はこうだった。
僕が特に何も意識していない時、寝ぼけているようなタイミングで彼女に現れてほしい。
出会った日のようなタイミング。
彼女を意識していないタイミング。
そこで彼女を見つけたい。
そのタイミングでないと僕は、彼女にすぐに、すがりついてしまいそうだったから。
ほんの少しでも、彼女との再会について考える瞬間が必要だから。
そして、再会した時の彼女の表情を見逃さないようにしよう。
その表情で僕は全てを判断しよう。
その一瞬には嘘がないはずだ。
彼女も、そこまでは隠せないはず。
僕に会いたかったかどうかを判断したい。
彼女を意識しないタイミングは、寝ている時だけと言っても良いほどだった。
彼女は僕の夢に一度も現れてくれない。
だから。
彼女の姿を見つけた時は、もしかして夢の中にいるのではないかと思った。
ようやく、毎晩眠ろうとするたびに願っていた、彼女の夢を見たいという願いが叶ったのかと。
雪がさらさらと降る中。
本屋から出てくる彼女を見つけた。
その姿を見て、彼女が再び現れるタイミングは、何も意識していない時でも、彼女について考えている時だって、いつでも良かったんだと思った。
僕はすぐに声を掛けたくなるのを堪える。
明らかに緊張してる自分がいる。
彼女は僕に気付かず、背を向け、少しずつ遠ざかる。
罪悪感は永遠に消えないし、消すべきではない。
消さずにいる。
彼女に会いに行っても良いだろうか。
僕にそんな資格があるのだろうか。
彼女は僕を待っているのだろうか。
彼女の横顔が見えた。
角を曲がれば、すぐに見えなくなってしまう。
追いかけなければ、見失ってしまう。
僕の結末は、自分勝手な方にしか進められないのかもしれない。
誰も自分の望まない結末に仕向けるなんて、結局はできないのだ。
選択肢があるのなら。
僕には二つ与えられている。
彼女に甘え生きる人生と、彼女と離れる切なさを抱え続け生きる人生。
「やえさん」
僕は彼女に声を掛けた。
彼女が僕を見る。
その一瞬を見逃さないように。
「じん」
彼女の瞳に、あっという間に涙が溢れた。
「やえさん。僕...」
何から伝えようか迷った。
涙が彼女の頬を伝う。
僕より先に彼女は言った。
「会いたかった」
そして僕を抱きしめた。
「会いたかったよ、じん」
彼女の本音を見極めるその一瞬を、僕は逃してしまった。
瞳には僕が初めて見る、彼女の涙だけ。
でもその時、本音は全て言葉に含まれていた。
表情から読み取るのではなく、彼女は僕に言葉で伝えてくれた。
その言葉を僕は信じてもいいのだろうか。
自分についてあまり話したがらない、彼女の言葉を。
「信じてもいいですか?」
自分の口から出た言葉なのに、僕はその言葉に幻滅した。
彼女に何も言わずにいなくなった僕が、何を言っているのか。
彼女は体を離し、僕を真っ直ぐに見つめる。
僕は続けた。
「会いたかったっていう言葉、信じてもいいですか?もし...もし別れるなら、今しかないと思う」
彼女は僕から視線をそらさない。
「何があったか聞いたりしないから。だから、もうどこにも行かないで」
また彼女の頬に涙が伝う。
僕は手を伸ばし、その涙をそっと拭う。
彼女の頬も涙も、僕の手より冷たかった。
「やえさん。ニ年前、やえさんと過ごした冬は本当に幸せでした」
「じん?」
彼女に出会った次の日の、彼女の誕生日。
彼女が僕に沢山質問してきたのを思い出した。
年齢に、名前、いつから警備の仕事を始めたのか。
そして、なんでキスして欲しかったのか。
僕は全ての質問が嬉しかった。
僕を知ってもらいたかったから。
「何があったか、話してもいいですか?また弱い姿を見せる事になっても、再会した事を後悔しない?」
僕はこんな質問をしている時点で少し後悔もしていた。
彼女の立場を考えて。
また始まる。
彼女にすがり、幸せを求める日々が。
冬という季節だけではなく、春だって、夏だって、冬の気配のする秋だって。
「後悔しないよ」
微笑みながら答える彼女は、やはり僕に気を遣い過ぎているのかもしれない。
彼女は僕の瞳を真っ直ぐに見つめ続ける。
僕が恥ずかしくなり、逸らしてしまった。
彼女の夢は何だったのだろうと、そんなタイミングでも考えたりした。
僕は様々な言い訳を武器に、彼女と再び冬を過ごした。
春も迎えた。
彼女は僕を好きだと言う。
僕にはそれで十分だった。
伝えてくれるたびに、夢が叶った事を実感する。
夏には僕は、兄貴に会わなくなっていた。
自然に、だった。
僕の一方的なものではなく、兄貴の方もそれを望んでいたかのように。
その後兄貴がどのように過ごし、生きていたのか、僕は知ろうとしなかった。
だけど、彼女には正直に話した。
知るのが怖いと。
また振り出しに戻ったり、過去を思い出すのは嫌だと。
秋を越えて冬。
彼女と再会してから一年。
誰からのものかも、どこから送られてきたのかも分からない手紙が届く。
いわば、返事の書けない手紙だ。
内容を見て誰から送られたものなのかはすぐに分かったけれど、僕は気付かないふりをする事に決めた。
それが沙友理さんの希望でもあると思ったから。
兄貴の現状が書かれていて、手紙を書いた人物、沙友理さんの視点での思いも書かれていた。
とても綺麗な字だった。
僕は彼女に手紙を見せた。
彼女はそれを読んでも特に何も言わなかった。
ただ、優しい表情をした。
僕の結末は彼女の隣を選んだ事だった。
でも、僕らの結末は何なのだろう。
そんな事を考えるのは、彼女の思いを、過去をもっと知りたくなった時だけだ。
眠り、目が覚めれば。
知らなくてもいいという気持ちがまた僕の中に生まれる。
僕は、僕には決して分からない、隠されていて見えない彼女の気持ちを知れないからこそ、そばに居続けるのかもしれない。
ずっと。
二番目にキスしてくれた彼女のそばに。
次の冬になっても。
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